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  • 管理人chaya

相対の世界


創世記に次のように書いています。

「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て良しとされた。神はその光と闇とを分けられた」(1・3、4)。

本来宇宙は一つであったのです。初めに天地が造られたという初めの前があったのです。これは闇から光が分けられなかった時の状態です。闇の中に光がおかれていた。光と闇とが一体の状態であった。そのような状態が、とこしえという言葉に該当するのです。

この場合のとこしえは、永久ということではなくて、常という意味です。これが一つあったのです。これが常態でした。これが初めの前、無時間の状態です。

時間が未だ生まれなかった。また空間も生まれなかったのです。地は形なく、むなしくという状態です。

これは宇宙が一つであったことを意味するのです。一つのあり方でした。これは相対ではなくて絶対です。一つしかないのですから絶対に決まっています。

ところが一つしかない状態、絶対だけである状態ですと、働きがありません。進歩もないのです。神は進歩がないことを、本質として欲しなかったのです。

そして、最初に相対現象が起きた。光と一体である闇が、独自にあると考えだしたのです。闇が淵のおもてにありというのがその状態です。

神と闇とは本質的に違うのです。神だけの絶対状態が、闇が生じることによって、相対状態に変化したのです。相対状態に変化したことによって、この宇宙に働きが発生したのです。相対でなければ働きは発生しません。例えば善だけでは善が善として働かないのです。悪があることによって善が善としての働きをするようになるのです。

色でも白一色であって、白以外の色が何もないとしたら、白が白としての特異性を発揚することはできません。白が白であるということは、白以外の色があることによって白が白でありうるのです。

それと同じように善であっても、もし悪がないとしたら、善が善たり得ないことになるのです。善が善としての働きをしないことになるのです。

宇宙は神のみがいます状態では、神が神としての働きをしないことになるのです。そこで、もし神が働きをするとすれば、当然神ではないもの、つまり闇といわれているものが発生しなければならないのです。

神が神であることのためには、闇がなければならないということを、まず承知していただきたいのです。闇が淵のおもてにありとはこのことです。

闇が生じたことによって、相対の世界が発現しました。そこで働きが生じたのです。これが弁証法と言われている原理です。新陳代謝の原理が発生したのです。

相対状態でなければ、弁証法的原理は発生いたしません。神以外の闇が生じたことによって、相対現象が発生したのです。この時に弁証法的原理が発生したのです。

弁証法が絶対ではありません。弁証法はどこまでも相対でありまして、それを発生させた神が絶対です。神は唯一の存在であり、絶対です。もし神が相対を発生させなかったら、弁証法という原理が発生するはずがないのです。

そのようにして弁証法的相対原理が発生したのですが、これは神が働くためです。神が神として働くためです。神が神となるためです。このことをよく承知しておく必要があるのです。

神が神となるために、絶対が相対に変化したのです。絶対がより絶対になるため、絶対が完全な絶対になるためです。絶対だけであっても、絶対としての働きを持つようになるためには、相対現象が発現しなければならないのです。

今までのただの絶対では、絶対が絶対として作用しないのですが、一度相対現象が発生した後の絶対は、絶対そのものだけで、どこまでも絶対としての働きをするようになるのです。

善は善だけで完全な善の働きをするのです。そのためには、一度悪が発生する必要があるのです。ただ善が善であったのでは、善が善としての働きをしないのです。しかしひとたび、悪が発生して、相対的な状態を一度通過した後の善は、善だけでも完全な善としての働きをすることができるのです。

神が闇を発生させたところの意味を、まず基本的に理解していただきたいのです。

一つであったものが二つに分かれたのです。これが、闇が淵のおもてにあったということです。そこで分かれた闇というのは、必然的に神に対立するような性格、運命を与えられていたことになるのです。

闇が淵のおもてに立った。そして自ら自分が神であるかのような錯覚に陥ったのです。悪魔の反逆と言われているような気配がにじみ出てきたというのも、また必然であるかもしれないのです。

