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  • 管理人chaya

はじめに


人間は今の自分の命が死ぬに決まっていることが、よく分かっているのです。よく分かっていながら、それをやめることができない。これを原罪というのです。原罪とは何かと言いますと、生まれる前に犯した罪のことです。

アダムがエデンの園でへびの言葉を鵜呑みにした。サーペントというへびに引っ掛かったのです。サーペントの思想がそのまま肉の思いの原点になっています。皆様は好むと好まざるとに係わらず、生まれる前に肉の思いを持たされたのです。

生まれる前のことは知らないと言われるかもしれませんが、よくお考え頂きますと、アダムという人間は実は皆様自身だったのです。皆様自身と言っても少し違いますが、使徒行伝の第十七章に、「一つの血からすべての民族を造った」という言葉があります。

世界の民族を一つの血から造ったのです。一つの血という言葉は、原文の意味を参酌するとそうなるのです。血とはどういうことかと言いますと、ヨハネの第一の手紙の五章五節に書いてある一ヶ所を読めば分かります。人間は好むと好まざるに係わらず、肉の思いを持たされてしまった。血は現世で生活するあり方、喜怒哀楽、利害得失を考えて生活している状態をいうのです。

「イエスは水と血とによりて来たりたもうた」と聖書にあります。水はイエスの肉体そのものです。イエスが洗礼を受けた時に、イエスの肉体が空じられてしまった。マタイによる福音書の第三章にありますが、「イエスが水から上がった時に、イエスの肉体は消えてしまった」。これがノアの洪水の後の虹の契約に結びつくのです。

水のバプテスマがキリスト教では全然分かっていない。ノアの洪水の意味が分かっていないのです。キリスト教とユダヤ教が世界をめちゃくちゃにしていました。人間の霊魂を殺しているのです。私はこの二つの宗教を叱りつけたいのです。これは新約聖書の意見です。神の意見です。

聖書に「肉の思いは死であるが、霊の思いは命であり平安である」とあります(ローマ人への手紙8・6)。現在の人間の常識、知識が肉の思いです。この思いで生きている人は全部死んでしまいます。霊の思いというのは、人間の命の本質をはっきり見極めていくと分かるのです。人間が現在、目で見たり、耳で聞いたりしていることが、ザ・リビングです。これが霊です。

人間は肉体的に生活している角度からしか見ることができない。霊なる本質、五官の本質に基づいて命を見ようとしないで、生きている利害得失の感覚に基づいて、生活を見ようとしている。これが肉の思いで根本から間違っているのです。

救われたいと思うことが、既に宗教観念に操られているのです。救われたいと思う気持ちを捨てるのです。「自分の命を救おうと思う者はそれを必ず失う」と、イエスは明白に忠告しているのです。

皆様の意識の中心部分が間違っている。これが原罪です。人間は生まれながらにして罪人です。生まれながらの気持ちで聖書をいくら学んでも絶対に分かりません。宗教になるだけです。新しく生まれて、神の国が見えるようになって聖書を学べば、聖書の言葉の一つひとつが驚くべき光を持って、皆様の魂を照らすでしょう。

皆様が生活していらっしゃる気持ち、生活感情が自分の思いになっている。この思いが皆様の命になっているのです。これが問題です。

死ぬに決まっている命に、なぜ執着するのかと真正面から言われますと、突然、胸を突かれたようになり、何と答えたらよいか分からなくなるのです。別に、自分は今生きている命に執着している訳ではないが、これしか命がないと思えるのです。

皆様の精神構造を転換すればいいだけのことです。このやり方を悔い改めるというのです。皆様は無意識に肉体的に生活している命を、自分の命だと思っています。これは死んでしまうに決まっている命です。命(めい)とは肉体的に生きている命です。魂は命(めい)ではない。生(せい)です。皆様の五官は生です。これが分からないのです。

皆様の生活で一番すばらしいのは何でしょうか。恋愛です。恋愛とは何かというと、命の本質を素朴に、真正面から喜ぶ心です。これは生活ではありません。生(せい)です。

マグダラのマリアが自分の髪でイエスの足を拭いたと、堂々と聖書に書いているのです。この時のマリアの心情、そうされているイエスの気持ちが、キリスト教では全然分からないのです。イエスはどういう生き方をしていたのか。イエスの生命認識はどういうものであったのか。一番すばらしいのは恋愛です。この感情は生まれる前の感情です。

