top of page
検索
  • 管理人chaya

常に喜ぶ


皆様の中に赤ん坊がいるのです。それを大人の皆様が殺しているのです。自分の魂を自分が殺している。魂というのは全くの赤ん坊です。魂が目を覚ましたらいいのです。赤ん坊の状態を見ればいいのです。大人の状態は死人です。赤ん坊はリビング(living)であり、大人の精神状態は死人です。死人が赤ん坊を押さえ付けている。そういうばかなことをしているのです。

赤ん坊になったらどうなるのか。パウロは次のように述べています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに求めておられることである」(テサロニケ人への手紙5・16〜18)。

これがキリスト教では実行できないのです。新約聖書はこれを実行するためにあるのです。これが実行できたら、山上の垂訓(マタイによる福音書五章から七章)はすべて実行できるのです。これが赤ん坊が生きている姿です。大人が赤ん坊の状態になるのです。

黙ってこれをすればいいのです。良いか悪いかを考えなくてもいいのです。

常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝する。これが、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに求めておられることなのです。これが信仰の目的です。これを実現したらいいのです。そうすると、子供みたいなものになってしまうのです。お爺さんお婆さんでも、子供みたいになってしまうのです。大人がいなくなってしまうのです。

常に喜べ、英訳ではRejoice alwaysになっています。どうしたら、常に喜べるのか。何事にも、どこでも、何をしている時でも、これがオールウェイズです。どんな時でも、何事も喜んでいるのです。これができなかったらだめです。常に喜ぶためには、年中ご機嫌が良くなかったらだめです。

現実が神の国です。天国です。これが分からないと魂の喜びはありません。現実だけしか天国はありません。現実しか神の国はないのです。この世に生まれた命を持っていたら、絶対に地獄へ行きます。古い命を持っているままで生きていたら、必ず火の池へ行くのです。

信仰は毎日新しくならなければいけないのです。新しくなれば、今生まれた嬰児ですから、現実が神だという実感があるはずです。その実感が、毎日新しくなっていなければいけないのです。昨日新に生まれ、今日また、新に生まれなければいけないのです。今生まれた嬰児は、いつでも新しい感覚を持っているのです。

現実の他に神の国はありません。これが分からなければいけないのです。イエスは現実が神の国であることを、ありありと見ていたのです。イエスが洗礼を受けて水から上がった時に、それがはっきり分かったのです。

現実において、神は人と会うことができるのです。神の実物は現実です。これがおやじです。太陽が輝いていることがおやじです。ヒーターが暖かいことがおやじです。空が青いこと、空気があること、水があることがおやじです。

このおやじをいつでも掴まえようとすると、絶えず祈っていなければだめです。絶えず祈ることをしていないと、現実がおやじにならないのです。現実がおやじだということを、観念的、概念的に理解していてもだめです。現実が神の国だということを、魂で分かっていなければいけないのです。

常に喜ぶということを、いつも実行しようと思ったら、絶えず祈っていなければならない。これはしてみないと分からないのです。これがイエス・キリストの信仰です。常に祈り、常に喜んでいれば、すべての事に感謝できるに決まっているのです。

どうしたら常に喜べるのか。常というのは、オールウェイズという英語を使っています。これは何事においても、どこでも、何をしている時でもという意味です。どんな時でも、何事でも、喜べと言っています。常に喜ぶとは、年柄年中喜んでいなさいという意味です。年中機嫌よくしていなければいけないのです。

現実が神の国です。現実は天国です。これが分かっていないと、魂の喜びはありません。現実だけしか天国はないのです。現実しか神の国はありません。これをよく考えて頂きたいのです。

「常に喜べ、絶えず祈れ、すべての事に感謝せよ」。これが神の注文です。この神の注文に応じていないものは、実は新に生まれていないのです。新に生まれているかいないかは、「常に喜べ、絶えず祈れ、すべての事に感謝せよ」を実行しているかしていないかで決まるのです。

誤魔化したらいけないのです。なぜ毎日が嬉しいのでしょうか。嬉しいも嬉しくないも、現実に生きていることがおやじと一緒に生きているから嬉しいのです。おやじと一緒に生きていますから、もう死なないのです。おやじと一緒に生きているということは、生まれる前の状態を今生きているのです。だから、死ぬはずがないのです。

イエスが言っています。

「父よ、世が造られる前に、私の御側で持っていた栄光で、今御前に私を輝かせて下さい」(ヨハネによる福音書17・5)。

世が造られる前に、イエスは神と一緒にいたのです。その時の栄光で、今私に栄光を与えて下さいと言っているのです。今現実に生きているという事が、世が造られる前に神の御側にいる時の状態です。だから、年中喜べるのです。生まれてきた命で生きているのではない。生まれる前の命で生きているのです。

