top of page
検索
  • 管理人chaya

相愛する


山上の垂訓(マタイによる福音書第五章から七章)の中心命題は何であるかと言いますと、「汝ら、まず、神の国と神の義を求めよ」ということです。

汝らというのは、直接にはユダヤ人をさすのです。神の国を求めるということが、実はユダヤ人はもちろんのこと、全人類に対する人間の責任であり、また、存在価値です。存在理由でもあるのです。

人間は神の国と神の義を求めるために、この世に遣わされたのでありまして、聖書を学んでいる私たちは、未生以前の人間を尋ねてみると、パウロがローマ書第八章に書いていますように、予め知られていたものであったのです。

「予め定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、さらに栄光を与えて下さったのである」とあるのです(ローマ人への手紙8・30)。私たちは予め知られていたのです。例えばアブラハムという人物は、予め神に知られていたのです。そこで、アブラハムを召して、約束の本義を示したもうたのです。

そうすると、予め知られていた人間は何であろうか。これをパウロは、「私たちは世の基が置かれる前に、キリストの内に選ばれていた」と言っているのです。世の初めの前にです。

パウロと同様の精神において、聖書を学ぼうという志を与えられている魂は、パウロと同じように、世の初めの前にキリストの内に置かれていたのです。そうでなければ、現在私たちに、本当のキリストが分かるはずがないのです。

キリスト教のキリストなら、十数億の人間が理解できています。本当のキリストを理解することができる人は、世の初めの前にキリストの内に選ばれていたということを、自覚する人だけです。

キリストというのは、神の知恵と知識のすべてです。神の全知と全能とが、キリストの内に隠れているのです。キリストに結集されているのです。キリストというのは人格であり、計画であり、能力であり、知識です。不思議であり、奇妙なのです。このような言い方をしなければならない程、人間の角度から見ると、全く不思議なものなのです。これが聖です。

神の聖はキリストにおいて現われているのです。キリストがなければ、神の聖は分からないのです。例えば、釈尊は神の聖が分からなかった。彼はキリストを考えなかったからです。従って、大無量寿と言っても、本当の無量寿が分からなかったのです。言葉でいくら言っても、実感的な意味での永遠の命が分からなかった。そこで宇宙に遍満する何兆という仏を造らなければならないことになったのです。聖が分からないから、そういうことになるのです。

「右と左に分けられた。右の方の羊になって、曰く、おまえは私の小さな兄弟に親切にしてくれた。また、私が裸でいる時に着物を着せてくれた」という言い方をしています。私はあなたの小さな兄弟にそんなことをした覚えがないと言ったら、私の小さな兄弟にしてくれたことは、私にしてくれたことだと言っています。

つまり、皆様方の魂というのは、生まれながらにしてキリストの兄弟です。そのような自覚が持てる人は、世の初めの前に、キリストの内に選ばれていたから、その自覚が持てるのです。この自覚をしっかり持って頂きたいのです。

皆様は世の初めの前に、キリストの一翼でした。この自覚がしっかり持てる人は、すべての肉の思いを捨て去ることができるでしょうし、すべての罪と肉と死とに勝つことができるのです。この実感を持つことができる人は死に勝つことができるのです。

この実感を持っていない人は、聖書の勉強をしても、途中でやめようかと考えるのです。自分の都合で聖書の勉強をやめようとする。これは宇宙存在の指導的原点であるキリスト計画に反抗するけしからんことなのです。

異邦人は世の初めの前の自分自身の因縁が分からないのです。キリストの内に選ばれていた者でなかったら、今現在キリストの一部が人の格好で現われていることが分からないのです。それが自分であることを信じることができないのです。これが分かる人はキリストに帰ることができるのです。

神のエクレシアー(教会)とは、一人ひとりがキリストのパートを意味するのです。もしこれが分かれば、力を尽くし、精神を尽くし、全身全霊を傾けて、イスラエルの回復のために励もうとすべきなのです。これをしようとしない人は、キリストを愛しているのではありません。

