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初めに神は天と地を創造された


物事には知るという段階と、悟るという段階があります。知るにしても、悟るにしても、私たち自身がしているのですから、自分自身が主体になって、話を聞いているのです。まず、話を聞いて、知った。話を聞いて知るというのは、ああそうかということかと、頭で知るのです。

例えば、人間は自分で生きているのではない。神に生かされているのだという話を聞きますと、「そうか、生かされているのか。自分で生きているのではないのか」と思う。そういうことが分かる。これが知ることです。

今まで生きていると思っていたが、自分が生きているのではない。生かされているのである。自分で空気を造っているのではないし、水を造っているのでもない。商売人がいくら商品を売ろうと思っても、お客さんがいなければ売れるはすがない。そのように、対人関係というのは、自分だけでできているのではありません。人間関係がなければ、生きることが成立しないのです。

こういうことを経験しているのですが、何となく自分が生きていると勝手に思っている。ところが、そうではない、生かされているのだという話を聞きますと、なるほどそうか、生かされているのかということが分かるのです。これが知るという段階です。頭で知るのです。

悟るというのは、もう少し上の段階になるのです。何かをしている時に、ほっと悟らされるのです。生かされているという事実を悟らされるのです。なるほど、自分は生かされているのだということが分かるのです。

例えば、車を運転している時に、生かされているという話を聞いた人は、はっと分かるのです。自分が運転していると思っていたが、自分が運転しているのではない。前の車の後を走っているし、後の車の後ろにも車が続いている。全体の流れに従って動いていますし、赤信号になれば、自然にブレーキを踏んでいる。そうしますと、運転しているのではなくて、運転させられているのだということが分かるのです。

車の運転でさえもそうなっているということが分かりますと、全世界の人間が暮らしていることも、車を運転していることと同じだということが分かるのです。

なるほど自分が生きているのではない。生かされているのだということが、納得できるのです。これが悟るということです。

知るということは、理屈が頭で分かったということです。悟るというのは、理屈の意味が本当に分かったことです。最低限度、悟る所までいかなければ、聖書を勉強している値打ちがありません。知る段階だけではだめです。

ところが、知るにしても、悟るにしても、本人が知ったのです。本人が悟ったのです。両方共、本人がしっかり生きているのです。本人が知ったと思っており、本人が悟ったと思っているのです。この段階でも、神に生かされているという実感がありますから、それで十分に分かったと思うのです。

ところが、これはまだ信じてはいないのです。御霊を受けるというのは、悟る段階くらいのものです。神は哀れみにより、聖書の言葉を命として与えて下さったのです。私たちは、神の内に生き、動いているという言葉があります。なるほど、自分は神の内に生き、動き、存在しているのだと考える。なるほどそうだと悟った。この程度で御霊を受けたということになるのです。

聖書の言が、本当に自分のものになったような感じがした時に、御霊を受けたことになるのです。聖書の言が自分が生かされている命であるような実感がした時に、聖書の言を受けたことになるのです。言を受けたことは、御霊の言を受けたことになるのです。しかし、これはまだ本当に信じてはいないのです。その証拠に、やはり御霊を受けた自分がいるのです。

神を信じるということは、神と一つになることです。「神を信じ、また、私を信じなさい」とイエスが言っています。イエスが神を信じていた信じ方を、私たちもしなさいとイエスが言っているのです。

イエスがどんな信じ方をしていたのかと言いますと、「私は父におり、父が私にいる」と言っていました。「父と私は一つである。私を信じる人は、私がしている業をする。私よりもっと大きい業をする」と言っているのです。

イエスを信じるというのは、イエスの業をすることです。自分がイエスを信じていたのでは、そんなことはできません。自分がイエスを信じていただけであって、イエスそのものではありません。従って、イエスの業を行うことはできません。

「私を信じる者は、私がしている業をするのだ」という言い方を見ますと、イエスを信じる時に、その人は消えてしまっているのです。イエスそのものに同化しているのです。同化しているから、イエスの業ができるのです。この段階を信じるというのです。「私と父が一つであるように、あなたがたも私にいなさい」とイエスは言っています。これは皆一つとなるためであると言っている。これが信仰です。

Aの人間の考え、Bの人間の考え、Cの人間の考えがあってはいけないのです。皆様全員が一つの考え、一つの標準になって、進んでいくのです。個々の人間がいたのではいけないのです。

