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  • 管理人chaya

狡猾


ユダヤ人が聖書を曲解したということは、人間歴史に決定的な影響を与えてしまったのです。聖書はモーセが間違えたほど難しいものです。しかし、私たちはどうしても聖書を正しく理解しなければいけないのです。

やる気がない人はできないでしょう。皆様ははっきり言いますと、男の人は身の程を知らないのです。女の人は自分の本性を知らないのです。こういう人は、たとえやる気があってもだめです。

皆様は狡猾です。へび(悪魔)の狡さが分かっていないからだめです。女は本来あるべき骨の骨を悟っていないので、現世の女になってしまっている。現世の男に従っていたら、絶対にだめです。男は狡いからです。

聖書に次のようにあります。

「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびがもっとも狡猾であった」(創世記3・1)。

野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であったとありますから、野の生き物全体が狡猾であって、その中でへびが最も狡猾だったと言っているのです。これはどういうことでしょうか。これが分からなければ、自分の正体は分からないのです。

あなたがたは自分で聖書を知ろうとしていない。これがいけないのです。「自分でやる気がない者は教えなくてもいい」と聖書にあります。「豚に真珠を与えるな」とイエスが言っているのです。

野の生き物は狡かったのです。野の獣は狡猾だったのです。その中でへびが最も狡猾だったのです。野の獣が狡猾であるとはどういうことか。

聖書は世界の歴史の根本原理を書いているのです。人間が歴史的な条件をふまえて、冷静に、平明に、綿密に考えたら、聖書は決して分からないものではないのです。

「一人の人から、一つの血から、すべての人を造り出して、地の全面に住まわせて、それぞれに時代を区分して、国土の境界を定めて下さった。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見出させるようにして下さった」とパウロが言っています(使徒行伝17・26、27)。

聖書をまっすぐに読もうとしないから、神が信じられないのです。神が造った野性動物は、狡い生き方をしています。その中でへびが最も狡いのです。これは人間の本性で、冷静に、平明に、綿密に自分の本性を見れば分かるのです。

男なら知っているはずです。女は骨の骨になればいいのです。女はハート的な責任はありますが、マインド(精神)の責任はないのです。男はマインドの責任を負わなければならない。マインドの責任を負っている人なら分かるはずです。女は女の本性を全うすればいいのですが、その前に、女の上に立っている男が本性を全うすべきです。

創世記三章の一節が分かれば、二節、三節が分かるのです。

人間の原罪は何であるのか。人間の基本的な間違いはどこにあるのかということです。野の生き物の中で、へびが最も狡猾であると、聖書は断定しているのです。狡猾という言葉は何を意味するのかということです。造られた野の獣全体が、狡猾だと言っているのですが、これは般若心経が分かれば理解できるのです。野の獣は植物とは違っています。植物は自ら動き回ることはできませんけれど、獣は自由に動き回ることができる。命を自分のものだと思っている所があるのです。

聖書は自分が生かされているという状態をじっと見つめれば、分かるようにできているのです。ユダヤ人もキリスト教徒も、人間が生きている状態、その原形、原点を見ようとしないから、分からないのです。

人間は生きているという事実を与えられていますから、生きているという事実を冷静に、平明に考えれば、当たらずも遠からずという解答を与えられるのです。当たっていなくても、大体正しいという方向が分かってそのように生活していると、本当のことがやがて教えられるのです。

アスク(ask)していれば、五割か六割くらい分かるはずです。後の五割か四割は、御霊が助けて、教えて下さるのです。

人間の責任については、次のように書いています。

「我々のかたちに、我々にかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記1・26)。創世記の三章一節と一章二十六節を参照すると分かるのです。

今までの欧米人も、ユダヤ人も、人間の責任を自覚しようとしていません。特にユダヤ人はそうです。これは許しがたいことです。私は若い時から、人間はどこか間違っているのではないかと思ってきました。その証拠に、子が親になって死んでいく。人間は皆、死んでいく。死んでいくのが当たり前だと思っている。こんなばかなことがあっていいのかと思ったのです。

こんなばかなことがあっていいのかという疑問を持った時に、狡猾を見ていたのです。人間について、人生について、深い深い疑問を持たない人には、神は教えないでしょう。アスクしない人に、神は答えられないからです。

