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  • 管理人chaya


聖書に次のように書いています。

「また、ある役人がイエスに尋ねた、『よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか』。イエスは言われた、『なぜ私をよき者と言うのか。神一人の他によき者はいない。いましめはあなたの知っているとおりである。姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』。

すると彼は言った。『それらのことはみな、小さい時から守っております』。イエスはこれを聞いて言われた、『あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、私に従ってきなさい』。

彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持ちであったからである。イエスは彼の様子を見て言われた、『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことであろう。富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がやさしい』。これを聞いた人々が、『それでは、誰が救われることができるのですか』と尋ねた。イエスは言われた、『人にはできない事も、神にはできる』。

ペテロが言った、『ごらんなさい、私たちは、自分のものを捨てて、あなたに従いました』。

イエスは言われた、『よく聞いておくがよい。誰でも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、来るべき世では永遠の生命を受けるのである』」(ルカによる福音書18・18〜30)。

「私たちはすべてを捨ててあなたに従っています」と、弟子たちはイエスに言いましたが、形としてはそのとおりですが、しかし、見方がやはりイエスを知る前のペテロの見方、ヨハネの見方だったのです。

前に漁師をしていた当時の自分の気持ちを変えているのではない。自分の気持ちを持ったままで、かつて肉で生きていた記憶をそのまま自分自身の経験として持っているのです。その間違った人生経験に基づいて、イエスに仕えていたのです。だから、イエスの言うことがどうしても分からなかったのです。

「汝ら、まだ悟らないのか」と、イエスに何回言われても悟れなかったのです。そういう状態でした。彼らは神に召され選ばれていたので、かろうじてイエスについて行ったのですが、イエスがいう言葉の真意はほとんど分からなかったのです。

十字架の直前に、ペテロがイエスを三回否むというような醜態を演じたのは、結局、心を変えていなかったからです。自分自身の精神構造を変えなかったのです。精神構造を造っている表象を変えていない。心象を変えないままの状態で信じようと考えていたので、信仰という言葉の意味が全く分からなかったのです。

神がもろもろの善を造って、モーセの目の前に現わしたのが、何のことか分からなかった。そういう状態で弟子たちはいたのです。

今の皆様もそういう状態に近いのではないかと思われるのです。エホバの御名とか、神の働きについてお話しすれば、皆様は理屈としてはお分かりになるでしょう。それを自分自身の霊で受け止めて、霊的に生きることができないのです、これは自分の霊を神に渡していないからです。

空が青いのが神の善です。桜の花が咲くことが神の善です。バラが咲いたということが善です。これは理屈では分かりますが、自分自身の精神において、そのようなイメージがはっきり確立していないために、やはり肉の思いで見ているのです。これを修正しなければ、皆様は信仰によりて生きるということは実行できないのです。

霊に従いて生きるのです。義人は信仰によって生きるとありますが、信仰によりて生きる義人になるためには、心象を変えてしまわなければいけないのです。万象に対するイメージ、自分が生きているという感覚の元素をなす所の精神表象の根源、心象を変えてしまわなければいけないのです。

色即是空、無眼界乃至無意識界という般若心経の言葉、五蘊は皆空であり、是故空中である。この故にすべては空である。不生不滅、不垢不浄、不増不滅、不生滅の心において生滅が発生しているのです。

本来宇宙は、宇宙自体の自性において存在する。人間の思いのように存在しているのではありません。万物は人の思いのように存在しているのではなくて、天地の自性に従って存在しているのです。

人間の思いのように花は咲いているのではない。天地万物の命に従って咲いているのです。従って、天地の心に従って花を見なければ、本当に花を見ていることにはならないのです。これができなければ信仰とは言えないのです。

月の光で月を見るのです。これは日常していることです。花の色に従って花を見る。雲の流れに従って雲を見る。これもしていることです。していながら分からないのです。人間の五官によってしていることが、実は人間の精神に正しく受け止められていないのです。

弟子たちはイエスの弟子になったつもりでいた。そのつもりでいたのですが、約束の民であることの本当の意味を知らず、また、イエスの弟子であることの本当の意味を知らずに、形だけそのようになっていたのです。弟子たちに言わせれば、モーセの掟を幼い時より行っていて、まだ救われていない。そうとすると、一体誰が救われるのかと言いたいのです。

