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  • 管理人chaya

生けるパン


神の栄光の機能が肉となった。これを御子と言います。神は肉体を持ち賜わない。しかし、人は肉体を持っている。肉体を持っているために、人間の機能には肉体を持っているという意味でのハンディキャップがあるのです。ハンディキャップがあるということが、神そのものではなくて、神の子であるということになるのです。これが人間の本体です。

人間は生まれたいと思ったのではなくて、神が宇宙の逆性を退治するために、悪魔の業を毀つために、この世へ遣わした神からの派遣者であるのです。

イエスはそのことを自覚して、見事にその役割を演じられたのです。イエス以外の人間は、イエスほど完全無欠ではないにしても、本性的、本質的には、大体イエスと同じ機能、同じ性格を持たせられていると考えてもいいのです。

そのように、自分自身の本質、本性をイエスとして受け止めることができた者は、第一にとこしえの命に到る朽ちない糧を食べたことになるのです。

見た所、イエスと私たちとは、全く違っているように見えます。キリストと罪人ですから、救う者と救われる者とでありますから、全く違ったもののように見えるのが当たり前です。雪と墨ほど違うのです。

ところが、ヘブル人への手紙の第二章十一節を見ますと、「清める方も清められる方も、皆一人の方から出ている」とあります。

このように、単なる魂としての機能という点から見ると、一人子であるイエスと、また、異邦人である私たちのような者と、本性的には同じものなのです。同じものであるから、イエスはもろもろの人を照らす光でありえたのです。

誠の光も、また、照らされる者も同じです。本質的に同じものでなかったら、光がもろもろの人を照らせるはずがないし、また、もろもろの人もキリストの光によって照らされるはずもないのです。

照らす者と照らされる者は、同じ者です。これが肉的存在の人間でなく、霊的存在の自分自身の本性を自覚したということになるのです。

肉体的に存在する人間は、朽ちる糧を食べて、やがて死んでいくものです。ところが、イエスと同じ本性を与えられているということに気づいた者は、とこしえの命に到る命の糧、朽ちない糧を見つけたことになるのです。

それを食べるということは、ただイエスと自分とが本性的に同じものだと理解しただけではなくて、自分自身の存在がイエスと同じ本質、本性を兼ねているものであるということを信じて生きることです。

イエスと同じ本性であると信じて生きることが、食べるということになるのです。とこしえの命の糧を食べることになるのです。

イエスは「私は命のパンである」と言いました(ヨハネによる福音書6・47〜51)。命のパンを食べるということは、イエス自身の実質が自分自身の実質と同じであるということを弁えて、その感覚をそのまま生活に持ち込んで、実行することです。この命のパンを生活的に生きることです。これが生活的に命のパンを食べたことになるのです。これがとこしえの命の糧を食べたということになるのです。

イエスが空の青さを見たとします。その時、イエスは空の青さを通して、神ご自身の愛をそのまま直感することができた。どのように直感したかと言いますと、抜けるように青く澄んでいる空を見て感じたのです。そうして心が癒されたのです。若山牧水が「白鳥は哀しからずや 海の青 空のあをにも染まずただよふ」と歌った空の青さ、抜けるような空の青さをじっと、ぼんやり見つめていると、人間の脳髄細胞の疲労が癒されるのです。

空の青の色というのは、人を癒す力を持っているのです。「我はエホバにして汝を癒すものなり」という言葉がありますが、空の青色は人間の脳細胞を癒す力を持っているのです。これが糧です。これがとこしえの命に到る糧です。

イエスは肉の人間の社会にもまれて、本当に魂が疲れたことがあったでしょう。その時、彼は空の青を見たのです。ガリラヤの湖の青さを見たのです。この青さによって父なる神の愛を感じたのです。イエスの脳細胞を具体的に癒してくれる癒しの力を、まざまざと感じたのです。この時、私は父の内にいるのだ、父の愛の内にいるのだということを、イエスは実感したに違いないのです。彼は「天なる父よ、聖なる父よ」と言わざるをえなかったのです。彼の魂は生ける神の子であることを、はっきり実感したのです。

これは空だけではありません。花の色を見ても、風にそよぐ梢を見ても、人間の百四十億と言われる脳細胞に、微妙な影響を与えているのです。色、形、音、暖かさ、冷たさ、風のそよぎ、鳥の声、飛んでいる姿、走っている動物の姿、森羅万象はことごとくエホバの万物です。父なる神の万物が、万軍のエホバ自らがそこにいますことを、イエスはつくづくと感じたでしょう。