これは、仏教で悟りを開いたというのとは違います。仏教で百人が悟りを開くと、百人百様の悟りを開いているのです。従って、Aの悟りはBの悟りとは違うのです。また、Cの悟りとも違います。悟りには皆それぞれのあり方があるのです。百人百様の悟りがあると鈴木大拙が言っているのです。悟りというのは絶対主観ですから、その人の悟りが良いとか悪いとかを、他人がとやかく言うべきではないと言っているのです。

悟った人は、悟った本人が生きているのです。人間が悟っているのです。今の仏教はこの程度のものです。これ以上のものではありません。

般若心経で言っている悟りは、鈴木大拙が言っているような悟りではありません。主観論ではない、絶対客観的なものです。阿耨多羅三藐三菩提、究竟涅槃という言葉は、本人が消えているのです。阿耨多羅三藐三菩提になりますと、三世諸仏になってしまいます。諸仏というものは、仏になってしまうのです。これが成仏です。

釈迦という男が悟りを開いた。その時に、彼は観自在菩薩になったのです。そこで、般若心経では、「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄」と言っているのです。釈尊という人間が、観自在になったのです。人間が変わっているのです。ゴータマ・シッタルダーが悟ったのではない。観自在菩薩が悟ったのです。そして、阿弥陀如来になったのです。阿弥陀とは限りがないということです。何の限りがないのかと言いますと、人間の命に限りがないのです。人間の知恵に限りがないのです。

人間存在は、命と知恵によってできているのです。無限の命を無量寿と言います。大無量寿経というお経がありまして、これは永遠の命のことを書いているのです。

無量光と言うのは、無量の光です。これは知恵のことです。阿弥陀如来は何を悟ったのかと言いますと、無量寿、無量光を悟ったのです。人間の無限とは何かを悟ったのです。阿弥陀如来はいないのですが、悟った内容を阿弥陀というのです。如来というのは、本当の真実の姿です。これはなくならないのです。現前はなくならない。永久になくならないのです。永遠とは瞬間のことです。永遠と瞬間は同じです。

真実如常です。真実はいつまでも変わらない。同じような状態でいつでも続いているのです。本当の姿を見た人は、真如から現われてきたような人間です。初めから来たので、如来となるのです。

人間が永遠の生命の実体を悟ると、その人は真実から来た人と同じになるのです。そこで、阿弥陀如来となるのです。人間が本当に悟りを開きますと、自分がいないことが本当に分かるのです。世界もないし、自分もないのです。諸行無常、涅槃寂静が分かりますと、何もないことが分かるのです。

般若心経の悟りは本当のことですが、神の約束がありませんので、悟って自分がなくなった所まではいいのですが、それでは今生きている自分は何かと言われると、返事ができないのです。私はいないと言いますが、いないと言っても、今そこにいるではないか。それは何かと言われると、無としか言い様がないのです。

お腹が空いたら食事をしますが、食事をしようとしているのは誰かと言われると、返事ができないのです。聖書は約束があるから分かるのです。人間がなくなっても人間の本体がある。これがイエスです。これが分かるのです。

これが真実、真如から来た人間です。阿弥陀如来の悟りは本当の悟りですが、まだ信仰までは行っていないのです。阿弥陀如来でさえ信仰が分からないのです。

信仰とはどういうことかと言いますと、神と全く一つになってしまうことです。神の中へ入り込んでしまうのです。そうすると、死ななくなるのです。神の中に入り込むと、自分が消えて死ななくなるのです。死ななくなるということがしみじみ分かりますと、有難いのです。死ななくなると気持ちが大きくなるのです。

自分が自分ではなくなり、神の経綸の中、神の約束の中へ溶けてしまうのです。約束と自分とが一つになってしまうのです。そうすると、死なないのです。死にようがないのです。これが救いです。これが信仰です。

このことは阿弥陀さんも知らないのです。阿弥陀さんは悟りはしています。上等の悟りですが、信仰までは行っていないのです。阿弥陀さん自身が信仰まで行っていないのです。

信仰とは何かと言いますと、神の約束です。イエス・キリストのことを信仰と言います。約束と言っても、経綸と言っても、信仰と言っても同じことです。それと一つになってしまうのです。そうすると、初めて死なない自分が分かるのです。自分が消えてしまうからです。「私が父におり、父が私にいる。私が父と交わっている」。これが信仰です。