キリストが愛して自分の命を与えたのはユダヤ人のためであって、異邦人のためではないのです。自分自身のパートのために、自分自身を捨てたのです。

エペソ人への手紙の五章に次のようにあります。

「夫たる者よ、キリストが教会を愛してそのために自身を捧げられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会を清めて、聖なる者とするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものが一切なく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、御自分に迎えるためである」(25〜27)。

キリストは自分の妻のために自分を捨てたのです。これは直接的には、約束の民を意味するのです。約束の民こそ、彼のエクレシアーであるべきです。私たちは、特別の恵みと哀れみにより、この末の時代に、福音について教えられ、イエスの御名と、神の御名を教えられたのです。イスラエルが神の国を待望しないので、彼らに代わって、神の国を待望する。同時に、イスラエルの悔い改めを神に祈ることができるという、異邦人としては全く有りえない使命を与えられたのです。

「神の国はお前たちから取り去られる。実を結ぶ異邦人に与えられる」とイエスが言っていますが、このイエスの預言が実現したのです。イスラエルから神の国が取り去られて、実を結ぶ異邦人に与えられた。私たちはイスラエルの人々を励ますために、私たちの全身全霊を注ぎ出しているのです。

神の霊とは何であるのか。聖なる神の聖とは一体何であるのかということです。

天地の創造は神の約束に基づいてなされたことなのです。創造はもちろん計画性があるに決まっています。計画性とは何であるのかと言いますと、目的があるということです。目的がはっきりしていなければ、計画性は有りえないのです。目的とは何かというと、約束です。約束は未来に基準をおいて、現在を考えるのです。このことを神は創造において実行したのです。

天地の創造は漠然としてなされたことではない。偶発的なものでもない。目的論的な原理に従って発動されたのが神の創造です。神は未来を基準にして現在を考えたのです。これが創造の原理です。創造の原理は約束です。未来性がないことを、神が取り上げるはずがないのです。また、未来性がなければ、創造という言葉が使えないのです。従って、創造の原理は約束なのです。

約束が創造として現われた。創造として現われた約束を、神がご自身の業として認めておられるのです。これは当たり前ですが、神は自分をさして誓ったのです。これは創造をさして誓われたことを意味するのです。

天と地が現実に存在するということが、神ご自身です。我はありてあるものなりというのは、現前として存在するそのことを言っているのです。

神が自分をさして誓ったというのは、現前そのものが神の契約の担保として人間に与えられているのです。現前が担保となっている。これを担保として神は発言しているのです。

「悔い改めて福音を信ぜよ」。現前を担保としているからこのように言ったのです。神は万人に保証を与えた。イエスを死人のうちから甦らせて、万人に歴史的な保証を与えたのです。歴史的事実として、復活の保証を与えて、そうして悔い改めを命令しているのです。

時間的な意味での保証として、死人のうちからイエスを甦らせたという歴史的な形での保証と、現前の天地が存在するという空間的な保証と、この時間と空間との保証において、人間に悔い改めを命じておられるのです。

これ以上に明白な担保条件は有りうるのでしょうか。神は神自ら絶対的な契約条件を私たちに提示しておいでになるのです。私たちは今、時間と空間において、神の担保条件を毎日経験しているのです。この神の契約の担保を経験していながら、なお神の契約を信じないとすると、何を信じるつもりなのでしょうか。全く神を嘲弄していることになるのです。

時間と空間と人間という三つの間は、交わりを意味する舞台になるのです。また、交わりそのものを意味すると考えてもいいでしょう。そのように私たちは、現実に、神の約束という保証において、神と交わっているのです。

私たちの心臓が現在動いているということが、神の契約の担保になっているのです。ですから、心がくだかれて、神の愛の御手に自分を委ねたらいいのです。なぜ固くなっておどおどするのでしょうか。神の前に自分の一切を投げ出して、この神の契約の明々白々な実体を受け取り、父とその子イエスとの交わりに与るべきなのです。

