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  • 管理人chaya

しあわせ


自分自身の存在が無意味であり、無価値であることを確認して、身を引くという考えが日本にあります。私さえ身を引けば、それで四方八方が円満に収まるという考えです。これは一種の自慰行為です。自分自身が犠牲になることによって、誰かを幸福にしてあげようとか、ある事を円満に収めてあげようという、母性愛的な、動物愛みたいな考え方です。そうして身を引こうと考えるのです。

その時の気持ちが全然嘘という訳でもないのですが、その時は収まっても、後でしまったと思うに決まっているのです。本当は身を引きたくなかったのに、身を引こうと考える。これは偽善です。偽善行為はその人を不幸にするに決まっているのです。

本当に自分自身が無価値である、自分が無意味であると考えている人は、決して身を引きません。はっきりと言うべき事を言い、なすべき事を言うでしょう。相手がもし悪いと考えている事があるなら、厳しく指摘するでしょう。そうして、自分の本心をはっきり言って身を引くのです。黙って身を引くというのは、身を引きたくない妄念が腹の底にくすぶっているのです。不平不満がたまっているのです。これは偽善者です。そういうことをやめて、もっと素直に、率直になるべきです。

なぜそういうことになるのかと言いますと、自分というものをはっきり検討していないからです。家庭や社会に矛盾があると考える。その矛盾がどういう所からきているのかということを、分解していくのです。そうすると、その根底がはっきりしてくるのです。その結果、自分の態度がはっきりしたものになってくるのです。身を引くにしろ、引かないにしろ、はっきりした確信をもって、出処進退を決めることができるようになるのです。これが聖書を学ぶための第一の態度であるべきです。

聖書を勉強する人は、イエス・キリストの十字架によって、自分自身を投げ捨ててしまわなければならないのです。「自分を捨てて、自分の十字架を負え」とイエスが命令しています。自分を捨てるという絶対に受け取れないような注文をイエスがしているのです。

ところが、自分を捨てるという言葉を、見過ごしにしているのです。世界十数億のキリスト教の信者は、自分を捨てて、自分の十字架を負えというイエスの言葉を見過ごしにしているのです。この言葉を全く読んでいないのです。「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨てて、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」(マタイによる福音書16・24)とイエスが言っていますが、それをしていないのです。

なぜ自分を捨てよとイエスが言っているのかと言いますと、人間が自分だと思っているのは、実は本当の自分ではない。亡ぶべき自分、死んでいる自分、罪人である自分、罪の缶詰めである自分だからです。これを捨てなさいと言っているのです。当たり前のことです。

ところが、自分を捨てることを嫌だと考える。自分を捨てたくないのです。自分が一番かわいいからです。ところが、罪の塊である自分は持っていても仕方がないのです。

罪の塊のような自分を持っていれば、その罪に引きずられて、地獄行きになるに決まっているのです。

ですから、自分を捨てよというイエスの命令は、喜んで遵奉すべきものなのです。ところが、遵奉されない。かえって、自分の立場を並べてみたり、自分の経験とか、自分の信念、自分の気持ちを分かってもらいたいと、色々な注文をつけるのです。

そういう注文をつけはじめると、もはやキリストを信じることにはならないのです。自分で注文をつけるからです。一切合切注文をつけないで、自分を捨てて、自分の十字架を負いなさいと言っているのに、これをしないのです。

なぜこうなるのかと言いますと、結局、哲学的な思索が足りないからです。自分というものに対して、自分の生存に対する哲学的な、冷静な思索が足りないからです。

自分を何か値打ちのあるもののように見ている。自分は幸福になる資格があるように思っている。自分の個人的な人情とか、面子という資格があると思っている。自分を立てなければならないような理由があるという気持ちがするのです。また、自分を立てるほどの値打ちがある者だと思っているのです。

自惚れです。自惚れという感情は、悪魔特有のものです。うぬを発明したしたのは悪魔です。悪魔は自分で発明した人格を自分で尊重しているのです。自分が発明した人格に、自分が惚れているのです。

人間は皆これをしている。これがその人を不幸にしているのです。哲学的な思索をしていきますと、うぬとは何かが、だんだん分かってくるのです。そうすると、偽善というばかなことはしなくなるのです。

