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  • 管理人chaya

純粋経験


私たちに五つの命が自分の中にあることを知って、それをマインドによって自由に操作することができる。これが人の子です。人の子と人間とは、ここが違うのです。人の子だけが神の元に帰れるのです。

「人の子よ帰れ」(詩篇90・3)と神は言っています。人の子はその呼びかけに応じられるのです。人間よ帰れとは言っていないのです。これがちりに対して与えられている神の呼びかけです。神の召しです。天の召しです。神の呼びかけに応じて帰っていく者を、天の召しを受けていると言っているのです。

皆様が自分の命を全うしたいと思うのなら、自分の人格を全うしたいと思うのなら、人間であることをやめて、人の子になるしかないのです。人の子になるのが嫌な人は、火の池に行かなければならないのです。

第六の命を持ちながら、五つの命が自分の中にあることを認識しないで、それを治めようとしない者は、狡猾を基礎にしている悪魔の子になるのです。

私が述べていることは、レベルが高いのではありません。聖書にはレベルが高いも低いもないのです。聖書の原点があるだけです。全世界の人間が、これを信じていないだけです。

イエスは「私は甦りであり、命である。マルタよ、私を信じるか」(ヨハネによる福音書11・25)と言っています。マルタは信じますと言いながら、信じていなかったのです。イエスがマルタに信じるかと言ったのは、創世記における人間創造の原点を指しているのです。イエスの言葉を信じられる人は、現在地上に生きているという形はありますが、実質的には天にいるのです。だから、イエスの言葉が信じられるのです。

聖書にはこのレベルがあるだけです。高い低いはない。私がいうレベルがあるだけです。聖書の標準は一つしかありません。五つの思いが五つの命になって人間の中に入り込んでいる。これが陥罪以後の人間です。

陥罪以前の人間の中には、野の獣の思いはなかったのです。野の獣の思いがなかったから、へびにころっと騙されたのです。もし野の獣の思いがアダムとエバにあったら、へびが話しかけてきたら、それはおまえの意見だというでしょう。私はおまえの意見に従うつもりはないとアダムは言ったはずです。

ところが、アダムは禁断(善悪を知る)の木の実であるへび(悪魔)の言葉を食べてしまった。ここに、驚くべき深い意味があるのです。なぜアダムは禁断の実を食べたのか。自分の命を自覚しない者は、禁断の実を食べられないし、命の実を食べることもできないのです。従って、火の池へ行けないし、神の国へも行けないのです。神とのお付き合いもできないし、悪魔とのお付き合いもできないのです。

野の獣の狡猾さを知って初めて、五つの命を治めることができるようになるのです。人間は必然的に、陥罪しなければならない運命を持っていたのです。自分の命はありません。野の獣の命、地に這う生き物の狡猾さ、野の獣の狡猾さを学ぶために、命が与えられているのです。

自分が生きていないのに、自分の命があると考える人間の根性は、そのまま狡猾です。野の獣の狡猾が、人間に入っているのです。自分の力で生きていないにも係わらず、自分の力で生きているような顔をして生きている。野の獣は餌を探しますが、本当は神が餌を与えているのです。ところが、自分で餌を見つけたと考えている。自分で生きていると考えるのです。この考えが狡猾です。

生きる力がない者が、自分の力で生きていると考えることは傲慢であるし、曲解でもあり、錯覚でもあるのです。命を自分のものであると考えて、自分の命があるような態度で生きている。これが狡猾です。

自分が生きているという人間の意識全体は、全部狡猾です。ユダヤ人は狡猾の代表です。狡猾の先端を行くのがユダヤ人です。私たちは狡猾を滅するために、ユダヤ人に対面するのです。

まず自分自身の狡猾が消えてしまわなければ、ユダヤ人の狡猾を消すことはできません。狡猾どうしが話合いをしてもだめなのです。私は皆様を説得する必要はありません。説得しても意味がないのです。

まず自分が生きているという意識を、自分で完全に放棄することです。そうしなければ救われません。ところが、自分が理解しなければならないと考える。自分が信じなければならない。自分が救われなければならないと考える。これが狡猾です。

分からなければならないのではない。捨てなければいけないのです。分からなければならないというのは、難しいでしょう。捨てることなら、誰でもできるのです。私は何も新しいことが分かったのではない。人間の中にある狡猾根性を捨てただけです。捨てているだけで、分かったのです。

自分の狡猾さを自分で捨てること、自分が生きているという意識を、極度に警戒するのです。自分が分からなければならない。自分が救われなければならないと思うことが、既に狡猾です。

