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  • 管理人chaya

釈尊の悟りと新約聖書の不思議な関係


現代の人間存在を根底から検討しなおさなければならないのです。そのためにはどうしても般若心経の原点をしっかりつかまえることが必要です。

般若心経という文化財を、できるだけ強く大きく取り上げる必要があるのです。般若心経と聖書を絶対にするくらいの考え方を持たねばならないのです。

般若心経を踏み台にせずにいくら聖書を勉強してもだめです。般若心経を足台にして初めて、聖書が言う所にどうやら達することができるのです。

般若心経を唱えていて全く空念仏のように扱っているのでは、聖書をいくら勉強してもだめです。般若心経の五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃のポイントを十分収得しなければ、聖書が分かったとは言えないのです。

現世にいる自分が全くの空々寂々で生きるのです。肉体があるのは仕方がないですが、肉体があってもその自分を問題にしないという生活を送らなければいけないのです。

肉体人間は死んでいくに決まっていますから、死んでいく人間が実存するような気持ちを温存しているのが間違っているのです。釈尊の空を取り入れなかったらだめです。

釈尊の空が基本になって新約聖書ができているのですから、このことをよく知っていただきたいのです。

釈尊の空観が基礎になっていなければ、マタイによる福音書の二章ができていないのです。マタイによる福音書の第二章がなかったら、三章以下があり得ないのです。

マタイによる福音書の第二章で、東方の博士がメシアの降誕をお祝いに来たという記事があります。

東方の博士がなぜメシアの降誕に係わっているのか。この説明が世界中の神学者、聖書学者、哲学者、牧師のだれ一人できないのです。

全世界のこれからの文明の展望は、私たちを除いては考えられないのです。

ユダヤ人たちが好むと好まざるとに係わらず、現在新約聖書の原点、イエスがキリストとしてイスラエルで認められることが条件になるのです。

ところがイエスがキリストであることを認めようとしないのがユダヤ人の意識です。その根本原因を考えてみますと、イエスがベツレヘムで生まれたことについて、ユダヤ人は同意できない感覚があるのです。

ベツレヘムで生まれたあの赤ちゃんがメシアであるということについて、同意できない感覚を持っているのです。それは東方の博士が拝みに来ているからです。

本当にイスラエルのメシアであるのなら、何も異邦人の博士が出てきて拝まなければならない必要がないのです。

メシアはどこまでもイスラエルの王です。ユダヤ人の王ですから、異邦人が拝みに来るのはおかしいのです。それを新約聖書は堂々と書いているのです。

東方の博士が黄金と乳香と没薬を持ってイエスを拝みに来た。こういう記事がなぜ新約聖書に必要なのか。東方の博士によって認められなければ、イエスがイスラエルのメシアとして認められないことになるのはどういうことか。

ユダヤ人がベツレヘムのイエスの誕生の時にお祝いに来たのは、わずか数人の牧童でした。こういうものはイスラエルの歴史として、堂々と掲げられる体裁ではないのです。

この件については別のニュアンスがありますが、ユダヤ人としてはたった数人の牧童がイエスを拝みに来た。これだけです。

ユダヤ人は、それが一体何か、それを仰々しく新約聖書で取り上げるほどの事柄かと言いたいのです。私がユダヤ人ならそう言うでしょう。

東方の博士が拝みに来たということは、非常に重大な比重を持っているのです。マタイによる福音書の第二章がなかったら、イエスがキリストであることをどうして証明するかということです。

盲の目を開いても、跛なえの足を立たしてもそんなことは病院でもするのです。指圧師でも腰痛を治してくれます。

とにかくマタイによる福音書第二章に係わるユダヤ人の反撃を、キリスト教はどうして答えられるかということです。私はそれについて十分に答える用意があるのです。

釈尊は東洋でどういう比重を持っているのか。仏教という思想がアジア全体でどういう比重を持っているのかということです。

釈尊の良い所は現世を認めていないということです。これが般若心経の特徴です。現世を認めないということが新約聖書の土台になっているのです。現世そのものを認めていないのです。これが新約聖書の基本原理です。

新約聖書の初めにはイエス・キリストの誕生を書いています。新約聖書の一番終わりには「見よ、私はすべてのものを新にする」と言っています(ヨハネの黙示録21・5)。

ヨハネの黙示録に、「見よ、私はすぐに来る」(同22・12)とイエスの再臨を書いています。終わりには、万物を新にするという神の宣言が掲載されています。これが新約聖書の構想です。