聖書は生のままの人間が、幸せになるとは言っていません。生のままの人間は生臭い人間であって、煮ても焼いても食えないのです。ところが、それを食おうとするのです。自分を捨てないで、自分を食べようとする。これが宗教です。宗教はすべて自分を認めているのです。自分が幸せになることが、宗教の第一の注文です。

目に見える人間を幸せにすること、目に見える家庭が幸せになること、目に見える商売が繁盛することが、宗教の目的です。

ところが、聖書はそうではない。聖書は人間の本性である魂の目が開くことが目的です。人間を幸福にすることではありません。魂の目が開いた結果、その人が社会的に幸福になるか不幸になるか分からないのです。

例えば、ある大金持ちの魂の目が開いたとします。大金持ちが本当の真理に目覚めた結果、自分が持っている財産をばらまいてしまうかもしれません。世間の人から見ると、その人はキリストを信じたばかりに、散財してしまった。そうして、親譲りの不動産もなくしてしまった。だから、不幸に見えるかもしれないのです。

ところが、その反対の現象が起きるかもしれないのです。ある貧乏人が神を信じた結果、真面目に働くということは、神において働くということに豁然大悟して、働くことに無上の感激を覚えるようになって、一生懸命に働いた結果、やたらに金持ちになったということがあるかもしれないのです。だから、現世におけるその人の生活状態が、人間的に良くなるのか悪くなるのか分からないのです。

ドストエフスキーが、「真理はそれが真理の故に信じるのであって、それによって幸いになるかならないかは話は別だ」と言っています。

「腹が立つけれど、それが真理なら仕方がない。頭を下げなければならないだろう」と中江兆民は言ったのです。東洋のニーチェと言われた人です。腹が立っても真理なら仕方がない。損をしても真理なら仕方がない。この考え方が哲学です。

従って、自分が幸いになろうというような前提の条件を考えてキリストを信じようとするのが、間違っているのです。幸いになるか、不幸になるか分からないのです。もし人間からみても不幸な状態が、霊魂の真理を発見することにどうしても必要なら、やむを得ないのです。不幸になったらいいのです。

親に対する不幸とか、天皇に対する不忠、国に対する愛国精神がなくなるというのは、全く小さな問題です。天皇とか国は、日本人だからそう考えるのであって、もしアメリカに帰化してしまえば、天皇とは何の関係もなくなるのです。私たちは日本人でなければならないのではない。日本人をやめようと思えばやめられるのです。

ところが、人間をやめる訳にはいかないのです。日本人であることをやめることはできますが、人間をやめることはできません。人間であることをやめることはできないし、どうしても人間であることに満足しようと思えば、神を信じるしかないのです。そうすると、私たちは自分を捨てるというイエスの提案をのまなければ、自分自身を完成することができないのです。

自分自身を捨てるというのは、どのようにするのかと言いますと、大体自分はいないのです。自分と考えている概念は、その人の肉の思いです。自分が自分だと思っている概念は肉の思いです。自分とは何かという検討を加えないままで、一応自分の思いを否定することなく、初めから肯定している。これが哲学的ではないのです。

肯定することが悪いのではない。一応否定してから肯定するならいいのです。また、初めから否定しなければならないものでもない。否定するとか肯定するかを初めから決めてしまわないで、まず自分とは何か、自分という気持ちを否定すべきか肯定すべきかを、冷静に判断してみて、その上で否定するか肯定すべきかを決めるべきです。

肯定しても、何を肯定するのか。否定するにしても、何をどのように否定するのか。これがはっきり決まらなければ、正しい人生観を持っているとは言えないのです。

ヨハネは次のように言っています。

「私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、すなわちいのちの言(ことば)について」(ヨハネの第一の手紙1・1)。

私たちが目で見ているもの、耳で聞いているもの、手で触っているものが、初めからあった命の言であると言っているのです。

目は何を見ているのか。命の言を見ているのです。手が触っているのは何か。命の言を触っているのです。この命を経験しているのが魂です。自分は何を経験しているのか。冷静に受け止めたら、自ら魂の命が分かると言っているのです。

自分が幸せになるとかならないとかを、初めから考える必要はないのです。考えても無駄です。現在見ているものが、神の言です。手で触っているのが、神の言です。

これが神の言であることに気がついて、ああこれが神の言であるのかと言って有難く言えるようになったら、その人は救われたのです。それが有難く思えないのなら、まだ救われていないのです。まだ御霊を受けていないのです。