自分はいないのです。強いていうなら、五種類の思いが一つになっているものを、人間というのです。だから、人間が特別にあるのではないのです。五種類の生き物ともう一つ人の子の思いがワンセットになっている。これがあるだけで、これが人間です。人間は五種類の命の頂点を意味するだけです。だから、人間存在が特別にあるという事実はないのです。

イエスが荒野で獣と一緒にいたのは当たり前です。動物も、虫けらも、魚も鳥も、イエスと一緒にいたのです。

命は思いになって現われると言いましたが、第一創造(現在の天地創造)の現象体は、命が思いになって現われているのです。

ところが、第一創造ではない命がもう一つあるのです。植物の命です。植物は太陽や月が造られる前の三日目に創造されました。太陽や月は四日目に造られているのです(創世記1・11〜19)。ですから、第一創造である現在の天地創造を超えたものと言えるのです。

その証拠に、現在の物理的な地球が消滅した後にできる永遠の世界である新天には、いのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民を癒すとあるのです(ヨハネの黙示録22・2)。その世界には動物もいないし、女性もいないのです。女性の方はこの点をよく考えて頂きたいのです。植物は自らは命を意識しないのです。植物と動物の違いはどこにあるのかと言いますと、動物は命を意識するのです。自分の意志で勝手に動くのです。

植物は命を意識しません。人間の心身は木石のようでなければならないのです。自ら動いてはいけないのです。自分で意識してはいけないのです。植物は一切を神に任せているのです。枯れようがしおれようが、知らん顔をしているのです。死んでも生きても、すべてのことは神にあるのです。自分自身の毀誉褒貶を神に任しているのです。動物は利害得失を考える。これが禁断の木の実になっていくのです。人間は禁断の木の実を食べにくる者を止めなければいけないのに、先頭に立って食べている。これが間違っているのです。

第六の命は五種類の命を思いに切り替えて、これを理解するだけでなくて、取捨選択したり、コントロールすることができるのです。そうすると、五種類の命が救われることになるのです。私たちの中にある五種類の命が、私たちのマインドによってコントロールされると、私たちの中にある五種類の命が皆救われる。そうすると、私たちのハートは、世々限り無く王となるのです。

肉体的に生きている世代は、本当の世代ではありません。これは試みに生きている世代であって、現在の地球が消滅してから、本当の世代が現われるのです。

聖書に次のような記事があります。

「また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分自身の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて旅に出た。

五タラントを渡された者はすぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントを儲けた。二タラントの者も同様にして、ほかに二タラント儲けた。しかし、一タラントを渡された者は地を掘り、主人の金を隠しておいた。時が経って、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をし始めた。

すると、五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントを差し出して言った、『ご主人様、あなたは私に五タラントをお預けになりましたが、ご覧の通り、ほかに五タラントを儲けました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたは私に二タラントをお預けになりましたが、ご覧の通り、ほかに二タラントを儲けました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたは僅かなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、私はあなたが蒔かない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで、恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください。ここにあなたのお金がございます』。すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたは私が蒔かない所から刈り、散らさない所から集めるのを知っているのか。それなら、私の金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、私は帰ってきた時、利子と一緒に私の金を返してもらえたであろう。さあ、そのタラントをこの者から取り上げて、十タラント持っている者にやりなさい。

おおよそ、持っている人は与えられていよいよ豊かになるが、持っていない人は持っている者まで取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』」(マタイによる福音書25・14〜30)。

天国はある人が旅に出る時、僕どもを呼んで、財産を預けるようなものであるとありますが、ここに非常に大きい意味があるのです。それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出たのです。タラントは古代のイスラエルの金の重量で、一タラントは現在の価格にして一億一千二百万円に相当するようです。これはまた、人間に与えられた理性と良心というすばらしい心理機能を意味すると考えられるのです。

五タラントを与えられた人はすぐに行って商売をして、五タラントを儲けた。これを読んだら分かるのですが、五タラントを預けられた者は、すぐに行って商売をしたのです。すぐに行って商売をしたというのは、現世に生きていることを意味するのです。現世に生きているペースにおいて、商売をしなければならないのです。現世を離れて商売はできないからです。生きているというペースが、そのまま五タラントをつかまえる秘訣になっているのです。

今の皆様の家庭はどんな状態であるのか。その場でつかまえなければいけないのです。皆様の職場はどんなか。職場で五タラントを掴まえなければならないのです。家庭が悪いとか、職場が悪いとか、私は病気だからと言って文句を言うなというのです。病気であれば病気が働き場です。訳が分からない主人がいるということが、タラントを掴まえる場です。そこで、掴まえなさいと言っているのです。皆様の職場に、皆様の家庭に、皆様の健康状態の中に、皆様の親子関係の中に、五タラントという永遠の命があるのです。

