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  • 管理人chaya

マインド


神を信じるという根本的な原理がはっきりしなければ、神に対して責任を持つことができないのです。

何十年も生きていながら、生きていることが分かっていないのです。これは女性が人の奥さんになっていながら、女になっていないことと同じことです。生半可というか、生半熟というか、中途半端なのです。

奥さんにはなっているけれど、少しも女になっていないのです。女になる人はなかなか少ないのです。女になっていなければ、本当の意味で役に立たないのです。本当の女になっていなかったら、主人を主人とすることができないのです。昔の女性は女になろうと一生懸命に勤めたのです。今の女性は女になろうと思わないので、少しも女になれないのです。いわゆる女性的なペースを持ち続けているのです。

女性と女とは違います。全く女になっていない。女性のままです。ご主人は自分の奥さんがなかなか女にならないので困っているのです。結婚したら早く女にならなければいけないのです。

女性を女にすること、また、女性が女になることが、骨の骨になることです。男の骨の骨にならなかったら、女の人はいてもしょうがないのです。ただセックスをしているだけではだめです。セックスということさえも分かっていない。女になっていない女性は、セックスが分かっていないのです。セックスが本当に分かっている女は、非常に少ないでしょう。

女性は男によって女にされるのです。人間の魂は神によって人の子にされるのです。人の子にならないような魂はだめです。神によってこなされなければいけないのです。男によって女はこなされる。こなされようとしないのですから、いつまでたっても女性は女性のままです。だから、役に立たないのです。

皆様の奥さんを見て下さい。全く女になっていない。嫁入りしたという格好だけをしているのです。皆様の信仰も同様です。神のものになっていないのです。人の子になっていないのです。魂ですから、御霊を受けましたが、人の子になっていないのです。人の子にならなければ、信仰をしている妙味、おもしろさがつかめないのです。だから、信仰が空回りしてしまうのです。

五官が人間の実態です。これが分かったら、分かったことを素朴に受け取れば、それが生活の原点になるのです。生きていることが神です。病気になってもならなくても、生きていることが神です。簡単明瞭です。この簡単明瞭なことを受け取らないので、信仰が伸びないのです。栄光が感じられないのです。信仰を実行すれば、すぐに栄光が感じられるのです。

三こう主義というものがあります。信仰、実行、栄光の三つです。病気になろうが、死のうが生きようが、そのことが神です。信仰というのは、非常に素朴で端的なものです。神を信じるというのは、楽しいことです。愉快なこと、喜びがあるのです。

自分がいるのではありません。神がいるだけです。自分がいると信仰することが苦しいのです。自分が生きているとは、大変な負担です。自分から抜けてしまうと、あるがままの状態になります。このあるがままというのが、神です。

もう一つ聖書が分からないとか、信仰が未熟だと思えるとします。これが神です。良いことも、悪いことも、すべて神です。だから、少しも頑張る必要がないのです。

家庭に帰ると信仰が一番落ち着くのです。家庭が信仰の場になっているのです。自分一人でも、信仰の場にはまっていたらいいのです。

あるがままが神です。これがなかなか分からないのです。神をはっきり捉えるということをするのです。父なる神の名(実体)が分からなければいけないのです。あるということが神です。あるがままが神です。自分が良くなろうとか、自分が霊的に理解できるとか、理解できないとかを考える必要がないのです。人間が理解できる聖書信仰は大したことではないのです。ただ信じた気持ちになるだけです

神が分からないと思うことが、神が分かっている証拠です。この所は少々難しい所ですが、そうなるのです。精神の根元は神によって造られたのですが、その精神を神が管理しているのではない。精神の管理を人の子に任せているのです。

神は精神を管理していません。だから、救われるのです。精神そのものを、神があれこれ干渉したら、全く掟になるし、信仰にならないのです。父はそれを知っているから、人の子よ帰れと言いますが、それ以上干渉しようとしないのです。父はどこまでもウィル(意志)であって、マインド(精神)ではないのです。

宇宙生命の意志があります。これは宇宙生命自身の人格性です。これが意志になって現われているのです。

美しいと感じるのはマインドですが、これに対して神が干渉しないのです。美しいと感じていればそれでいいのです。美しいと感じていることは何か。これが分かれば救われるのです。美しいと感じていることがどういうことかが分かれば、それだけで救われるのです。

人間は自分自身の本体がマインドであるということが分かると、それだけで救われるのです。マインドというのは、神のウィルを受け止める受け皿になっているのです。マインドがなかったら、ウィルだけがあってもしょうがないのです。マインドがあるから、ウィルのあり方に意味があるのです。良い意味にしろ、悪い意味にしろ、意味があるのです。

裁きとは何か、裁きのようにマインドが働くのです。マインドがあるから裁きが発生するのです。マインドがなかったら、神がいくら裁こうが救おうが、全部虚無になってしまうのです。これを悪魔が狙っているのです。

神が万物を造ったという事実を悟るものがなければ、無意味になるのです。神が天と地を造ったことを、誰が悟るのかと言いますと、マインドが悟るのです。マインドが受け皿になるのです。これだけでいいのです。

神が神であることを悟ったら、それだけでマインドの責任を果たしたことになるのです。それをはっきり自覚すれば、そのマインドは神に所属しているのです。神に所属していなければ、いいにしても悪いにしても、それを受け取ることができないのです。

祝福なら祝福を受け取る。裁きなら裁きを受け取る。これがマインドの正体です。裁きを受け取ることができるマインドは、救いを救いとして受け取ることができるに決まっています。裁かれることよりも救われることの方が有難いのです。信仰とは極めて分かりやすいことです。

苦しいことを苦しいこととして受け取ることが、マインドとして働いていることになるのです。苦しいという形の神がいるのです。宇宙のウィルがそういう格好であるのです。寒いということが神だと分かると、寒いということに親しみを感じることができるのです。神とつき合っていると思うと、そんなに精神の負担を感じないのです。

何でも神とつき合ったらいいのです。神とつき合っていたら、苦しい時でも悲しい時でも、そういう格好で神がいるのですから、生きている間にできるだけ神とつき合うようにするのです。

神を捉えることが現世でできるかどうかによって、その人の記憶の内容が変わってしまうのです。その人の記憶が変わってしまうと、神を賛美する、神を誉めるという記憶になるのです。

苦しくても神、楽しくても神、どちらも神です。神しかいないのです。苦しいと感じるのは、神がいるからそう感じるのです。嫌だと感じるのは、神がいるからそう感じるのです。

神がいることを前提にしてみれば、私は父の内にいるということが分かるのです。おもしろいことも、悲しいことも、いつも父の内にいるのを感じているのです。父の内にいるということが神です。

神がなぜ私たちに無理なことを要求しているのかと言いますと、神は私たちのグループに、世界歴史を託しているからです。その自覚を持てばいいのです。人間全体を代表して、神を受け止めているのです。これがキリスト意識です。キリスト意識さえ持てば、携挙(けいきょ)されるのです。キリストに同意できる者だけが、キリストの花嫁になるのです。

現世に生きていることを、苦しいとか楽しいという形容詞をつけますけれど、キリストの花嫁になるために、そういう経験をしているのです。

苦しいことも、悲しいことも、神的に受け取ればプラスになるのです。初めの雨の時には、人類全体を代表して、イエスがそれを受け止めたのです。後の雨の時には、全人類を代表して、私たちがそれを受け止めるのです。神を捕まえたら、神の財産が与えられるのです。神を捕まえるか捕まえないかによって、それが決まるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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