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  • 管理人chaya

羊かやぎか


聖書に羊とやぎについて書いています。羊とやぎとの関係ですが、何が羊で何がやぎになるのか。これは聖書に書いてあるけれど、見つけ出すことがなかなか難しいのです。

宗教観念で見ても全く分からないような書き方になっているのです。聖書の言葉の真意というものを本当に弁えようと思いますと、よほど聖書の中に入ってしまうような形でないと分からないのです。

一般論的に概括的に言いますと、男の信仰はイエスを証していないのです。女の信仰はイエスを証しているのです。ところが、女の人はイエスを証しているけれども、女の人自身がそれを知らないのです。

女は男に教えてもらわないと、自分自身のあり方が分からないのです。女は男の栄光ですから、男が女にその栄光のあり方を教えるのでなかったら、女の人は分からないのです。

女自身は、自分が男の栄光であるということ分からないのです。男の栄光を男が知っているのです。だから男が女にその栄光を教えなければならないのです。

例えばキリストの栄光は男です。神の栄光はキリストです。キリストの栄光は男です。キリストの栄光が男である場合、男自身は自分の栄光を知ることはできないのです。これは女自身が男の栄光であることを知ることができないのと同じことなのです。

こういう順序を理解していかないといけないのです。キリストに教えられるのでなければ、男は自分の栄光を知ることはできないのです。

キリストなしに栄光を知ったような気持ちでいる人々がやぎです。宗教家です。キリストに教えられないで自分で一人よがりの栄光を決め込んでいる人、信仰はこれでいいのだと考えるカトリシズムを、キリストは認めていないのです。純福音とか純正キリスト教とか愚かなことを言っているのです。こういう信仰は全部やぎになるのです。これは飼い主を持っていないのです。

やぎは野生になろうと思えばいつでもなれるのです。野生の性質を持っているのですから、自分でえさを探す性質を初めから持っているのです。羊は一匹で迷えば殺されるに決まっているのです。自分の信仰がやぎであるか羊であるかを、よく見極めていただきたいのです。

女性の急所は神に繋がっているのです。生理的にそうなっているのです。女の急所は生理的にも神に繋がっているのです。これは妙なものでして、男を通してキリストに繋がり、キリストを通して神に繋がっているのです。

女は男を通してキリストに繋がっているのです。この順序を経なければ、女の場合は自分の栄光が分からないのです。だから女の場合、愛されるということを望むのです。

男は愛することを望まないで犯すことを望むのです。男の感覚は女を犯しているのであって、愛していないのです。それは女の人格の本性を弁えないで抱いているからです。

やぎの感覚というのは、人間の立場からそれを基礎にして神を信じる人々です。人間の立場から誠意を持って神を信じるのです。

宗教はどれほど誠心誠意であっても、どれほど素直であってもやぎになるのです。宗教の信仰では聖霊を受けることはできないからです。

宗教のある派では、聖霊のバプテスマを受けていると堂々と言っている人々がいますけれど、それはその派の聖霊の受け方です。ある教派、宗派に属する聖霊の受け方であって、聖書の聖霊とは違います。それは宗教の聖霊です。

そういう見方をキリスト教の各派はしていますけれど、聖書に基づく聖霊の見方をしていないのです。

聖書に基づく聖霊の受け方というのは、創世の原義、天地創造の原義に基づいて、人間の公義のあるべき状態を示された受け方になるのです。これが正しい聖霊の受け方です。

イエス・キリストがどういう状態で聖霊を崇めていたかと言いますと、彼は虹の契約に基づいて自分を見ていたのです。

イエスが水から上がった時に、イエスの肉体は神の目に見えなかったのです。人の目には見えたのですが、神の目には見えなかったのです。

イエスが水から上がった時に水に帰っていたのです。創世記の第六章をご覧になると、神は人間を造ったことを悔いて、滅ぼしてしまおうということを言われたのです。

人間を水で滅ぼしたのです。なぜ水で滅ぼしたのかと言いますと、万物は水から出たのです。万物は水から出て水によって成り立っているのであって、万物の長である人間は水から出たものを代表しているのです。

