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  • 管理人chaya

遺伝子


男の頭は、大体宗教的になっています。原罪の結果、そうなったのです。女は陥罪の被害をそれほど受けていません。男はそれをひどく受けたのです。こういうことは男には分かりません。分からない程、男の頭は悪いのです。

女は頭がありません。ないからいいのです。ハートだけあればいいのです。イエスが何回も幼な子になれと言っているように、イエス自身が幼な子だったのです。男は頭があると思っている。だから悪いのです。善悪の木の実を食べるなと真正面から警告されたのは、男だけです。女は警告されていません。女は最初から男の付属物のような状態になっているのです。

陥罪以後の社会的な形で言いますと、世の中の中心は男になっています。頭がなければいけないと威張っているのは男です。頭を使うことが原罪です。信仰はハートを使うことです。現在の世の中の中心になっているのは原罪でありまして、世の中の中心になっているという事は、その人格が悪魔であることを意味しているのです。男は社会に住んでいるという立場からしか考えようとしないのです。

男がなぜだめかと言いますと、男の頭は自信がありすぎるからです。男は善悪の木の実を食べれば必ず死ぬということを、はっきり神から警告されたのです。本当の事を言いますと、男の中にある女も警告されたのですけれど、その時の女は人格を持っていなかったのです。まだ男のあばら骨である時に言われたのです。だから、女は直接に神から食べるなと聞いてはいなかったのです(創世記2・15~18)。

原罪の被害を直接受けたのは男です。これが今の男の悪さによく出ているのです。神からそれだけひどい刑罰を受けているのです。このことを男は良く知らなければいけないのです。頭が良いということは、ハートが悪いということです。信じるというのはハートの問題であって、パウロは「ハートに信じて義とさられる」と言っているのです。「心に信じて義とされる」と言っています(ローマ人への手紙10・10)。頭で信じて義とせられるとは書いていないのです。

男が悪いということを、ユダヤ人が知らないのです。モーセのような大人物のように見える人が、それを知らなかった。だから、未だにモーセの掟がしっかりとイスラエルを押さえ込んでいるのです。

これが男の悪さです。ユダヤ人の悪さは男の悪さです。男の悪さを捨てなければ、イスラエルを悔い改めさせることはできないのです。イエスは男の悪さをすっかり捨てているのです。男の正直さは、真理を妨げるものになっているのです。

イエスが復活した後の肉体はどういうものであったのか。魚を食べてどうなったのでしょうか。これも女ならすぐに分かるでしょう。

イエスが「この世の知恵と賢さを大変嫌う」と言っていますが(マタイによる福音書11・15)、神も人間の知恵と賢さを一番嫌っているのです。なぜ嫌っているのかと言いますと、悪魔の考え方だからです。

男はこの意味で、知性的な思考方式がはっきり悪魔的であることを悟る必要があるのです。女は自分に与えられている自然の素直さが、どういうものであるかを悟る必要があるのです。男はスポイトされています。これは大変な事です。これはユダヤ人の状態を示しています。ユダヤ人の悪さは男性の悪さそのものです。ユダヤ人が世界の中心になっていますが、これは男の悪さが世界の中心になっているのと同じ悪さを意味しているのです。

結婚を契機にして、女も男と同じような悪さを持つのですが、男ほど悪くはないのです。男は生地から悪いのです。結婚するまでの男や女はまだいいのですが、結婚すると俄然悪くなるのです。そうするつもりはないのですが、結婚することによって、社会人になってしまうのです。結婚することを昔から、身を固めると言います。身を固めることは、心を固めることになっているのです。二度も三度も結婚した人は、心が石のようになっているのです。

この世に生きている頭で聖書を勉強しても、絶対に救われません。ユダヤ人でさえもだめです。ましてや、異邦人は神に全く問題にされていないのです。この世に生きていることが、何もかもぴんからきりまで全部悪いのです。皆様は完全にこの世の人間になっています。いわゆる身を固めた人間になっています。こういう人間はどうしようもない。やり直さなければ、しょうがないのです。どうしてやり直したらいいのか。土台からやり直さなければいけないのです。皆様は自分の悪さを本当に心得なければいけないのです。

この世に生まれてきた以上、難しかろうが、やりにくかろうが、どうしても自分がいるという意識から完全に出てしまわなかったらいけないのです。自分という意識を持っていたら、必ず地獄へ行くことになるのです。絶対に地獄へ行くのです。

