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  • 管理人chaya

死と黄泉からの解放


信仰とは神の考え方です。神の考え方でなかったら信仰とは言えないのです。神の考え方に同意すること、同調することが信仰であって、自分の信じ方がいいとか悪いとか言ってもだめです。

死とは何か。死というのは、罪の則の価です。神が定めた価です。これは客観的事実です。罪人の本質、本性が、そのまま死です。罪人自身がどのように弁解、弁護をしても、言い逃れることはできないのです。

人間は神を知りながら、なお神として崇めていないのです。こういう人間は死ぬしかないのです。いや、もう死んでいるのです。エデンの園で、善悪を知る木の実を食べた者は、必ず死ぬと言われたのです。そのとおり、罪を犯した者はもう死んでいるのです。これが死の実体であって、自分が死んでいると思っても思わなくても、死んでいるのです。

肉の思いを持っていること自体が、本質的に死そのものです。これを解くカギをキリストが持っているのです。死と黄泉のカギを持っているのです(ヨハネの黙示録1・18)。イエス・キリストを主と言う以外に、イエス・キリストが自分の主であると心から言う以外に、また、イエスがキリストであると言う信仰を告白する以外に、死から逃れることはできないのです。

キリスト教をいくら信じていても、自分がどれほど善事善行をしていると言っても、だめです。イエス・キリストを主と言わない限り、その人の命は死んでいるのです。その人の心理状態が死んでいるのです。

イエスを主と言わない状態が死んでいるのです。固有名詞の自分が生きていると考えることが、イエスを主と言っていないことですから、死んでいるのです。固有名詞の自分を自分として確認している人は、死んでいるのです。

死を解くカギを持っているのはキリストですから、キリストを仰ぐ以外に方法はないのです。どんな経験をしても、どんなに自信があってもだめです。神を信じたいという人は沢山いるでしょう。しかし、キリストを信じたいという人は、異邦人社会にはめったにいないのです。

キリスト教を信じたいという人は、かなりいるのです。キリスト教を信じたいという人がいても、本当にキリストが自分の当体であること、実体であることを信じる人がいないのです。キリストの命が自分の命であることを信じる人は、めったにいないのです。

だから、死のカギを持つ人から、死の罪を開けてもらえないのです。死の罪が本当に開かれるためには、自分が生きているという考え方を、はっきり否認しなければならないのです。

黄泉というのは、死の本質を持っている人間の思いから沸き出した状況です。死の則、死の法則を自分のものとしてかぶっている人から沸き出した思いの世界、妄念の広がりです。こういう境涯、状態が黄泉です。

自分がいると考えている人には、いつでも重荷がついて回っているのです。思い煩い、偽りの証が絶えないのです。偽りの証というのは、例えば固有名詞の自分が自分だと考えて行動したことは、すべて偽りの証になっているのです。自分がそう思っていなくても、自分のためとか、固有名詞の自分の利益で行動している人は、その人自身が黄泉を造っているのです。

その人は孤独です。その人が肉で考えている気持ちを、本当に理解してくれる人間は、一人もいないのです。肉の思いははっきり孤独です。肉の思いを理解してくれるのは自分一人であって、誰も理解してくれません。肉の思いははっきり孤独です。孤独であることが、黄泉の本性です。黄泉は独房です。黄泉は一人ぼっちです。

自分の気持ちを人が分かってくれない。人に分かってもらえない気持ちで生きていることが、黄泉にいるということなのです。ただパウロのような人が、自分の信仰を分かってもらえないと思うこととは、次元が違う問題です。

パウロがキリストを信じている気持ちを、ユダヤ人が分かってくれないと思うことは、パウロの気持ちとは違います。パウロとイエスの気持ちを誰かが分かってくれないと言っても、これは孤独ではないのです。パウロもキリストも神と共にいるということが分かっていたからです。

このような状態は黄泉ではないのです。イエスは言っています。「私は私を遣わした方の御心を行っているのであって、父は私を一人にしておかない」。父の御心を行って生きている場合は、父は私を一人にしておかない、孤児にしてはおかないと言っているのです。これは当然のことです。父の御心を行う時には、父の内にあるのです。父が共にいるからです。

「我、父にあり、父、我と共にいます」という状態は、絶対に孤独ではないのです。これは救いです。自分自身の主体的な状態を神がはっきり知っていて下さる。神の御思いが自分の思いとして映ってきているのです。こういう場合は、永遠に神と一つです。

私たちは神においてパウロやヨハネと同じ思いを持つことができるのです。Aという人間とBという人間とが、人間的な思いだけで完全に一致することはできません。肉体を持つ人間なら、それぞれ別の考え方があるのです。ですから、完全に一致することはできませんが、神を通し、また、イエスの御名を通して一つになることはできるのです。

イエスの御名において、A、B、Cの三人の人は完全に心を一つにすることができるのです。イエスの御名を媒体とするなら、完全に一つの思想、一つの命に解け合うことができるのです。これは孤独ではないのです。

しかし、固有名詞の自我を自分の人格としている人は、絶対に一つにはなれないのです。いくら心を一つにし、思いを一つにしなさいと言われても、とても一つにはできないのです。

罪の則から沸き出した気持ちが、自ら黄泉を造っていくのです。自分を孤独にしていくのです。孤独だけならいいのですが、思い煩いとか、憎しみとか、妬みとか、偽りの思いが、雲のように毎日沸いてくるのです。

火が消えず、うじ尽きずという状態にあるのです。胸にある燃える火は消えませんし、うじうじした思い煩いは年中尽きないのです。生きていながら、その人は黄泉を経験しているのです。これはやがて地獄になるのです。現世で生きている間は、まだ地獄そのものは経験できませんが、黄泉は経験できるのです。人間は黄泉に行く前に、肉において生きている状態において、毎日黄泉を経験しているのです。

