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  • 管理人chaya

料理


神の御心と人間の考え方のずれという、重要な問題があります。

パウロが次のように述べています。

「こうして、あなたがたは神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また、愛のうちに歩きなさい」(エペソ人への手紙5・1、2)。

神が人間を愛している。特に子供として愛しているということ、人間が神の子であるという思想がなかなか理解できないのです。パウロがアレオパゴスの評議所で、古代ギリシアの詩人でも、「我々は神の子であると言っている」と述べています(使徒行伝17・22、23)。

異邦人であるギリシア人でも、人間が神の子であるということを、詩の中で詠んでいるのです。

日本民族にも、神から分かれた神別と、皇別の二つの流れがあるのです。どちらも神の子という思想になるのです。古事記、日本書紀を通して見ますと、祖先はやはり神になるのです。

古代ギリシアの詩人が言っていた、人間は神の子だという考え方は、日本にも適用されるのです。ところが、神の子という思想の内容が違うのです。神の子だという言い方は同じですが、内容が全然違うのです。

異邦人の神というのは、祖先の人々を神々と呼んでいるのです。または、祖先からの伝承を神々と呼んでいるのです。祖先からの伝承の中心になっている宗教思想を、神と呼んでいたのです。

ところが、イスラエルは違います。イスラエルにも祖先の伝承はありますが、アブラハムが神から約束を与えられたという厳然たる神と人との相関関係がうち立てられた。その伝承がイスラエル民族の基本概念になっているのです。

ここでパウロが言っている神に愛せられている子供というのは、宇宙人格の直系ということです。宇宙存在は、宇宙人格の繁栄です。天地万物は造化の主の心の反映、繁栄です。こんなことは簡単なことですが、これが異邦人には分からないのです。イスラエルにはこのことが、割合に分かるのです。

天地万物は造化の主の繁栄です。これが異邦人に分からないのです。異邦人は全く無知蒙昧の民です。日本人の概念の根底には、無知性が非常に強くはびこっているのです。

神に愛されているとパウロが言っている神は、宇宙人格としての神、万物はその繁栄であるという意味での造化の主です。この造化の主に愛されているという自覚をもって、神にならって歩きなさいと言っているのです。神の真似をしなさいという意味です。私たちが天地万物のたたずまいを見ると、神の人格が分かるのです。その真似をしたらいいのです。

これはちょっと見ただけでは分かりません。天地の姿を見て、神の真似をしたいと思うのですが、さて雲の流れを見て、また、山の姿を見て、神が分かるかどうかです。

それを人間の行いに直すのです。人間の行いに翻訳するのです。大自然の姿を見て、それを人間の行いの形に翻訳するのです。これが少し難しいのです。天地万物のたたずまいを、いかに人間の生活感覚に翻訳するか。山の姿を人間の生活感覚に翻訳すると、どういう感覚になるのか。従って、どういう感覚で生活していれば、神に適うものになるのかということです。これが神のエクレシアーがしなければならない、最も重要な説明です。

神は自分自身の御心を、天地万物を通してはっきり現わしておいでになるのです。だから、天地万物を読んでいけば、神の御心が分かるはずです。神の御心どおりに生きていけば、人間に苦しみがあるはずがないのです。これが神にならう者になるということです。

神に愛されているということを習うということは比較的容易ですが、どのような生活態度を取ればいいかということが難しいのです。神に習うものというのが難しいのです。

例えば、一般論として言いますと、色々な料理を作ります。ジャガイモのふかしたものに、ホワイトソースをかけたものを作るとします。見ためにもいいですし、食べてなかなかおいしい味がするのです。

そういうものを神が食べさせるのはどういうことか。大体普通の家庭料理でも、料理したものを神が人間に与えているのです。また、人間同士の生活慣習として、日本だけではなく、世界中到る所で、必ず料理したものを食べる習慣があるのです。私は世界一周旅行を二回して、様々な国の料理を食べてきました。

料理したものを食べるとはどういうことか。料理というのは、料理したものです。料理は名詞にも使いますが、動詞にも使うのです。料理という言葉だけでは、名詞として用いられているのです。料理するという言葉を使えば、これは動詞になります。