まず、へびの狡猾さをよく見分けて、野の獣の命、へびの命を自ら捨てることです。捨てようと思えば、御霊が助けてくれるのです。

神の御心に従って、自分の思いを用いようとすれば、五つの命ではないもう一つの神の命が、助けてくれるのです。御霊の働きが助けてくれるのです。そこで、五タラントが見つかるのです。私たちはこの世から逃れてはいけないのです。この世で、五タラントを儲けなければいけないのです。

命は天にあるのではないし、地にあるのでもない。今ここに、目の前にあるのです。私たちが生きている場に、五タラントがあるのです。この世で、生きている間に、タラントを儲けるのです。これは宗教の話ではないし、死んでから天国へ行く話でもない。今ここで、天国を見つけるのです。今ここで、永遠の命を掴まえるのです。

そのためには、五種類の命だけではだめです。第六の命がなければならないのです。五種類の命はこの世における生物の命であって、植物の命ではありません。生物の命は、自分の命を自分で意識する命をいうのです。これが五種類の命です。

大体、第一創造において、神が自分の命を自分で意識できる生物を造ったことがおかしいのです。自分の命を自分で意識できる命というのは、悪魔の命です。神以外の命です。こんなものを神が造っているのです。これが、第一創造が不完全な創造であって、本当の神の創造ではないことを証明しているのです。

もし三日目までの創造で終わっていれば、第一創造は植物の創造だけですから、完全です。ところが、四日目に太陽を造り、土を造り、五日目に鳥や魚を、六日目に動物を造ったのです。四日目、五日目、六日目の創造は、やがて毀れる創造です。三日目までの創造は、毀れないのです。新天新地にも地があって、月々に花を咲かす十二色の木があると書いていますが、新天新地には動物はいないのです。

これはレベルが高い話ではない。聖書の当たり前のレベルの話です。これは、生きている状態で、十分に信じられることばかりです。これをタラントというのです。タラントは現世に通用する通貨です。現世で儲けることができるものです。人間は現世に生きている間に、神の永遠の生命を確実に掴むことができるのです。ですから、掴まえなければならないのです。

自分の家庭で重荷を感じられること、自分の職場で苦痛を感じられること、また、世間的に悲しみを感じるということが、狡猾を乗り越えるチャンスになるのです。狡猾というのは、自分が生きていると思うことです。自分の力で、自分の才覚で生きていると思うことです。命は自分のものだと思うことは、決定的な狡猾なことです。

動物は自分で生まれたのではないし、自分で餌を造っているのでもないのに、自分の命に対して、戦々恐々としているのです。こういう野の獣の命は、神が造ったのではないのです。神はそういう命があることを許してはしているが、神が造ったのではないのです。野の獣を造ったのは神ですが、獣にそういう意識を与えたのは悪魔です。悪魔は造ることはできないが、意識を与えることはできるのです。

狡猾という意識を与えたのは神ではない、悪魔が与えたのです。正確に言いますと、へびが野の獣に狡猾な意識を与えることを、神が許したのです。野の獣の中でへびが最も狡猾であったというのは、野の獣の狡猾のあり方の原形を示しているのです。

この場合のへびは、いわゆるスネークではなくて、サーペントでした。ただのへびではなくて、輝けるものです。輝くものでありながら、狡猾の意識を持っていた。これを野の獣に与えたのです。

一体、狡猾という意識を誰が造ったのか。神が造ったのではない、闇が造ったのです。現在の創造(第一創造)では、闇と光が織り合わさってできているのです。昼と夜があるのです。昼の部分は神が造り、夜の部分は闇が造ったのです。何もかも全部神が造ったのではないのです。

神に呪われるべき命は、呪われるべき人格が造ったのです。そういう存在を許しているのが、現在の世代の原理です。今の世代では、神が闇の存在を認めているのです。こういう地球、世界は仮の世界です。神の国もあるが、地獄もあるのです。光と闇がもつれているこの地球を、神の国だと思ってはいけないのです。

この世界の中から、光の部分と闇の部分をより分けて、受け止めることができる者だけが救われるのです。光と闇をより分けることができない者、霊と肉とをより分けることができない者は、死んでしまいます。

皆様は自分の生活で、肉と闇を選別することができる能力を持つようにしなければならないのです。この力を与えられた者、霊の思いの中に進んでいくことができるようになった者だけが、救われるのです。これができない者は救われないのです。

