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イエス・キリストの再臨


エネルギーには、生きているというエネルギーと、物を考えながら生きるというエネルギーと、二つあります。考えながらというのは、ホーリー・スピリット(Holy spirit)になっているのです。ホモ・サピエンスというのは、はっきり聖霊の宮になっているのです。

人間は命を自分で自覚しています。生きていると思っています。生きていると思うこと、また、自分の人格を自分で自覚すること、人格と生命を自覚することが聖霊の宮です。聖霊の宮ですから、これは人間がいない証拠になるのです。人間がボディーで生きているそのことが宮です。

人間が生きているのではない。御霊が生きている。しかも、悟りをもって、意識をもって生きている。これが自ずからというものです。

パウロは、「身においても霊においても、神の栄光を現わしなさい」と言っています。霊においてとは生きている状態を意味するのです。意識機能において神の栄光を現わすことを言います。身においてもというのは、生理機能な状態を意味するのです。霊においてもというのは、心理機能的にという意味です。生理機能的にも、心理機能的にも、両方で神の栄光を現わすのです。

自分が生きていると考えると、ボディーが生きていると思えるのです。ボディーが生きているのではない。ボディーの働きが生きているのです。

この感覚で五官を用いるのです。五官の感覚というのは、自分の感覚とは違うのです。食べる時の感覚とか、男女の場合にはお互いに触る時の感覚です。これが一番良く分かるのです。

これは自分の経験とは違うのです。自分の命を通して、「おのずから」を経験しているのです。自分の外にある「おのずから」を経験しているのです。

甘いものを食べる時には、甘いものが外にあるのです。それを経験しているのです。自分の中にあるのではなくて、自分の外にある存在です。これが父です。御霊です。父の御霊です。父の御霊を見たり聞いたり触ったりしているのです。

人間は外にある御霊と関係しないで生きていることはできないのです。必ず外にあることと関係しているのです。これが父の内にあるということです。

五官を通して、甘いとか、涼しいとか、暑いとかを感じます。外にある栄光が五官を通して入り込んでくるのです。これをイエスは父の御心として生きていたのです。

イエスはすべてを父の御心として見ていたのです。マグダラのマリアが、髪の毛でイエスの足をふいた。これもまた、父の御心として見ていたのです。

セックスをどのように考えたらいいのでしょうか。自分の愛する人が目の前にいるとします。それが父です。愛する人がいるということが父です。そうすると、人間の欲がなくなるのです。すばらしい感覚だけがあるのです。楽しい、すばらしいという感覚だけがあるのです。こういう感覚で生きることを、パウロは「霊であり命である」と言っています。人間が肉で生きているということはないのです。いつでも霊として生きているのです。

やがて、現代文明は潰れてしまいます。現代の教育、政治、経済、法律、宗教、学問が全滅します。道徳も潰れます。そうするとどうなるのか。今までの政治や経済、宗教、道徳、教育に頼れなくなるのです。何に頼るのか。人間が頼れるのは、生きているという事だけです。学問も政治も宗教もなくなってしまうからです。

現代文明は人間が造った概念です。概念を鎧にして、人間はその影に隠れて生きているのです。その鎧が取り払われると、真っ裸になってしまうのです。どうしたらいいのか分からなくなるのです。

そうして、キリストの再臨が行われるのです。再臨という厳然たる事実があるのです。キリストの再臨は、新約聖書だけで三百十八回書いてあるのですが、人々はこれを信じようとしないのです。

十字架をいくら信じても、復活をいくら信じても、再臨を信じなければだめです。復活したキリストがやがてこの地球へやってくるのですから、やってくることが再臨です。

これは歴史的事実です。歴史的事実ですから、反対できないのです。新約聖書に三百十八回も書かれていますから、必ず実現します。これが実現すると、世界に驚くべき平和が到来します。天候も気候も一変します。地球全体がエデンの園になるのです。

