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  • 管理人chaya

裏と表


霊には、生霊と死霊とがあります。生霊とはしょうりょうと読みますが、現在生きている人間は生霊です。人間が生きているということが霊です。

「神はその人の内に住まわせた霊を、妬むほどに愛しておられる」(ヤコブへの手紙4・5)とありますが、人生というのは霊です。人間が生きていることが、そのまま霊です。これが生霊です。宇宙には生霊と死霊とがあるのです。生霊も死霊も、今ここにあるのです。

宇宙はただの空間ではありません。立体空間です。立体空間というのは、三次元、四次元という意味での空間ではありません。三次元、四次元は人間の概念による空間であって、平面空間です。肉の空間です。

霊の空間になりますと、空間の表です。空間の裏が現象世界です。空間には裏と表があるのです。水の表と水の裏があるように、神の前と神の後ろがあるように、すべて前と後ろ、裏と表があるのです。

ところが現在の人間は、肉でしか見ることができない。だから、裏だけしか見えないのです。今の人間の学問というのは、裏ばかりを見ているのです。裏というのは影のことです。実体ではないのです。般若心経でいう色です。色は影であって、人間は影の面だけを見ているのです。現象世界だけを見ているのです。これはすべて影であって、虚体です。実体は空です。空というのは、何もないことではありません。何もないどころか、大きなものがあるのです。

生きている人間は生霊です。死んだ人間は死霊です。これが実体です。生霊と死霊とは、宇宙に存在しているのです。生霊は宇宙の裏に存在している。宇宙の表には死霊がいるのです。死んだものは黄泉という形でいるのです。

黄泉というのは、宇宙の立体空間の中にある一つの場所です。宇宙空間の中にある霊的な場所です。アブラハムの懐がありますし、神の懐もあるのです。

生霊は宇宙の裏で現象的な形で生きている。艱難時代、山が崩れて自分の上に落ちてほしい、土の影に隠れて神の怒りの顔から隠れたいと思うとすれば、死霊は一体どんな刑罰を受けるのであろうかと言いたいのです。生霊でさえも刑罰を受けるとすれば、死霊はどんな刑罰を受けるのかと言っているのです。

生きているうちは、山が崩れて自分を覆ってくれと言えるのですが、山の底に隠れたというのは、神の怒りから逃れたということですが、生きている間は、「ああ主よ許したまえ、神よ、許したまえ」と言って泣くことくらいはできるのです。

今まで自分が何も知らずに、キリストが現在第三の天において祈っておいでになるということが、どれほどすばらしいことであるか知らなかったのです。キリストが第三の天において祈っておいでになればこそ、地球が今も回っているのです。人間が生活できるのです。太陽が輝いているのです。

こんな罪人に雨や太陽の光を与えているのです。神なんかあるもんかという人間にでさえも、神は三度の食事を与えているのです。罪人が大きな顔をして生きていられるというのは、第三の天においてキリストが祈っておられるからです。

このキリストの祈りが分からなかったばかりに、大きな顔をして生きていた。ああしまったと思うのです。神の怒りにふれて初めて、人間はびっくりするのです。目に物を見せられて、はらわたが口から飛び出すほど、びっくりするのです。ただ目を丸くして驚くぐらいではないのです。胃腸が口から出るくらいに驚くのです。そうして初めて、悪かった悪かったと言って、神を拝み奉るのですが、その時神は一切人間の願いを聞きたまわないのです。人間の祈りを一切聞かないのです。ただばか者たちと言われるだけです。一言さえも言わないかもしれない。

ただ山が崩れるだけです。黙って地球が神の手に握り潰されるだけです。だから、山に崩れてもらって、自分の顔を神の怒りから隠してほしいと願うだけです。神の怒りから自分を隠すくらいが関の山です。そういう惨烈な状態に人間は叩き込まれるのです。

人間が現世に今生きているのは、誠に不思議なことであって、唯物思想が大手を振ってまかり通るのです。物が実体だと考える。五、六人のゲリラが飛行機をハイジャックして、法律を破って数人の犯人を解放させることができるのです。一九七〇年三月三十一日に、共産主義者同盟赤軍派によって日本航空「よど号」がハイジャックされた。超法規的措置により、乗員、乗客はソウルで全員解放されて、犯人グループ九名は北朝鮮に亡命したという事件がありました。

これは何を意味するのかと言いますと、現世の政治、経済、社会全体の機構が本物ではないという証拠になるのです。もし現在の世の中が本物であったら、五人や六人の人間がハイジャックして、法律を無視した超法規的措置ができるはずがないのです。