できるかできないかの力があるのではない。そうなりたいと思うか思わないかだけのことです。光と闇を分けるような人格になりたいと思うなら、誰でもなれるのです。闇の心を本当に捨てようという気持ちは持ったら、そうなれるのです。そういう気持ちを持たない人は、なれないのです。 自分が分かりたいとか、自分が救われたいとか、自分という根性を持っている人はだめです。

イエスの証が正しいのです。イエスの心理状態だけが正しいのであって、これに従う人だけが救われるのです。従えない人はだめです。自分が救われようと絶対に思ってはいけない。自分の気持ちが、そのまま野の獣の狡猾さです。自分の気持ちがいけないのです。自分の意識から離れるのです。ばかみたいに正直になってイエスに従うのです。

自分の意見を言ってはだめです。自分の証をいくらしてもだめです。聖書を知っていると言ってはだめです。悪魔でも聖書を知っているからです。人間の顕在意識は全部悪魔の意識です。潜在意識だけが、かろうじて霊の思いですが、それも常識に引きずられているようではだめです。自分の常識を自分で裏切るような意識を持てば、救われるのです。

人が生きていることは救われていることです。なぜ救われていることになるのかと言いますと、心臓が動いていること、目が見えていることが霊です。これは神の御霊であって、救いです。

人間の思いは、すべて闇から来ているのです。心臓が動いていること、目が見えることは、光から来ているのです。生理的事実は皆、光から来ているのです。思いは全部闇から来ているのです。現象的な思い、現実的な思いは、皆肉です。ところが、心臓が動いている、目が見えるという生理的機能は光から来ているのです。

その故由を弁えて、光と闇を分けていくのです。自分で自分の魂を清めていくのです。これができる人は、自分の中にある五つの命(五つの思い)を治めることができるのです。そうすると、自分の肉を踏みつけて、霊を顕揚することができるのです。

肉がなければ霊は分かりません。霊だけでは霊は分かりません。闇がなければ、光が分からないのです。肉とか闇というのは、無視してはいけないのです。かといって、これを認めてはいけないのです。肉をクリアーするのです。闇はなければならないのですが、肉や闇に押さえ込まれてしまいますと、だめになるのです。

皆様にとって大切な事は、家庭生活で何をどのようにクリアーするのかということです。今までの夫婦生活という意識がありますが、これは野の獣を認めている意識です。自分が生きているという意識を認めているからです。

狡猾というのは、自分の命がないのに自分が生きていると考えるのです。自分の面子とか、自分の自尊心、自分の経験、自分の意見、自分の立場を認めようとする。これがいけないのです。

人間は無意識に、獣と同床しているのです。これが人間社会のリーダーの基本原理です。本当の自己は、生かされているという客体性です。生きているという主観的な感覚は、自我意識です。

月を見ている時には、自分の純粋性を経験しているのです。月を見ている瞬間には、例え泥棒を商売にしている人でも、泥棒を考えないのです。目が月を見ているのは、人間が月を見ているのではないのです。目は人間に植えられている機能であって、人間自身の機能ではないのです。人間に植えられている機能で、純粋に魂の本性を指しているのです。

見ているという能力は、未生以前のものです。臨済宗で一番難しいのはこれであって、片手音声はその影になるのです。最も難しいのは、生まれる前の父を見つけることです。

臨済禅に、「闇の夜に鳴かぬカラスの声聞かば生まれる先の父ぞ恋しき」という歌があります。闇の夜に、黒いカラスがいるから分からないのです。そこで、鳴かないカラスの声聞かば、生まれる先の父が分かってくるというのです。山田無文さんはこれが分からなかったのです。

観自在とは、生まれる前にあったものを見たのです。これが観自在菩薩です。観自在菩薩になることが、人間の絶対的な責任です。生まれる先の父ぞ恋しきです。

目が見えること、耳が聞こえることは、生まれる前の機能体です。生まれる前に、人間の霊魂の本質が植えられた。霊魂の本質は神の言です。これが植えられたのです。

言が肉になる前に、まず、言があったのです。言が肉となったのが人間です。言が人間の本質です。目の働きは言です。ロゴスです。ロゴスの働きがなければ、月は見えないのです。月の輝きはロゴス(言)です。人間の中にロゴスがなかったら、月の輝きを名月として認識することはできないのです。

月を見ている時、本人が意識できるかできないかに係わらず、魂の本質であるロゴスが、その人の肉の思いを圧倒して働いているのです。月を見ている時の心境は、生まれる前の心境がそのまま出ているのです。

