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  • 管理人chaya

土に属する人と天に属する人


パウロは次のように述べています。

「死人の復活も、また同様である。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに甦り、肉の体で蒔かれ、霊の体に甦るのである。肉の体があるのだから、霊の体もあるわけである。

聖書に『最初の人アダムは生きたものとなった』と書いてあるとおりである。しかし、最後のアダムは命を与える霊となった。最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。

第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属して人々は等しいのである。

すなわち、私たちは土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう」(コリント人への手紙15・42〜49)。

ここに土に属する人と、天に属する人という言葉があります。これがすばらしいヒントになるのです。聖書はどこを取り上げてもすばらしいのですが、土に属するということと、天との関係はどうなるかです。土は現在の大地です。現代的に言えば地球になるのです。地球に属する者と、天に属する者とがいるのです。

大体、地球という言い方は好ましくないのです。土に属するという言い方の方が、哲学的に高いのです。本当は地と書いて、つちというふりがなをうてば、思想的には一番良いのです。こういう感覚が聖書本来の言い方になるのです。

モーセは自分の顔を隠していた、自分の顔を覆っていたのです。

パウロは次のように述べています。

「もし消え去るべきものが栄光をもって現われたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。こうして、望みを抱いているので、私たちは思い切って大胆に語り、そしてモーセが消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔に覆いをかけたようなことはしない。

実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じ覆いが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあって初めて取り除かれるのである」(コリント人への第二の手紙3・11〜14)。

ここに消え去るべきものという言葉と、永存すべきものという言葉があるのです。これが人生観の秘密であって、消え去るべき人生と、永存すべき人生と二通りの人生があるのです。

消え去るべき人生を持っている間に、永存すべき人生を見つけることが出来た人は、幸いな人です。これが神の福音です。消え去るべき人生と永存すべき人生は、誰にでも与えられています。これはある特別の人でなければ発見できないものではないのです。

ところが、消え去るべき人生を自分のものだと思い込んでいる人は、自分の思いによって自分自身を限定しているのです。これが自己限定の弊害です。

自己限定という愚かな規範、定形を自分で造ってしまっているのです。そうしてそれが、自分だと思い込んでいるのですが、これが人間の愚かさの本質です。

御霊を受けるということは、この愚かな本質から離脱することを意味するのです。消え去るべきもの、そのような概念で自分を見ている肉の人生観から解脱するためには、肉の人生観ではないもう一つの人生観、霊の人生観を具体的に確立しなければならないのです。

脱人間を敢行する時に、本当の人間の本性が分かるのです。現在の人間が人間だと思っている者は、人間ではなくて人間の幼虫です。人間の未完成品のようなものであって、永存すべき人生こそ誠の人生です。完成された人生です。

死によって束縛されない、死の縄目によって束縛されない人生を、ナザレのイエスは具体的に示してみせたのです。彼は十字架につけられて死んだのですが、三日目に甦ったのです。彼は十字架につけられる前から、自分が三日目に甦ることを知っていたのです。

これはただのライズ・アゲン(rise again)ではなくて、レザレクション(resurrection)、復活であることを、彼は生前に言明していたのです。

イエスは十字架にかかる前に「私は甦りであり命である」(ヨハネによる福音書11・25)と言っていたのです。実は甦りを経験しない命は、本当の命ではないのです。復活というのは、ライズ・アゲンではないのです。死んだ人がもう一度息をふき返すという意味ではなくて、新しい命として自らを完成させることです。宇宙生命の具体的な表現形式としての人間です。永遠の生命の具体的な形としての人間を本当に現わすことが、いわゆるレザレクションでありまして、この思想は新約聖書以外にはありません。

旧約聖書にその原形はないとは言えませんが、新約聖書において初めて、具体的な形で現われているのです。これが復活です。

甦りという言葉と、復活という言葉は、内容が全然違います。成長の家の人々は、「甦りはしばしばあるのだ。イエスだけが甦ったのではない」と言っています。これはイエスの復活を全然知らない人の意見であって、御霊を受けた者でないとそれは分からないのです。

キリスト教の信者でも、復活という言葉と、甦りという言葉とは違うということくらいは言いますが、では復活とはどういうものなのかが、はっきり分からないのです。復活というのは、天地宇宙の立場から言ってどういうことになるのか。これに答えられるキリスト教徒は一人もいないのです。