皆様が今日まで、何十年間か生きていたという記憶が、皆様を地獄へ引っ張っていくのです。自分がいくら聖書を勉強していてもだめです。自分が自分である間はだめです。しかし、神は私たちにイスラエルに伝道のための責任を負わせようとしている事だけは間違いないのです。

エゼキエル書の二章三節に、「私はあなたをイスラエルの民、すなわち私に背いた反逆の民に遣わす」という言葉があります。この言葉が私に与えられたのです。イスラエルの預言者と同じ招命を受けたのです。エゼキエルがそう言われた。アモスもそう言われたのです。私にもそう言われた。私は奮起せざるを得なかったのです。その結果、イスラエルのために祈るということを教えられたのです。

この広い世界に、ユダヤ人の悔い改めのために、本当に祈っている人はいません。私はそれをしているのです。しかも、神の名を与えられている。エホバの名と、イエスの名、イエス・キリストの新しい名の三つが与えられているのです。

文明の根底に、原罪という遺伝子がある。罪とは何か、遺伝子のことです。これは恐るべき遺伝子です。私たちはこれと正面から闘わなければならないのです。こういう勇壮な闘いをしたのは、かつてナザレのイエスがしました。パウロもしました。そうして、私たちもそれをしているのです。

イエスの在世当時、イエスとその弟子の数十人が、真正面から原罪の遺伝子と闘ったのです。今私たちも、同じ闘いをさせられているのです。相手は原罪という遺伝子です。ノックアウトできるか、ノックアウトされるのか、どちらかです。

皆様はこの世の人です。古き人です。肉体的に生きている古き人です。これは恐るべき強敵です。サタンという強敵です。これをノックアウトしなければ、ノックアウトされてしまうのです。

これは倒せるのです。イエスが既に倒したのですから、イエスを信じれば倒せるのです。ところが、皆様はイエスを信じることができない。なぜできないかと言いますと、今生きている皆様は、原罪の遺伝子が人間の格好をしているからです。男も女も、原罪の遺伝子が固有名詞の人間の格好をして、この世に生きているのです。皆様は一人ひとりが間違いなく悪魔そのものです。

悪魔は闇が淵のおもてに張りついたことによって、地球だけに発生した恐るべき遺伝子です。死の権威を持った遺伝子です。これを完全に倒したのはイエスだけです。私たちもそれが倒せるかどうか、こういう伸るか反るかの状態に私たちは置かれているのです。

皆様は熱心に勉強していますが、般若心経を心にとめていないのです。頭にだけとめているのです。頭に乗せている程度です。

空というのは、科学的にいうとどうなるのか。死を科学的にいうとどうなるかです。皆様にはマイティ(mighty)が与えられています。与えられているマイティをよく考えて、マイティに合うような生き方をしなければ、必ず地獄へ行くことになるのです。自分には力がないとか、自分には時間がないとか、忙しくて勉強ができないという言い訳は、神の前に一切通用しないのです。

皆様にマイティを与えたのは神です。皆様の目や耳は神のマイティによって成り立っているのです。

イザヤは言っています。

「この民に行って言え、

あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。

見るには見るが、決して認めない。

この民の心は鈍くなり、

その耳は聞こえにくく、

その目は閉じている。

それは、彼らが目で見ず、

耳で聞かず、

心で悟らず、悔い改めて、

いやされることがないためである」(イザヤ書8・9、10)。

あなたがたはその目で見るだろう。しかし、決して認めない。あなたがたはその耳で聞くだろう。しかし、決して悟らないだろう。こんなばかな事は有りえないのです。

目は神のマイティです。見ることははっきりマイティを意味するのです。皆様はマイティを生活の土台にして生きています。しかし、そのマイティを認めないのです。マイティは能力とか威力、性能という意味です。見るとか聞く、歩く、走る、考える、計算する、推理、判断、記憶はすべてマイティによるのです。

アブラハムはこのことを知らなかったのです。ところが、創世記の第十七章の段階で、神に真正面から、アイ・アム・オール・マイティ・ゴッド(I am all mighty God,)、私は全能の神であると言われてびっくりしたのです。

見ることも、聞くことも、歩くことも、走ることも、考えたり計算したり、電話をかけたり、字を書いたりすることも、全部マイティです。人間の体の中の色々な働きも、森羅万象も、すべてマイティで、それが神であると言われたのです。人間の中も、外も、神でいっぱいつまっているのです。これにアブラハムは驚いたのです。