これは現世を認めていないということです。イエス・キリストの降誕ということは、現在の世界を祝福するのではないのです。

アブラハムがイサクを産んだという記事を読んでみても、ユダヤの歴史の底を流れているものから取り上げているのです。

旧約聖書の表の流れではない。裏の流れがイエス・キリストの降誕に関するマタイの記録なのです。それを裏付けるようにしてマタイによる福音書第二章が続いているのです。

マタイによる福音書の第二章は、数名の牧童と東方の博士がうやうやしく現われた。東方の博士の礼拝の仕方がメシアに対する正しい礼拝として、マタイによる福音書の第二章は認めているのです。これをどう考えるかということです。

ユダヤ人はこれに対して反撃したいのです。ユダヤ人がイエスをキリストと認めない理由はこの点にあるのです。

キリスト教は二千年の間、マタイによる福音書の第二章の記事を不問に付しているのです。こんなことがあっていいのかと言いたいのです。

クリスマスのお祝いの時には、三人の博士が出ている芝居をします。この芝居は根本的に間違っています。何が間違っているのかと言いますと、三人の博士がベツレヘムにお祝いに来ているのです。こんなバカなことはあり得ないのです。三人の博士はインドから来て、まずエルサレムに着いたのです。インドの、東方の博士がその時に旅行をするとしますと、土産物を揃えるだけでも二、三ヶ月はかかったでしょう。それからラクダに乗って来るとしますと、半年から十ヶ月くらいはかかったでしょう。

ところがベツレヘムで誕生した二、三日後に博士が訪れたように考えているのです。だいだい生まれてすぐにマリアが赤ちゃんを抱いて起きられるのかということです。ユダヤ人はこういうことを慎重にするはずです。それを生まれたばかの赤ちゃんを、東方の博士がお祝いに来たと考えているのです。こういう訳の分からない劇をしているのです。

カトリックの伝統がそのように考えているのです。博士はエルサレムに来たのです。博士たちはどこでキリストが誕生したか分からないのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。私たちは東の方でその星を見たので、その方を拝みに来ました」と聞いたのです(マタイによる福音書2・2)。

「それはユダヤのベツレヘムです」と言われてベツレヘムに行って、キリストである幼な子に会って祝福したのです。この時会ったのは英訳でチャイルド(child)になっています。ベビー(baby)ではなかったのです。博士たちは多分一才か一才半のイエスに出会ったでしょう。そこでヘロデ王は、ベツレヘムとその付近の地方にいる二才以下の男の子をことごとく殺せと命じたのです。

三人の博士は、東の方でその星を見たのでその方を拝みに来ましたと言っています。星を見て、黄金、乳香、没薬を用意してラクダに乗ってインドからエルサレムに来たのですから、一年か一年半くらいはかかったでしょう。そこでヘロデ王は二才以下の子どもを全部殺したのです。

ところでインドの三人の博士たちがなぜイエスの誕生を察知したのかということです。星を見て知ったと博士たちが言っていますが、その星とは何かということです。

イエス・キリストが誕生する五百年前にインドで釈尊が生まれました。この釈尊が人間に生老病死があることに大きな疑問を持って出家して、いろんな所で修行しましたがどうしても分からなかった。

そこで一切の修行と考察をやめて、菩提樹の下で何も考えずに座ったのです。そして四十日目の早朝に「明けの明星」を見て大悟した。一切空と喝破したのです。言い伝えによれば、釈尊が三十五才の時の、十二月八日でした。

「明けの明星」は太陽が出る直前の星です。釈尊が何を悟ったかと言いますと。明星が出ている世界は夜です。太陽が出ている世界は昼です。やがて、生老病死がない、永遠無窮、完全無欠の世界が現われることを確信したのです。

現在の地球は矛盾に満ちています。地震、台風、洪水、津波、ガン、エイズ伝染病がいつ発生するか分からない世界です。

釈尊が確信した世界はそういうものに一切関係がない、永遠無欠の完全世界です。現在の物理世界が滅びた後の、永遠に滅びない地球です。新約聖書はこれを新天新地と言っています。

釈尊はこれを直感したのです。新天新地が本物の世界ですから、それから比べたら現在の不完全な世界は嘘の世界である。そこで釈尊は現世を一切空と喝破したのです。

釈尊は「明けの明星」を見て、色即是空と喝破した。ところが復活したイエス・キリストは自分のことを「私は輝く明けの明星である」(ヨハネの黙示録22・16)言っています。釈尊は復活したイエス・キリストを見たのです。ここから一万七千六百巻と言われる膨大な仏典が展開していくのです。

ところが言い伝えによれば釈尊は「私が説いたことは一切嘘である。やがて本当の人が現われるのでその人に聞きなさい。その人が本当のことをすべて教えてくれる」と言ったのです。この言葉が言い伝えられて、五百年後に博士たちが星を見てキリストの誕生を察知した。そこで博士たちが長旅をしてエルサレムに到着したのです。

マタイによる福音書の二章の記事について、キリストの神学者、牧師の考えは全く間違っています。

イスラエルのラビも律法学者も気がついていないのです。キリスト教の新約聖書に対する根本的な誤謬について、認識の誤りをユダヤ人が突けば、カトリックは一言もないでしょう。