芭蕉は、「ああ名月や名月や」と、夜通し月を見ていても飽きなかったのです。神が天地を造った想像力の中に、人間の魂の本質が吸い込まれていたのです。内なるロゴスと、外なるロゴスが、面会していたのです。

「映るとは月は思わず、写すとは水は思わぬ広沢の池」となるのです。映るということを月は考えていない。ただ輝いているのです。写すとは水は思っていない。これが禅の極意です。これが純粋経験としての禅の極意であって、生まれる前の世界が、自分の中にあるのです。生まれる前の世界が自分の中になかったら、生まれる前に造られた月の美しさが分かるはずがないのです。

月は四日目にできています。人間は六日目に造られています。六日目に造られた人間が、どうして四日目の月を理解できるのか。生まれる前の意識があるから、理解できるのです。月を見ている心境は、そのまま純粋心境です。これが純粋経験です。これは西田幾多郎氏のあっぱれな見方です。これはユダヤ世界にはない見方です。

月の光に溶け込んでいる時、その人は現世にいないのです。現世に生まれていないのです。この感覚が人間にあるのです。この感覚が、プラトニックラブに通じるのです。純粋経験がプラトニックラブの原形です。現象世界を出てしまっているのです。

神が人間の霊魂に見せようとしているのは、愛ばかりです。見ることも、飲むことも、食べることも、神が人間にアピールしているのは、朝から晩まで、神の愛ばかりです。雨が降れば降ったように、天気になれば天気のように、私たちは神の愛の内にいるのです。

神の愛の内にいるというのは、世の初めの神の内にいるのです。イエスは、「世の初めにあなたの御側にいた時の栄光で、今私を輝かせて下さい」と言っています。これが神の愛の内です。

イエスは純粋経験を経験していたのです。純粋経験と言っていた西田幾多郎氏は、神が全然分からなかったのです。ところが、御霊によって森羅万象をみれば、生まれる前の世界が、目の前にあることが分かるのです。これが人間が生きている原形です。

花が咲いています。イエスは「花が咲いている世界の中に入れ」と言っています。花が咲いている世界、月が輝いている世界です。この世界へ入ればいいのです。私たちは花を見て、その美しさが分かります。月を見ると、その美しさが分かります。その意識が命の原形です、命の原形を自分の立場にすれば、死なないのです。

そういう気持ちになれば、現世の家族はないのです。月を見ている感覚で、自分の家族を見るのです。そうすると、生まれる前の原形が分かってくるのです。私たちはこれを経験するために、この世に生まれてきたのです。これがとこしえの命の一番分かりやすい入口です。聖書はこれを教えているのです。

「野の獣は狡猾である。へびが最も狡猾である」と言っています。では、狡猾ではないのはどこにあるのか。皆様がお茶を一杯飲む時、心して飲めば、純粋経験を味わうことができるのです。

女性の顔をじっと見れば、純粋な女性が分かるのです。そうすると、セックスの感覚が変わってしまうのです。本当のプラトニックラブとはどういうものなのかが分かってくるのです。

狡猾の感覚を、肉の思いと言います。パウロは、「肉の思いは死である。霊の思いは命であり、平安である」と言っています。西田幾多郎氏には、純粋経験という思想はありましたが、実感がなかったのです。私たちは純粋経験を実感として受け止めることができるのです。

これを本当に実感したいと思うなら、まともに月を見るところから始めて頂きたいのです。そうすれば、生まれる前の神の命、神の愛が分かってくるのです。「汝、わが前に歩みて全かれ」という心境が分かってくるのです。純粋経験を実感しますと、狡猾が消えているのです。そうすると、家族の愛し方が変わってくるのです。

本当に神に生きるということは、なかなかできるものではない。イエスが本当に生きていた生き方、イエスがアイ・アム・イン・ザ・ファーザー(I am in the father. )と言っていた生き方の中へ自分が入っていくということは、生易しいものではありません。しかし、これをしなければ、地獄へ行かなければならないのです。

人間の目の働きは、人間の目の輝きではない。神の御霊の働きだということが、西田幾多郎氏に分からなかったのです。彼は人間の知識を越えた命の純粋な働きがあると言っていたのです。理屈では分かったのですが、実感がなかったのです。彼は純粋経験を実感していなかったのです。

人間は肉の家族を造るため、肉の生活をするために生まれてきたのではありません。神の国へ入るために生まれてきたのです。イエスは、「汝ら、まず、神の国と神の義を求めよ」と言っています。私たちはこれをするために生まれてきたのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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