これはすべての人間に対する神の注文です。キリストにおける神の注文です。これが分かれば救われているのです。生まれる前の命ですから、救われている命です。これによって生きているのです。

これがキリストの花嫁になる基本条件です。花嫁はもっと他のことも学ばなければなりませんが、これが花嫁になる入口です。これができない者は救われません。花嫁にはなれません。

この世に生まれた自分を相手にしていてはだめです。固有名詞の自分ではだめです。固有名詞の自分でなくなってしまわなければいけないのです。

この世に生まれてきたということは、神が人間の霊魂に、一かばちかの試みをしたということです。果たして、この世に生まれたことを消してしまえるかどうか。この世に生まれたことを、根本的に消してしまえる人間だけが、世が造られる前に神の御側で持っていた栄光が分かるのです。

この世に生まれたということが、試みの中に放り込まれたということです。これに合格するための決め手というのは、この世に生まれたことから抜け出してしまうことです。これができた人だけが天へ帰れるのです。

今のユダヤ人は人類に対して、責任を持たないからだめです。ところが、ユダヤ人がだめだとすると、キリストの再臨が実現しないのです。これが聖書を読んでいる人々に分からないのです。ユダヤ人を放っておいたら、キリストの再臨がどうしても実現しないのです。これは決定的な弱点になるのです。

今のキリスト教の決定的な弱点が分からない。だから、自分自身の弱点も分からないのです。まず皆様の信仰が完成されなければならない。そうしなければ、ユダヤ人が回復しないからです。

世間並に生きていたら死ぬだけです。世間並に生きていたらだめです。神の国に入ってしまわなければいけないのです。皆様はまだ神の国に入っていないユダヤ人のために祈っていながら、神の国へ入っていないというばかなことがあってはならないのです。

皆様はイエス・キリストの信仰を実行する人です。ユダヤ人のために祈るということは、第三の天におけるキリストの祈りをすることです。キリストの祈りに合わせているのです。この祈りをしていながら、神の国へ入っていないということは、あってはならないことです。

愛を愛することが恋です。現実が神であることが分かると、本当の恋が分かってくるのです。永遠の恋が分かるのです。過去、現在、未来に貫く、永遠の恋が分かるのです。だから、いつでも喜べるのです。永遠の恋ですから、感謝できるのです。現実は神の愛の現われに決まっているのです。これを愛するのです。愛そのものを愛するのが本当の恋です。ここまでいかなければいけないのです。

神がこれを望んでいると書いています。イエス・キリストによりて、これをお前たちに望んでいると言っていますから、これを受け止めて、神の望み通りになったら、よしよしといってもらえるのです。現実を正しく受け止める。これを御名を崇めるというのです。

「天にいます我らの父よ、御名が崇められますように」という主の祈りがあります(マタイによる福音書6・9)。この父とはおやじです。

現実は心安いものです。難しいものではありません。難しい現実はありません。現実が神であるというのは簡単なことです。聖書の本当の奥の院は、難しいものではありません。一番簡単です。

神はどこにいるのでしょうか。現実しかいる場所はありません。現実だけがあるのです。これはいつでもあります。現実以外のところは、人間の観念です。天にいますとありますが、キリスト教が言っている天は、人間の頭で考えている天であって、人間の概念です。そこには神がいる場所はないのです。

現実が天です。天とは隠れて目に見えない所です。目に見えない現実が天です。肉体で感じられる恋愛と、肉体で感じられない恋愛があるのです。天は肉体では感じられないものです。これが霊です。肉の思いではないもの、肉の思いでは分からないものが現実です。

天にましますというのは、霊魂には直感的に感じられるのですが、現実は人間として説明ができないのです。霊魂に直感的に感じられる現実は、すばらしいものです。現実の方から信頼しているのです。非常な好意と非常な信頼を持って、現実が開けっ放しに与えられているのです。これがおやじです。

親は子供に、全面的な好意と信頼を持っています。子供の方から言いますと、おやじというしかないのです。こんな開け広げの信頼感というのは、他人では持てません。

現実は私に対して、驚くべき好意を持っていますし、信頼を持っているのです。現実は絶対に裏切らないのです。僻み根性を捨ててしまうと、現実はすぐに見えるのです。現実は私を信じてくれます。現実は絶対に裏切りません。従って、現実を裏切る訳にはいかないのです。

現実ほど確かなものはありません。いつでも、どこでも、誰にでもあるのです。現実の現われが神そのものです。天にましますとは、天においでになる神そのものという意味です。これが現実の正体です。この他に神があるべき道理がないのです。これがイエスにありありと分かっていたのです。

神が日本に、イスラエルの回復という大きな光を与えた。イスラエルのために祈るという条件で、隠れた神の国の実体を、現実という誰にでも分かる状態で神が見せたのです。開けば誰も閉じるものがない。閉じれば誰も開くものがない。この光は神が開いた光です。

