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  • 管理人chaya

現実とは何か


モーセは肉の現実を造り、イエスは肉の現実を消してしまった。霊の現実だけにしてしまったのです。皆様には、肉の現実はもうありません。従って、世間の人間のように働かなければならないということもないのです。信仰の訓練として働くことはありますが、現実が神だということだけがあるのです。

現実が神だということを経験するために、「額に汗してパンを食べよ」という神の命令を実行しなければならないのです(創世記3・19)。そうして、現実は神の国であるということの中へ入っていくのです。現実に救いがあるのです。現実における救い、手で触れるような救いでなかったらだめです。

情と欲が十字架につけられた。情と欲がなくなれば、肉があっても何にもならないのです。そうすると、肉体が肉体でなくなるのです。霊体になってしまうのです。

すでに十字架が立っているのです。二千年も前に立ったのです。それなのに、自分の肉が生きている。肉体的に生きている自分がいると思っている。十字架が立っているのに、自分が生きているのはどういう事かと言いたいのです。

食事をしている時には、食事をしているという現実があるのです。食事をしているという現実がありますから、自分はいないのです。現実は自分と他人を分けるのではなく、自分と他人がワンセットになっているのです。他人と自分を含めて現実があるのです。現実に自分がいなければ、その現実は自分に関係がないのです。皆様がレストランに入って食事をするとすれば、レストランがあり自分がいるのです。レストランもないし、自分もなければ、現実はないのです。レストランと自分がワンセットになっているのです。レストランと自分は別々のものではないのです。一つなのです。

レストランと自分が一つになって現実ができている。これを神というのです。食事の色、形、味、栄養価は皆神です。現実の中にあるものは皆神です。レストランがあること、レストランの中に流れている空気も神です。自分が椅子に座っていることも神です。これらの全体が神です。これは宗教の神ではありません。現実の神は「有りて在る」と言います。有りて在ることが神です。肉体的な自分がある。レストランがある。時間がある。コップがある。スプーンがある。地球があるのです。

在の上に生きている状態が現実です。有りて在るということは、そのまま現実を意味するのです。現実の他に、有りて在るという言葉は使えません。有というものの具体的な実在は現実です。在というものの具体的な実在も、現実です。

有というものと在の証明が具体的な現実によってなされているのです。現実以外に、有もないし、在もないのです。これが神の御名です。

私が現実が神だというのは、私の独り合点ではありません。「我は有りて在るものなり」というのは、神の御心です。皆様は有りて在るものの真ん中で生きているのです。

現実をしっかり掴まえなければ、般若心経を理解したとは言えないのです。究竟涅槃ということは、現実をしっかり掴まえることです。こういう解釈の仕方は、世界中誰もしていません。インドでも中国でも、日本でももちろんありません。

究竟涅槃というのは、現実をしっかり掴まえることです。現実をはっきり掴まえると、自分は消えてしまうのです。現実をはっきり掴まえないで、いくら般若心経を読んでも、何のご利益もありません。般若心経のご利益というのは、現実が真実だということです。ところが、人間が考えている現実は真実ではないのです。本当の現実は神の現実だけです。神の現実は、般若心経に徹しないと分からないのです。ここが難しいのです。

現実は当たり前のことです。誰でも知っているようで、誰も知らない現実があるのです。人間が考える現実は、皆嘘です。神の現実が真実です。ちょうど裏表になっているのです。

丁寧に生きるという簡単なことで、過去が消えるのです。過去に生きていたという人間的な生息観念が消えてしまうのです。丁寧に生きると、前頭葉が働くのです。人間の前頭葉は前向きにしか働きません。私たちはいちいち前頭葉を使っていると思っていませんが、生理的にそうなっているのです。

人間の前頭葉の皮質というのは、未来に向かって作動しているのです。未来に向かって作動する力にリビングが入り込んでくると、未来が命になるのです。過去の命はなくなるのです。これが現実に生きるということです。これが丁寧に生きることです。丁寧に生きるというのは、目の前のことを一つひとつきちっと生きるのです。目の前のことを丁寧に処理するのです。これが神を生きることです。

過去にとらわれていると、その人を天使が助けようがないのです。だから、人間は自ら自分で不幸になるような生き方をしているのです。過去の自分の生活とか、肉の思いというのは、現実という肉があると思っているからあるのです。過去があると思っているのは、過去の記憶を信じているからです。

丁寧に生きると、現実が前からやってくることが分かるのです。丁寧に生きるというのは、未来に向かって働いているのです。これを生きるというのです。そういう生き方をしていると、過去の記憶を問題にしていないのです。丁寧に生きれば、過去の記憶はその瞬間に消えているのです。こういうことを実行するのです。そうすると、天使がその人を助けてくれるのです。