驚くべきことですが、千年間の絶対平和の時代、千年王国が実現しますと、野の獣の狡猾が消えてしまうのです。ライオンの口に手を入れても噛まないし、毒へびでも噛まないのです。そういう驚くべき時代が到来するのです。

私たち日本人が目覚めて真実に気がつけば、ユダヤ人が目を覚ます時が来るでしょう。日本から出る生ける神の印を持つグループが本気にならなければ、ユダヤ人は目を覚まさないでしょう。

生ける神の印を持つ東方の天使が本当に立ち上がれば、イスラエルに十四万四千の額に、生ける神の印を押すことができるのです。これは聖書にはっきり書いています。神の預言に間違いはないのです(ヨハネの黙示録7・2)。

なぜ額に印を押すか。額に生ける神の印を押すと、どうなるのか。皆様がきちっと神の御心に適う者になることを、神が待っているのです。そうなれば、神は必ずイスラエルを動かすからです。

聖書にこの預言が書かれています。

「見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人ではなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、私があなたを愛していることを、彼らに知らせよう」(同3・9)。これは神の預言ですから、必ず実現するに違いないのです。

皆様はあらゆる人間が考えなかった未知の世界、あらゆる人間が踏み込むことができなかった宇宙の聖域、神の神殿である宇宙の秘密に、どんどん入っていかなければならないのです。森羅万象がことごとく聖です。この中へ踏み込んでいくのです。人間が見ている森羅万象ではなくて、神が見ている森羅万象が見えなかったらだめです。

皆様は神の相談役になって仕事をしなければならない人材ですから、天才以下ではだめです。自分を全部捨ててしまえば、天才になれるのです。自分を捨てなければ絶対にだめです。

私たちのあり方と、世界の文明の流れとは、大きな関係があるのです。こういう点をもっともっとしっかり自覚しなければならないのです。

パウロは、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走る」(ピリピ人への手紙3・13、14)と言っていますが、これを実行するのです。私たちが神の使い者になれるかどうかです。これが大問題です。自分の気持ちはどうでもいいのです。私たちが完成すれば、歴史が変わるに決まっています。そういう責任を自覚しなければいけないのです。

東方の天使が、ヨハネの黙示録の七章二節に書かれているような実力を持たなければならないのです。実力を持てば神の経綸は進むのです。人間は海の魚、空の鳥、家畜、野の獣、地に這うすべての生き物を治めなければいけない。治められない者は携挙されないでしょう。

五種類の生き物をどうして治めるのか。自分の中に、海の魚、空の鳥、家畜、野の獣、地に這うすべての生き物がいるのです。五種類の生き物の命が、人間の中に全部いるのです。いるから治めることができるのです。皆様の中にへびがいるのです。いるからエバはへびの声を聞いたのです。野の獣は神が造ったものですから、狡猾の意味が分からなければならないのです。狡猾は神の性格の一部と考えられるのです。

私たちは前人未到の世界へ入らなければならない。入ろうとすれば入れるのですから、世間並の人間が考えられないような考え方を、いつでも念頭に置いていなければならないのです。

海の魚、空の鳥、家畜、野の獣、地に這うすべての生き物の五種類の命は、人間の中にあるのです。命には五種類あるのです。五種類の命があることを承知して、神は人間を造っているのです。人間はこの五種類の命を治めることができのです。五種類の命を持っているからです。治めることができる人間が携挙されるのです。

五種類の命を治めることができる者を、人と呼んでいるのです。これ以外の者は悪魔の子です。治めることができないのに、人間面をしている者は、皆悪魔の子です。五種類の命を治めることを自覚している者、今はできないとしても、治めなければならないという責任を自覚している者を、人間と呼んでいるのです。

神は自分のかたちのように人を造った。何のために人を造ったのかと言いますと、五つの命を治めるためです。この責任を自覚しない人は、悪魔の子です。もし皆様が人でありたいと思うなら、自分の中にある五つの命の説明ができなければいけないのです。海の魚の命はこれだ、空の鳥の命はこれだ、野の獣の命、家畜の命、地に這うものの命はこれだと言えなければいけないのです。

