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  • 管理人chaya

新しく生まれる


聖書に次のようにあります。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、私たちは知っている。

神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」(ローマ人への手紙8・27、29)。

御子、即ちイエス・キリストを長子とならせるため、そして召された多くの者たちを、御子のかたちにかたどられる。これが救いであるとパウロが言っているのです。

神の宇宙計画の中心がこれです。神の宇宙計画を簡単に言いますと、神が天地を造られた。万物を造られた。天地万物として己自身を現わされたのですが、それは神ご自身の完成のためであり、宇宙完成のためであると同時に、御子の完成のためでもあるのです。

御子という言葉は、複数の意味があるのです。単数の御子であるイエス・キリストを長子とする複数の御子がいるのです。長子と次子、三子以下の複数の御子がいるのです。

イエス・キリストを中心とする御子の集団が、神のエクレシア(教会)でありまして、これが完成することは、命にありて王なる人たちが完成することになるのです。

命にありて王となる人たちが、支配権を神から与えられて、天地を支配することが、新天新地における構想になるのです。これが福音の正体です。

現在生きている人間は、未完成の人間であって、本当の人間ではありません。現在生きている人間の中には、神の子となるべき素質が与えられている面が既にあるのです。と同時に、悪魔と共に滅ぼされるべき面があるのです。これが肉の面です。肉の面と霊の面の両方が同居している形で、現存在の人間がいるのです。

普通の顕在意識では、肉の面だけしか意識していません。これがいわゆる知識、常識です。肉の面だけしか意識していませんから、霊の面のことは全然分からないのです。そういう面には関係がないと思っているのです。

肉の面の自分が自分だと思っている。これが自我意識の人間です。これが顕在意識であって、深層心理としての人間ではないのです。

例えば、現象世界が、いわゆる顕在的な面と、その現象の面を構成している非現象の面とがあるのです。現象世界というものは、目で見ているように天地万物が現象として現われているのです。般若心経は物質的な現象は実体がないと言っていますが、一体空とは何なのかという説明が、全くなされていないのです。

このことは、胸に手をおいて静かに考えてみれば分かるのです。まず、天地には天地本来の命、生命が満ち満ちているのです。命はもちろん非現象です。命が現われているのが、現象です。

命の実質を、神以外の人格に教えるためには、現象体をとらなければならないのです。なぜかと言えば、命というものは本来無形のもの、形がないもの、目に見えないものです。目に見えないものを神以外の人格に悟らせるためには、目に見えるものとして現わさなければならないのです。

神ご自身はもちろん命自身ですが、神以外の人格、例えば、人間とか天使に本当の命の実質を知らせようとするためには、彼らが認識できるような方法で、認識させなければならないのです。

肉体がなければ人間が分からないし、魂が分からないのです。そこで神は、魂に肉体を与えて、肉体的経験をすることによって、魂が何であるかを悟らせようとしているのです。同時に、魂が何であるかを悟ることによって、命が何であるかを知ることができるのです。こういう三段論法になっているのです。

まず肉体的な人間が存在しなければ、霊魂が分からない。霊魂が分からなければ、宇宙の命の本現である神が分からないのです。

そこで、現象世界が現われなければならないことになったのですが、現象世界そのものに意味があるのではなくて、現象世界が示している命に意味があるのです。物質的現象が実体なのではなくて、命という実体を現わすために、物理的な現象があるのです。

空が色として現われている。空の実体は何かと言いますと、命です。命の働きそのものが、空として働いている。空というのは形態がないもの、五官では触れることができないものですが、五蘊皆空が分かって初めて、空に触れることができるのです。

五蘊では分からないのが空です。人間の五官では直接に分からないのが空です。空が命の実体でありまして、人間の五官は命の実体に触れてはいるが、悟ってはいないのです。そこで、五蘊が皆空であることを知って、空が本体であること、形がないもの、見えないものが本体であることを知ることができるのです。

