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  • 管理人chaya

自分を見つける


人間を霊魂として見ると、初めからある命の言になるのです。見ている、聞いていることが、初めから命の言を見ているのです。命の言を聞いているのです。これは間違いがないのです。

ところが、一般の人間は命の言を聞かないで、女を抱いている。女というのはないのです。命の言があるだけです。初めからある命の言が女として現われているのです。それを女がいると思っているのです。これは詐欺になるのです。こういう感覚が詐欺です。リンゴを食べているとします。リンゴはないのです。命の言がリンゴになっているだけのことです。ところが、リンゴを食べていると思っている。これは詐欺にかかっているのです。

神の言が本当に見たり聞いたりできるということはめったにないことです。ユダヤ人は四千年の間、聖書を勉強しているのに、未だに聖書を全然信じていないのです。信じることができていないのです。これほど聖書は難しいものなのです。

私たちはまだ本当の聖書の信仰に入っていないかもしれませんが、ここまで人間の五官の感覚と聖書の関係、現実と神の御名との関係ということまで教えられているというのは、全く破天荒なことです。不思議という言い方しかできない事なのです。

しかし、私たちでさえも、まだなっていないのです。そう考えると、世々限りなく王となって、神の傍に仕えて永遠に神に奉仕して、神と同じ位に座ることが許されて、神と同じように天下を支配するというのは、大変なことです。人間が神になるのです。これはめったにできることではないのです。

毎日、毎日、生きている生活の一コマ、一コマ、食べること、飲むこと、話をすること、仕事をすることが皆神を相手にしているのです。神を相手に生活しているのです。ここで神に良しと言われなかったらいけないのです。

神に良しと言われる人はめったにいないのです。何百億人いても、本当に神に叶う人はめったにいないのです。いないに決まっているのです。神はイエスしか問題にしていないからです。イエスしか問題にしていない神のおめがねに叶うことには、こちらがイエスになるしか方法がないのです。

国民統合の象徴が天皇です。人類統合の象徴がキリストです。日本の憲法第一条が、聖書の原点になるのです。

生かされていると自分と、生きている自分と二つあるのです。生かされている自分が生活するのならいいのです。生かされている自分は、どこまでも生かされているという立場で考えるのです。生きている自分という立場で考えないのです。

創世記の第一章で、「夕があり、朝があった」(創世記1・5、8、13、19、23、31)と書いていますが、夕から始まって朝に終ることを示しているのです。これは昼がないということを意味しているのです。第一創造における創世は、夜だけしかないということを意味しているのです。これは全く驚愕すべき事実です。

なぜかというと、闇が淵の表に座り込んだので、やむを得ず、神の霊が水の表を動かし始めたのです。第一創造における原子構造は、マイナス構造なのです。パワーというマイナス構造が働き出したので、マイトというプラス構造がやむをえず働き出したのです。

あるということ自体がマイナスです。存在しているということが死んでいるということです。「夕あり朝ありき」と書いているのです。昼がなくて夜だけの世界だと書いているのです。こんな不思議な文章はないのです。

万物があるように見える。万物があるのではなくて、神の言があるのだということは、聖書には随所に書かれているのです。万物は見せかけの存在であって、万物があるのではないのです。神は言によって見せかけの存在を現わしているのです。

現世は見せかけの存在です。仮定の存在です。言の働きは仮定であって、実体とは違うのです。そこで、人間の学理学説も仮定です。政治、経済、社会、文明、文化も仮定です。現世はすべて仮定的な現象ばかりです。実体は一つもないのです。現象そのものが仮定です。

人間がこの世に生きていること自体が仮定です。人間は仮定の存在であって、現世に生きていることはどこまでも実体ではないのです。仮定です。仮体です。従って、現象世界を信じている人間は、皆地獄へ行かなければならないのです。

肉の自分から見ると、聖書がさっぱり分からないのです。聖書の勉強は分かったと思うと分からなくなるのです。分からないと思うと分かったような気がする。この繰り返しになるのです。何十年勉強していても分かった分からないを繰り返す。何回でも新しく神が分かって感動があるように、神がそうしているのです。こうして神は人を高い次元へ引き上げていくのです。螺旋的に上っていくのです。これが神の処置です。いよいよ自分を捨てなければいけないということが分かる。自分の本体が神の言であることが分かるのです。生かされているという客観的存在がイエスだということが分かるのです。

人間には生きているという面と、生かされているという面と、両方があるのです。固有名詞を信じて固有名詞の自分が分からなければいけない、固有名詞の自分が救われなければならないと思っている。これはとんでもない間違いです。

現世がなくなったら、固有名詞の人間はどこにも行く所がありません。現世はやがてなくなるのです。その前に千年王国が実現しますが、王国がきただけでも、固有名詞は世界から消えるのです。固有名詞が消えて、出産とか、死亡とかの処理ができなくなるので、番号制になるでしょう。番号制は固有名詞ではないのです。この世に生きている順番です。良いも悪いもないのです。

番号制とは、国民の総意がシンボルとして存在している状態です。天皇という一つの人格に吸収される番号制になるのです。天皇というシンボルにすべてが吸収されると、国民全体が統合される。これがキリストと私たちの関係です。

キリストは人類統合のシンボルです。天皇は国民統合のシンボルです。固有名詞を信じる人はキリストの教会の一員にはなれないのです。キリストの妻とか、キリストの弟子というのは、固有名詞とは何の関係もないのです。

神が問題にしているのは、その人の霊的状態だけであって、肉的状態に関係がないのです。風邪で死のうと、ガンで死のうと同じことです。人間とか、現象世界、万物は初めからないのです。「言いたまいければそうなった」とあるのです。言があるだけです。言の働きが現象のように見えるだけであって、実物があるのではないのです。

