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本地垂迹


本地垂迹(ほんじすいじゃく)という言葉があります。本地とは本来あるべき姿、形、または状態です。垂迹というのは、目に見える形で現われることです。垂というのは、上から現われるという意味です。霊なるものが肉なるものとして現われるのが垂です。天から地にたれるという意味で、垂という字を使っているのです。

創造ということは、現われること、垂です。迹は現象的な形をとることです。本地垂迹という文字の意味はこのようになりますが、聖書の言葉によって説明しますと、次のようになります。

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネによる福音賜与1・1~3)。

造られたものは垂迹です。言とは何かと言いますと、初めからあったもの、神と共にあったもの、神と共にあったものです。これが神ご自身であると言っているのです。これが本地です。言の本地がヨハネによる福音書の一章一節に説明されているのです。「すべてのものは言によって造られた。造られたもので、言によらないものはなかった」とありますが、造られたものが垂迹です。すべての垂迹は本地によってできている。本地が垂迹している。これが天地創造になるのです。

本地垂迹というのは仏教用語であって、聖書にはありませんが、聖書によって見ればそういう説明になるのです。本来、本地垂迹というのは、仏の本当のあり方が本地です。仏が現世に現われる状態を垂迹というのです。これが仏教的な本地垂迹という意味です。

迹というのは、もまたという意味です。般若心経で言えば、無無明亦無無明尽と言っている処の亦です。亦にしんにょうを書くと迹です。迹というのは、後という意味です。形とか後になります。現象は一つの後です。私たちは後を見ているのであって、物を見ているのではない。物理運動の後が物のように感じられるのです。

例えば、蛍光灯が点灯していますが、これは電気エネルギーが光として現われているのです。私たちは明るい蛍光灯の光を見ているのです。エネルギーの働きの後を見ているのです。

固形物になると少し分かりにくいのです。木、石、鉄になると、流れているように思えないのです。ところが、石でも鉄でも、ダイヤモンドでさえも、実は流れ動いているのです。極めて長い時間から見れば、川のように流れているのです。流れていることが、物質現象です。流れている状態を、人間は物質と呼んでいる。これは後です。垂迹の迹です。本当のものが後として現われている。これを本地垂迹というのです。

天地創造というのは、本地が垂迹として現われたのです。天地創造以前に神の真理があった。それに対して、肉なるものが反逆を企てた。そこで、肉なるものの反逆を治めるため、または反逆を無効にするために、さらに、その反逆を活用して宇宙が飛躍的に進歩するために、天地創造がなされたのです。

宇宙に矛盾が発生した。発生する可能性は以前からあったのですが、それが遂に発生したのです。これが悪魔の反逆です。宇宙に矛盾が発生したので、物が現われなければならなくなったのです。物があるということは、矛盾があることです。川が流れているのは、矛盾があることを示しているのです。流れようとする力と、流さないとする力が働いているのです。

人間の肉体には、生きる力と死ぬ力とが衝突しているのです。これが流動現象によって現われているのです。皆様の内臓が動いている。呼吸機能が動いている。これは皆、生という力と死という力が闘っているのです。生と死の闘いが、人間の生命現象になって現われているのです。

宇宙の物理現象も同様です。理論物理学で言えば、原子核の回りを電子が回っている。電子が回っているから原子があるのです。

電子はなぜ回っているのか。運動しているからです。運動とは何かと言うと、矛盾の現われです。矛盾がなければ運動は成立しないのです。原子核の回りを電子がなぜ回るのか。原子核に引力があるのです。電子は核の引力に引き付けられて原子核にひっつこうとする。ところが、一方でそこから引き離そうとする力があるのです。真ん中にある核に電子がひっつこうとするが、それを引き離そうとする力が、他の原子に働いている。そこで回転するのです。

求心力と遠心力が働いている。これが矛盾です。一方を生の力とすれば、他は死の力です。生の力と死の力が互角に働いているのです。

宇宙に矛盾が発生したというのは、求心力一辺倒であったものが、遠心力が働き出した。これが悪魔の力です。物理的にも心理的にも二つの力が働き出したのです。

人間の心にもそれがあるのです。神を信じ神に守ってもらいたいという心と、神から逃げて自分で勝手に生きたいという心と、両方あるのです。人間の心にも求心力と遠心力が働いているのです。心理現象も物理現象も同じことです。これが現象世界が現われている原理です。

物があるのではない、運動がある。運動があるのではない、矛盾があるのです。矛盾があるのではない、悪魔がいるのです。これが物が存在する原理です。悪魔がいることが物があることの根本原因になっているのです。悪魔が現われた。そこで、矛盾が成立した。矛盾が成立したから運動が発生した。運動が発生したから物ができたのです。