目で見ていることが、有難いと思えるのでしょうか。耳で聞いていることが有難いと思えるのでしょうか。結局人間は肉の妄念で神を信じようとしている。肉の妄念とは、幸いになろうという気持ちです。

人間は幸いになる必要は少しもありません。仕合せになったらいいのです。仕合せと幸いとは違います。仕合せというのは、生活態度が天地自然の原理に仕合せているかいないかという事です。

この世で幸いな人は、天地に仕合せていないのです。天地の流れに仕合せていません。私たちが現世で天地の流れに仕合せようと思ったら、幼児のような気持ちで生きることです。自分が働いて食べているとか、自分のお金で食べていると考えている人は、決して仕合せではありません。

人間は神に食べさせてもらっているか、人に食べさせてもらっているか、どちらかです。自分が持っているお金が自分のお金だと思うことが間違っているのです。

自分のお金は一円もありません。人に儲けさせてもらったか、親からもらったかに決まっているのです。その親も、自分の才覚で儲けたお金ではないのです。

人に儲けさせてもらったお金です。先祖代々の財産というのは、皆世間様のおかげで儲けさせてもらったもので、自分が偉かったから儲けたのではないのです。それを自分のお金や財産と思うことが間違っているのです。そういう考え方が仕合せではない考えです。

雲の流れが仕合せです。川の流れが仕合せです。山の姿は仕合せです。ひぐらしの鳴き声は仕合せです。空の鳥を見よとイエスが言っています。野のユリを見よと言っています。これが仕合せのサンプルです。仕合せのサンプルがそこにあるのです。

そのように生きたらいいのです。これを仕合せというのです。自分が天地の流れに仕合せたら、仕合せになるに決まっています。

問題は生きている時の状態ではありません。死んでからの状態です。生きているのは八十年か九十年です。せいぜい長くても百年です。しれています。死んだ後は永遠です。一度死んだら、二度と死なないのです。人は一度死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることが決まっているのです。

一度死ぬというのは、二度と死なないのです。これが恐ろしいのです。一度死んで地獄へ行きます。そこで想像に絶する辛いことに合うのです。こんな辛いことなら自殺しようと思っても、もう死ねないのです。死のうと思っても、死ぬ方法がないのです。

だから、生きているうちに、人間とは何かをはっきり見極めておかないといけないのです。今、目で見ているものは何か。耳で聞いているものは何か。これをはっきり確かめておいて、命の言をはっきり捉えておかなければいけないのです。

現在生きていることを見極めたらいいのです。目で見ていること、耳で聞いていることは、何を見て何を聞いているのか。これをよく見極めれば、命の言が分かるのです。命の言が分かれば、御霊(みたま)を受けるに決まっているのです。生きていることに対する見極め方が間違っているのです。

自分が生きていると、漠然と思っている。自分が幸せになりたいと、漠然と思っている。これが一番悪いのです。これが肉の思いです。生きているとは何か。目で見ていることです。耳で聞いていることです。手で触っていることです。これが生きていることの実体です。

生かされているのです。生かされているというのは、どうしていることか。目で見ていることです。耳で聞いていることです。五官が働いている状態を、生かされているというのです。五官は受動的な機能であって、能動的な機能ではない。人間の五官は女性的です。すべて受動的です。五官は何を受け止めているのか。何かを受け止めているに決まっているのです。

何を受け止めているのか。これが神の言です。人間の五官は鏡のようなもので、目の前に何かがくれば映るのです。何もこなければ映りません。鏡の前に何かがやってくると映るのです。鏡は受動的であって、鏡自身から写しにいくことはありません。人間の五官も同様です。自分の前に流れてくる状態を、見たり聞いたりしているのです。

人間の五官の前に流れてくるものがあるのです。人間は天地万物を見たり、聞いたりしているのです。それは天地万物という形で現われている神の言を見たり聞いたりしているのです。それが自分の本体です。それが生かされていることの本体です。

人間が生きている状態、人間が存在するその真諦、実体を確認するのです。五官の働きが魂ですから、それを確認するのです。

五官は何を対象にしているのか。神を対象にして働いているのです。神の言を対象にして五官が働いている。こういう捉え方が、聖書の正しい見方になるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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