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  • 管理人chaya

男と女


女性は話を聞いて直感的に受け取ることは上手ですが、整理することは下手です。女性は生活目的を持っていません。生活目的を持っていないことが、服装に現われています。女性は目的論的な服装ではないのです。ファッションはありますが、目的論的ではありません。

男性は社会目的が服装の原形になっているのです。男性は現世で社会を造っていかなければならないという責任観を持っているのです。これが悪いのです。

現世を基準にして考えますと、男性は現世に拠り所を持っているのですが、女性は拠り所を持っていません。現世に拠り所を持っていない女性は、来世に拠り所を持たねばならないという求道心を持ちやすいのです。男性は現世的な意味での中心構造を心得ていますから、来世的な求道心を持ちにくいのです。

人間は死ぬに決まっています。死ぬに決まっている自分からどうして逃げ出すことができるのか。死ぬに決まっているという自分から抜け出すのです。これが人間に与えられた絶対的な命題です。

死ぬに決まっている人間から抜け出すことが、聖書を勉強する基本的な原理です。人間から抜け出すとどうなるのか。魂になるのです。魂になって神に帰る。これが魂の目的です。

創世記の二章七節に、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」とあります。これが人間存在の根源です。生ける者とは、生きている魂、リビング・ソール(living soul )です。土のちりとは、ザ・ダスト・オブ・ザ・グラウンド(the dust of the grond )です。地のちりである人間に形を与えた。

地のちりとは何か。現在の地球が造られたこと、太陽系宇宙が成立することになった根源に、地のちりが非常に大きい役割を演じているのです。

空に大空が張られています。大空の内容が地のちりです。人間の角度から言えば、地のちりですが、宇宙構造から言えば、大空になるのです。大空である人間に形を与えたと読んでもいいのです。

大空は太陽系宇宙でどういう役割を演じているのかを考えるとよく分かるのですが、地球を取り巻いている大空が、人間の原形です。それに形が与えられた。これが人間です。そうして、命の息を吹き込まれた。これが人間の生理現象です。人間の生理現象は、神の命の息そのものです。この中に人格が入っているのです。

生理現象は物理的なパワーであり、人格現象は霊的なマイトです。パワーとマイトが組み合わされているのです。これが人間の原形です。これが太陽系宇宙の重要な要素になっているのです。

命の息を吹き込まれたことによって魂になった。命とは神ご自身の命です。神ご自身の命を吹き込まれたとは、神ご自身を吹き込まれたということになるのです。だから死なないのです。神ご自身が人間に吹き込まれているのです。だから、人間は死ねないのです。人間に自由はないのです。人間自身に自由があるというのは、大きな間違いです。それはユダヤ人の自由主義の考えであって、人間に自由はありません。だから、神の言いなりにならなければならないのです。

現在生きている皆様の命は、神の息が吹き込まれた結果の生命現象であって、皆様の命ではありません。自分の命はありません。自分が生まれたいと思って生まれたのではありません。従って、自分の命はないに決まっているのです。

人間の霊魂は神の命の続き柄です。死にたいと思っても死ねないのです。そこで生きている間に、神の御心をどうしても知らなければならないという絶対的な義務があるのです。知った者は救われますが、知らない者は滅ぼされるのです。

救われるにしても滅ぼされるにしても、死ぬこととは関係がありません。人間は死なないのです。だから、現世を去ってしまいますと、来世では別の命の状態において、永遠が待っているのです。

キリスト教ではこういうことを教えてくれません。キリスト教の牧師がこういうことを全然知らないのです。キリスト教の教義ばかりを勉強しているからです。牧師さんは聖書の読み方を知りません。だから、聖書を教える資格のある人間は、キリスト教には一人もいないのです。全くひどいことになっているのです。

人間は死にます。数十年間この世に生きていて、現世を去ると、一人ぼっちになるのです。人間はこの世に生きている間は人間が大将になっていますから、魂は押えつけられるのです。奴隷状態になって、引きずり回されているのです。魂は自分を主張することができない状態で、肉の人間が大将になっているのです。

気の毒なことに、皆様の霊魂は引きずり回されているのです。霊魂の発言権はほとんどありません。皆様の霊魂は人間の発言で踏みにじられているのです。その状態で死んでいくのです。後に残るのは霊魂だけです。皆様はその時どうするのでしょうか。これをよく考えて頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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