悪魔がいなければ、物質世界が現われるはずがないのです。悪魔がいなければ天地万物が現われるはずがない。神がいること、悪魔がいることが、山があること、物があることの証明になるのです。

皆様の中に、神を知りたいという気持ちと、神から逃れてわがまま勝手をしたいという気持ちがある。これによって、神と悪魔がいることが分かるのです。人間の精神的な矛盾が、宇宙全体にあるのです。だから、物が存在しているのです。私たちはそういう事を勉強するために、この世にやってきたのです。

本地があるから迹地があるのです。迹地というのは、後として現われている。本当のもの、本当の姿が後として現われている。本地が迹地になっているのです。本地がなければ迹地がないのです。本地とは神と悪魔がいるということです。これが物質があるという迹地になって現われている。迹地があることが、本地がある証拠になるのです。

現象世界があることは、神があることの証拠になるのです。プラスがあるからマイナスがある。マイナスがあるからプラスがあるのです。これが宇宙の関係です。聖書の原理はこういう簡単なことです。

悪魔が現われて矛盾が生じた。その結果現象世界が現われた。矛盾は現象として現われなければならない性質を持っている。これが仏教で言う因縁所生です。仏教では因縁によって、地球が発生したと考える。因縁とは何か。宇宙に悪魔が発生したという因縁がある。そこで、仏教は抽象的に説明しています。聖書は具体的に説明しています。ここが違うのです。

聖書には霊と誠が現われている。仏法には原理が抽象的に現われている。これが如来であり、菩薩です。仏法の本当の思想と聖書の本当の思想は、裏と表の関係になる。影と実体の関係です。

天地万物の存在は一種の抽象です。具体とは何かというと霊なる事です。霊なるものは本地です。肉なるものは迹地です。肉の世界と霊の世界があるのです。

そこで皆様の本当の姿は何か。肉体人間が存在しているのが迹地です。現われている現象が迹地です。これには本地がなければならないのです。

迹地という現象世界があることは、現象体ではない本体があるという事です。神の御子という本体が、人間という迹地になって現われている。人間という仮の姿になって現われているのです。

皆様の本体は神の子です。神にかたどりて、神のかたちのように人を造った。これが神の子の本性です。この本性が肉体人間として現われているのです。なぜ肉体人間として現われたのか。罪があるために、肉体人間として現われなければならなくなったのです。

罪とは何か。矛盾です。矛盾があれば必ず現象が現われるのです。自分の中に腹が立つという矛盾が発生する。これが顔色になって現われるのです。顔色になって現われるだけでなく、げんこつになって現われる。原子爆弾になって現われるのです。

そのように、天地森羅万象の原理は非常に簡単です。簡単だから難しいのです。この本当の原理が分かれば、自分の命がどういうものか、自分の本体がどういうものかが分かるのです。

皆様が自分の本体である生ける神の子である事が分かれば、死ななくなるのです。そこで、神は人間の本体をはっきり知らせるために、誠の光を世に遣わしたのです。「もろもろの人を照らす誠の光が世に来た」とあります。世は彼によって成っているが、世は彼を知らなかったと、妙な事を書いているのです。

彼(誠の光)は世にある。誠の光は現象世界にあるのです。皆様が生きている姿の中にあるのです。この誠の光によって人間は造られているのです。ところが、人間自身は誠の光を知らないのです(ヨハネによる福音書1・9~13)。彼は世にあり、世は彼によって成っているのに、世は彼を知らなかったとあります。おかしな話です。そこで、誠の光が人間となって現われた。これが主なるイエスです。

イエスを見れば、皆様は自分の本体が分かるのです。イエスは本地、人間は迹地です。本地と迹地がはっきりあるのです。そこで、自分という迹地をよく見て、本地であるイエスを悟るべきです。

皆様は神の御名によって生かされているのです。神の御名が現象体になって現われている。そこで、現象体の根元が御名であることが分かれば、自分が今生きているということは、神の御名が働いているということが分かるでしょう。そうすると、その人は死ななくなる。これをエホバの御名が救いであるということです。これをイエ・ズー・スーというのです。

これは何でもないことです。何でもないことを悟るために、本当に素直な気持ちになって頂きたいのです。分かっていることがなぜ実行できないのか。素直にならないからです。

物理現象という天下の事実、天地の事実に対して、素直になって心を渡したらいいのです。そうしたら、すぐに御霊を受けられます。御霊を受けるというのは、神の命が自分の命になるということです。ただ素直になるかならないかだけです。

