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  • 管理人chaya

義とされる


天地が造られたことも、万物が生かされていることも、すべて皆父の御心です。従って、父の御心を理解して、父の御心に生きることができれば、天地の命をそのまま自分の命として生きていることになるのです。

ですから、霊(人生)を渡すことがそのまま、とこしえの命になるのです。現在生きている状態において、霊を渡すことが、そのまま宇宙の命と自分の命を一つにして生きることになるのです。

このことをイエスは十字架以前から実行していたのです。十字架の最終段階において、このことをはっきり実行したのです。十字架上でイエスの息が絶えると同時に、イエス自身の人生が、そのまま神のものとして、神に受け取られることになったのです。

十字架を信じるということは、こういうことを信じることです。感覚的にこれを受け止めて、感覚的にイエスと同じ信仰に生きることです。

パウロが「私はもはや生きていない。私が今肉において生きているのは、神の子である信仰において生きている」と言っています。

神の子である信仰というのは、人間の存在機能がそのまま父からのものであるということを自覚して生きることです。

宇宙が存在する原理、天地万物が存在する原理と、自分が現在存在する原理とが、全く同じものになる時に、天地創造の原理がそのまま自分が存在する原理になりますから、肉体の上に立って生きることができるのです。肉体の上に立って生きるという感覚が成就することになるのです。その時に「この山に移りて海に入れ」と言えるような極めて単純な信仰を持つことができるのです。

これはもはやその人の信仰ではありません。神が宇宙を形造りそれを治めたもう信仰が、そのままその人の信仰として働いているのです。だから、この山に移りて海に入れという人間の意識ではとても考えられないことが、普通のこととして言えるようになるのです。

この言葉のように必ずなると信じて疑わなければ、そうなるのです。人間的に言えば、山が移りて海に入るというのは、とても考えられないことですが、それが極めて当然のこととして信じられることになるのです。

最も単純な信仰というのは、宇宙の構造と、その人の意識が一致した場合のことです。宇宙構造と人間の意識が一致すれば、極めて単純、大胆に信じられるのです。しかし、その時はもはや大胆にという必要がないのです。本人の意識がそのまま宇宙意識に通じているのですから、本人にとっては大胆ではないのです。すべて信仰というものは、そのような原理においてでなければ、誠のものであるとは言えないのです。

宇宙の命に生きていることだけが生きていると言えるのであって、人間が勝手に生きていると思ってるのは、生きているのではないのです。従って、人間は生きていると思いながら、いつでも死に脅かされているのです。死に恫喝され続けているのです。

生きているということは、宇宙の命で生きているのです。宇宙が生きている状態と、同じ意識で生きている。これを取り戻さなければならないのです。人間自身の生活意識の内容を、できるだけ単純に宇宙のあり方に一致させること、これを神を信じるというのです。

「神の信仰を持て」とイエスがいうのは、これをさしているのです。信仰という言葉の本質は、辛子種一粒の信仰が示しているのです。「桑の木に移りて海に入れというなら、その言葉のようになる」とイエスが言っていますように、人間的に全く不可能であると思えることが、そのまま可能であると考えられるのです。これが信仰です。

信仰は人間が信じる信念の働きを意味するのではなくて、神の考え方に人間の考え方が一つになることです。考え方の方式が、根本的に変わってしまうことです。信じることではなくて、考え方の根本方式が変わってしまうこと、心を更えて新にすることです。

人間の精神構造のあり方が全く変わってしまうことです。極めてスムースに、極めて自由に、宇宙意識が自分の意識として捉えられることになるのです。

これは宗教観念で神を信じると言ったような、拘束されたものではないのです。限定されたものではないのです。こういう一切の限定から全く離れてしまうのです。自分の肉の思いから解放されてしまうのです。死から解放されて、本来の宇宙と一つになって考えることです。神の御心によって生きること、創造者の御心に一つになって生きることが信仰です。

聖書に次のようにあります。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、私たちは知っている。

神は予め知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、予め定めて下さった。それは御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。

そして、予め定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ローマ人への手紙8・28〜30)。

信仰が本当に板につかない、本当にものにならないということに気づいている人は、必ずものになる人です。しかし、ものにならないという言い方でも、頭で言っている場合と、心で言っている場合とがあるのです。自己批判と言っても、頭だけの自己批判ということが有りうるのです。「心に信じて義とされる」とパウロが言っていますように、自己批判であっても、心からのものでなかったらいけないのです。