料理とはどういう事かと言いますと、理性的に物事を処置することを意味します。味といい、分量といい、材料に味をつけて、色をつけて、形を整えて、盛り付けをします。人間の理性に合ったように調理して、提供するのです。これが料理です。これは一体何をしているのでしょうか。女の人は何をしているのでしょうか。

料理ということは、神に与えられた天地自然の食物を、人間の理性と好みに合わせて料理するのです。

人間の好みとは何でしょうか。これに対する基本的な認識が必要です。これは神が人間の魂を養育している方法です。魂を養っているのです。これが料理です。洋服のデザインは、着物を料理しているのです。洋服を料理しているのです。

建築様式というのは、住まいを料理しているのです。人間は衣食住のすべてを、料理しているのです。衣食住の根底の概念は、料理することです。料理が衣になり、食になり、住になって現われている。これは万物の霊長である人間独特の生活形態です。エスキモーのように氷の世界に住んでいる人間でも、料理しているのです。

文明人と言われる人たちが登山をします。山のどこかにビバークする場合、岩を利用するとか、木を利用するとか、穴を利用するとか、何かの形で自然から身を守るのです。簡単なやり方もあれば、複雑なやり方もあります。色々ありますけれど、人間は衣において、食において、住において、理性的に料理するのです。犬や猿のような生活をすることはできないのです。

ホモ・ファーベルはそれをしていたかもしれませんが、ホモ・サピエンスになると、もうできないのです。料理しなければならないようになっているのです。これが人間の習性です。アダムの時からそうなっていたのでしょう。

人間が意識しているその生活状態の本質は何であるのかを、知らなければいけないのです。

人間の生活感覚の本質は、理性的なものです。いわゆるリビング・ソールです。魂の本性は理性であり良心です。聖書的に言えば、四つの生き物になるのです(ヨハネの黙示録5・6~14)。これが働いて、人間生活の骨組みを造っているのです。これが衣食住に対する人間の営みです。

人間の営みとは何であるのかと言いますと、天地万物の営みを小型化したものです。天地万物の営みを小さく圧縮しますと、人間生活の営みになるのです。

神が宇宙を経営しています。その営みが人間が生活を営んでいる原形です。人間の営みは、神の営み、宇宙の営みを模倣しているのです。

人間は生まれながらにして、神に生かされている。神に生きなければならないように、仕向けられているのです。人間の生活感覚は、神に生きる生活がそのまま現われているのです。それを人間の魂は直感的に知っているのです。ところが、それを肉性(人間の思い)は、全然理解していない。

常識知識は、料理の本性が何かを全然知らないのです。ただ常識的に、料理はこのようにすべきだとか、建築はこのようにすべきだと言いますが、常識として言っているだけのことです。生活の感覚の本質として、それに気づいている訳ではないのです。ここに人間の苦しみの根源があるのです。

人間は神に愛されているのです。神に愛されている子供として生きているのです(エペソ人への手紙5・1)。だから、人間に霊(人生)を与えて、衣食住を自ら料理することができるような天性を与えているのです。

人間は神から与えられた理性に従って、自分自身の生活を料理しているのです。生活を切り盛りしているのです。家庭の切り盛りとは何か。小さい意味では家庭の切り盛りですが、これを拡大して解釈しますと、全世界を切り盛りしているのと同じ内容を持っているのです。

宇宙的な神の営みが個人的な人間の営みに集約されていますから、これを逆算して翻訳しますと、人間の営みがそのまま宇宙の営みに翻訳されることになるのです。

ですから、自分自身の営み、自分自身の生活のあり方、人生のあり方を根本的に改めることができる人は、宇宙を料理する能力を持っているのです。神にそのように認定されるのです。そうして、宇宙の王となる資格が与えられる。これが、「海の魚、空の鳥、血に這うすべての生き物を治める」ことになるのです(創世記1・28)。これはすばらしいスケールです。

異邦人は全く困った者です。今では、ユダヤ人も異邦人と同じ感覚に堕落していますが、本来のユダヤ人は今のような状態ではなかったのです。ユダヤ人が堕落したのをきっかけに、異邦人は近代文明というあり方において、いよいよ神をないがしろにしているのです。いよいよ神をばかにしているのです。