創世記の三章一節は陥罪以前の記事です。陥罪以前において、既に野の獣は狡猾だと言っている。蛇が最も狡猾だと言っている。これは一章二節に関係しているのです。

「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」とあります。闇が淵のおもてにあったので、狡猾な生き物が造られたのです。野のすべての生き物が狡猾であったということが、淵の現象です。これを自滅させるために、神の霊が水のおもてを動かしたのです。一章二節が前提条件としてあったので、狡猾な野の獣の生き物ができたのです。

そこで、狡猾である野の獣を、人間が治めなければならないのです。これをするためには、アダム一人ではできない。そこで、エバという助け手が造られたのです。ところが女が本当の女になっていない。女がどういう姿勢でいたら、本当の女になれるのか。女は男の中へ入らなければいけない。入ろうとすれば入れるのです。女はこういうことを勉強しなければいけないのです。女はこの世で、たった一人で生きていたらだめです。家庭がある、主婦であると言っても、それだけでは火の池へ行くしかないのです。

人間は人間としての責任があります。命を持っている者は、責任があるのです。その責任を自覚した者だけが、神の元に帰るということが実現するのです。神の元に帰るということが実現しなければ、人間は生きていても仕方がないのです。

野の獣は、陥罪以前に狡猾であったのです。ところが、人間はへびの言葉に騙されて、自ら狡猾の虜になってしまった。現在、皆様が生きている意識は獣の意識と同じです。狡猾になってしまったのです。皆様は現在、罪の下に売られた状態で生きています。罪の下に売られたのですから、三章一節の狡猾という命を、十分に理解しているはずです。ですから、自分の中にある命を調べたら、三章一節の説明ができるはずです。

すでに、陥罪以前において、狡猾とは何かを示していたのです。人間が陥罪したということは、狡猾を経験すること、はっきり経験する道を自ら選んでしまったことを示しているのです。

陥罪以前のアダムはぼんやりしていて、狡猾という事実を知らなかったのです。創世記の三章、四章になると、狡猾を十分に知るようになった。狡猾すぎるくらいになってしまったのです。そうすると、現在の人間はどれくらい狡猾なのか。へびの権化になってしまった。へびの方で教えてくれというくらいに狡猾になったのです。

狡猾とは一体何か。狡猾という意味は、神に生かされていながら、いつもびくびく、戦々恐々として生きている状態をいうのです。なぜ、おどおど、戦々恐々として生きているのか。命が自分のものであると思っているからです。これが狡猾の正体です。人間も獣も、動物も、皆戦々恐々として生きているのです。

野の獣は自分の命がないのに、自分の命があるように心得て、自分の命を守ることに、戦々恐々としているのです。もし本当に自分の命があって、自分の餌を探す力があって、自分で命を保つだけの力量があるのなら、狡猾とは言えないのです。太陽光線も、空気も水も、食物も全部自分の力で造っているのなら、狡猾とは言えないのです。

狡猾というのは神の命を横取りして、それを自分の命のように勝手に使っていることです。神に養われていると考えない。野の獣は神の命を盗んでいるのです。人間も、収入の十分の一を神に献金しないで生きている者は、神のものを盗んでいるのです。これは聖書にはっきり書いているのです。

神のものを盗んでいながら、平気で生きている。これが間違っているのです。野の獣は神のものを盗んでいることに対して、まだ遠慮をしていますけれど、人間は平気でいます。そういうていたらくです。神に生かされていながら、自分が生きていると思う。自分の命を自分で守らなければならないと思う。神の知恵、神の力を、自分の知恵、自分の力のように考えて、神の知恵、神の力を占領しているのです。そうして、わがもの顔をしている。だから、狡猾としか言い様がないのです。

皆様はその悪さを持っているのです。野の獣と同じ癖を持っているのですから、なかなか神の羊になることができないのです。ましてや、神の羊に教えることはできないのです。神の羊であるイスラエルに福音を説くのでしたら、皆様自身が神の羊にならなければいけないのです。

人間は五つの命を治めるために、この世に生まれてきたのです。ところが、人間の命も分からず、自分の生活でさえも霊に切り替えられないのは、しょうがないのです。自分自身でさえも治めることができない。こんなものは火の池に行くしかないのです。

神は人間の中にある命を治めよと言っています。まず、自分の中に、五種類の命がどのように存在しているのかということを、知らなければいけない。海の魚の命はこのようにしてある。空の鳥はこのようにしてある。家畜の命は、野の獣、地に這うものの命は、このようにあるということを確認して治めるのです。