頭で良く分かっても心で分からない。イエスが人間の本体だ、本質だということは、説明されたら分かるでしょう。エホバの御名が自分の形になって現われているからです。

ところが、それが心で信じられない。おかしい事です。頭で分かっても心で信じられないとはどういうことか。

パウロは言っています。

「すなわち、自分の口でイエスが主であると告白し、自分の心で、神は死人の中からイエスを甦らせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙10・9、10)。

心で信じることがなぜできないのか。頭で分かっていながら、心で信じることができない。なぜできないのか。肉の思いに捉われているからできないのです。だから、自分の心でイエスを受け取ることができないのです。これができたら、すぐに御霊(みたま)が受けられるのです。自分の心を開いて、キリストを受け取ることができたら、すぐに御霊が受けられるのです。

素直になるにはどうしたらいいのか。人間が自分の心を素直にしたければ、愛したらいいのです。何でもいいから愛するのです。

例えば、ご飯を食べる時にはご飯を愛するのです。お茶を飲む時にはお茶を愛するのです。コップを持ったらコップを愛するのです。嫌なことでも愛するのです。掃除をする時には掃除を愛するのです。そうすると、掃除が楽しくなるのです。掃除機を愛して掃除をして下さい。そうしたら、掃除をすることが楽しくなるのです。これが信仰です。

愛するとは、すべてに対して善意と好意を持つことです。何事にも善意と好意を持つのです。ただ善意と好意を持つだけでは消極的ですが、愛するというのは、非常に積極的になるのです。物事を愛していると、愛している人の気持ちが明るくなるのです。

車を運転する人は車を愛するのです。車を愛して運転する。走っている道路を愛するのです。そうしたら、事故は起きません。道路と車を愛していたら、運転が慎重になります。同時に運転が巧みになるでしょう。そうしたら事故は極端に少なくなるでしょう。

これは何でもない原理でありまして、目の前に見ている事柄でも物柄でも、何でも愛するのです。山を見る場合でも、愛して見る場合と、ただぽかんとして見る場合とでは、全然見方が違ってくるのです。愛する気持ちで山を見ると、山が愛となって自分の中に飛び込んでくるのです。山がその人を愛してくれるのです。愛というのは、非常に反応が早いのです。

愛すると相手は非常に敏感に反応してくれるのです。愛するとその人の心を素直にする。そこで、神を愛するのです。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、汝の神を愛せよ。これが心に平和が与えられる第一の条件です。

神を信じようとせずに、まず神を愛したらいいのです。分かっても分からなくても、神を愛したらいいのです。目の前に人がいる。その事柄が神です。神を愛するなら、目の前の人を愛するのは当然のことです。人だけでなくて、目の前に物があるということが神です。だから、神を愛するのは当然です。

人を愛することは神を愛することです。神を愛することは、人を愛することです。これが愛の行動です。愛する所に神は必ずいるのです。愛する心には平和があるのです。

パウロは次のように述べています。

「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、妬むことをしない。愛は高ぶらない。誇らない。無作法をしない。自分の利益を求めない。苛立たない。恨みを抱かない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、私たちの知るところは、一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

私たちが幼な子であった時には、幼な子らしく考えていた。しかし、大人になった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

私たちは今は鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔を合わせて見るであろう。私の知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、私が完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(コリント人への第一の手紙13・4~13)。

愛すれば素直になる。心が素直になれば、頭で分かったことが、必ずハートで分かるのです。頭で分かったことがハートで分からない。そんなことはないのです。愛することは心を開くことです。皆様という人間がいることは、本物が天にあることを示しているのです。もし、イエス・キリストという本当の人格がなかったら、地球上に人間がいるはずがないのです。

私たちが愛そうと思えば愛することができる。愛することができるというのは、神が私たちと共にいるからできるのです。愛なる神が人間と共にいまから、人を愛することができるのです。聖書に書いていることは、皆本当のことばかりです。譬ではありません。仏典の説明は譬がたくさんありますが、聖書はすべて現物です。現物が文字になって現われているのです。信仰は決して難しいものではないのです。

天地創造の前にまず天があった。地ができる前に、天が移ってきて地ができたのです。目に見えない天が地上に現われてきたのです。これが天地創造です。

目に見えない天が、地の万物として移っているのです。やがて新天新地が実現します。これは天のエルサレムが地球に下りてくると書いています(ヨハネの黙示録21・2)。そうすると、新天新地が実現するのです。それと同じように、今の天地も天にあったものが地に現われて現象になったのです。

皆様の肉体があるということは、天にある霊なるイエスが地に現われているのです。だから、つまらない自我意識とか、固有名詞の根性で生きることをやめて、宇宙の原理に従って生きるようにして頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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