これがプレゼンス(presence)において人の子を言い現わすということです。丁寧に生きることが、人の子を言い現わすことです。

自分は丁寧に生きません。自分という人間はせいぜい要領よく、ずぼらをして生きようと思うのです。丁寧に生きるのは、霊に従いて生きているからです。単純で簡単な事ですが、これをユダヤ人は全然考えていないのです。旧約の掟にしがみついているから、そうなるのです。

現実に対する哲学は、ユダヤにはありません。日本にもありません。般若心経に徹底すると、現実に徹底することができるのです。色即是空を生活すると、丁寧に生きることができるのです。

花を活けることに心を注ぎ出していることを丁寧というのです。心を注ぎ出して生きる。そうすると、過去がなくなってしまうのです。肉の思いもなくなっているのです。

女の人は大体丁寧に生きることが無意識にできますが、無意識ではいけないです。意識的に丁寧に生きるのです。靴を揃えて脱ぐのです。物事をきちっと実行する。これが信仰です。これがその人の永遠の生命を造っていくのです。永遠の命というのは簡単な事です。これが山上の垂訓の原理です。

心が貧しいということは、丁寧に生きることです。そうすれぱ、心が貧しくなるのです。これは未だかつて世界の人が知らなかった本当の生き方、本当の生活原理です。人間が新に生きること、命を新しく生きることを、イエスは新に生まれよと言っているのです。これは毎日、新しく生まれること、毎日新しく生まれ続けるという意味です。

新に生まれ続けるのです。こういう新しい生活原理を全世界に提唱する。これが千年王国の生活原理になるのです。千年王国でどのように生きればいいのか。善を行うのではない。良い行いをするのでもない。霊に生きるのです。

こういう生活原理は、未だかつて異邦人にはなかったことです。神をいかに生きるのか。イエス・キリストの復活をどのように生活で生かすのか。これが千年王国の原理になるのです。こういう原理を私たちは今実行するのです。これを実行した者は、王国の指導者になれるのです。

世間の人がまだ考えていない原理を説明するのです。哲学的にも宗教的にも、完全なものを見つけるのです。

丁寧に生きたらいいのです。掃除をする時には、きちっと掃除をするのです。これは人間の善事善行とは違います。魂がするのです。キリスト教が言っているのは、人間の善事善行を言っているのです。

魂は丁寧に生きることをとても喜ぶのです。これはしてみないと分かりません。丁寧に生きるということが、恋愛を経験していることなのです。こういうことは、さすがのユダヤ人も気がついていないのです。

ユダヤ人が考えていない原理を見つけなければいけない。これが王国時代の指導原理、生活原理にならなければいけないのです。これをすると、学校の教育はすべて変わるでしょう。

神を恐れて生きることほど、楽しいことはないのです。丁寧に生きることは、本当に楽しいことです。本当に楽しく、嬉しく生きられるのです。掟的に窮屈な生活をするのではありません。恋をするのですから、楽しいのです。

丁寧に生きたら、事々物々を通して、いつでもおやじと出会っているのです。イエスはこういう生き方をしていました。山上の垂訓では、イエスはこういう丁寧な言い方をしていませんが、ただ一箇所、「ボディーはランプである」という所を見ると分かります(マタイによる福音書6・22)。

ボディがランプであるというのは、丁寧に生きることです。そうすると分かるのです。丁寧に生きるということで、山上の垂訓を説明したら、皆分かります。

山上の垂訓を生きることは楽しいことです。嬉しいことです。これが天国です。丁寧に生きる所に、天国があるのです。

自分が生きているのか。生きているのが自分かです。自分が生きているという生き方をやめて、生きていることが自分になってしまうと、俳句の極意が分かるのです。一茶の俳句にはそれが出ているのです。生きているのが自分になっている。雪に降られていることが自分になっているのです。

普通の俳句は、雪が降っているのを眺めている自分が、句を造っている場合が多いのです。ところが、雪が降られているのが自分だという句は反対です。信仰はこれでいいのです。生きているのが自分だということを見ると、現実が神であることが、すぐ分かるのです。

今の人間の現実は倒錯の現実です。錯覚くらいとは違います。罪は錯覚です。倒錯になると、罪が当たり前のように生活されているのです。これがノアの洪水直前の状態でした。これが現世です。

自分がいると思うことが、肉の思いです。目に見える現象世界があると思ったら、神に敵しているのです。神に敵する思いで聖書を勉強しようと思っている。これが間違っているのです。