イエスは富める者が神の国に入るのは、らくだが針の穴に入るよりももっと難しいと言っているのです。

今まで肉の思いで富んでいた者、肉の思いをいっぱい持っている者が、神の国へ入るということは、絶対にできない事です。

ところが、皆様は知らず知らずのうちに、この愚かをしているのです。肉の思いを持ったままの状態で、イスラエルに福音を伝えようと考える。これは全くばかなことです。イスラエルに福音を伝えるというのは、イエス・キリストに代わって旧約歴代の預言者に代わって、イスラエルに発言することになるのです。

例えば、バプテスマのヨハネのような心境でなかったら、イスラエルに福音が伝えられるはずがないのです。肉の思い丸出しの異邦人が、イスラエルへ福音を伝えると思うのは、もっての他です。

イスラエルに福音を伝えるためには、イエス・キリストの名を持ち行く選びの器として、バプテスマのヨハネの所為ができるものでなければいけないのです。肉の思いに富んでいる者が神の国へ入るということは、絶対に不可能です。肉の思いを捨てなければならないのです。自分が生きているという思いと、現象感覚を捨てなければならないのです。

今まで何十年か生きていた生活経験を捨ててしまわなければならないのです。別の人間にならなければいけないのです。今まで生きていた自分のままでは、イスラエルに福音を伝えることはできません。それならどうしたらいいのか。

イエスはこれに対して、すんなりと言っているのです。「人にはできないが、神にはできる。人に添ってはできないが、神に添えばできる」。これをすればいいのです。

「人に添ってみよ、馬には乗ってみよ」と言います。馬に乗らないで馬を論じてみても仕方がないのです。神に添わずに神を信じることはできるはずがないのです。皆様は神に添ったらいいのです。ところが、それができないのです。なぜ分からないのかと言いますと、皆様は進歩の工夫をしていないからです。自分で自分の心をどのように鍛練するのか、神を経験することを、自らどのように訓練するのかをしていないのです。

神を経験するということは、具体的に神を恐れ畏むことです。これが神に添うてみることです。自分が生きることをやめるのです。神に生きてもらうのです。いつでも自分という形を通して、神に生きてもらうのです。自分が生きないのです。

自分はいないのです。自分が生きるも生きないもない。自分はいないのです。自分はどこにもいないのです。人間はまだ生まれていないのです。肉の思いとしては、生まれてきたような気がするだけです。

生まれてきていないのですから、固有名詞とか、肉体があるはずがないのです。肉体があるような感覚はあります。それは肉体という形で、五官が働いているだけです。実は肉体という固定的な、また、固有的な固体的にものはないのです。そういうものがある道理がないのです。例えば、空気がなければ、また、雨が降らなければ、万物がなければ、肉体は存在しないのです。肉体は自然現象のあるパートです。自然現象のパートが肉体という格好で現われているだけです。

自然現象のある一部が肉体として、私たちに感じられるだけです。ただ感じられるだけです。あるのではないのです。存在するという事と、感じられるという事は、存在しないものでも感じられるのです。例えば、ある人間が好きだとか、嫌いというのは、そう感じられるだけです。本当に好き嫌いがあるのではないのです。

現象的にあるようには思えるけれど、実は存在していない。これを色即是空と言っているのです。無眼界乃至無意識界です。目で見ている世界も、意識している世界も、両方共にないと言っているのです。ここに般若心経の哲学的な価値があるのです。

だから、般若心経がマスターできなければ、神に添うことができないのです。従って、神を信じることは不可能です。イエスがキリストであることを信じることが、不可能なのです。そこで、宗教ではない般若心経と聖書を勉強しなければならないのです。

これを皆様自信が体験しなければいけない。自分が経験しなければ人に言えないのです。神に添うことができないのに、人を神に添わせることができるのでしょうか。自分でできないことを人にしなさいという資格があるのでしょうか。

自分は存在しないとか、色即是空であって、無眼界乃至無意識界と言いますと、五官を持っている人間が現在ここにいるのに、もし現象世界が何もないのなら、なぜ五官があるのかという疑問が起きるでしょう。

それは神が試みに試行錯誤の世界を現わしているのです。人間が五官をどのように用いるのかを見ているのです。人間が利口かばかかを神が見ているのです。テストしているのです。この試験にパスした者を、本当の人間として神の国に生んでやろうと考えているのです。

まだ実は、世界もないし、人間もないのです。今の世界や人間があると思うのが間違っているのです。

創世記の第一章を読んでみますと、現象の世界は幻想の世界であるということが分かるのです。ところが、人間は幻想を実体だと考え込んでしまっているのです。これを看破した釈尊は偉い人だと思います。ずばり色即是空と言い切ったこと、無眼界乃至無意識界と言ったのは偉いのです。