パウロはダマスコ途上において、太陽よりもさらに輝く光を見ました(使徒行伝9・1〜9)。ダマスコにおける真昼の太陽というのは、恐ろしく輝くものです。かつて、真夏に、エジプトのルクソールに行きました。日向で五十度以上、日陰でも四十度もあり、想像以上の暑さで、汗が滝のように流れ落ちました。真夏のエリトリアも想像以上の暑さでした。日本等の湿度の高い所ではなくて、中東地方の真昼の太陽は、恐ろしい輝きがあるのです。全く燃えるような太陽ですが、それよりもさらに輝く太陽を見たのです。

真昼の太陽よりもさらに輝く光をパウロは見たのです。太陽よりもさらに輝く光とは何か。これは復活という超物理次元のものが、物理次元の形をとって現われたのです。これをパウロが見たのです。

本当の光を見たのです。創世記の第一章三節で、「神は『光あれ』と言われた。すると、光があった」とありますが、この光は太陽の光を意味しないのです。太陽の光の原形です。

太陽ができたのは第四日目です(1・14〜19)。「光あれ」と言われたら光があったという光を象徴するのが太陽です。太陽は光を形容しているのであって、光そのものではないのです。光そのものは、この世が造られる前に、神の内に輝いていたのです。その形容が現在の太陽です。

ところが、キリストの復活によって神の内に輝いていたものが、神の外に輝き始める端緒ができたのです。神の内に秘められていたものが、神の外で輝くことになった。やがてこれは、新天新地で実現します。パウロはそれをダマスコ途上の門外において、瞬間的に見たのです(ヨハネの黙示録21・3)。瞬間的に経験したのです。

イエスは信仰によって、神の内に秘められていた光を引き出したのです。「私は甦りであり、命である」というのは、レザレクションであって、イエスは信仰によって神の内に秘められていた光を、外界に輝き出させるようなチャンスを造ったのです。

これは物質の大革命です。大革命という言葉ではとても現わせない驚嘆すべき宇宙の変革です。現在の目に見える物質は、皆表象ばかりです。形容ばかりです。譬ばかりです。木というのは木の譬です。鉄は鉄の譬です。本当の鉄はまだこの地球に現われていないのです。本当の木も現われていないのです。本当の土もまだ現われていないのです。

今の地球の土は、本当の土の譬です。譬だけでもこれほどしっかりしているのです。そうすると、本当の土とは一体何でしょうか。これは御霊を受けなければ分からないのです。これを経験したければ、新に生まれることです。新に生まれなければ、絶対に本当のことは分かりません。携挙されなければだめです。この立体宇宙には、こういう秘密が内包されているのです。

消え去るべきものが栄光をもって現われた。これが今の地球です。それでさえも、このように太陽が輝いており、美しい大自然になって現われているのです。ところが、永存すべきものがあるなら、もっと栄光あるべきものなのです。

桜のシーズンになって、吉野山の桜は下千本、中千本、上千本と咲いていきます。その光景はこの世のものとは思えない驚嘆すべき美しさです。吉野山の旅館「桜花壇」の三階から如意輪堂を眺めると、その光景は一週間見ていても、十日見ていても、一向に飽きないのです。こういう消え去るべきものでさえも、このような栄光を持っているのです。消え去るべきものでも、このように麗しさを持っているとすれば、ましてや永存すべきものの栄光は、言語に尽せないすばらしいものであるに違いないのです。

とにかく、現在の皆様は常識だけで生きているのでありまして、社会と親とによって子供の内にばかにされて、幼い時より思う所はことごとく悪になったのです(創世記6・5)。幼い時から、人間の思うことは皆悪です。だから人間を全部滅ぼそうと、神が決心したのです。

ところが、洪水の後に神は言っています。

「私はもはや二度と人のゆえに地を呪わない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである」(創世記8・21)。

人間は幼い時から悪いのです。三才、四才の頃から悪いのです。肉体的な親を親だと思い始めた時から間違い始めるのです。また、親がそう教えるのです。「今日は赤ちゃん、私がママよ」と歌にして教えているのです。教えるから、ママはこの人かと思い込んでしまうのです。