悪魔は自らの意識において神に反逆したのです。神が反逆させたのでもないのです。悪魔が、闇が神から分かれて一つの存在とされたとしても、なお闇自らは神のうちにおいてこそ、闇としてありうるのだということに気づけばよかったのです。闇は自ら闇であっても、神のうちにあるという自覚を持ちさえすれば、よかったのです。闇と神が分離されていても、相対的な状態であっても、なお絶対として神を崇めることはできたはずです。

二つのものができたけれども、やはり一つであるということを、闇は確認できたはずです。

御子キリストはそれをやらされたのです。御子は神ではありません。神に対する人格です。しかしなお我父におり、父に我にいたもうという自覚を持つことができたのです。

もし闇が御子のような自覚を持ち得たとすれば、闇は神に反抗する必要はなかったのです。反抗しないで、神をより大きく発展させることはできたはずです。

闇はその道を選ばないで、一個の人格として独立し、自分自身のユニークな道を歩もうと考えた。その結果、悪魔の反逆という状態が発生したのです。

そこで天地創造がなされたのです。そして、闇から光を分けてしまったのです。闇が闇としての本来の力、本来の位置、本来の目的を理解しなかったので、闇から光が分けられて、光が神の御子として働くようになったのです。

これが天地創造の第一原理です。創造ということは、一つの物が二つになったことです。天地創造とは神だけであった宇宙が、神と宇宙とに分けられるような形になった。もちろんこれは現象的にではありますが、霊的な存在と肉的な存在とが、相別れるような状態になった。これが天地創造の原理です。

これは悪魔が神に反抗する姿勢を取り始めたから、天地創造がなされなければならなくなったのです。

天地創造の最終段階として、人間が造られたのです。この人間が信仰によって神に帰る時、宇宙はまた、元の一つの状態に帰納されることになるのです。

新天新地というものは、天地創造の最終の完成段階でありますが、この完成段階というものは、神ご自身のうちにあっても自ら天地は天地のあり方を持っているのです。持っているけれども、新天新地は神が共にいますという新天新地でありまして、現在の万物は潜在的には神が共にいますけれど、顕在的な事実にはなっていません。

新天新地になりますと、神が共にいますということが顕在的な事実として現われるのです。これが神の国の実現になるのです。

人間が信仰によって神に帰るから、新天新地が実現するのです。人間が神を信じるか信じないかということは、宇宙を完成させることの決め手になるのです。

人間が造られたのはそのためです。宇宙完成のためです。人間自身が神に帰ることによって、創造された宇宙全体が神に帰るのです。ここに人間の絶対的な責任がある、義務があるということを、よく承知しなければならないのです。その時に人間は完成されるのです。

人間は肉体を越えて考えることができるのです。愛する者どうしが二人でいる間は、嬉しくて楽しいのですが、愛する人がいなくなると悲しくなるといういわゆる愛別離苦ということがあります。肉体的現象を越えてしまいますと、愛する者がいなくなっても、愛する者がいる状態と同じ状態で、喜びと感激を持つことができる。これが信仰です。

信仰というものは、本来二つであるべきものが、一つになってしまうことなのです。二つのものが一つになってしまうことにおいて、愛別離苦という苦しみは消えてしまうのです。

現世に生きていたという気持ちもなくなってしまう。生も死もなくなってしまうのです。一度死ぬべき状態におかれた人間が、この状態から逃れ、永遠の命に入ってしまうことになりますと、生きることの喜び、感激を永遠に持ち続けることができるのです。

生きっぱなしに生きていても感激はありません。ただ生きているだけなら、死なないという気持ちを持っていますから、生きていることについての感激を味わうことができないことになります。

ところが一度死ぬべき状態におかれた後に、永遠の命を経験しますと、生きっぱなしに生きているという節度のない、だらだらした生き方ではなくて、生きることの感激、喜びを永遠に持ち続けることができるように生きることができるのです。

例え愛する者と別れるようなことがあっても、一度愛することを経験したことが、永遠の感激として残るのです。この時に愛別離苦を完全に乗り越えていくことができるのです。

宇宙の完成には人間の信仰ということが絶対に必要です。人間が神を信じることが絶対に必要です。二つのものが一つに帰らなければならないからです。

現世にいる人間は仏教的に言いますと、無明です。無明とは何かと言いますと、生まれる前に人間は神のうちにいたということです。神のうちにいたということは、一つであったということです。