近代人でなくても、中世人、古代人であっても、大体神を知らなかったのです。理性的に生活をしていながら、理性的に生活しているそのあり方が何であるのかを、全然知らなかったのです。

神が人間にそのような生活形態を与えていること、衣食住を料理するような形で生活をすることを、神が許していること、また、そうせざるを得ないように仕向けていることは、神が人間を神の子として待遇していることになるのです。

全知全能の神が、自分の子供として人間を待遇していることになるのです。だから、家に住むことを許しているのです。料理を食べること、服を着ることを神が許しているのです。人間の衣食住に現われた生活形態は、神の生活形態です。神ご自身の生活形態を現わせば、今の人間が生きているような形になるのです。

ヨハネは次のように書いています。

「見よ、私は戸の外に立って、たたいている。誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその中に入って彼と食を共にし、彼もまた私と食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録3・20)。

食事をすると書いていますが、英訳でsuper となっていまして、これは夕食の事です。夕食はお客に対する正式な料理になるのです。その家の主人と一緒に、主イエス・キリストが食事をなさるというのです。イエス・キリストがその家に入ってきて、主人と一緒に席についてあげようと言っているのです。

これはすばらしい事です。正式の食事をするということは、神と人とが共に食膳につくということを意味するのであって、料理が並んだ席について、ふさわしいマナーによって食事をするということは、そのまま神ご自身の振る舞いなのです。神の振る舞いを人にさせているのです。

例えば、イエス・キリストが最後の晩餐を弟子たちと共にとられた。最後の晩餐の作法というのは、神の国における食事の作法です。これをしているのです。夕食というのは、最後の晩餐と同じ意味で食事をするのですが、日本人の場合はユダヤ人のような食事の作法をしていませんが、神から見れば同じことです。

旅館でも夕食は一番のご馳走が並びます。夕食は聖餐です。正しい宴です。これは本来神的なものであって、神は人間の魂に対して、神的な作法、神的な生活態度を許しているのです。何のために許しているのか。人が神と同じ気持ちが持てるように仕向けるためです。神に習う者になるためです。神に愛せられている子供のように、神に生かされているのですから、神に習う者になるために、そのように生かされているのです。

もし神が肉体を持っていたら、人間と同じような生活形態をお取りになるに決まっているのです。現に御子であるキリストが、人間とおなじような生活態度を取っておられたことを見ても分かるのです。神が神ご自身の生活態度を、御子によって現わしておいでになるのです。

皆様は現在、御子キリストと同じ生活をしているのです。御子キリストと同じように、料理をして食べている。料理をして生きているのです。ところが、皆様の心はどうか。神と同じ待遇を受けて、神と同じ生活をしながら、自分の心はやはり肉において固有名詞で生きている。これは全くけしからんことなのです。このけしからん裏切り行為が、人間の良心に突き刺さっているのです。だから、良心がとがめるのです。自分の生活態度が間違っていることを、良心がとがめるのです。これが人間の苦しみになって現われているのです。

自分の心構えが問題です。私たちは生活の形において、神にならう者になっていますが、心がそうなっていない。そこで、心構えを変えなければならないのです。心構えを変えさえすれば、神にならう者になれるのです。悔い改めて福音を信じるとは、このことを言っているのです(マタイによる福音書1・15)。

悔い改めるというのは、今までの自分の生活概念を、根本から捨ててしまうことです。そうして、神が生きておられるという自覚を持って、また、神の子として生きているという自覚を持って生きるのです。神のような気持ちを持って生きるのです。

例えば、仕事をしている場合、自分の仕事だという気持ちをやめるのです。人間がある事業を経営できるということは、神が宇宙を経綸しているのと同じことをしているのです。人間の家庭的形態が、神の家庭的形態と同じである様に、神の宇宙的経綸のあり方が、人間の事業経営のあり方になっているのです。

人間はそれぞれの立場で仕事をしていますけれど、これは神にならう者となるために、神の営みを任せられているのです。神の営みに習熟して、万物の長になるために、仕事をさせられているのです。

女でも男でもそうです。男は男のように社会に対して、ある分野の仕事を与えられている。女は女のように、家庭的な形で仕事の分野を与えられているのです。それぞれに適うような特性において、神の営みを習練させられているのです。