本当に信仰が実感になるのはどういうことかと言いますと、心から信じられる状態を実感というのです。心から信じられますと、それは自動的に生活感覚になるのです。心から信じていない者は、生活感覚にはならないのです。自分自身でも非常に歯がゆいような事になるのです。これではいけないと思いながら、自分自身で納得がゆく信仰を持つことができないのです。

まず私たちが考えなければならないことは、私たちが異邦人であるということです。アブラハムが神の約束を受けた時に、アブラハムはもちろん約束の民ではなかったのです。私たちと同じ条件で生きていたのです。その彼が約束を受けたのです。約束とは何であるかと言いますと、これが御霊です。約束とは御霊のことです。逆に言いますと、御霊とは約束のことです。

神の約束はそれ自体、思想であると同時に、エネルギーでもあるのです。神の約束が、時間や空間を構成している原理になっているのです。時間とは何か、空間とは何か。これが約束です。こういうことがなかなか分からないのです。

空間とは何か、時間がなくては空間は成立しないのです。時間も又、空間なしには成立しないのです。時間とは何か、空間とは何か。これが現在の文明では分かっていないのです。ユダヤ人の考えはその程度のものなのです。

カントも、ニーチェも、分からなかった。オーガスチンも分かっていない。ベルグソンも分からなかったのです。何とか説明しようと努力したのですが、アリストテレスも分からなかったのです。約束が分からない者が、時間が分かるはずかないのです。神は御使いを風としたとありますが、これが時間と大関係があるのです。こういう事が異邦人には全然分かっていないのです。新約の時代が根底から分かっていないのです。

「聞けども悟らず、見れども認めず」というのが、現代の人間の心理状態です。現世に生きていて、やがて死んでいくのです。これは全部異邦人です。自分は死んでいくという実感がなくならなかったらだめです。自分が死ぬだろうと思っている間は、まだ福音が分かっていないのです。とこしえの命の実体を、実感的に持っていないからです。

こんな状態で人々に話しても、さっぱり力が入らないのです。私たちは本当に死なない命を実感していなければならないのです。既に神はそれを与えているのですが、それを受け取っていないからです。

異邦人の感覚というのは、現世に生きている感覚です。現世に生きている感覚というのは、人間の知識常識に基づいて考えている状態です。これが異邦人です。

これは異邦人であると同時に、アダムの子孫です。原罪人間です。これは絶対に救われません。「過ちを改めるに憚ることなかれ」という諺がありますように、間違いであることを認定して、その間違いを捨てさえすれば、これは何回でも許されはしますけれど、間違い続けて謝り続けていると、結局死ぬまで分からずに死んでしまうことになるのです。

ですから、現世に人間はいないのです。これが信じられない人は異邦人です。現世に生きている人間は異邦人です。いくら理屈を並べてもだめです。法華経が有難いとか三部経が有難いというでしょう。勝手に有難がっていればいいのであって、神の処置の他にとこしえの命はありません。

現世に人間がいないこと、イエスが父の元へ行かれたことが義とされたことです。エリアが天へ上げられたこと、エノクが神の元へ上げられたことが義とされたことです。

聖書に次のように書いています。

「そして、予め定めた者たちを更に召し、召した者たちをさらに義とし、義とされた者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ローマ人への手紙8・39)。

神は予め定めただけではなくて、予め定めた者たちを召しとあります。召すとはどういう状態かと言いますと、更にパウロが述べています。

「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、私たちは知っている。

神は予め知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、予め定めて下さった。それは御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」(同8・28、29)。

神は神に召された者たちと共に働いて、御霊が万事を益とすると言っているのです。これが召されるということです。神に召されるということは、御霊を受けたことです。御霊を受けた人は、神の召しを受けたことになるのです。しかし、まだ選ばれてはいません。

召される者は大変多いのですが、選ばれる人は少ないのです。皆様は召されてはいますが、選ばれる人はその人の状態によるのです。召された人が全部携挙される訳ではないのです。御霊を受けるということが、神に召されることです。ヘブル人への手紙に、「天の召しを受けた聖なる兄弟」という言葉がありますが、これは聖霊を受けた人の事を言っているのです。