治めるためには、五種類の命よりもっと高いものを持っていなければならない。これが生ける神の子です。人の子と神が呼んでいるのは、五つの命を治める第六の命です。第六の命をはっきり自覚している者、これがナザレのイエスです。この命を持たなければいけないのです。

聖書は神の言をそのまま記録しているのであって、理解の仕方は、私たちのありてある状態を一切の注解を入れないで、自分の思想を加えないで、聖書の言をあるがままに認識するのでなければいけないのです。これが聖書の絶対性を受け入れることです。神の言をそのまま理解する。理解できないのは、自分自身の思いの中に、神の命に抵抗する思いがわだかまっているからです。

「イエスの証は預言の霊である」とあります(ヨハネの黙示録19・10)。イエスの証は神と共にある証です。神と一緒に生きている証です。イエスの証をすれば、自ら預言の霊になるのです。人間の思想がイエスの中に働いていないからです。

断片的にでもイエスの証をすれば、その中に自分の思想は入っていません。イエスは四十日、四十夜荒野にいて、獣と一緒にいたとありますが、イエスは獣と一緒にいたのです。イエスの中に獣がいたのです。私たちの中にも獣がいるのです。

そのように、人間の注解を加えないで、聖書の言をそのままに捉えていく。これが聖書の読み方です。そうすると、五つの命を完全に治めることができるような、完成された人格性を持つことができるのです。

これが神が望んでいる人格完成、人間完成であって、この人間完成のテストに合格しない者は、悪魔のケースに入れられるのです。これは、世の基をおかぬ前に、神に選ばれていた人しかできません。その人しか神の要求に応じることができないのです。自分の人生、自分の命を神のものとして用いること、これができない人は、キリストの内に選ばれている人とは言えないのです。

イエス自身も、すべての人が救われるのではないと言っています。パウロもそう言っています。もし皆様がキリストの内に選ばれていた霊魂であるなら、今ここに、肉体的に生きているという事実がないということが分かるはずです。未生以前、天地創造以前の命が、今あるからです。

五種類の命が、どのように人の中にあるのか。人間の本質はマインド(精神)であって、神の本質はwillですが、言なる神(word)、御霊の神(work)の三つがあるのです。これが三位一体の神です。willとwordとworkの三つのWが総合的に働くと、必然的にマインドの原形が現われるのです。これがちりです。三位一体の神が一つになって働くと、マインドのような原形が現われる。その投影が人間です。ちりの他にマインドはない。マインドの他にちりはないのです。

神が人間の鼻に命の息を吹き入れた。そこで、人間が生ける者になった。リビング・ソールとなったのです。これは機能的に言えば、宇宙唯一のマインドになったということです。

三位一体の神を総合的に認識する精神機能がマインドです。命の息を吹き込まれたことによって、人格性が与えられたのです。この人格性に基づいてマインドが働きますと、神の子の働きができるのです。

マインドを用いる人格性が、マインドの働きを方向ずけできると、忘れたり、望んだりする自由性が与えられるのです。これが人間の特長です。これを利用すれば、五つの命を治められるのです。

人間の命は第六の命です。支配する命です。これが皆様の実体です。これを自覚することができて、自分の信仰によって自分のマインドを神の御心で用いる自由性を獲得した者だけが、神の元に帰ることができるのです。

海の魚は海の魚の思いしか持っていません。この思いが海の魚の命になっているのです。空の鳥の思いが空の鳥の命になっているのです。イエスが空の鳥を見よと言ったのは、空の鳥の思いをお前たちは持っている。それを発見しなさいと言っているのです。人間の中にある空の鳥の思いを発見すると、鳥の自由さが与えられるのです。海の魚の自由さ、野の獣の横暴さ、狡猾さが与えられるのです。

命が思いに翻訳される。思いを治めれば、命が治められるのです。この秘訣を獲得できたものだけが、人の子になるのです。人間ではなくて、人の子になるのです。人間と人の子の違いはここにあるのです。

人間は自我意識、現象感覚に閉じ込められています。だから、五つの命を自由に治めることができないのです。自我意識、現象感覚に閉じ込められたものが、肉の人間です。これが悪魔の子です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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