神の営みを習練させられているということをよく心得たら、今、させられている生活が自分のものではなく、神のものであること、神の真似をさせられていることが分かるのです。

人間は今日死ぬかもしれません。明日死ぬ死ぬかもしれません。こういう頼りない命を持っているのです。従って、今与えられている家庭や商売、持ち物が、永久に自分のものであるとは言えないのです。穀物がたくさん採れたから、大きな倉を建てて、そこに一杯つめこんで、やれやれと思う。長年過ごせるだけの蓄えができたから、わが魂よ安心せよというのです。神はこれに対して、「愚か者よ、汝の魂は今夜取られるだろう」と言っているのです。

人間は魂が今夜取られるような状態が、いつでも続いているのです。危険極まりない、いつ止まるか分からない心臓を持たされていながら、なお自分の人生があると考えている。どこに自分の人生があるのかと言いたいのです。自分の人生などあるはずがないのに、自分が幸せになりたいとか、自分の都合のよいように物事が運ばないと腹を立てるとか、自分の気持ちを分かってくれないから人を恨んだり憎んだりしている。けしからんことをしているのです。

人間は神の生活態度を取らせられているのです。神と同じような生活形態を取らせられている。ところが、心ではそれが何であるのかを全く理解していないのです。欲に従って生きている。欲に従って商売しているのです。こんなばかなことがあっていいのかと言いたいのです。

人間が現在生かされているという生活の形と、その人の心構えとは、全く裏腹になっているのです。ここに人間苦が発生している原因があるのです。

神は人間を自分の子供にするために養育しているのです。これに万物を経営させようと思っているのです。全宇宙の支配者にしようという計画をもって、人間に神と同じ生活形態を取らせているのです。

ところが、人間はそれを理解しないで、自分の欲に従って、その生活形態を乱用しているのです。神の子としての特権を乱用しているのです。それでいいのかと言わなければならないのです。

服装を見て下さい。食卓を見て下さい。家のあり方、電化製品の数々は、神ではできないことを人間はしているのです。ところが、生活意識は悪魔と同じ意識を持っている。こんなばかな事があっていいのかと言いたいのです。

人間の客観的待遇と主観的意識とが全然違っている。これが人間苦という矛盾になって魂に迫ってくるのです。

これを生きているうちに速やかに改めるのならいいのですが、もし生きているうちに改めなければ、死んでから悲惨なことになるのです。人間が神の子としての生活待遇を与えられていながら、それらしい自覚を持たないで、自分の欲のために生きていたとすれば、神の子である特権を踏みにじったことになるのです。神の御名を無視したのです。神を辱めたのです。

神を辱めた人間は、神に辱められなければならないことになる。これが地獄です。とこしえの辱めを受けることになるのです。永遠の辱めを受けるのです。神の辱めを受けた者は、神に永遠に辱められる。現世で神を軽蔑した者は、来世において、永遠に神に軽蔑される。これは当たり前のことです。これが死んでから苦しみおののく原因です。

人間は死ぬことが恐ろしいのです。前途が真っ暗です。これが恐いのです。なぜこうなるのか。人間に与えられている待遇と、人間の自覚が一致しないからです。

そこで、パウロは言っています。「神に愛されている子供として生かされているのだから、神にならう者となりなさい」。これは当然のことです。

神に愛されている子供として待遇されているのなら、神にならう者となる事は当然の事です。そうすれば、やがて私たちは神の子として完成されて、神の世継ぎとして神の大御業を代行する職務を命じられることになるのです。

これが命にありて世々限りなく王となるという、すばらしい栄光です。このことを神は人間に期待しているのです。この神の期待を裏切る者を神は容赦しません。神はまず人間に対して、神の御子としての待遇を与えているのです。先に与えているのです。代金先払いをしているのです。代金先払いで現物を支給していますから、これに対して応えなければならない責任が人間にあるのです。これは当然の事です。

それをしない者は、真っ向から神の怒りを受けなければならないことになるのです。エペソ人への手紙の五章一節の何気ないパウロの言い方ですが、その真意を深く深く理解して頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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