死と黄泉から解放されるためには、どうしてもイエスがキリストであるということを信じる以外に、方法がないのです。イエス・キリストが死と黄泉のカギを持っているからです。イエス・キリストは、死と黄泉とに対して、絶対的な勝利を持っているのです。彼にお願いする以外に、死と黄泉から逃れる方法はありません。

死とは何か。肉の思いで生きていることです。黄泉とは何か。固有名詞の自分がいるということ、自我意識で生きている自分がいるということ、この思いから沸き出すすべての考えは、黄泉そのものです。

人間の哲学的な理論とか、科学的な知識は、黄泉に対する武装です。芸術家の芸術に対する信念も、黄泉に対する武装でしかないのです。黄泉を囲ってその回りを武装しているのです。思想とか信念、学理学説で囲んでいるのです。ところが、それをしても何にもならないのです。人間の思いが腐っていくからです。

宗教も同様です。自分はこのように信じているとか、教会でこのように学んでいるとかいうのは、自分の黄泉の回りを囲む武装であって、人間の要塞です。神の名によって、キリストの名によって自分の要塞を築いているのです。この神の名、キリストの名は真っ赤な嘘であて、主よ主よというものが神の国、天国へ入るものではないと言って、叩き潰されるだけです。

口で主よ主よというのは簡単ですけれども、本当に心からイエス・キリストが主であるとはっきり自覚できる人は、非常に少ないのです。これは十字架によって古い人が死んでいることを、毎日信じ続けることができる人だけができるのです。これ以外の人は、死と黄泉から解放されることができないのです。

人間の文明は何かと言いますと、黄泉に対する武装です。人間は現在生きている状態を擁護しなければならない必然性があるのです。

現在人間は生きていると考えています。これは神から見れば死んでいることです。しかし、人間はこれでも生きていると頑強に考えています。この考え方がそのまま悪魔の思想です。イエスが「お前たちは悪魔の子であって、死の欲を行おうとしている」と言っています。

人間は自分の正当性、自分の意見を主張すればするほど、偽りを主張しているのです。「偽りをいう時、本音をはいている」とはそのことです(ヨハネによる福音書8・44)。人間は本音を言えばいうほど、偽りになるのです。

人間の正直な気持ちを言えば言うほど、正義人道を主張すればするほど、合理主義、科学主義を主張すればするほど、それがそのまま偽りの主張になるのです。

これが現代の人間の正体であって、これは何かと言いますと、全世界の人間が神に反抗しているのです。これが一体何の価値があるのか、黄泉に対する武装が何の価値があるのかと言いますと、この考えは抱腹絶倒の到りなのです。人間が黄泉に対して、武装すればするほど、自分自身の滅びを早めることになるのです。

ユダヤ人が、また、全世界の人間が、正義人道を主張して、世界平和を願えば願うほど、世界文明の壊滅を早めることになるのです。人間が平和や革命を強調すればするほど、それに比例して世界の滅亡が早まっていくのです。

人間がしていることは、神の約束を促進することばかりです。人間の弁解は黄泉の防衛です。人間は健康法とか、医学の進歩などの色々な方法によって、黄泉にいる人間を防衛しようとしていますが、それがことごとく墓穴を掘ることになるのです。

人間の学問は何のためにあるのか。人間自身の墓穴を掘るためにあるのです。学校教育は人間の墓標です。これを造ったのがユダヤ人です。人間が人間を教育すればするほど、人間はいよいよ死んでいくことになるのです。

人間の不信仰が、神に対してどのような影響を与えるのか。人間が不信仰になると、神が少しでも損をするのかと言いますと、一向に損をしないのです。例えば、エジプトのパロがイスラエルへの虐待を決心すればするほど、神がイスラエルを助けてくれたのです。

なぜそうなるのかと言いますと、人間自身の機能性、人間自身の思考能力は全部神から出ているからです。神について知りうべき事がらは、人間は知っているとパウロがいうように、人間の心理機能はすべて神の栄光の現われです。それを人間自身のために用いるとしても、だめです。

肉の思いで人間の思考能力を用いても、結局神のためにしかならないのです。人間がいくら神を嫌い、神なんかあるものかと言っても、人間がすることなすことは、すべて神の経綸を早めることになるのです。人間の心理機能は神の知恵、神のイメージから出ていますから、それを利用して反抗しようと思っても、そうは問屋がおろさないのです。

悪魔がイエスを訴えた結果どうなったのか。悪魔の立場が壊滅したのです。神の知恵、イメージが悪魔の知恵になっているのです。悪魔は自分の知恵を用いて神を訴えたつもりですが、あにはからんや、神の計画を見事に成就させる結果になったのです。

ユダヤ人をそそのかして、十字架によってイエスを殺すことに成功した。悪魔はイエスに勝ったと思った。ところが、十字架で悪魔は自分が勝ったと思った瞬間に負けていることに愕然としたのです。ああしまったと思ったがどうしようも出来なかったのです。勝ったと思った瞬間に負けているのです。これと同じことを現代の文明はしているのです。自分は神を信じることが嫌いだ、神に服従することが本当に嫌いだと言っても、それは実は神にサービスしているのです。神にサービスして地獄へ行くというばかなことをするよりも、サービスした結果、救われるという生き方をすべきです。

イエスの場に立って神にサービスすれば、百%救われますが、自分の思い、または、人間の思いに立って考えたことは、自分のためにも、人間のためにもなっていないのです。すべて神にサービスしていることになるのであって、このことがユダヤ人に分かっていないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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