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  • 管理人chaya

あとがき


人より高い所から見るようにして頂きたい。これができたら人間は死なないのです。

人間の概念はぼやっと見ているのです。そうではなくて分解的に見るのです。皆様が生きている実存状態を分解して見るのです。皆様は生きている状態をそのまま見ています。だから間違っているのです。

生きているのは霊と肉がごっちゃになっているのです。霊と肉を分解して見ることができれば、死ぬ人間と死なない人間がはっきり分けられるのです。

皆様が本当の命を掴み損なっている原因は、神に接する心が分かっていないからです。神に接する気持ちが分からないのです。

神に接したいという気持ちはあるでしょう。その気持ちがあれば、神に接触する心構えがなければならないのです。

皆様は現世にいる心構えのままで、神に接触できるとお考えになっている。聖書を勉強している人がそう思っているのです。聖書を二、三年勉強したとか五、六年勉強したという程度では、なかなか神に接する気持ちが分からないのです。これをパウロは「心を更えて新にせよ」と言っています。更えるというのは変えるのではない。チェンジとは違います。もし、チェンジだけなら変えるという言い方でいいのですが、更えてというのはやり直すという意味です。新しく造り直すのです。心を新しく造り直すのです。これが分からないのです。

聖書を正しく読むためには、心を新しく造り直さなければならないのです。これができないのです。

現世に生きている人間は神の前に出ることができません。そういう気持ちが持てないのです。だから神の前でものを言う動機ができないのです。偉い人の前で言うような気持ちで神の前で言っている。これが間違っているのです。

現世で、人間が人間に発言するような言い方ではだめです。天皇陛下の前で発言する場合は、姿勢を正して畏まって発言すればいいのですが、神の前ではそれではいけないのです。畏まって発言したらだめです。畏まらずに言わなければならないのです。

本心から言うのですが、今までの自分の奥底にもない気持ちで言わなければならない。これが人間にはできないのです。

はっきり言いますと、心にないことを言わなければならないのです。皆様の心には本当の真心はありません。現在の人間は死んでいく人間です。死んでいく人間には真心があるはずがないのです。

死んでいく人間には真心は必要ありません。皆様は真心で考えたことはないでしょう。その必要がないからです。

神に対しては真心がなければだめです。宗教の神ならただ真面目だけでいいのです。生ける誠の神に発言するのは、宗教の神に発言するのとは違います。

例えば自分自身に発言してみて下さい。その場合でもお稲荷さんに向かって発言するような気持ちで言えるでしょうか。お稲荷さんくらいなら、ごまかしておけばいいのです。

ところが、自分自身の本心はそれではだめです。神に言うには、自分自身に言うよりもっと真面目に言わなければならない。それができないから神が分からないのです。神と一緒に生きることが、なかなかできないのです。

皆様は神に生かされていながら、神に生きる要領が分かっていない。本当に聖書を信じるというのは、ここが難しいのです。

「心を更えて新にせよ」とパウロは言っていますが、これは出直すということです。心を持ち直すという意味です。だから頭を下げるとか、真剣にするとかそんなことではだめです。

聖書の勉強は真剣にするくらいのことではだめです。自分自身の命よりもっと大切な勉強をするのですから、命のことを問題にしているようでは、まだ神が分かっていないのです。命以上のものを与えられるのですから、命をかけるくらいのことではだめです。

人間の命はどうせなくなるものです。なくなるものを捨てるのは当たり前です。なくなるに決まっている命を、皆様は握り込んでいる。そういう気持ちを捨ててしまうのです。死なねばならないに決まっていることが分かっていながら、その命を握り込んでいる。それを捨ててしまうのです。本当に捨ててしまうのです。

捨ててしまうと、初めて生きていることの本当の姿が見えてくるのです。その心で神をつかまえるのです。

皆様が今生きているのは、やがて死ぬに決まっている命ですから、それを捨ててしまうのです。自尊心も自負心も、皆様の経験も記憶も、全部捨ててしまうのです。皆様の経験も記憶も、皆様が死んでしまえば何の役にも立たないからです。そういうものを捨ててしまうのです。

一体皆様の経験や記憶が、神の前に何の役に立つのでしょうか。全く役に立ちません。そういうものを捨ててしまうのです。今生れた赤ん坊のような素直な気持ちになればいいのです。欲も損も何もない気持ちになれるでしょう。

神の前に出るのは、そういう気持ちが必要です。相手が神です。皆様の命の主が神です。皆様に命を与えている神です。この神をつかまえるのですから、自分の命に対する先入観を捨ててしまって、命そのものにならなければならないのです。

自分の命の実体に向き直るのです。そうして神にものを言うのです。絶対に嘘を言わないのです。そうすれば神が相手にしてくれるのです。悔い改めて福音を信じるとは、それを言っているのです。心を更えるとは心を持ち直すことを言うのです。

皆様は生かされています。生かされている命の実体は神です。皆様は命の実質を知らないのですから、それを知ればいいのです。それを受け止めるためには、現在までの自分の経験を、全く棚上げするような感覚を持つのです。

人間は経験を大変重んじています。その経験の中にはプライドがあります。自分自身が得をする感覚を持つ癖があります。この癖を捨てるのです。

今までの自分の経験を捨ててしまっても、死ぬに決まっている経験だから何の損もないのです。それを捨てても、生かされてる自分はなくなってしまわないのです。むしろ質が変わって立派なものに造りかえてもらえるのです。損をする訳ではないのです。今までの自分のプライドを捨てるのです。これを悔い改めて福音を信じるというのです。

理論的に理屈的に、いくら聖書の勉強をしてもだめです。信仰は理屈ではありません。命の問題です。自分の命が、イエスの命と一つになることが必要です。

命は一つしかありません。皆様は自分の命を持っているつもりかもしれませんが、それが間違っているのです。自分の命を持っている人は必ず死にます。

命を持ち直すのです。イエスは主なりという言い方で命を持ち直すのです。イエスが主であるということを口で言い現わすことは、イエスの命を自分の命にしてしまうことです。イエスを自分の主にするということは、イエスの命を自分の命の主にしてしまうことです。

全世界に七十億人の命があるのではありません。命は一つしかないのです。自分の命はありませんから、これが分かれば救われるのです。

皆様が救われようとしてもだめです。皆様の命はすでに死んでいるのです。イエスの十字架によって、全ての人の命はなくなっているのです。

イエスの十字架を信じるということは、イエスの十字架によって人間の命が神の前にすでになくなっていることを認識することなのです。これが十字架の贖いです。

十字架の贖いによって全ての人の命はなくなっているのです。これが信じられる人は幸いです。再び死なないのです。イエスを全然知らない人でも、その人の命は十字架によってなくなっているのです。

だから人間は、自分が救われたいと考える必要は全くありません。ただイエスが永遠の命を持っていたこと、復活したことがはっきり分かればいいのです。イエスの復活の命が、そのまま皆様の命になってしまっているのです。これを勉強すればいいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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