オール・マイティ・ゴッドを全能の神と訳していますが、これでも間違いとは言えませんが、全能が私(神)だと言っているのです。すべての力は皆神です。それが私だと言っているのです。

空気の流れ、太陽の光、花の美しさ、花の色、形、香りがマイティです。それが神だと言われて、アブラハムはびっくりしたのです。アブラハム自身が見ていることも聞いていることも、すべてマイティであって、これが神です。

皆様はオール・マイティ・ゴッドという短い言葉が分からないのです。病気になったら心配しなければならないと思っています。それは心配しなければならないこととは違います。心配してもいいですし、心配しなくてもいいのです。

例えば、お金がなければ、医者にかかろうとしてもかかれない。こんな人は心配でどうしようもないのです。お金がないということが神ですから、医者にかかれなくてもしようがないのです。医者にかかりたい人はかかればいいですし、薬が飲みたい人は飲んだらいいのです。病気で死んでいく時は、死んでいく時が神です。問題は神を信じるか信じないかです。医者にかかるかかからないかの事ではないのです。

人間は神が臨在するという条件において、この神をどのように信じるかという自由を与えられているのです。医者にかかってもかからなくてもいい自由がありますし、働いても働かなくてもいいという自由があるのです。神と人間は向き合っているのであって、神を目の前において人間は神をどのように信じるのか。極端なことを言えば、神をどのように用いるのかという自由を与えられているのです。

これが人間の自由意志です。これはとても大きい意志です。神の意志と人間の意志がありますが、神の意志の前で人間の意志がどのようにあるべきかを学ぶために、意志がいるのです。私たちは神から意志を与えられていますけれど、これは自主独立を意味する意志ではないのです。むしろ自分自身の自由独立を否定するための意志なのです。

これがモーセ以後のイスラエルによって見事に裏切られたのです。これをイスラエルが聞けば激怒するでしょう。しかし、真実だから仕方がないのです。

モーセは掟を行おうと考えた。ところが、掟は行うべきものではない、守るべきものです。掟を行えば、たちまち人間の命が肉になってしまうのです。なぜなら、掟は肉を持つ人間に対する命令ですから、それを行おうと思えば、自分が肉になるのです。これがどうして、イスラエルに分からないのかと言いたいのです。

私たちは意志を与えられて、この世に生まれてきたのです。目を与えられ、耳を与えられてきたのです。この目や耳を正しく使わなければならない責任があるのです。目の働きの本性、本質、本体を言葉と言います。皆様はそれを持っています。持っていながら、その意志を自分の肉で使っているのです。自分の目だと思っているから、自分が見ていると思っているのです。これがすべて罪になるのです。

これはとても恐いことです。すべての人は皆見ているから困るのです。見ることだけでなくて、聞くことも、味わうことも、触ることも皆同じです。自分の思いでしていれば、皆罪になるのです。だから、一日生きていればそれだけ罪を造っていることになるのです。人間の意志は大変なことをしているのです。皆様は自分の意志の使い方によって、見事に宇宙構造の原理を切り替えることができるのです。地球構造の原理を切り替えることができるのです。

現在の地球構造がどのようになっているのかと言いますと、負数と正数でできているのです。これは地球だけの現象ですが、新陳代謝は正数と負数があることを意味しているのです。私たちはこの世に生まれてきた以上、正数と負数の両方を抱え込まされているのです。抱え込むというよりは。意識的には負数になっているのです。

パウロは、「私たちは、律法は霊的なものであると言っている。しかし、私は肉につける者であって、罪の下(もと)に売られているのである」(ローマ人への手紙7・14)と言っています。目が見えること、耳が聞こえることは、霊なる働きです。霊なる神の機能が、肉体の中に入り込んでいるのです。

生きていることは恐れ多いことです。御霊(みたま)が自ら人間の格好をして生きている。これはとても恐れ多いことです。これをいつでも心に思い浮かべ、この事実に従って生きなければいけないのです。

負数はマイナスの数です。マイナスの数はいくら足してもプラスにはなりません。足せば足すほどマイナスが大きくなるのです。これが人間の勘定と違う所です。だんだん足していくとプラスに近づくような気がするのです。ところが、そうはならないのです。人間が自分の思いで聖書の勉強をすればするほど、だんだん分からなくなるのです。神が嫌になるのです。