親が子供に肉を信じるように教えまくるのです。その結果、肉体的な親があると思い込んでしまうのです。親も悪気があってしているのではないでしょう。親自身もその親からそう教え込まれたのであって、親から受けたとおりのことを子供に教えているのです。これは動物教育です。

動物は皆そうするのです。サルでもライオンでも、ゴリラでも、親から受けたことを子供に教えるのです。これが動物の習性です。動物の習性は、自分が教えられたことを、そのまま教えるのです。今の人間文明は、そればかりしているのです。

この鉄則を破ってしまうのです。この黒金の鎖を断ち切ってしまうのです。これがイエス・キリストの十字架です。十字架は人間自身のあらゆる伝統、あらゆる伝承、人間の言い伝え、常識知識、学理学説を全部切ってしまうのです。これが十字架の業です。

これは誠に驚くべきことですが、イエスが生まれたことによって、人間の歴史が全く新しく始まったのです。これが西暦紀元元年です。

イエスが生まれたことによって、初めて世界の人間に新しい歴史が訪れたので、イエスが生まれた年が紀元元年になったのです。西暦紀元ではなく、紀元だけでいいのです。東洋から見ると西暦になりますが、現在では東洋も西洋もないのです。世界は一つになっているのです。紀元だけでいいのです。

イエスによって宇宙の歴史が新しくなったのです。ただ歴史が新しくなっただけでなくて、宇宙の物理的存在の原理が新しくなったのです。イエス・キリストの十字架というのは、科学的な意味での大革命です。宗教的な意味での大完成です。

人間は消え去るべきものの感覚だけで生きているのであって、消え去るべきものがあたかも永存すべきもののように思い込んでいるのです。従って、現在生きている人間は死んでしまうに決まっているのです。それで人間は終わりだと考えているのです。

死んでしまえばそれまでだという考え方は、肉体的に生きている人間だけが本当の人間であって、それが死んでしまうのは仕方がないという考方なのです。死にたくはないが、死ななければならないものなら仕方がないとして、悲しい悲しい諦めをしているのですが、これがばかばかしい自己限定です。

自分で自分の思想を縛っているのです。死を破って死の外へ飛び出そうとする、はつらつたる勇気を持っていないのです。永存すべきもの、永存すべき人生に、目を開こうとしないのです。死にたくない、死にたくないと思いながら、死なねばならないような自己限定にとらわれてしまっている。そういう自己限定に閉じ込められている。こういうばかばかしい迷いを煩悩というのです。無明というのです。

イエス・キリストの十字架によって、何がなされたのか。これは概念ではなくて、実体的に人間に永存すべき生命の実体が提供されたのです。これは人間の生命だけでなく、万物の存在に、永存すべき実質が具体的に与えられたことを意味するのです。

イエス・キリストの十字架は、大宇宙の徹底的な改造です。徹底的な革新です。私たちはこういう悠遠な、すばらしいスケールにおいて、本当の意味での世界観に巡り会うことができるのです。そこで価値観もまた、このような世界観において成立しなければならないのです。

こういうことを考えると、自分自身からの離脱によって、そうしてイエス・キリストを信じる信仰において、改めて自分を見直すことが可能になるのです。

消え去るべきものとは、土に属するものです。永存すべきものは、天に属するものになるのです。「土に属するものは土に属するものに似る、天に属するものは天に属するものに似る」とあります(コリント人への第一の手紙15・48)。土に属するものは土に属する形を持っている。天に属するものは天に属する形を持っているのです。土に属している形を持っている人間と、天に属している形を持っている人間と、人間には二通りあるのです。

皆様は現世において、土に属する形を否応なしに持ってはいますけれど、これは天に属するものの形を持つ前の前提条件として存在しているのです。まず一応土に属する形を持たなければ、天に属する形を持つことができないからです。これは宇宙的な法則です。宇宙の格率です。

まず現象体から入って、霊体の方へ移っていく。現象の壁を破って、その向こう側にある誠のもの、霊体なるものに到着するのです。

例えば、夫婦と言っても、現象体の夫婦は本当のものではないのです。現象体の向こう側へ抜けてしまったのが、本当の夫婦です。現象体の形の夫婦、肉の夫婦だけが夫婦だと思っていますと、とんでもないことになるのです。全く間違ったものになってしまうのです。これを良く考えて頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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