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とこしえの命


ヨハネの黙示録に、「また、もう一人の御使いが生ける神の印を持って、日の出る方から上ってくるのを見た」とあります(7・2)。日の出る方とはどこの国かということです。地理的に見ますと、文明国の中でフィリピンと日本が極東になります。フィリピンと日本のどちらが先に日が出るかです。

日本の午前五時は、フィリピンの午前四時です。日本の方が一時間早いのです。そこで、日が出る国というのは、日本に対して言われたと考えざるを得ないのです。日本が太陽が一番早く上る国です。日出る国から預言者が出ると預言しているのです。その通りになっているのです。

人間の生活には、世の初めの前、未生以前の世界で習ってきたことをそのまま行っている面と、この世に生まれてから肉の欲に従って考えている面と、両方あるのです。

例えば、男女の関係でもその中に、生まれる前の光によって明らかにされている男女の本質を、骨の骨と言います。また、闇によって考えさせられた肉の思いの方を、肉の肉と言います。女性を見る場合でも、骨の骨という見方と、肉の肉という見方と両方あるのです。

そのように、聖書が分かってきて、本当にこの世を出て神の国に入りたいのなら、聖書にその道路、道筋が書いてあるのですから、それを通って行けばいいのです。それは、狭き戸口、厳しいドアーです。しかし、正確なドアーから入らなければいけないのです。正確なドアーを開けて、そこから入るのです。裏口からごそごそともぐり込むな言っているのです。

世の初めの前に隠れたことが、今現われているのです。

骨の骨の女を見るか、肉の肉の女を見るか。女というのは霊です。霊が現われているのです。どちらの女を見るか。どちらの女を見るかによって、永遠の運命が決まるのです。自分の見方だけで世界が決定するのです。

聖書に次のように書いています。

「さらに神も、しるしと不思議と様々な力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、証をされたのである。

一体、神は私たちがここで語っている来るべき世界を、御使いたちに服従させることはなさらなかった。聖書はある箇所で、こう証している。

『人間が何者だから、

これを御心に留められるのだろうか。

人の子が何者だから、

これをかえりみられるのだろうか。

あなたは、しばらくの間、

彼を御使いたちよりも低い者となし、

栄光と誉れとを冠として彼に与え、

万物をその足の下に服従させて下さった』」(ヘブル人への手紙2・4〜8)。

新約聖書は神の国を語っているのです。神の国を来らせることが、イエスがやって来た目的です。キリストの復活によって、神の国が実現したのです。

宇宙には霊なる面と肉なる面と、二つの面があるのです。例えば、目に見える銀河系と、目に見えない銀河系があるのです。目に見える銀河系は望遠鏡で見えますけれど、目に見えない銀河系は望遠鏡では見えないのです。

目に見える宇宙と、目に見えない宇宙とがあるのです。目に見えない宇宙が、目に見える格好で現われてはいますが、これは宇宙が永遠的に安定するためのあり方なのです。

今、目に見えない面が目に見える面として現われているのです。なぜそうなっているのかと言いますと、目に見えない霊なる面を、一度目に見える形で現わしてしまうと、目に見えない面が目に見える形に現われたことによって、存在が確定するのです。

光と闇との両方によって良しと認められたことによって、絶対不変のものになるのです。これが神の国です。ユダヤ人にこれが分からない。モーセにこれが分からなかったのです。

空なるものがなぜ色になったのか。空なるものを空なるままで置いておけば、空は永久の実体にならないのです。般若心経の空はただの空です。空が色になって、空と色とがアウフヘーベンされて、色と空とが第三のものになって現われる。これが復活です。新しい創造です。

霊なる神が肉なる悪魔を、完全に克服してしまう。肉なるものが完全にまいったと言ってしまうと、肉というセンスが消えてしまって、肉が霊の中に飲み込まれてしまうのです。肉が霊によって飲み込まれてしまって、完全な存在になるのです。霊であり肉でもある完全な存在になる。文句のつけようがない完全な存在が現われる。これがとこしえの生命です。これが復活です。

復活は新しい創造であって、単なる甦りとは違うのです。これをイエスが実行したのです。

なぜ空と色があるのか。般若波羅蜜多とは何であるのか。彼岸というのは、色なのか空なのか、どちらなのかということです。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色というが、どちらが般若波羅蜜多になるのかということです。

色も空も一つになってしまうのです。そして、霊になるのです。これが本当の波羅蜜多です。仏教ではこの説明ができないのです。イエス・キリストの復活によって、初めて波羅蜜多が証明できるのです。だから復活が分からなければ、本当の霊の説明ができないのです。今、私たちが肉体的に生きているのは、霊なのです。