この場合は、人間自身は神のうちにいたのですから、人間が意識を持っている必要がなかったのです。全知全能者である神のうちに人の魂が置かれていたので、意識を持つ必要がなかったのです。意識を持つ必要がないという状態が無明です。

無明という言葉が持つ意味は、まず無知です。それから無自覚、無責任、また無関心です。このような状態が無明ですが、どうして無知、無自覚、無責任になるかと言いますと、無意識だからそうなるのです。本人が意識を持っていないから、無知なのは当然です。また無責任なのも当然です。無自覚も当然なのです。無明の本性は無意識ということになるのです。

無意識であったということは人間の魂が父なる神の内に安穏としていたからで、意識する必要はなかったからです。神の意識がそのまま人間の意識として働いていたのですから、人間が独自の意識を持つ必要がなかった。これが無意識という状態です。

ところがこの世に生まれた。生まれたことによって意識せざるを得ない状態に放り出されたのです。意識しなければならないように仕向けられた。これが生まれてきたということです。

何を意識するのか。どのように意識するのか。どのように意識すれば、自分の魂の本来のあり方に適合するのかということを、現世で自ら判断、判別しなければならない状態におかれた。これが現世に生かされているということです。

魂が自分自身の無明を克服して、生まれる前に父なる神と一緒にいた時のような状態を持つことができて、無明を克服し、意識的に神を信じ、神と一つになるということを、今訓練させられているのです。そのようになるために私たちは生まれてきたのです。

私たちが生まれる前に神と共にいたという状態を、認識することによって人間の運命が新しく造られることになります。

生まれたこと、現世に生きていること、やがてこの世を去ることの三つのことがあります。この世を去る時に、父なる神にその人の意識がはっきり帰っているなら、その人は父なる神の元に帰ることになります。

この状態において無明が光明に変化するのです。光がなかった者が、光そのものに変わってしまうのです。これが新に生まれることであり、携挙されることであり、神の御子として自ら完成されることになるのです。

このことをパウロはエペソ人への手紙の第五章で、「光は暗きに照っている。光に照らされたものはそれ自らも光になる。死人のうちから立ち上がれ、そうしたらキリストがあなたを照らすだろう」と言っているのです。

キリストに照らされて、自分自身がキリスト的に化せられる。キリストに同化されてしまうのです。その時に肉体を持って現世に生きている人間が、神の御子として完成されることになるのです。

自分としての自分ではなくて、神の御子としての自分に変化してしまうのです。このことが人間完成なのです。

肉体的に生きているという感覚は、無明そのものです。肉体的に生きている状態をそのまま肯定していれば、その人の意識状態は無明そのものなのです。これは肉体的に生きているという限定された状態、肉の思いを自分の思いとして持っている状態においては、肉体意識に限定されているのですから無明です。父の元に完全に帰ることができない状態です。

例えば思想的に福音を理解できたとしても、本当に生ける神の御名において生きているという事実がなかったら、その人は父の元へ帰ることができません。思想的に福音を理解しているだけでは、無明になるのです。

このままの状態でいたら神に捨てられることになります。この世に出てきた時に、人間の魂は父なる神から分離させられたのです。

生まれたということは、分けられたということです。分けられたままの状態で父に帰ることができないとすれば、そのままで永遠に捨てられてしまうことになります。神から分離されたままの状態で、神に帰ることを自覚しないなら、捨てられるしかないということになるのです。

私たちはどうしても、父の元に帰れるような心理状態にならなければ、その人は捨てられる他はないのです。宇宙的な責任と、同時に個人的な責任との二つが、人間存在においてなくてはならないことになるのです。

現存在の人間は、どうしても神に帰らなければならない。自分自身の無明を克服して、肉の思いから抜け出して、神に帰らなければならない絶対的な責任があるのです。

肉体的に生きているという状態から、どうしても解放されなければならない。イエスが現世に生きていたように、信仰によって肉の状態から離れて、霊に従って歩むという状態にならなければ、この世に生まれてきた、また生きているということについての絶対的責任を果たしたことにはならないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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