言の働きが昼のように見えるのです。言の働きだけを昼ということができるのです。後は全部「夕あり朝ありき」です。

はっきり言いますと、創世記の第一章二十六節、二十七節は、神が人間を騙しているのです。インチキです。よくよく裏の裏を読んでいきますと、創世記の第一章がインチキだということが分かるのです。

全世界の人間がしっかり騙されているのです。六千年の間、人間の歴史は騙されていたのです。今まで地球上に生まれた人間は、約七百億人くらいであろうと推定されますが、一人残らず全部騙されてきたのです。

イエスの時代に、弟子たち数人には分かったでしょう。分かってびっくりしたでしょう。ペテロでもペテロの手紙を書くまでは分からなかったでしょう。ペテロの第一の手紙を書いている間に、ペテロの中に明星が出たのです。明星が出たのが分かって、明星が出るまで聖書を読み続けなければならないということが分かったのです。明星に照らされて、自分の中が照らされるまで待たなければいけないのです。

明星は来たらんとする新しい世界を照らすものですから、明星によって照らされるのでなかったらいけないということが、ペテロに分かってきたのです。そのように、本当のことはなかなか分かるものではないのです。

イエスの時代には、ごくわずかな人が分かったのです。今日本でようやくこのことが開かれ始めたのですが、果たして何人の人が分かるのでしょうか。ですから、本当のことが分かる人は非常に少ないのです。

聖書を勉強していて、何もかも分からなくなったら有難いことです。その自分を捨ててしまったらいいのです。そうしたら、神が本当のことを教えてくれるからです。分からなくなっても、目が見えます。心臓が動いています。これは分からなくなった自分ではない。分からなくなったという自分と、心臓が動いている自分とは違うのです。

分からなくなった自分と、目が見える、心臓が動いている自分とは違う。これは誰かと考えたらいいのです。これは騙されていない自分です。この世に生きていなかった自分です。この世に生きていて、聖書を勉強していたという馬鹿な人間は消えてしまうのです。

生きていた自分は消えて、聖書そのものである自分がいる。これが本物の自分です。これがイエスです。そうすると、パウロがいう、「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのである」(コロサイ人への手紙3・3)ということが分かるのです。今まで知らなかった自分を見つけるのです。それを新しく見つけるのです。そこに私がいたのかということを見つけるのです。

日本の文化は霊を知るのに便利にできているのです。霊は理屈や説明で分かるものではないのです。直感で分かるものです。これが霊です。霊はギノスコーするものであって、おもしろいとか楽しいというものではないのです。本人の人格に響いてくるものです。これが能楽に現われているのです。能楽は人間の生活を霊にしてしまう良さがあるのです。

こういう芸術を日本人が造り出しているのです。能楽は感情とか、計算とか、物語を理解する、楽しむ、喜ぶということがない。ストーリーの中心があるだけです。ある箇所で楽しむことはありますけれど、感情的に誇張するとか、人間的に敷衍するとか演繹することを一切しないのです。この点が文楽とは違うのです。

人間の生活のあり方の筋書きだけを現わしたのが能楽です。それを見ている人も、自分が生きているという筋書きだけで受け取らなければならないのです。これを受け取れる人と受け取れない人がいるのです。分かる人と分からない人がいるからです。

これが分かる人は聖書の神のやり方が分かる人です。聖書というものは、信じるべきものとは違うのです。直感的に理解すべきものです。直感的に理解して、同化してしまうものです。

これは恋愛と同じことです。本当の恋愛というのは、過去世、現世、来世の三つにつながっているのです。生まれる前からと、現在と、死んでから後とにつながっているのです。これが人間の霊魂と神との関係です。これが信仰です。

生まれる前にあったのですから、それが現世にあるのです。信じる前にあったのです。見る前にあったのです。食べる前にあったのです。経験する前にあったのです。これが信仰です。食べる前に食べていた。経験する前に経験していた。認識する前に知っていた。これが信仰です。前世にあったものを、現世で経験しているのです。これが恋愛です。前世で経験していたものを、現世でもう一度復習しているのです。復習の仕方が来世に続くような形で復習できた人は、救われるのです。来世に続かないような形でしか実行できない人は、本当の恋愛ではないのです。

夫婦でも親子でも、兄弟でも、恋愛関係でなかったらだめです。恋愛でなかったら続かないのです。関係を続けたいと思ったら、恋愛関係がいいのです。神との関係が分かって、それを永遠に続けたいと思ったら、それを恋愛関係にしたらいいのです。信仰を恋愛にしたらいいのです。恋愛にし損なったらだめです。

現世は嘘の世界です。現世でいくら信じますと言ってもだめです。信じるというのは、来世に続くように信じなければいけないのです。前世で経験していたことを信じるのです。

「信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とあります(ヘブル人への手紙11・1)。今望んでいることは、既に経験したことです。既に経験したことを望んでいるのです。前世で経験したことを、今望んでいるのです。前世で経験したことを現世で経験している。これが望んでいる事がらを確信しているのです。現世で経験したことが、来世にも続いていくのです。これが見ていないことを確認することなのです。

今日という時、今という時に、神を具体的に経験することができていない人は、死んでからも経験できないのです。だから、今神が分かっていなければいけないのです。今、神が分かっていない人はだめです。分かりたいと思っているかどうかです。

自分という人間が分からなくてもいいのです。目が見えること、耳が聞こえること、即ち、リビングがあることが神です。これが救いです。リビングが神です。ザ・リビングということが、神です。これを額にしっかりと印するのです。これをリビングのシールを印するというのです。今、今、今という時にこれを確認するのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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