空即是色が同時に色即是空であることを悟ると、空という目に見えないものが主体になって、目に見えるもの、即ち色が造られているということが分かるのです。現象世界は空が色になって現われたものです。現象世界の実体は、目に見える色ではない。空が実体です。これを般若心経は言っているのです。

人間の肉体は色です。これは空によってできているのです。この場合の空というのは、魂です。魂が本体となり、肉体が入れ物となって、人間存在が現われているのです。このような過程を経なければ、神を知ることはできないのです。

神は人間を現象世界へ現わされたのですが、これは神以外の人格、または天使に、命、または神ご自身の実体を悟らしめるためなのです。これが目的です。そこで、肉体をとって現われた人間を召すのです。召すという言葉が、ローマ人への手紙の第八章三十節で使われていますが、召すというのは、呼ぶ(coll)という意味です。呼び出すのです。

人間は何のために呼び出されたのかと言いますと、二十九節にありますように、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」と書いています。あらかじめ定めて下さったというのが、呼び出される人間の前身のようなものです。これは二十八節にあります。

「神は、愛する者たち、すなわち、計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、私たちは知っている」。ご計画に従って召された者たちが呼び出されているのです。呼び出されたものは、あらかじめ定められていた者です。

今、土俵の上に上がっている私たちは、御子の形にかたどらせられる所までいっていないのです。ようやく、御子の形にかたどらせられるという意味が、理解されつつある段階です。

私たちの外形も内形も、御子の形にかたどらせられることになりますと、まず自分という意識が消えてしまわなければならないのです。自分という意識があるままでは、意識が御子の形になっていません。自分という意識があるままで生きていたのでは、御子ではありません。固有名詞の自分です。

固有名詞の自分という認識がだんだん薄れていって、やがてなくなってしまうのです。自分は御子なのだという意識が、確立される段階があるに決まっているのです。これをしなければ、神が人を呼び出された意味がないのです。いつまでも自分であるのなら、土俵の上に呼び出された所で、何もならないのです。

皆様は現在、御子と同じようなものにされようとしているのです。形態的にも、心理的にも、形の上でも、心の上でも、両方共、栄光のキリストと同じものに変えられてしまうのです。ですから、今ある皆様と、変えられた皆様とは、全く問題にならない位に違うのです。

ところで、神を信じない何十億人もの人がこの地球にいるのです。その人たちを神が養っているということは、第三の天にいるキリストの祈りのおかげです。神に反逆している全世界の人間を、なぜ神が養い続けているのでしょうか。神を無視し続けている全世界の人間たちを、なぜ神が養い続けているのでしょうか。そんな義務が一体どこにあるのでしょうか。そういう人間を生かし続けなければならない責任が、なぜ神にあるのかと言いたいのです。

神はこのような人間を造ったことを後悔しているのです(創世記6・6)。後悔している人間を、なぜ養わなければならないのか。こんなものを造って、大失敗したと神が後悔しているのです。

人間が思い計る所は、常にただ悪のみです(同6・5)。人間が考えることは、悪ばかりです。悪ばかりの人間、そのような思いに満たされている人間を、なぜ神が養わなければならないのか。これはキリストが第三の天において、「父よ彼らを許したまえ」と祈っているからです。

今地上に生きている人間は、私と同じものだ。私がかつて肉体を持っていたように、彼らは今肉体を持っているのです。私がかつてこの地上で肉体を持っていた時に、父ご自身を見ることができた。ひょっとしたら、父を見ることができる人が出るかもしれないから、滅ぼすのを待って下さいと言っているのです。彼らは今、肉体を持ってぼけっとしていますけれど、私があなたの御心を弁えることができたように、彼らもあなたの御心を知ることができるかもしれないので、どうぞ待って下さいと言って、キリストは祈っているのです。

