現代人に一番分からないことは、あるということです。存在ということが分からないのです。実存と本当に言えるものが何なのか、分からないのです。
それは最も簡単な問題であるはずですが、現代人には全く分からないのです。だから、ナチュラルに生きようと考えても、実存が分からないために、本当のナチュラルが分からないのです。
あるということが神です。父なる神が頭に浮かんでくるようでなかったら、ナチュラルになろうと思ってもなれないのです。イエスが、「隠れた所においでになるあなたの父」(マタイによる福音書6・6)と言っていますが、これは霊なる父という意味です。霊なるというのは、人が生きていることに隠れているのです。皆様が生きているという事実に、隠れているのが神です。
私が話ができるという事実が、隠れている神です。隠れている父がいなければ、私が話ができるはずがないのです。隠れた父がいなければ、皆様がいるはずがないのです。皆様がいるということが、不思議です。これが現代人に分からないのです。現代人は、本当の意味でのナチュラルということが、理解できないのです。ナチュラルという言葉は知っていますが、その実体を理解することができないのです。
現在の人間は、人間的な合理主義は分かりますが、本当の合理主義は分かりません。本当の合理主義というのは、人間の命を尊ぶという原理がなければならないのです。現在の人間の合理主義は、命を尊ぶということが分かっていないようです。現代人は、人間の合理性が何処から来ているのかが、理解できていません。これが人間から出ている場合は、地獄へ行く合理主義です。本当の合理主義というのは、神を踏まえていなければ成立しないのです。霊理を踏まえて、初めて本当の合理主義が成立するのです。
現代人は、白人主義の合理主義を尊んでいます。フランス革命における合理主義を尊んでいるのであって、これが人権主義になっているのです。人権主義に基づく合理主義は、人間の考えに基づく合理主義であって、本当の合理主義ではありません。本当の合理主義というのは、人間の合理主義に基づかないものです。人間以上の合理主義です。人間を生かしている原理に基づいて合理主義が発生することが、本当の合理主義です。この合理主義は、フランス革命によって、消えてしまっているのです。
現世の人間が造りあげた合理主義は、間違っています。人間の命の本質を考えない合理主義だからです。あるというのは、人間が生きていることの実体です。これに基づく合理主義でなければいけないのです。または、霊理に基づく合理主義でなかったらだめです。
白人主義の合理主義はだめです。間違っています。今の法律主義もだめです。人間が生きているということ、命が人間の合理主義の基礎にならなければならないのです。命を基本にしないで、利害得失だけを基礎にして理屈をいうと、すべてマルクス的になるのです。人間が造った理屈におぼれないで、人間が生きているという、命を踏まえた理屈が、本当の理屈です。
あるとは何か。物がある。地球がある。山があり、川があり、海があるのです。地球があることを現代人は不思議に思いません。これが最も悪いことです。人間の命があることが、神です。これを認識しようとしないで、ただその人が生きている状態の端々だけを捉えて、その人を批評しようとする。そういう考え方が現代人の民主主義の考えです。これがユダヤ主義です。間違った考え方です。
人間が生きているのはなぜか。男が男であること、女が女であるのはどういうことか。やがて地球は滅びます。そうすると、男もない、女もない世界になってしまうのです。聖書に基づけば、大体七千年位、人間の文明はこの地球に存在します。現在は、もう六千年経過しました。あと千年も過ぎれば、人間文明は消滅してしまうでしょう。そうすると、男も女も消えてしまいます。人間の歴史は、根本から無くなってしまうでしょう。
一体、六千年の間、人間は地球で何をしていたのか。そういう考え方が理解できる日本人はいません。そういう雄大な思想を持っている日本人はいないのです。
地球上に人間が住めるのは、大体七千年位です。もう六千年経過しました。あと千年です。しかし、後の千年は、今までの千年とは違った、驚くべき文明になるでしょう。聖書はこれを、千年王国、キリスト王国と言っています。あらゆる犯罪、災害がない、驚くべき絶対平和、黄金の平和が実現するのです。
皆様は現在、キリスト紀元に生きておいでになります。西暦紀元というのは、キリスト紀元です。キリスト紀元というのは、キリストが復活したので、人間が死ぬべきものではないということが、明々白々になった紀元です。そこで、キリストを歴年算定の基準にして、人間の歴史を編纂することになったのです。
キリスト紀元に生きている人は、信じても信じなくても、キリストの復活において生きているのです。キリストの復活がなかったら、西暦紀元は実在しているはずがないのです。そのように、西暦紀元に生きているということは、現世における人間文明を否定するようなあり方で生きている。これがあるということなのです。
現在、人間の歴史があるということは、キリストの復活を踏まえているのです。人間が死なないものであるということを原理にして、歴史が展開しているはずです。
ところが、人間はやはり死んでいくと思っている。人間全体のあり方が、ナチュラルではないからです。人間は死なないのです。イエス・キリストが復活したということは、皆様方が死なないものであることを、証明しているのです。
「神はイエス・キリストを復活させて、人々に新しい命を提供した」と、はっきり書いているのです(ペテロの第一の手紙1・3)。ところが、皆様は死ななければならないとお考えになっています。そういう考え方が、ナチュラルではないのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)