知ること、悟ること、信じることの三つの段階がありますが、知ることと、悟ることと、信じることは皆違うのです。思想として神に生かされているという人は、たくさんいます。思想的に知っているのは、知っている段階です。まだ悟っていないのです。遠藤周作氏は思想として知っている段階でした。彼は普通のキリスト教の観念が嫌いでした。そうかといって、カトリックをやめる事もできない。カトリックの信者でありながら、カトリックの神父さんのいうことに感心できなかったのです。

そこで何となく理屈を並べてみたのです。自分のカトリック信仰が間違っていることを、何となく知っているのです。知っているから理屈を言いたくなるのです。それなら、自分が神を分かっているのかと言いますと、分かっていない。そこで、作り話、作りイエスを盛んに書いたのです。彼はキリスト教には頭を下げなかった。しかし、本当のイエスが分からないので、自分の頭で考えた作りもののイエスを小説として書いたのです。だから、神に生かされているという理屈をいうのです。しかしまだ、生かされているとはどういう事かを悟っていないのです。知る段階です。

悟っているというのも、やはり自分が悟っているのです。ところが、聖書の言葉をよく見ると、自分が考えている事とは違うのです。

パウロは次のように言っています。

「しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。そして、それを神は、御霊によって私たちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまできわめるからである」(コリント人への第一の手紙2・9、10)。

目がまだ見ず、耳がまだ聞かずとはどういうことかと言いますと、人間の目は形を見ていますが、形とは何かと言いますと、創世記に「初めに神が天と地を造った」と書いています(1・1)。

天というのは霊なる場のことです。地は肉なる場です。霊なる場と肉なる場の二つの場を、まず神が造られたのです。これは天地創造の以前のことです。万物創造の前に、まず天という場と地という場の二つの場を造られたのです。

初めに神が天と地を造りたまえりというのは、天地を一つにして造ったのとは違うのです。初めに神が、天と地の別々のものを造ったのです。英訳では、天と地とを造ったとはっきり書いているのです。天というのは霊なる場、地というのは肉なる場です。この二つのものを、神は御心のうちに創造されたのです。それがやがて現象世界として現われたのです。そこで、現象世界の中に、天という場と、地という場が一度に現われているのです。

人間がいるとして、そこに天という場と、地という場があるのです。地球にも、天なる地球と地なる地球と二つあるのです。人間は地なる地球を見ているのです。山が見えるとしますと、そこに天なる山と地なる山があるのです。初めに神が天と地を造った。それを万物において現わしたのです。

神は万物を造ったのではありません。天と地とを造って、それを万物で現わしただけのことです。そこで、森羅万象を現象というのです。現象というのは、現われている形です。現われている形において、天なるものと、地なるものとが、同時に現われているのです。

例えば、目の前に花があるとしますと、その花には天なる面と地なる面と、二つの面があるのです。人間が花を見ている時には、花の美しさを見ているのです。美しさというのは天です。それを科学では説明できないのです。自然科学で捉えることができるものを地というのです。自然科学で捉えられないものを天というのです。

花が美しいから見るのであって、自然科学で捉えられるような花を見ているのではありません。自然科学の対称となる花というのは、生物学者が見るだけであって、人間は天である花を見ているのです。きれいだから見るのです。香りがいいから見るのです。きれいとか、良い匂いというのは天です。地ではないのです。

ところが、人々は五分咲きとか、七分咲き、満開だと言っている。これは地の方を見ているのです。人間の目は天を見ているのに、心理状態が肉ですから、それを言い現わすと、地を見ているように言い現わすのです。

人間は天と地の二つのものを、同時に見ているのです。天と地を一度に見ているのですが、意識しているのは地の方だけです。肉の思いで見ているからです。肉の思いで花を見ると、色とか形だけが見えるのです。心は花がきれいだから見ているのですが、人間の意識は花の大きさとか形、七分咲きとか、満開とか言っているのです。

人間の思いは、本当のものを見ていないのです。そこで人間はまだ見ないと言っているのです。まだ見ていないというのは、人間の目はいつでも肉だけを見ているということです。耳で聞いていることもそうです。

聖書をよく勉強している人でも、初めに神が天と地を造ったということを知らないのです。読んではいますが知らないのです。全世界の十数億人のキリスト教徒が誰も知らないのです。

神が天と地を造って、すべてのものにそれを現わしている。山がありますと、そこに天の山と地の山が現われている。山は山に決まっている。そこに天なんかあるはずがないというでしょう。なぜ山を見たいと思うのか。山の景色を見たいのです。景色とは何か。霊なるもの、天なるものです。景色は自然科学の対象にはならないのです。