「我はここにあり、我はここにあり」と父なる神がイエスに、如実に語っておられたのです。森羅万象を通して、色を通して、もろもろの形、影を通して、手を上げる時も、一歩一歩、歩く時も、皆神が共にいるのです。父が共にいるのです。そこに神がいるのです。

神が臨在しているのです。そこに救いがあるのです。父なる神がそこにおられるという臨在的事実を、エホバの万軍が証しているのです。万軍のエホバとも言いますが、エホバの万軍ともいうのです。

神と物とは一体になって、現に人間の回り、八方にいるのです。右を向いても、左を向いても、上を向いても、下を向いても、神がいるのです。

「我はありてあるものなり」。ありてあるという事がらが、我々の回りにいっぱい満ちているのです。このことを霊的に自覚する時に、ことごとく、とこしえの命に到る糧となるのです。

私たちがとこしえの命に囲まれて、現実に生きている。ただ肉の思いさえ捨ててしまえば、自我意識と現象意識にこだわりさえしなければ、この身このままで神の子であることを、はっきり認識することができるでしょう。

私は生ける神の子キリストであるとイエスが言ったのは、父なる神の真ん中におかれている命が、躍動していることを実感したからです。

自分の肉なる思いを捨て、霊に従いて思いさえすれば、私たちは父なる神の御名に包まれて生きることを、実感することができるのです。

「私たちは神の内に生き、動き、ある」とパウロが言いましたが、人間が生きている姿はそのまま神の御前におかれているのです。

「わが前に歩みて全かれ」とかつて神はアブラハムに申せられたのですが、神の前とは、今、ここで生きていることが神の前なのです。ただ今、現在、ここが神の前なのです。神のもろもろの知恵と、力と、神の高大な約束そのものを成就するために、今我々を取り囲んでいるのです。神の愛と命と知恵と、全知全能の力が、そのまま私たちを取り囲んでいるのです。

これが救いでなくて何であろうかと言いたいのです。今天地は聖霊降臨によりて、すべての肉に霊が注がれているのです。肉の代表者は人間です。人間に御霊が下ったということは、すべての肉なるものに御霊が下ったことを意味するのです。

聖霊降臨という厳然たる事実によってこのことを見ていきますと、私たちが確実に神の命の最中におかれているという、絶対的な事実を感じることができるのです。水が冷たいと感じるように、神が愛であることを感じるのです。太陽の暖かさを感じるように、神の慈しみが溢れていることを感じるのです。

このように、神の愛、神の誠、神の恵みは、私たちが手で触れるような形で、今、目の前にあるのです。

「私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったものが、命の言である」とヨハネが言いましたが(ヨハネの第一の手紙1・1)、ヨハネはイエスの生き方を見て、自分自身が神の言、命の言の最中におかれていることを悟ったのです。ヨハネはこのように、目で見ること、耳で聞くこと、手で触ることによって、とこしえの命に到る糧を食べていたのです。

毎日の生活が、日毎、日毎の生活が、そのままとこしえの命に到る糧を食べる生活なのです。これはかつてイエスが、ガリラヤの湖において、福音を伝えながら生きていた時の生き方と、同じことなのです。

私たちはガリラヤ湖畔に立っていたイエスと、同じ経験を今、ここですることができるのです。イエスは言っています。「私を信じる者は、私の業をするであろう」。私がなす業というのは、私が神の命に生きていたように、お前たちもとこしえの命をそのまま生きることができるということです。

「私は甦りであり、命である。私は道であり、誠であり、命である。私は天から下った命のパンである」と、イエスが言いました。これはイエスが生きていることが、そのまま朽ちない糧を食べていたことを示しているのです。

生きていることが、朽ちない糧を食べることです。水を飲めば水の味がする。パンを食べればパンの味がする。魚を食べても、野菜を食べても、それぞれの味があります。また、栄養があります。香りがあります。色があります。

味とか、栄養とか、香りとか、色とかというものは、そこにいます神の栄光そのものです。父の栄光そのものです。旧約の時代にはこれが分からなかったのですが、今や、主イエスが第三の天へ行かれたために、聖霊が降臨して、助け主が今この地上にいますため、今この目の前にいますために、このように明々白々にイエスが食べていた朽ちない糧の味わいが、そのまま私たちにも味わえるのです。これは助け主なる御霊のおかげです。