聖書の勉強をすればするほど、神の方で逃げていくのです。人間が聖書の勉強をすればするほど、嫌になるのです。これは困ったことです。この原理が遺伝子です。

正数の遺伝子と負数の遺伝子があるのです。負数の遺伝子が悪魔が管轄する遺伝子です。これが死の権威を持つものです。正数の遺伝子は、神の御霊が管轄しているのです。ローマ人への手紙の七章でこれを説明しているのです。人間が掟を守ろうと思えば思うほど、悪くなるのです。人間が聖書を勉強すればするほど、悪くなるのです。

人間は聖書を勉強するという意味が分からないのです。肉の思いを持ったままで、また肉体人間がいるという気持ちを持ったままで聖書を勉強していると、負数になるのです。困ったことです。

聖書を勉強することはいいことですが、皆様が肉体人間であると思っていることが、根本から負数になっているのです。それは悪魔に加担していることなのです。皆様が聖書の勉強をすればするほど、喜ぶのは悪魔です。皆様はこんな事を言われて黙っていられるのでしょうか。原理を申し上げればこういう事になるのです。

そこで皆様は奮起しなければならないのです。景色を見たり、人の話を聞いたり、テレビを見たり、新聞を読んだりしていると、それが聖書になっていくのです。考えると間違えるのです。霊を渡さないままで聖書の勉強をしていると、普通の勉強になってしまい、役に立たないのです。

人間は正数と負数を両方抱き込んで生きているのです。正数は生、負数は死です。曹洞宗の道元禅師は、人間が生きている状態を生死と言っています。「生死のうちに仏あれば生死なし」と言っているのです。

仏というのは悟りのことです。生死のうちに悟りがあれば、生死が消えてしまうのです。人間は生きたり死んだりしながら生きているのであって、生きるとか死ぬとかという意識がある間はだめです。生きていると思っている状態では、死を意識しなければならないのです。生きているということを意識しなければ、死んでいることも意識しなくてもいいのです。

生きていることを意識すると、必ず死ななければならないと意識するのです。利害を考えていると、必ず損を頭に置かなければならないのです。利害を考えなければ損を頭に置く必要もないのです。

救われたい、救われたと思っていると、地獄が忍び寄ってくるのです。生死のうちに仏あれば生死なしです。悟りがあれば、生も死もない。両方ともないのです。ただ生きているということ、リビングがあるだけです。リビングとは何か。生きていることは霊です。神の御霊(みたま)が生きているのです。

自分が生きていると思うと、その人はたちまち死ななければならないことになるのです。自分が生きていると考えないで、ただ神の御霊が生きていると考えたらいいのです。御霊によって生きているから、御霊によって歩むべきであると考えるのです。

生きていることが御霊です。目が見えることが、神の御霊です。耳が聞こえることが、神の御霊です。皆様は神の御霊を年柄年中経験しているのです。御霊と一緒でなかったら生きられないのです。ところが、御霊がどこにいるか分からないと言っている。何を言っているのかと言いたいのです。

人間は御霊によって生きていながら、肉(人間の常識)によって歩んでいるのです。御霊によって生きているから、損も得もないのです。ただ生きているという事だけがあるのです。これをザ・リビングというのです。自分がいるのではない。リビングという事実だけがあるのです。私たちはリビングだけを経験しているのです。

目で見ていること、耳で聞いていることがリビングです。自分が見ているのではありません。従って、自分が生きていると思わなければならない理由はどこにもないのです。ただ目で見ていること、耳で聞いていることしかないのです。リビングが神です。目で見ているという格好で神が生きているのです。神が生きていることを毎日経験しているのです。リビング・ゴッドを経験しているのが、リビング・ソールです。

目で見ていることが神の御霊です。皆様に目が見えるということがなかったら、生きていられないのです。目が見えるというのは結構なことです。目が見えるから生きているという実感があるのです。これを神の愛というのです。そこで、愛によりて働く信仰が分かればいいのです。

信仰の秘訣は愛です。神に愛されているという実感があると、人間の魂は開くのです。愛されているという実感が一番尊い実感です。パウロは愛によりて働く信仰と言っています。

割礼を受けることも受けないことも益なしです。愛によりて働く信仰だけが、益があると言っているのです。聖書を勉強したとかしないとかはどうでもいいことです。皆様が生かされていることが愛です。これを考えて頂きたいのです。