男のあばら骨が女になったのは、生まれる前のことです。生まれる前に男と女が分かれているのです。一つの木から二つの感情が分かれている。命を認識することが生です。命のさがです。これは生まれる前から始まっているのです。女という命の認識のしかた、男という命の認識のしかた、男は男としており、女は女としているのです。

男女の別は、エデンの園でできたとしか言い様がないのです。宗教ではこれが分かりません。宗教では前世が分かりませんから、男女の恋愛関係のこと、セックスの原点について、はっきり割り切ることができないのです。本当に聖書が分からないままで死んでいく人は、気の毒な人です。男女の交わりは何をしていたのか。情欲の交わりばかりをしていた。これはすべて刑罰の対象になるのです。

性は最も神聖ですばらしいものです。神が人間の霊魂に恋している。これはヤコブの手紙にはっきり書いています。神の御霊が人間の魂を妬むほどに愛しているのです。この雛形が人間の性です。

聖書は人間存在を割り切っています。キリスト教は人間存在の原理、エデンの園が分かっていないのです。皆様が持っているのは、肉の精神構造です。これが皆様の生活になっている。これは必ず死ぬのです。肉の精神構造をやめて霊の精神構造に切り替えると、皆様のあり方は全く違ってしまいます。

皆様が生をつかまえた構造になれば、イエスやパウロが持っていた精神構造と同じになるのです。そうすると、神と一緒に生きられるのです。イエスの復活の命をそのまま自分の命として生きられるのです。未だかつて、こういうことをはっきり説明した人がいないのです。

本来、人間の命は死なないものです。ところが、全世界の人間は、死ぬに決まっている命を自分の命だと思っている。キリスト教がこういう考えを世界に広めたのです。これがキリスト教の罪悪です。宗教は恐ろしい罪悪を犯すものです。常識の世界に生きていると、宗教の恐ろしさは分かりません。

肉の思いというのは、肉的な精神構造です。英文ではマインドという言葉を使っています。生活主義の精神構造です。イエスと一つになる精神構造は霊のマインドです。マインドの転換だけで命のやり直しができるのです。現在の皆様の精神構造は死ぬに決まっているものです。これを死なないに決まっている精神構造の方に切り替えたらいいのです。これができる人は前世が分かる人でしょう。この世が創造される前にキリストの内に選ばれていた者だけが分かるのです。

現世で生活しているのは人間です。皆様の本質は魂です。魂は生を問題にしますが、人間は命だけを問題にするのです。現在の文明は命だけしか分かりません。ノーベル賞は命だけを対象にしているのです。これはユダヤ人の非常に悪質なやり方なのです。学問の規定を全世界に押しつけているのです。文明をユダヤ思想の枠にはめ込もうとしているのです。ノーベル賞とは、ノーベル委員会の枠のことです。これが根本から世界の政治、経済、学問を曲げているのです。

命をやめて生を問題にするのです。人間をやめて魂を問題にするのです。五官の働きは魂です。男が女を本当に愛するとすれば、魂で愛しているのです。肉体とは違います。肉体だと思っているから汚れてしまうのです。

人間と魂は共同生活をしています。肉の思いというのは、人間の思想のことです。霊の思いというのは、魂の思想です。人間と魂とは全く違います。二重人格になっているのです。

私たちは人間として生きなければ聖書を学ぶことができませんので、人間としての生活をやめるのではないのです。それを棚上げにした状態で魂のことを学ぶために、聖書の勉強をするのです。

人間の肉体的な生活はあります。お腹が空くのは人間の方です。ご飯を食べて味を知るのは霊魂の方です。このように、人間と魂とは二重人格になっています。二重人格になっているのは当たり前です。ここのところをよく心得て、今までの皆様の記憶や考え方にこだわらないで、生活の実体を見る。心を開くのです。

神に向かって、心を開くことが恋愛感情です。信仰です。肉と霊の二重性をよくご理解して頂きたいのです。

                           梶原和義


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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