現実が神であることを、現実の方から示して下さった。これは間違いありません。これは単なる聖書のメッセージではありません。聖書のメッセージに、万物の命、万物の存在が裏付けされているのです。「ある」ということが裏づけされているのです。現実の他に「ある」という事実はありません。

神は「有りて在る」ものです。有るというのは、牛へんに肉づきで、生き物を意味するのです。水と血を通ってきたイエスを意味するのです。「ある」という世代を通ってきたのです。

「ある」とは生きている肉体を意味するのです。生きている肉体を持っているという意味です。これは水と血を通ってきたという意味になるのです。ただ水だけではなくて、水と血を通ってきたのです。

現実が神であること、自分がいないことを、まず承知して頂きたいのです。現実の中に自分が入るのです。自分が入らない現実はありません。従って、現実が神であるという言い方をすると、自動的に自分はいなくなるのです。自分が溶けてしまうのです。

パウロは言っています。

「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊によって進もうではないか」(ガラテヤ人への手紙5・24、25)。

二十四節が分からなければ、二十五節は実行できません。もし皆様がキリスト・イエスに属する者と考えるなら、自分の肉を感情と欲望と共に十字架につけてしまったことになるのです。人間が肉体を持っていると、なぜ欲望になるのか。人間の人格が肉において用いられると、欲になるのです。霊において用いると命になるのです。これは大変な違いです。

人格は二通りに働きます。一つは理性と良心になって働きます。これが生活原理です。もう一つは五官の基礎的な感覚として働くのです。目で見ている五官の基礎的な感覚、視覚神経の中心機能は人格です。聴覚の中心も人格です。人格は理性と良心として働く場合と、五官として働く場合があります。肉体的に働く場合と精神的に働く場合と、両方において働くのです。

これが分かると、現実が本当に分かってくるのです。私がいう現実という言葉は、理路整然としてあらゆる意味での論理性が備わっているのです。人間の人格を肉的に用いると、欲になるのです。

人間はこの世で生きている間は、生活で苦労しなければならないのです。ところが、日本の政府が生活保護という制度を造ったために、日本人に苦しみがなくなった。これは憂うべきことです。人間は苦しんだ方がいいのです。苦しんでいれば、働かなければならないという気がするのです。働くということは、神が肉体的な人間に命じた根本的な使命です。これを日本の政府は打破したのです。これが民主主義の悪い点です。

現代文明は神の原則を破っているのです。神が人間に与えた原則的な精神を壊してしまった。これが民主主義、人権主義です。大変悪いものです。

二十四節には、十字架によって人間の肉はなくなったと言っているのです。肉の人間はいなくなっているのです。ところが、皆様は肉の人間、肉体的に生きている人間を信じています。なぜ信じるのでしょうか。肉体的に生きている人間を信じている以上、現実が神の国であることは、絶対に分からないのです。

現実が神の国であることを知るためにまず必要なことは、十字架を信じることです。これは肉体的に生きている自分がなくなってしまうことです。肉体的な自分がいたのでは、現実を正しく見ることができないのです。

肉体的に生きている人間の現実は、自分の現実であって、神の現実ではありません。自分の現実を持っている者は、病気があるし、生活難があるし、信仰の行き詰まりがあるのです。嘘を言ったり、言われたりするのです。現実の自分を持っているからです。

現実の自分がなくなってしまうと、その現実が神そのものになってしまうのです。神そのものになってしまうと、病気になる必要がないのです。健康に支障をきたすことがあるでしょう。悪くなったらそれでいいのです。肉体は消耗品ですから、使えば古くなり、故障したり、使えなくなるでしょう。

現実が神の国であることが分かれば、現世を去ることは何でもありません。それがまた、神の国です。神の国に入っている人間には死はないのです。困ったとか、悲しいとかという事はないのです。そこには魂の喜びだけがあるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:25回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

現代人に一番分からないことは、あるということです。存在ということが分からないのです。実存と本当に言えるものが何なのか、分からないのです。 それは最も簡単な問題であるはずですが、現代人には全く分からないのです。だから、ナチュラルに生きようと考えても、実存が分からないために、本当のナチュラルが分からないのです。 あるということが神です。父なる神が頭に浮かんでくるようでなかったら、ナチュラルになろうと思

初めに神は天と地を創造された

物事には知るという段階と、悟るという段階があります。知るにしても、悟るにしても、私たち自身がしているのですから、自分自身が主体になって、話を聞いているのです。まず、話を聞いて、知った。話を聞いて知るというのは、ああそうかということかと、頭で知るのです。 例えば、人間は自分で生きているのではない。神に生かされているのだという話を聞きますと、「そうか、生かされているのか。自分で生きているのではないのか

bottom of page