イエスは来るのです。クリスマスがもう一度起こるのです。これが世界の歴史を新しくするのです。今のクリスマスでさえも、世界中がお祝いをしていますが、人間自身に本当の命を与える形において、イエスは来るのです。これは大変なことです。

現在の政治も経済法律も皆だめになります。イエス・キリストの復活という厳然たる事実が、目の前にやってくるからです。

ところが、ユダヤ人が悔い改めないかぎり、また、ユダヤ人を覆さないことにはイエスは来ないのです。これが大問題です。ユダヤ人の悔い改めとはどうすることか。イエスは、次のように述べているのです。

「私は言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とお前たちが言う時までは、今後再び、私に会うことはないであろう」(マタイによる福音書23・39)。ユダヤ人たちがこう言えば、イエスに再び会えるのです。もしそう言わなければ、私は来ないと言っているのです。来てやらないと言っているのです。

イエスは唯一無二の地球の主です。現在は唯一無二の地球の主が留守だから、人間は自分勝手な事ができるのです。自分勝手な事が言えるのです。景気が良いとか、不景気だとか、儲かったとか言っていられるのですが、イエスが来たら、すべての問題が解決するのです。政治も経済も、軍備も解決するのです。

とこしえの命の実物、イエス・キリストの復活の命が、歴史の真ん中に降りてくるのです。キリスト教の人々はこれをはっきり信じていないのです。

イエスは来るのです。今度は贖いのためではなくて、絶対的な権威を持って来るのです。前のイエスは槍で突き殺されたのです。今度来るイエスは、栄光の王として来たるのです。イエスに反対したら、その場で息が絶えてしまうでしょう。

イエスがやって来て初めて、阿弥陀如来の実体が分かるのです。阿弥陀如来の本当の姿が目の前に現われるからです。これなのかということが分かるのです。

親鸞もこれが分かったら、あれほど悩むことはなかったのです。あらゆる宗教が全部間違いだったことが、イエスがやって来て分かるのです。信じるも信じないもない。宗教はばからしくて信じられなくなるのです。

イエスは絶学の人です。絶学無為の閑道人という言葉が臨済・黄檗禅の証道歌にありますが、これはイエスのことです。禅宗でもそういう人がいなければならないことが分かっているのです。絶学無為とは、学ぶべきことを学び尽くしたということです。本当の学問の真骨頂がイエスの復活です。学問の本当の真骨頂の現物が現われるのです。これは理屈も、何もない。ただ平伏するだけです。今そうなれる人は救われるでしょう。そうなれない人はイエス・キリストの再臨の前に、皆滅ぼされるのです。

阿弥陀という言葉が、キリストの復活をさしているのです。阿弥陀とは無限という意味ですが、阿弥陀さんは歴史的事実ではないのです。宗教の観念にすぎないのです。無限、無限といくら言ってもだめです。

イエスの復活によって無限が実証されるのです。パウロは次のように言っています。

「神はこのような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにいる人でも、皆悔い改めなければならないことを命じておられます。

神は義をもって世界を裁くため、その日を定め、お選びになった方によって、それをなし遂げるようにとされている。すなわち、この方を死人の中から甦らせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒行伝17・30、31)。

イエス・キリストの復活を信じない人は、全員滅ぼされるのです。本当の命というのは、イエス・キリストの復活を信じることしかないからです。

義をもって世界を裁く日というのは、イエス・キリストの再臨のことです。キリストが復活したことが神の義です。キリストの復活が歴史の真ん中にやってくると、それに対抗できなくなるのです。これが義をもって世界を裁く日です。全世界の人間が復活によって断固として裁かれるのです。それが定められたのです。

それが実行されるのが、再臨の実体です。イエスが復活したという確証が西暦紀元です。イエスが復活したことによって、人間は死ななくなったのです。人間が死ななくなったしるしに、西暦紀元があるのです。