そこで、私たちが経験している現前とは何であるのか。現実とは何であるのかを考えなければならないのです。

創世記の第一章一節に、「初めに神は天と地を造られた」とあります。それではその前はどうだったのかということです。天と地が造られる前に何があったのか。

私たちが基本的に拠り所とするのは知恵です。その知恵を正しく用いると分かるのです。天と地が造られる前の宇宙の実体です。そこに空があったのです。これを釈尊は見たのです。釈尊は約束以前の知恵を見たのです。これを現在の人間の根源に取れ入れようという気持ちを持ったのです。これはなかなか大した考え方です。

釈尊という人を神が起こしたのです。約束を持たない人間の唯一の拠り所となるべき原理を示すために、神が起こしたのです。

しかし、これはただの空ですから、天と地とに対する説明にはならないのです。空には救いがないのです。恵みもない、罪もないのです。そこで、釈尊の悟りは一切空だけです。罪もなく死もなく恵みもない。プラスもなくマイナスもないのです。これが創世記ゼロ章ゼロ節です。そして、第一章一節が始まるのです。

現在の太陽系宇宙以外の銀河系をご覧下さい。創世記のゼロ章ゼロ節の状態です。これがあるのです。太陽系宇宙には、固形体としての惑星はありますが、太陽系以外の恒星や惑星は、原則としてガス体です。銀河系でさえそうです。ましてや、アンドロメダ星雲などの島宇宙は、はっきりガス体です。ブラックホールもありますし、大宇宙の端では、島宇宙が消えていっているのです。また、どこかで銀河が生まれているのです。ガス体ですから、これを繰り返しているのです。

液体とさえ言えるものもないのです。ましてや、固体は全くないのです。すべてはガス体です。これが現存する宇宙の実体です。従って、太陽系宇宙という固形体の惑星は、太陽系だけの特長であって、地球を存在させる必要がない他の宇宙においては、ガス体を固形体にする必要がないのです。

釈尊が見たのはそれです。地球以前の神の約束以前の状態を見たのです。私たちも現在、空にして空なるという宇宙を見ているのです。ただ残念なことには、釈尊ほどの悟りがないから、分からないだけのことです。

創世記の第一章一節に、「初めに神は天と地を造った」とあります。何から造ったのかと言いますと、空から天と地ができたのです。天と地が造られたということが、約束の初めです。

このようなことから考えますと、私たちがこの世で見ている煩悩とか、あれがいいとか、これが悪いとか、利益とか損害とか言っているのは、一体何を考えているのかと言いたいのです。悪いものは悪いと言わなければなりませんが、もっとスケールを大きくして頂きたいのです。皆様は神の相談役になる器です。将来皆様は、ルシファーの代理者として、天使長として、神の相談役になるべき人ですから、今からそのようなスケールの大きい生活をすることを、毎日の習慣にして頂きたいのです。人の悪口を言わないでほしいのです。

天と地が造られたという事はなぜか。神は無明煩悩が宇宙に発生したから、やむを得ず造ったのです。ですから、現世に無明煩悩があるのはしょうがないのです。善悪利害を考えないで、もっと大所高所から、物事を考えて頂きたいのです。神の信仰で見て頂きたいのです。イエス・キリストの愛で見て頂きたいのです。

皆様はイスラエルを奮い立たせて頂かなければならない人です。神の虎の子です。父の御心を行うことを、自分自身の人生の目標にして、現実生活において神を生活して頂きたいのです。

自分を生きないで、神を生きて頂きたい。そうすると、他人の無明煩悩、また、自分自身の無明煩悩についても、大まかな形で、大まかな厳しさ、厳しい大まかさを持つことができるのです。イエスが山上の垂訓で示したような、厳しい大まかな感覚を持つことができるのです、「汝ら、まず、神の国と神の義を求めよ」と申し上げたいのです。

皆様には、ご自分の生活で、神の国と神の義を求めて頂きたいのです。他人の中にあるちりよりも、自分自身の中にある梁をまずつぶして頂きたいのです。人間が肉体で生きているというこの梁(自我意識と現象意識)に気づいて頂きたいのです。兄弟の目にあるちりよりも、自分自身の梁を警戒すべきです。そうすれば、ユダヤ人の目の中にあるちりを取り除くことができるでしょう。