この祈りがあるために、神は愛をもって私たちを養わなければならないのです。このすばらしい祈り、大キリストの祈りがなければ、地球は滅んでいたのです。どうして全世界の人間が養われる資格があるのか。生きる資格がどこにあるのかです。第三の天におけるイエス・キリストの祈りがあるから、生かされているのです。毎年、毎年、たくさんの米や麦が収穫されて、牛や豚が育ち、魚が育つのです。

そこで、このイエスこそ自分の主であることに気がつく者は、主ご自身と同じように、主ご自身にかたどりて、同じような考えにされていくのです。イエス・キリストに同化されていくその道程を歩ませられているのです。これが現在の私たちのあり方です。今私たちは、御子に同化する道すがらを歩ませられているのです。

パウロは言っています。

「すなわち、あなたがたは以前の生活に属する、情欲に迷って滅びゆく古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新にされて、真の義とをそなえた神のかたどって造られた新しい人を着るべきである」(エペソ人への手紙4・22〜24)。

古き人を脱ぎ捨てて、心の深みまで新にされるのです。心の深みまでも新にされるという所を、英訳では心の霊を新にされて訳しています。and that ye be renewed in the spririt of your mind. となっています。

心の霊というのは、心の深みと訳してもいいのですが、状態と言った方がよく分かるでしょう。精神の状態が心の霊です。

心はハートではありません。マインドです。マインドの状態、マインドのコンディション、またはマインドのイメージです。人間のマインドを形造っているのは、心理的なイメージによるのです。そこで、イメージを新しくすれば、マインドが新しくなるのです。

肉欲によって惑わされている古き人の感覚を捨ててしまうのです。固有名詞の感覚を脱ぎ捨ててしまいますと、肉欲によって生きていた肉性の感覚が落ちてしまうのです。そうして、心のイメージが変化するのです。心の霊が新にされるのです。その結果、肉に従って見ることがなくなって、霊に従って見ることが可能になるのです。

すぐにそうなるというのではありません。肉の思いが少々あっても構いませんが、それを問題にしないで、霊の思いに従って歩むのです。

「霊の思いは命であり平安である」(ローマ人への手紙8・6)とパウロが言っていますように、命に従って歩むようになりさえすれば、皆様は神にかたどられた新しい人を着ることができるのです。

真の義と聖とにて造られた、新しい人を着ることができるのです。神にかたどられた新しい人を着るということは、創世記第一章二十六節が実現するということです。

神にかたどりて、神のかたちのように人を造るということが、創世記第一章二十六節の預言です。創世記第一章の人間創造は、預言だったのです。これはまだ実現していないのです。

皆様は、これから創世記第一章二十六節のように造られようとしているのです。現在の皆様は、まだ本当に一人前の人間として生まれていないのです。ですから、現在の人間を一人前だと思うことをやめて頂きたいのです。実はまだ皆様は、生まれてさえもいないのです。生まれるというのは、自分自身の意志によって、新に生まれるのです。これが本当に生まれるということです。そこでまず、自分が自分の意志によって、生まれたいと思わなければいけないのです。生きているとは何かが分かって、ああ自分は生まれるべきだ、この命を認識すべきだという意識が発生する。そうして、自分自身の意志によって生まれるということが、断行できる、敢行できるのです。

「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3・3)と、イエスが言っています。新に生まれるとどうなるのか。御子の形に似たものになるのです。神にかたどりて新に造られた人を着るのです。

創世記第一章にある人間創造の完全な人間像です。万物を支配するという人間像です。支配権を与えられ、万物を支配する実力を持った人間像が、皆様の本当の姿です。皆様は自発的な意志によって、このような人間像になれるのです。他動的でなく、自動的に人生経験をすることができる。これが人間完成です。

この人間完成への段階を、今皆様は踏ませられつつあるということを認識して頂きたい。ローマ人への手紙第八章と、エペソ人への手紙第四章を連結するのです。また、ガラテヤ人への手紙第四章では、「キリストの形があなたがたの内になるまでは、産みの苦しみをする」とパウロが言っています。キリストの形が皆様の中に成立するのです。ここまで勉強して頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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