イエスが誕生したことによって、死なない命、永遠の命が地球に現われた。これは人間がすべて死なない命を持っていることの証明になるのです。

ところが、まだ人間は死ななければならないと思い込んでいる。キリスト紀元が始まったという事実によって、仏国浄土は始まったのです。ですから、阿弥陀さんはいらないのです。極楽浄土が現われたからです。極楽浄土はもう地上に来ているのです。それにまだ死ななければならないと思っている。なぜそんなばかなことを思うのでしょうか。

イエスが復活したということは、歴史的に確証されているのです。万人に保証を与えたのです。イエスが甦ったということが、人間が死ななくなったという保証です。キリスト紀元が始まったことによって、極楽浄土が地球に実現しているのです。もう人間は死ななくなっているのです。ところが、まだ人間は死ななければならないと思っている。

キリスト以前には、キリスト紀元がなかったのです。キリスト紀元がなかったというのは、人間は死ななければならない状態だったのです。キリスト紀元ができたということは、神が人間の命に対して保証を与えたのです。これがキリスト紀元です。暦年算定の基礎にキリスト紀元が設定されたということは、神がこれを認めたということです。

神が認めた以上、人間は死ぬはずがないのです。キリスト紀元というのは、そういう素晴らしい意味があるのです。

西方極楽浄土と言いますが、これは西方ではない。もう地球上に現われているのです。ところが、人間はそれを信じない。心を開いて、神の保証を受け取ればいいのです。受け取らなければいけないのです。例えば、百万円の小切手があるとしても、その裏に署名捺印して銀行の窓口に提出しなければ、現金になりません。死なない命、永遠の生命の値打ちは百万円どころではありません。一兆円よりもっと価値があるのです。それを神がただで与えようとしているのですが、なぜ受け取らないのでしょうか。それを受け取らなければ自分のものにならないのです。神の保証を受け取らないから、もらえないだけのことです。

ところが、私の言うことが分からないと言われます。分かるとか分からないということではない。受け取ったらいいのです。おのずからの人間がおのずから現われて、人間が死なないことを神が保証したのです。イエスを復活させたということは、人間は死ぬべきものではないということを、神が保証したのです。

イエスは十字架につけられたことによって遺言した。この遺言を受け取ることができる者は誰か。イエスは自分の肉を十字架につけたのです。イエスの肉が十字架につけられたことを信じる者は、遺言が実現するのです。信じない者には実現しないのです。イエスの十字架によって、肉の命がなくなったのです。しかし、肉の命がまだあると思っている人には、イエスの命が受け取れないのです。これが遺言の条件です。

この遺言(New Testoment )を自分のものとするためには、キリストと共に十字架につけられたことを認める以外にはないのです。これはつらいことかというとつらくないのです。自分がいるからつらいのです。

例えば、病気になったとします。これは訓練のために与えられたのであって、病気という事実はないのです。どういう訓練かというと、キリストが十字架につけられたことを、本人に知らせようという神の愛によって、病気になっているのです。神は病気を与えているのです。これを有難く頂戴すれば、その時自分の肉はキリストと共に十字架についているということが、認識できるはずです。

この世において人間は、悩みとか苦しみは一つもないのです。キリスト紀元があるのに、なぜ人間は苦労しなければならないのでしょうか。ましてや、なぜ人間が死ななければならないと思うのでしょうか。

地球上から死がなくなっているのです。これが復活によって人間に与えた神の保証です。神の保証を信じなくて何を信じるのでしょうか。神の保証は、生命保険会社の保証よりもっと確かです。生命保険会社は倒産することがあるかもしれません。神は絶対に倒産しないのです。神の保証は絶対に間違いない。ただ信じたらいいのです。信じたら直ちに与えてくれるのです。

皆様はもう死なない人間になっているのです。これを受け止めさえすればいいのです。神の保証、天の保証を受け止めるのです。そうすると、事実になるのです。この保証は肉体が火葬場で焼かれても全然変わらないのです。魂に死なない命が与えられた保証ですから、肉体の生死には関係がないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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