マタイによる福音書には、博士たちがベツレヘムにお祝いに来たと書いていないのです。博士たちがキリストとして生まれた赤ちゃんがどこにいるかを尋ねて、星に導かれてベビーではないチャイルドがいる所へ行ったとあるのです。

聖書にはチャイルドになっています。ところがカトリックの伝承はベビーとしてのキリストに拝顔したという劇になっているのです。これは意識的に変更したのかどうかは分かりませんが、キリストの誕生という重大な事件について、キリスト教は根本的に間違っているのです。

クリスマスという重大な事件について、キリスト教は完全に間違っている。これだけでもキリスト教を信じる価値はありません。

キリスト教が信じているキリストはイエスではないキリストを信じているのです。キリスト教で造ったキリストを信じているのです。ベツレヘムでマリアから生まれた赤ちゃんのキリストを信じていないのです。

こういうキリスト教の根本的な急所にメスを入れるくらいの認識が皆様になければならないのです。

博士たちは生まれたキリストを祝福するために黄金と乳香と没薬を持参したのですが、黄金と乳香は集められますが、没薬を土産に持参するために集めようとすると、なかなか大変です。簡単に集められるものではないからです。少なくとも三ヶ月か半年くらいかけなければ、土産として持参するだけの量が集まらなかったはずです。

イスラエルならとにかく、遠方から来たとありますから、ペルシャにしてもインドにしてもその地域では没薬は日常では用いていないはずです。

没薬は旧約の伝承で用いているものですから、ペルシャやインドでは用いていないのです。しかもイスラエルのメシアに対して没薬を捧げなければならないことを、なぜ博士たちが知っていたかということです。

異邦人である博士たちが、没薬を捧げなければならないことを知っていたとすれば、その理由があるはずです。当時のメデアペルシャの時代にペルシャの大帝国があったのです。その範囲は現在のアフガニスタン、トルキスタンといった大きさの国が百二十七あったのです。現在のアフガニスタンからインドを越えてパキスタンまで広がっていたのです。釈迦が生まれた国も含まれていたのです。

その大ペルシャを指導していたのが、名宰相と言われたダニエルです。ダニエルが指導していましたから、モーセの掟を用いていたに決まっているのです。そうすると旧約の原理がインドに広まっていたことは当然考えられるのです。

釈尊は若いうちに皇太子の位置にありましたから、将来の帝王学として旧約聖書の勉強をしいたに違いないのです。

こういうことを底流として認識することによって、釈尊が見た「明けの明星」はどういうものであったのか。釈尊が「明けの明星」をどのように理解したのか。釈尊の心理状態の中に、メシアが非常に強く、幼年時代の教育において印象されていたのではないかと想像されるのです。

ユダヤ思想の目的はメイアの降誕です。このことを釈尊は知っていたに違いないのです。これと「明けの明星」が結びついたのです。これが一切空という大哲学を産んだのです。

このことについていみじくも第三の天にいるイエス・キリスト自身、私は「輝く明けの明星」であると言っているのです。

「明けの明星」はそのままヨハネの黙示録の終わりに「私は輝くものであり、明けの明星である」と二回言っているのです(22・16)。

「明けの明星」は世界歴史に輝くものです。これを釈尊は見たのです。これを見なければ東方の博士が没薬や黄金、乳香を持って、わざわざメシアを礼拝しに来るはずがないのです。

一体異邦人がメシアを礼拝して何になるのでしょうか。東方の博士がメシアを礼拝して何になるかということです。何のために、メシアを礼拝しにインドからやって来たのかということです。こういうことについてキリスト教は全く説明しようとしていないのです。

釈尊の悟りと、イエス・キリストの信仰の二つを合わせて初めて、聖書全体に流れる永遠の生命、神の経綸の全体が分かるのです。

マタイによる福音書は羊飼いについての言及はありません。マタイによる福音書はユダヤ人に対する預言者ですが、ここに羊飼いのことを書かないで三人の博士のことだけ書いています。これは皮肉です。

ユダヤ人が、イエスがメシアであると考えて殺した源流に釈尊がいるのです。釈尊が「明けの明星」を見たという事件がなければ、イエスを殺そうとしなかったに違いないのです。

「明けの明星」の一件がなければ神が、イエスがキリストであることをイスラエルに証をしようとしなかったかもしれないのです。

とにかく釈尊が「明けの明星」を見たという事件は、イスラエルの歴史と重大な係わりがあると言うことができるのです。千年王国が実現すること、イエス・キリストの再臨が実現することについては、釈尊が「明けの明星」を見たことが絶対に必要なことになっているのです。

このように釈尊の悟りと新約聖書は切っても切れない不思議な関係があるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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