今の日本の法律が本当に本物であったら、五、六人のゲリラによって法律が曲げられるはずがないのです。ところが、曲げられるのです。政府が人道主義の名において、曲げなければならないことになるのです。現在の世の中はそういうおかしなものです。これを人間は本当のものだと思って生きているのです。

邪魔者は殺せという言葉がありますが、それが実行できるのです。気に入らない者は殺そうということができるのです。そういうことが実行できるということが、自分自身の意志によって世の中の秩序をひん曲げることができるという事です。ということは、この世の中の秩序というものが、本質的に偽物だということです。

政治が空威張りしているということなのです。だから、理由がないのに戦争をするのです。理由がないのにクーデターが起きるのです。これがまかり通るのです。今の法律も社会秩序も、皆偽物なのです。世の中はそういうものなのです。いつ何時、何が起きるのか分からないのです。人間は皆、今の世の中が本物ではないことを、何となく知っているのです。

政治とは何でしょうか。日本の憲法とは何でしょうか。日本が法治国家であるということを、憲法で保証しています。法治国家というのは、法律が絶対であるということです。法律に従って国家が経営されることを明言しているのです。ところが、五、六人の人が銃で武装してハイジャックすると、法律が曲げられるのです。こういう世の中を本当に信用していいのかどうかです。

この世の中は、実は空っぽです。法律とか憲法とか軍隊とか言いますが、これは皆空っぽです。皆人間の芝居です。そうするとその裏に何かなければならないと思えるはずです。私たちが見ているのは、宇宙の裏です。宇宙の裏は影です。影ですから、でたらめな人が通るのです。宇宙の表は実体です。霊なる宇宙です。実体なる宇宙があるのです。これが神の国です。

神の国が表、この世は裏です。そこで、「神の国と神の義を求めよ」とイエスが言っているのです。神の国は宇宙の実体です。実質です。そこにはハイジャックは通用しません。ハイジャックできないのです。法律を曲げようとしてもできないのです。正しい者は正しいことが通用するのです。間違った者はどこまでも罰せられるのです。信賞必罰です。正直者ははっきり正直者として取り扱われますし、不正直な人は不正直として、徹底的に追求されるのです。こういう世の中がなければならないのです。

今の世の中はそうではないのです。現象世界は全部裏です。神の国は表です。そこで、裏表がはっきり採決される時が来るのです。今このようなでたらめな世の中では、神を踏みつけにして、世の中の法律も、道義も、人間性もなにもかも踏みつけて、悪逆非道、横車、横紙破りが通用するのです。そういうことが実行できるのです。しようと思えばできるのです。

ハイジャックをしている人も、食事をしているのです。神はそういう人間に、なぜ食事を与えるのでしょうか。そんな人間にどうして普通の生活ができるのでしょうか。空気を吸う権利がその人間にあるのかということです。

実はその人間は空気を吸う権利もないし、水を飲む権利もないのですが、今はあるのです。なぜなら、神の目から見ますと、天地を経綸する絶対者の目から見ますと、彼らは皆イエスに見えるのです。ハイジャックをした人間がイエスに見えるのです。テロリストがイエスに見えるのです。

これは奇妙なことですが、十字架は神自身が一人子によってお立てになった大法則であって、神自らこれを破ることはできないのです。神はどこまでも徹底的に紳士です。神はどこまでも神です。神は神なるが故に、ご自身が一人子によってお立てになった十字架の原則を破ることはできません。彼を第三の天にあげて、ご自分の右に座しめたこの御心を、神は曲げることはできないのです。

イエスが「父よ、彼らを許したまえ」と言えば、これは絶対です。このイエス・キリストの祈りに支えられて、今の人間は全部生きていられるのです。どんなに悪くても、どんなにひどい人間も、皆イエスと同じものとして神は扱うのです。

第三の天において、大天使なるキリストが跪いて祈っている間だけです。ところが、ヨハネの黙示録第八章において、祈りをやめて立ち上がると書かれているのです。しかも、香炉が傾けられるのです。キリストのすばらしい祈りが香炉につまっているのです。この香炉が地に投げつけられるのです。そこで地球がめちゃくちゃになるのです。神の堪忍袋の緒が切れるのです。

キリストの祈りに支えられて、今の立体宇宙が成立していたのです。それがキリストが祈りをやめて、香炉が投げつけられることになりますと、大変なことになるのです。地球がめちゃくちゃになるのです。