洪水によって人間が滅ぼされたということは、水に帰ったのです。「私は人間を造ったことを後悔する」と神が言っている。造ったことを後悔した神は、水によって造らない状態にしてしまったのです。これがバプテスマです。水のバプテスマの意味が世界中のキリスト教の人々に全然分かっていないのです。

頭から水をかぶることは、洪水をかぶることです。洪水をかぶるということは、そのまま自分自身の地球上における存在が消えてしまったことになるのです。

神は人間を造ったことを悔いたのです。そこで洪水を起こした。人間を造ったことを元に帰すために、人間を造ったことを水に流してしまうために、洪水を起こしたのです。

造ったことを水に流してしまうことが洪水の真意です。水のバプテスマを受けた者は、自分自身の肉体が地球上に存在していないことを、毎日念願しなければならないのです。これができる人間のことを羊と言っているのです。できない人間のことをやぎと言っているのです。簡単に区別できるのです。

人間は自分自身のあり方について、羊かやぎかということを厳粛に検討すれば自然に分かるのです。

私が言うことは世間には通用しません。ところが神の前に歩むためには、この本質的な基本論を承知していなければ、神の前に歩むことはできないのです。どこが神の前か分からないのです。

どうすれば神の前に歩むことになるのか。どこでどのようにすればいいのか分からないのです。

女は直感的に機能的に分かっているが、その機能は男の光栄ですから、男に教えてもらわないと機能が発動しないのです。ところが男は犯すことを知っているが、女の機能の意味を知らないのです。困ったものです。

女は気の毒に、本当の恋愛ができる人がめったにいないのです。現世の女の恋愛は男との恋愛だけが恋愛だと思っている。そうではないのです。女の機能というのは永遠の神性から発している機能です。

男の栄光が女ですから、男は自分の栄光が女であることを承知して、女を愛することができる人だけが、本当に女を愛する資格があるのです。それ以外の男は全部女を受けいれる資格がないのです。皆姦淫になるのです。

パウロは人間存在をどう見ていたのか。パウロは羊であったか、やぎであったのか。皆様がパウロと同じような感覚であったら羊であると言えるのです。

パウロは次のように述べています。

「なぜなら、神について知りうる事柄は彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性とは天地創造のこのかた、被造物において知られていて、明らかに認められているからである。従って彼らには弁解の余地がない。

なぜなら、彼らは神を知っていながら神として崇めず、感謝もせずかえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである」(ローマ人への手紙1・19〜21)。

神について知り得る事柄は人間には明らかである。神のことは何でも分かるはずだと言っているのです。これはあえてイスラエルの人々だけとは書いていないのです。

ローマ人への手紙というのは異邦人に与えた手紙であって、ユダヤ人に対する言い方とは違うのです。世間一般のすべての人間に対して、人間は神のことをよく知っているはずだと言っているのです。

神について知るべきことは、人間には明らかであると言っている。この原理が分かるキリスト教はありません。キリスト教では説明できないのです。

パウロは、人間は神の事柄をありありと知っている。明瞭に知っていると当たり前のように言っているのです。これが言えたパウロはさすがに代表的な羊です。

パウロの霊魂は飼い主を知っていると言っているのです。彼の魂は飼い主を知っていたのです。飼い主が神であることを知っていたのです。

皆様の魂が神に飼われていることを知っていたら、その人は羊です。神に飼われていることを知っている人は、神の御名を崇めて生活するということが実行できる人です。神の御名を崇めて生活することが本当にできる人です。この人は神を知っているのです。

やぎは神を信じているつもりでいるけれど、そのつもりはその人の宗教思想であって、実はその人は心のどん底で神を知っているのではないのです。そこで四六時中、霊と誠をもって神を拝することができないのです。