生かされているということが、何ものにも勝っている愛です。皆様は生きていることが有難いと思うでしょう。有難いと思うから、何かあったらすぐに病院に行くのです。生きているというのは、それほど結構なことです。朝、目が覚める。コーヒーを飲み、パンを食べる。果物を食べることの中に、得も言われぬ楽しさがあるのです。毎日起きて、顔を洗うという日常茶飯事が何となく楽しいのです。人間の霊魂は生かされていることが、そのまま神の愛であることを知っているのです。人間は知らないのですが、霊魂が知っているのです。

愛されていることが分かってくると、お茶の作法を習うのではなくて、家元になって自分でお茶の作法をつくっていくことになるのです。自分の考えがそのままお茶の作法になっているからです。千利休のお茶の本当の良さは、自分自身がお茶の作法になっていたことです。自分でお茶をたてなければならないと思っていないのです。お茶をたてなければならないと思ってたてていたら、偉人にはなれません。

お茶そのものが自分になってしまうのです。そうすると、お茶をたてている瞬間の楽しさが分かるのです。たて終わって茶筅を置くことの楽しさ、お茶碗を手に取ることの楽しさ、茶碗を回し飲みすることの楽しさ、飲むことの楽しさを一期一会というのです。

一挙手一投足がそのまま神と向き合っているのです。神の前でお茶を飲んでいるのです。今この瞬間しか生きていないと考えるのです。お茶をたてている瞬間は生きています。茶筅を置く時には自分が生きているから置けるのです。命の瞬間をお茶と一緒に楽しんでいるのです。命の瞬間をお茶で楽しんでいる。これが一期一会の秘訣ですが、これが信仰の秘訣でもあるのです。

神が人間を生かしているのは、愛しているしるしです。愛されている人は、愛している人の顔を見たくなるはずです。神は人間の顔を見ているのです。「わが前に歩みて全かれ」というのは、神が人間を見ている証拠です。

自分が神の前にいるという認識があれば、神の目が向いていることが分かるのです。自分がそういう気持ちを持つと、神がそういう気持ちを持っていることが分かるのです。これが遺伝子の行動です。正数の遺伝子の行動です。

負数の遺伝子の行動もあるのです。遺伝子の働きを決定するのは、人間の精神です。これがとても大きいのです。悪魔はマイナスの遺伝子を地球へ送り込んだのです。どうして送り込んだのかと言いますと、自分の精神で送り込んだのです。闇が淵の表に座り込んだ。これによって、悪魔は自分の精神によって恐るべき遺伝子を地球へ送り込んだのです。そして、死の権威を持つ者になったのです。

イエスはその反対です。イエスは神を信じることによって、暗きの遺伝子を滅ぼしたのです。イエスは生死の内を生きていなかった。道元禅師は生死の内に生きていたのです。イエスは生だけで生きていたのです。

イエスが洗礼を受けた時に、神は、「これは私の愛する子、私の心にかなう者である」と言っています(マタイによる福音書3・17)。わしは気に入った。わしはお前に惚れたと言っているのです。神はイエスばかりを見ているのです。イエスも神だけを見ていたのです。お互いに好いた者同士が目を合わせていたのです。これが本当の恋愛です。本当の信仰です。

悪魔はマイナスの遺伝子を送ったのです。イエスはプラスの遺伝子を持ち込んだのです。私たちはそのどちらかの遺伝子によらなければならないことになっているのです。プラスの遺伝子を用いる事によって、マイナスの遺伝子を打ち破る事ができるのです。

マイナスとマイナスを掛けるとプラスになる。これを十字架を負うというのです。死んでしまうに決まっている自分の肉を十字架につけてしまうのです。これがマイナスを掛けることになるのです。マイナスに生きている自分は肉の自分です。これを十字架につけるのです。難しいのは、その時の精神構造をどのように使うかということです。イエスは自分を捨てて、自分の十字架を負うて私に従ってきなさいと言っています。これを実行したらいいのです。

私たちは遺伝子の世界に生きています。私たちの信仰は空振りではありません。信じるにしても信じないにしても、私たちの精神の作用は驚くべき力があります。マイナスの力とプラスの力との両方が精神構造の中にあるのです。

自分の思いはどういうものか。肉の思いは死であり、霊の思いは命であり、平安である。このどちらを選ぶかは、皆様の自由意志によるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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