天の召しというのは、神の御霊によりて召される状態のことです。ただ聖霊を勉強するだけではないのです。ですから、異邦人で天の召しを受けるということは大変です。神の召しを受けた者は、その次に義とされなければならないのです。予め定めた者を召し、召した者を義とする。義とした者に栄光を与えるのです。そして、御子にかたどられるのです。

イエス・キリストと同じ形に、皆様はさせられるのです。これ以下では聖書の救いではないのです。皆様は神の御霊を受けたことによって、召されたのですが、まだ義とされていないのです。義とされるとは何かと言いますと、イエスの言葉をかりますと、「私が父の元へ行って、いなくなることです」。これが義とされることだと言っているのです。

イエスが元へ上ってしまったこと、肉体存在の人間が天へ上ってしまったことです。つまり、肉体存在の人間がイエスと一緒に全部天へ上ってしまったのです。

パウロは次のように述べています。

「このように、あなたがたはキリストと共に甦られたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されているのである」(コロサイ人への手紙3・1〜3)。

地上のことを思っている状態では、義とされていないのです。義とされた人間は、地上のことを思ってはいけないと言っているのです。上にあることを思うのです。キリストがそこにおられて、神の右に座しておられるのです。

神の右というのは、全能者の右です。キリストが神の右に座しておられることが分かったら、このキリストを信じている人の魂は、神の右に座せられている状態になるのです。そこで、その人が考えていることは、神が定めたもうたことよりもっと大きいことになるのです。神の御心さえも変えられるかもしれないような恐ろしい信仰を与えられるのです。

私たちはすべてのことを与えられているのです。神の御心に従いて召された者と共に神が働いて、益となるようにして下さると言っているのです。これが分かっていたら、現世のことを考える必要がないのです。

キリストが第三の天におられるということが、私たちの命なのです。これが信じられなかったら、聖書の勉強をする値打ちはありません。人間はイエスを信じことが、人間本来の目的です。それを、自分がいいと思っても、悪いと思っても関係がないのです。

「悔い改めて福音を信ぜよ」とイエスが言っていますが、この悔い改めというのは、一回だけするのではなくて、自分を意識したら、いつでもしたらいいのです。幼児のような感覚で悔い改めたらいいのです。これが必要です。

イエスを信じるというのは、どこまでも自分ではない人格を信じるのです。自分ではないモラルを自分のモラルとして受け止めることです。自己を信じないで、他己を信じるのです。

本当に文字通り、聖書の福音を受け止めるということは、異邦人としては非常に困難なことです。困難以上と言えるかもしれません。そこで十字架がどうしても必要になるのです。真理の御霊の助けと、歴史的な意味での十字架の処置と、この二つがなければ、とても新約の福音の実体を異邦人が受け止めることはできないのです。それと、神の天地創造の奥義を学んでいただくことが必要です。

天地創造が始まったということは、あるべからざることが宇宙に発生したことを意味するのです。従って、今人間が考えている時間とか空間とかというものは、宇宙のハプニングです。ところが、時間や空間があると思っている。これが肉の思いです。

イエスを信じるということは、普通の人間の現代感覚から言いますと、とんでもないことです。現世の人間がイエスを信じるということは、できるはずがないことです。それを皆様がしようと思っている。だから、自分の信仰がおかしいと思うのです。おかしいに決まっているのです。

現世に生きている自分を認めながら、なおイエスがキリストであることを信じようとしている。そんなことはできるはずがないのです。これが自己ストレスの原因になるのです。既に御霊を受けた者は、神に召された者です。召された人は義とされるに決まっているのです。だから、得たりと信じて、御霊を受けた時点に立ってお考えになると、なるほど自分はいないということが、しみじみ分かるのです。そうすると初めて、まともにイエスを信じる信仰が与えられるのです。

パウロは言っています。「私はもはや生きているのではない」。私が今肉体において生きているように思えるのは、虚体を生きているのです。これは肉体の上に立つ信仰を神によって訓練される必要があるために、肉体において生きているような感覚を神が持たせているだけなのです。肉体は虚体です。

そうしなければ皆様は、新天新地の王になることができないからです。だから、神は皆様に肉体で生きているような感覚を与えているだけなのです。その感覚を乗り越えていくのです。

だから、パウロが言っているのです。「私が今肉体で生きているのは、私が生きているのではない。神の子の信仰において生きているのである」。これは肉体の上に立つ信仰を持つために、そういう訓練をさせられているのです。このために現世で生かされているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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