御霊が私たちに、命の糧、命に到るべき朽ちざる糧の味わいの食べ方を、このようにまざまざと教えておいでになるのです。

人間は肉によりて生きず、霊によりて生きるならば、イエスが現世に生きていたのと同じ生き方ができるのです。

こういう生き方をすることが、とこしえの命に到る糧のために生きるという生き方です。これはその気になりさえすれば、誰でもできるのです。五官があれば、誰でもできるのです。神が人間に与えて下さった五つの官能というのは、父と交わるべき手段でありまして、五官を通して、私たちはいつでも父と交わっているのです。

私は父の内にいる。父は私と共にいるというのは、極めて当たり前のことであって、人間が生きているのはすべてイエスと同じように、「私は父にいる、父は私の内にいます」と言えてこそ、当たり前です。

ただ現象が実体であるという気持ちを捨てて、現象は父なる神から出る所の言の流れであるとして、これを受け止めるのです。父なる神の口から出ずる言の流れとして、現象を受け止めるのです。そうすると、神の口から出ずる言が、そのまま自分自身を生かしていることが分かるのです。

「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つひとつの言で生きるものである」とあります(マタイによる福音書4・4)。

神の口から出る一つひとつの言によって、人間は生かされているのです。天地森羅万象の存在、森羅万象の命の働きが、そのまま私たちと神との交わりの媒体となっているのです。

私たちは神に生かされています。そのこと自体を平明に、正確に理解するなら、自分の肉体がそのままイエスの肉体と同じものであることが分かるのです。

イエスがこの地上で生きていたその血液と、私たちの血液が同じ血液であることが分かるのです。そこで、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲んでいることになるのです。

「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」とイエスが言っています(ヨハネによる福音書6・13)。これがそのまま、私たちに成就しているのです。

イエスの言は霊であり、命です。この言によって生きるのです。条件は、ただ肉は益なしだけです。益なしということは、何の利益もないし、また、何の真実性もないということです。害のみです。

現象は実体ではないのです。色即是空です。色即是空がはっきりすれば、五蘊皆空という感覚はすぐ分かるのです。五蘊皆空でありながら、今ここに存在している。この存在とは何かと言えば、神の御名なのです。「人は御名において生きている。エホバの御名こそ、わが救いである」ということがイエスの御名ですが、これがこのまま今、生きている実体になっているのです。

「わが顔の前に、何者をも神とするな」という言葉がありますが、私たちが生きているという事が、そのまま神の顔の前にいるということなのです。

食物には味があります。味があるということが、神の顔です。私たちは食べる時に、神の顔を感じるべきです。物の形を見る時に、神の顔を感じるべきです。三角にしても、丸にしても、木の葉の色々な形にしても、鳥の形、獣の形はそれなりに皆、神の栄光が現われているのです。これが神の顔です。

その栄光の現われ方については、恵みがあり、教えがあり、知恵があり、戒めがある。あるいは、神の裁きの啓示がある。色々な形で違っていますけれど、万事万物はことごとく、神の栄光の現われです。

神の栄光の現われを、私たちは見ています。これは神の顔に、私たちの顔を合わせていることになるのです。顔と顔とを合わせて生きていることになるのです。

自分は生きているという実感が顔です。これが人間の顔です。生きているという実感、顕在意識の基本をなしている生命意識というものは、とりもなおさず人間自身の顔です。

この生命意識と神ご自身が存在していたもう御名の栄光が、顔と顔とを合わせて、相見ていることになるのです。

万物として現われている神の御名の栄光と、人間自身が意識できるというこの栄光、これが顔と顔とを相見わせているということです。

人間が生きていることが人間の顔であって、生かしているということが神の顔です。生きている人間と、生かしている神とが向かい合っているのです。生かされていることと、生きていることの二つがあるのです。この状態がそのまま天国であり、第三の天です。

イエス・キリストの昇天によって、第三の天が現に目の前に展開していることを、私たちは否定することはできないのです。聖霊が下りたもうて、現実が第三の天であることを、私たちに教えているのです。

パウロは、「あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上にあるものに心を引かれてはならない」と言っています(コロサイ人への手紙3・2)。地上のものというのは、有形的なものを実体と思うなということです。

上にあるものとは天にあるものということで、色即是空の空なるものを見なさいということです。このことを私たちは訓練させられているのです。

以上述べたことが、ヨハネによる福音書第六章の二十七節以下において言われている、とこしえの命に到る糧を食べること、とこしえの命に到る糧のために働くことになるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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