自分が生きていると思うと、年齢がその人を覆ってしまうのです。肉の思いがその人を覆ってしまうのです。肉の思いに自分の魂が取られてしまうのです。どうせ命を取られるなら、神に取られてほしいのです。そこで、自分は消えてしまうのです。現前という場で、自分は消えるのです。

良いも悪いもない。現前には自分はいないのです。これが神です。神を信じるというのは、自分を信じないことです。万物と自分が一つになっているのが神です。神が人間になったり、花になったり、果物になったり、魚になったりしているのです。これが神です。神とはそういうものです。髭をはやしたおじさんとは違うのです。リンゴがあること、ミカンがあること、桃があることが神です。

主はアブラハムに言われた。「私は全能の神である。あなたは私の前に歩み、全き者であれ」(創世記17・1)。アブラハムはこれを聞いてはっと思ったのです。全能の神ということは、神が現実だということです。アブラハムにはそう聞こえたのです。

現実が私だと神が言ったのです。そこで、アブラハムはびっくりしたのです。そして、アブラハムは平伏したのです。神はアブラハムに全かれと言った。全かれとは、神と同じになれということです。神の中に消えてしまえと言っているのです。これがアブラハムの信仰です。

アブラハムの信仰とは、自分が消えてしまうことです。全能の神の中へ入ってしまうのです。これが現実です。現実が信仰です。信仰は現実です。ここまでいくと、聖書の奥の院になってしまうのです。

人間が考える現実は、全部悪魔が考える現実です。肉の思いの現実は神に敵するのです。

ペテロは次にように述べています。

「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの父なる神。神はその豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中から甦らせ、それにより、私たちを新に生まれさせて生ける望みを抱かせ、あなたがたのために天に貯えてある、朽ちず、汚れず、萎むことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである」(ペテロの第一の手紙1・3、4)。

キリストを信じるとはどうすることか。イエスが死人のうちから甦られたことが、そのまま自分が新に生まれたことになっているのです。これがキリストを信じていることです。イエスが死人のうちから甦って、それがそのまま自分の新しい命になっている。このことが、自分に信じられたら、キリストを信じているのです。これが信じられなかったら、キリストを信じていないのです。

世の基をおかぬ前に、キリストの内に選ばれている人でなかったら、信仰は与えられないのです。あなたの信仰があなたを救うとイエスがいうように、自分を救うか救わないかは、信じ方一つによるのです。

イエスが復活した事によって、自分に新しい命が与えられたということがそのまま信じられたら、その人はキリストを信じているのです。イエスの復活によって、自分の命が新しくなっているということが信じられない人は、お気の毒ですが、地獄へ行くしかないのです。信じられる人は信じたらいいのです。

自分の行いを自分の気持ちで考えないことです。良いにしても悪いにしても、自分の行いを自分の気持ちで考えることを一切やめるのです。

毎日の生活は何をしているのか。命が物ではないように、人間の日常生活も肉ではないのです。霊なる事がらを営んでいるのです。人間の生活は営みであって、肉を営むことによって、霊が分かるのです。肉によって営まなければ、霊が分からないから、神は肉による営みを許しているのです。

人の行いは継続していい場合と、継続してはいけない場合と色々ありますから、導きによって決めなければならないのです。

皆様の古き人は十字架によって死んでいるのです。従って、この世に生まれた皆様はいないのです。自分はいないのですが、今生きているという事実があるのです。

生きている事実は何かと言いますと、イエスの復活です。復活を生きているのです。イエス・キリストの復活によって、新しい命を与えられて、その命を生きているのです。今までそれを知らずに、自分の命だと思っていただけのことです。

モーセが失敗しなければ、十字架はいらなかったのです。十字架と復活は、すべてユダヤ人の失敗によって起きたのです。

自分の命は初めからありません。創世記の第一章、二章の段階では、自分の命はありません。そこで、私たちは創世の原理に従って、神が天地を造った原則に立って自分を見ると、自分は初めからいないことが分かるはずです。

十字架と復活とは何か。十字架は自分がいなというしるしですし、復活は神が新しい命を人間に与えたというしるしです。私たちは新しい命を与えられたしるしを、今生きているのです。古い自分はもういない。今の命は新しい神の命ですから、この命を丁寧に生きるのです。神の命を丁寧に生きるのです。自分の命なら丁寧に生きなくてもいいのです。

自分の命はない。肉体も自分の肉体ではない。神に栄光を帰すか帰さないかが問題です。神に栄光を帰すというのは、丁寧に生きることです。それを実行するかしないかによって、皆様の運命が決まるのです。

朽ちず、汚れず、萎むことのない資産を受け継ぐ者になるかならないかは、復活のキリストの命として生きるか生きないかによって、決まるのです。そうして肉の現実と霊の現実が決定するのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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