自然科学は原則の形式を示すことはできますが、存在している実物の内容を示すことはできないのです。原則的な形式を、自然科学の角度から考えた形式で示すことができるのです。

自然科学が考えた形式は、非常に間口が狭いものです。ある一定の法則に従って、それを認識するだけのことです。一定の法則に従わなければ、自然科学は成立しないのです。自然科学が考えた一定の方式というのは、ごく狭い範囲においてだけ通用するものです。ほとんど大部分は、自然科学の形式から外れたものばかりです。科学の概念で考えるものは、一つのアイデアでありまして、その正当性が全然ないとは言えませんが、極めて小さいものです。

理論物理になりますと、あらゆる面に当てはまりますけれど、現象は物理どおりには現われていないのです。物理の一部が現われているのです。

人間が見ているのは山ではなくて、山の景色を見ているのです。ところが、人間の意識は山を見ているのです。未だ見ていないというのは、山を通して天を示しているのに、その天を全く見ていないということです。耳未だ聞かずというのは、音を通して天と地の両方を現わしているのに、天の方は全然聞いていないということです。地の方だけを聞いているのです。霊なる音を全然理解していないのです。

神は天と地を現わすために、万物を造ったのですが、その正体が全く分かっていない。そこで信じることができないのです。人の心に思い浮かびもしなかったこととは何か。人間は肉の思い(常識)で見ていますから、人間の心に思い浮かぶことは皆肉ばかりです。天のことは思い浮かばないのです。

これはどういう訳か、全く不可解です。地球には生命が溢れています。生き物が一杯つまっています。地球全体が大きい生物です。大ざっぱな言い方をしますと、神の約束、神の計画全体が満ちあふれた太陽系は、エデンというべき存在です。人間がおかれたのは、エデンの中の園です。地球はエデンの中の天です。

エデンは計画の全体ですが、太陽系というものは、神の計画の中に入っているのです。これはノアの洪水の記事によって現われています。地球以外の日、月、星もエデンの中に含まれているのです。例えば、神は陽のためにあげばり(参謀本部)を設けたと書いていますが、太陽や月、その惑星がエデンで、地球はパラダイスです。

罪を犯す前のアダムは、それを見ていたのです。神と話をしていた。エデンのパラダイスにいたから、神と話をしていたのです。ところが、アダムが罪を犯したので追放された。これは肉体的に追放されたという意味もありますが、意識が追放されたのです。人間の意識感覚が追放されたのです。

霊の思いを取り上げられて、肉の思いを与えられた。肉の思いでなければ生きていけないような感覚を与えられた。与えられた原因は、人間がそうしてしまったからです。自分で肉の思いを持ってしまったのです。霊の思いでエデンの園に生きていくことができなくなった。そこで、エデンの園から追い出されたのです。

人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は自分を愛する者たちに備えられたとあります。人の心に思い浮かびもしなかったことは、人間の頭で考えても、分かるはずがないのです。一度でも経験したことなら、考えたら分かるのです。経験もしないし、想像もできないことを考えても分かるはずがないのです。そこで、十節に書いてあることが必要です。

「神はそれを御霊によって啓示して下さった」とあります。御霊はすべてのものを極め、神のふかみまで極めるとあります。神の御霊が人間の霊に反応を与えて下さる。影響を与えて下さると、人間の霊の目が開くのです。そして、神の計画、エデンのパラダイスが分かるのです。

これが仏教にはありません。聖書以外のどんな宗教にもありません。聖書を信じていても、ユダヤ人のようにモーセの掟に凝り固まっている者は、絶対に分かりません。神の御霊によって教えられていないから分からないのです。この地球がエデンの園だと言っても、何のことか皆目分からないのです。

人間の心に思い浮かびもしなかったことが、本当の神の福音です。暗きはそれを悟らなかったとあるとおりです。神はイエス・キリストを十字架につけたことによって、何をしたのか。すばらしい事をして下さったのです。罪人である人間が死んでしまったのです。今生きているのは、神の御子としての私だけです。罪人の私には、何の関係もないのです。だから、死ななくてもいいのです。

言い損ない、聞き損ない、やり損ないがあっても、悪かったと言って謝れば、すぐに許してもらえるのです。光の内を歩めばいいのです。神と一つにならないから分からないのです。神と一つになれば、すぐに分かるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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