キリストが祈りをやめた以上、神はもはや人間を許しません。一切許しません。キリストの祈りがなければ、神は遠慮なく鉄拳を振うのです。そこで、人間は震え上がるのです。島も山々も所を変える大地震が地球に頻発するのです。今まで地球が平穏無事であっただけに、艱難時代の地球には恐るべきものがあるのです。想像を絶することになるのです。

生かされるはずのない人間が、今まで生かされていたのですから、積もり積もった神の怒りが、どのようになって現わされるのか。思い半ばに過ぎるものがあるのです。

キリストの福音というのは徹底的な許しですが、また、徹底的な刑罰でもあるのです。救い主であり、裁き主でもあるのがキリストです。これは仏教ではどうしても分からないことです。仏教では、宇宙の裏表が分からないのです。神の国と現世の区別が分からないのです。

山と島が所を変える時の神の怒りは、ものすごいものがあるのです。その時、祈っていた小羊(イエス・キリスト)が怒るのです。神の怒りの手をとどめていたのは小羊ですが、祈っても祈ってもどうしても悔い改めない人間どもに対して、今まで柔和謙遜であった祈りの主が、怒りの主に変わるのです。キリストの怒りが現われるのです。キリストの憐みではなくて、キリストが裁き主になって現われるのです。

頭に茨の冠を着せられて、兵隊に横づらを殴られていたイエスが、地球の横づらをぶんなぐるのです。裁き主のキリストが厳然として立ち上がる時に、小羊の怒りが爆発するのです。

しょうがないから、山よ我の上に倒れよと言い出すのです。山が倒れることによって、すざましい小羊の怒りから隠れたいと思うのです。せめて小羊の怒りの顔から隠してくれと言いたいのです。死んでもいいから隠れたいと思うのです。

これが生霊に対する裁きです。生きている人間は神に泣き事を言うことができるのです。「山よわが上に崩れてくれ」と言えるのです。悪かったということくらいは言えるのです。悔い改めが言えるということは、その人自身の慰めになるのです。

神はそんな祈りは聞きませんけれど、祈っている本人自身には慰めになるのです。ああ悪かったと言って泣けば、その人自身の魂には幾分かの慰めになるのです。生きているうちに泣けば、慰めになるのです。

死んでからは泣けないのです。生霊に対してもこれくらいの厳罰を受けるとすれば、死んだものには一体どうなるのかということです。これには情けも容赦もない。徹底的に厳罰を加えられるのです。祈ることも泣くこともできないのです。

凍結した状態でぶん殴られるのです。逃げも隠れもどうすることもできないのです。死霊は泣くことも、わめくこともどうすることもできないのです。凍結した状態で、小羊の恐るべき刑罰を受けなければならないのです。

宇宙の裏表が分からない人間は、全くひどいことになるのです。現象世界は可視光線の世界です。赤外線から紫外線までの光線で見られるのが現象世界です。これだけが実体だと思っている人は、非現象の雄大な宇宙が全然分からないのです。

そういうものがあるに決まっているのです。神は虹でそれを現わしているのです。お前たちが見ているものはこれだと虹で現わしているのです。

ノアの洪水以後の人間社会は、全部虹です。可視光線の世界です。ノアの洪水までの社会は、神が公認していた社会です。ですから、神の国と現世が一つの状態であったのです。ノアの洪水以後は虹が現われたのです。これが現象世界だと神が限定したのです。

今の世の中は存在しているのではない。ただ保たれているだけです。虹です。この世の中全体が虹です。虹が現象世界です。

虹はある意味では滅ぼさない契約のしるしと言われています。虹がある間はこの地球を滅ぼさないという意味にも取れるのですが、もう一面を考えますと、可視光線だけの世界だと神が言っているのです。

不可視光線の世界は今の人間には全く見えないのです。神の国と神の義を求めるという思想は、宇宙の表と裏を知れということです。宇宙の表を見よ、お前たちが見ているのは、宇宙の裏だということを言いたいのです。

宇宙の表を早く見なさい。神の国と神の義を早く見なさいと言っているのです。表が分かれば、裏のからくりがすべて分かるからです。今の世の中はからくりばかりです。こんなからくりはすぐ分かるはずです。神の国と神の義を求めよと言っている。ところが、キリスト教の牧師のために、聖書が全部歪められてしまっているのです。

今私たちによって、聖書が全世界に向かって真っ直ぐに説かれようとしているのです。聖書を真っ直ぐに説く光が、日本から現われようとしているのです。皆様はその先端をきる役割を与えられようとしているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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