イスラエルの目の中にあるちりを取り除くためには、私たち自身の梁を取り除くことが第一です。神は皆様方を信頼しておられるのです。皆様が神を信じるよりも、神が皆様を信頼しておられる方が大きいと思われるのです。だからこそ、このような神の秘密を私たちに教えて下さるのです。

なぜなら、皆様は世の初めの前に、キリストの内に選ばれていたお方だからです。キリストの内に選ばれていた皆様を、キリストと同じように扱っておられるのです。キリストに教えたことをそのまま皆様に教えておられるのです。

皆様はキリスト・イエスと同じように扱われているということを、自信を持って受け止めて頂きたいのです。皆様はキリストの一族です。キリストの一族であることを自覚して頂きたい。そうして、「汝ら、わが愛におれ」と言われたキリストの御心において生きることを訓練してもらいたいのです。

「父が我を愛したまいしごとく、我、汝らを愛す。汝ら、わが愛におれ。これ皆一つにならんためなり」とあります。私たちは肉体的に生きているお互いの不完全さを並びたてる前に、神の完全さを崇めたいのです。私たちの不完全さを問題にする前に、神の完全さを大いに崇めたいのです。

神の完全さにおいて、私たち自身の完全さがどのように処理されるべきかということを、味わって頂きたいのです。「汝ら、互いに相愛せよ」というこの言葉は、絶対に破ってはいけないのです。

私たちのグループは、めったに興ってこない人材の集まりです。日本中に呼びかけても、私たちに参与しようという人間はめったにないのです。めったに見つからない人材ですから、神がどれほど期待しているのかということを考えて頂きたいのです。

今や皆様は罪の虜ではないのです。皆様はかつて罪の虜でした。罪の虜である皆様を、キリストが信仰によってキリストの虜にしてしまったのです。これを天へ引っ張っていったのです。その結果、皆様はキリストの恵みを賛美することができるのです。こういうスケールの大きい新約の原理をよく承知して頂きたいのです。現前がそのまま愛の交わりの道場であることを、よく承知して頂きたいのです。

「汝ら、互いに相愛せよ」。これはすばらしい掟です。すばらしい掟とは、「汝、わが顔の前に我の他何者をも神とするな」というモーセの絶対原則に変わるべき新しい掟です。相愛することによって、神を愛することを自ずから証しているのです。どうぞこの則に従って生きて頂きたいのです。イエスがどのように神を見ていたのか。現存する天地は何であるのか。現在、肉体を持って生きている私たち兄弟姉妹というのは、何であるのかということです。私たちは全く赤ん坊がよちよち歩きをしているようなものですから、これを問題にするのはあまりにも幼稚すぎるのです。

皆様は知識においては大人となって頂き、霊においては幼児になって、子どもらしく遊んでもらいたいのです。神をあば父と呼ぶ霊に満たされて、やがてキリストと共に千年の間、王となるべきお方ですから、この大いなる望みを心に抱いて、「汝ら、神の国と神の義を求めよ」という大まかな厳しい感覚を体得して頂きたいと思います。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:4回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

現代人に一番分からないことは、あるということです。存在ということが分からないのです。実存と本当に言えるものが何なのか、分からないのです。 それは最も簡単な問題であるはずですが、現代人には全く分からないのです。だから、ナチュラルに生きようと考えても、実存が分からないために、本当のナチュラルが分からないのです。 あるということが神です。父なる神が頭に浮かんでくるようでなかったら、ナチュラルになろうと思

初めに神は天と地を創造された

物事には知るという段階と、悟るという段階があります。知るにしても、悟るにしても、私たち自身がしているのですから、自分自身が主体になって、話を聞いているのです。まず、話を聞いて、知った。話を聞いて知るというのは、ああそうかということかと、頭で知るのです。 例えば、人間は自分で生きているのではない。神に生かされているのだという話を聞きますと、「そうか、生かされているのか。自分で生きているのではないのか

bottom of page