考えてみて下さい。この現象世界があるとしても、一体何になるのでしょうか。人間が存在するとしても、何になるのでしょうか。生あるものは必ず滅するし、形あるものはかならず壊れるのです。必ず壊れるものを、神が本気になって造るのでしょうか。もし造ったとすれば、それは神が何者かをテストするために、このような方便を用いただけのことです。

誰かをテストするために、このような方便を全能者が用いたのです。今の創造はこれです。だから、これは神が本気で造ったのではないのです。ところが、人間はこれを信じない。どうして信じないのかと言いたいのです。

釈尊は天地が存在するということについての説明ができなかったのです。天地創造は約束によってなされたのです。約束がなければ創造はないのです。釈尊は約束を知らなかったのです。従って、なぜ天地が存在するのかについて、説明のしようがなかったのです。だから、遍照金剛の大日如来があるだろう、ビルシャナ仏と称するものがあるだろうと、形容詞で人格みたいなものを造らなければならなかったのです。そうして、因縁諸生だと考えたのです。しかし、地水火風だけはあったのだと言っているのです。

絶対真空と言わないで、地水火風があったので、ここから物が生じたと言っているのです。実は地水火風も、本当はないのです。ないけれども、全くないとも言えないのです。この考えは神の約束には関係がないのです。

皆様はスケールが小さいのです。ですから、万物は存在するもの、人間は存在するものと信じ切っている。これが肉の思いです。皆様は肉の思いをしっかり抱き込んでいるのです、肉の思いに抱き込まれてしまっているのです。肉の思いに抱きすくめられているのです。これが業です。抱きすくめられて、身動きができなくなっている。これを叩き破るのです。これを破る方法はただ一つ、色即是空を実感する以外にはないのです。

神が色即是空というてずるを私たちに与えて下さったことは、非常に有難いことです。ユダヤ人には旧約聖書を与えた。アジア人には色即是空を啓示した。欧米人にはプラトン、ソクラテス、アリストテレスを与えた。中東の人にはマホメットを与えたのです。

とにかく、イエスに直接ふれようとしてもだめです。イエスの前に、まず学ばなければならないことがあるのです。これが色即是空です。皆様は色即是空を卒業せずに、イエスに直接ふれようとしている。これが間違っているのです。

「私たちはすべてを捨ててあなたに従いました」と、ペテロもヨハネも言ったのです。彼らは人に添うてはいますが、神に添っていないのです。人に添うては絶対に神の国へは入れません。神に添えばできるのです。

ここで役人の考え違いが分かるのです。またモーセの心境が分かるのです。モーセとユダヤ人との違いが分かるのです。モーセは現代のユダヤ人のようではなかったのです。現代のユダヤ人はモーセではないのです。モーセとユダヤ人とは何の関係もないのです。つまり、彼らはイスラエルの輩ではないのです。モーセの思想が理解できるなら、イスラエルの輩です。モーセのレベルにおいて、歴代預言者のレベルにおいて初めて、イスラエルのレベルに達することができるのです。

異邦人なら色即是空を越えなければならないということです。

壊れるに決まっている地球とか、死んでしまうに決まっている人間が実在すると考えるのが間違っているのです。すべて幻影の世界に幻影の人間として生きているのです。「人は皆影のようにさまよう」(詩篇39・6)とダビデが言っています。人間は煙のようなものだと言っているのです。ところが、煙を実在のように考え違いをしているのです。

聖書には人間は幻だと書いているのです。それを皆様は信じていないだけです。もう一度改めて、聖書が神の言であることを信じて頂きたいのです。そうすれば、神に添うことができるのです。色即是空を本当に実行することにおいて、初めて善を行うことができるのです。

善とは何かと言いますと、色即是空をふまえて、幻影的な人間として生きることです。まだ生まれていない人間として生きるのです。利害得失、喜怒哀楽を捨てて生きることが善です。

現象を実体としないことが善です。自我意識を捨てることが善です。これが神の業です。善を行うために掟が与えられたということを、私たちはイスラエルに伝えなければならないのです。善を行うことが、自ずからとこしえの命に生きることになるのです。役人が本当に掟を行っていたなら、とこしえの命を得るために、何をなすべきかという質問を、イエスにする必要がなかったのです。

イエスは「お前たちは掟を行っているか」と聞いているのです。掟を本当に行っているかという質問です。これはなかなか分かりにくい問題ですが、分かりにくいと言ってほっておけない問題です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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