神について知り得る事柄は何でも分かるようにしている。神がそのようにしていると書いています。神が人間を造ったということが、そのまま本人の意識の中に働いていれば、その人は神に造られた人間です。神の造り具合を知っている人間です。

自分が造られた状態、自分が現実に生かされている状態が、そのまま神に生かされていることを知っているのです。神に生かされていることが実感できるのです。これは羊です。間違いなく羊です。

こういう人はめったにいないでしょう。神は己にかたどりて、己の形のごとく人を造ったのです。これが人間の原形です。

人間の原形というのは、今の人間には全然見られないのです。例えば洗礼を受け、また聖霊を受けて神の国へ入ったほどのすばらしい信仰経験を持っている人でも、神のことが手に取るように分かる人、つまり神にかたどりて神の形のように人を造ったことを自覚できる人はいないのです。

そうすると、神の形のように人を造ったということは、いつ頃の人をさすのかということです。これが難しいのです。

神にかたどりてということが先に書かれているのです。神の形のごとくという言葉が後に書かれているのです。神にかたどりて造ったということと、神の形のごとく造ったということ、そして男と女とに造ったということは、神の形のようですけれど、これはポイント的にも年代的にも違っているのです。

まず神にかたどりて造ったということはどういうことか。どのようにかたどったのか。神にかたどりてとは、どんかふうにかたどられたのか。

箴言に次のように書いています。

「主が昔そのわざをなし始めたられた時、

いにしえ、地のなかった時

初めに、私は立てられた。

まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、

私はすでに生まれ、

山もまだ定められず、丘もまだなかった時、

私はすでに生まれた。

すなわち神がまだ地をも野をも、

地のちりのもとをも造られなかった時である。

彼が天を造り、海のおもてに大空を張られた時、

私はそこにあった。

彼が上に空を堅く立たせ、

淵の泉をつよく定め、海にその限界をたて、

水にその岸を越えないようにし、

また地の基を定められた時、

私は、そのかたわらにあって、名匠となり、

日々に喜び、常にその前に楽しみ、

その地で楽しみ、

また世の人を喜んだ」(8・22〜31)。

地のちりの元が人間です。地のちりの元という人間が造られなかった時に、あるものがあったのです。何があったのか。

これはパウロによれば、いや先に生まれたもうた神の御子になるのです。万物のいや先、すべてのもののいや先に生まれたのです。一番最初に生まれたのが御子です。

これは産みたまえる一人子になるのです。ところが産みたまえる一人子というのは、本質的に何であったのか。これを直感的に感じられるのは女性です。こういうすばらしい聖書のクライマックスを、女性はハートの中心で感じるのです。男は頭で感じるのです。

イエスの言葉やパウロの言葉を、私たちは現世でどのように理解して、どのように生きこなすかということです。理解をしても生きこなすことができなかったら、信じているとは言えないのです。

ですから、自分が羊であると思いたければ、今お話ししたことを自分の中にある理性の動き、良心の動き、魂のあり方、神のうちにいるかいないか、自分のバプテマスをどのように実感しているかを自ら検討するしかないのです。

パウロは「あなた方の信仰をあなた方で点検しなさい」と言っているのです。この点検を絶えずしなければならないのです。

点検をしなくて信じてもだめです。点検をすると、自分の中から神の恵み、この世に生まれてきたことの原理が、理性の中から湧いてくるのです。

自分の生活的実体の中から、自分が生ける神の子であるという事実が、湧き出てくるはずです。これができる者は羊です。

キリスト教をいくら熱心に信じても、今お話ししたことは絶対にできません。これはやぎです。

自分は聖書を勉強しているといくら言ってもだめです。いくら良き行いをしていると言ってもだめです。神と共にいるかどうかが問題です。

インマヌエルということ、エホバの御名ということが私たちの理性の実体です。私たちの理性の実体が、エホバの御名です。インマヌエルの実体です。

こういう事実を踏まえて考えますと、羊であるかどうかはすぐに分かるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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