人間の欲というのは、よくよく考えてみると、実は神の霊感です。神の霊感、御霊による霊感が、人間の魂に働いている。これを肉の角度で受け取るから欲になるのです。神の御霊の霊感が人間の魂に働いている。これを霊に従って受け取れば、純粋の霊になるのです。

人間の生活感覚というのは何か。恋愛感覚のルーツはどこから来ているのか。生まれる前から来ているのです。生まれる前に学んでいなければ、恋愛は成立しないのです。生まれる前に学んでいなければ、男が女に惚れるということはないのです。未生以前の人間の霊魂の素質が、そのようになっているのです。

アダムとエバの場合でも、「これこそ、ついに私の骨の骨」とアダムが言っています(創世記2・23)。エバからは言っていないのです。これこそ、ついに私の骨の骨、これはすばらしい愛の告白です。この告白をアダムがしているのです。それをエバはただ聞いているだけです。

こういうものはすべて、先天性から来ているのです。皆様が食事を作るにしても、そういう感覚は、すべて生まれる前の霊なるものから来ていることを、よく考えて頂きたいのです。

そうすると、今生きているのは御霊であることがよく分かるのです。御霊によって生活しているのです。

これが分かってくると、人間は神の前で隠さなければならないことは、一つもないのです。ルーツが未生以前ですから、隠す必要はないのです。イエスはそれをしていたのです。

イエスは「安息日は人のためにある。安息日のために人はいるのではない」と言っています。安息日は人のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるのではない。これがユダヤ人に分からないのです。

人間は大変な誤解をしているのです。その原因は何かと言いますと、唯一の誠の神が分かっていないからです。

イエスは言っています。「永遠の命とは、唯一の誠の神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることであります」(ヨハネによる福音書17・3)。

聖書を間違いなく、本当に正しく読もうと思ったら、この十七章三節を実行したらいいのです。これが欧米社会ではできないのです。欧米人は唯一の誠の神を知ることができないのです。なぜかと言いますと、二枚腰で生活することができないからです。日本人とユダヤ人は二枚腰で生活するのです。

私は若い時から、本気で腹を立てたことがないのです。腹を立てたような格好をすることはしばしばありました。その時でも、二枚腰でいたからです。これは典型的な日本人と言えるかもしれません。めったに本心を口に出さないのです。普通の日本人はそれを平気で言っているのですが、神が分かってくると、それが言えなくなるのです。

ありてあるものが神です。二枚腰を使っておれないのです。唯一の誠の神が分かると、二枚腰も一枚腰もないのです。生きていることの実体が神です。これはかけひきも何もないのです。

唯一の誠の神であるあなたが分かってから、私は二枚腰であることをやめたのです。二枚腰になる必要はないし、なってもしょうがないからです。自分が神経を使うだけだからです。神が分かってくると、イエスが生きていた生き方が分かってくるのです。

存在とは何か。ありてあるとは何かということです。ありてあるとは、生まれる前の状態です。生まれる前の状態そのものを、ありてあるというのであって、生まれる前の状態が今、ここにあるのです。

ありてあったことが、今、ありてあるのです。今、ここにあるということが、そのまま未生以前になっているのです。未生以前のことが、今ここにあるのです。

「世の初めの前に、あなたのそばにいた時の栄光によって、私を輝かせて下さい」とイエスは言っています。イエスは死なない状態で生きていたのです。

私がいうことを黙ってお聞きになって、それを素直に受け取ったら、まず、唯一の誠の神でいますあなた、父なる神の御名、ありてあるもの、エホバが分かります。

生まれる前も生まれた後も区別がないのです。従って、死んでからもないのです。生まれる前も、今、現世を去った後も続いているのです。皆同じものです。地獄へ落ちるものがどこにもないのです。

そこで、とこしえの命とは、唯一の誠の神であるあなたを知ることなのです。生まれる前の状態で生きていることが、イエスです。エホバは我が救いということが、イエスの御名です。

生まれる前の状態が今ここに生きているから、これがエホバです。私が生きているのではない。生まれる前のルーツが生きているのです。これ以外に救いはないのです。

これはイエス・キリストが使いこなしていた、唯一最高の処世法です。だから、イエスは復活した。復活したのは当たり前です。生まれる前の状態で生きていたから、復活するに決まっていたのです。

皆様は現世に生きている時に、思い煩う必要は何もありません。永遠の命に必要なことだと思ったら、何をしてもいいのです。皆様は自分の霊魂に問えばいいのです、魂が何を求めるのか。魂が求めていることの原則と一致することなら、何をしてもいいのです。どんな方法を用いてもいいのです。要するに、神の国に入ったらいいのです。

「自ら欲する所を行いて則を越えず」です。掟に反することにはならないのです。生まれる前の感覚で見ているのです。死ぬことがないのです。やがて、この世を去ることはあります。花は枯れ、人は去る。ですから悠々とこの世を去ったらいいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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