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ひがみ根性


仏教では阿弥陀如来の本質が分かりません。従って、救いの本質が分からないのです。いわゆる阿弥陀如来の本願によって人間が救われるという仏教の考え方は、仏説阿弥陀経の真意とは違うようです。現在の浄土真宗で受け取られている感覚ですと、菊池寛が小説に書いているような事になるのです。

キリスト教もそのとおりです。死んでから天国へ行くと盛んに言います。死んでから天国へ行くという考え方が果たして正しいかどうかです。死んだ人は天へ帰ったと言います。天に帰ったという言い方には間違ったとは言えない所がありますが、現世に生きているうちに天をはっきり見ていなかったら、天に帰れるはずがないのです。天に帰って何をするのか分からない人間が、天に帰れるはずがないのです。天に帰るのは仕事をするために帰るのです。果たすべき使命があるから天に帰るのです。

仏教の場合は、業を果たしてその上に人間がなさねばならないことがあるかというと分からないのです。三世諸仏が須彌山に集まって会議をしています事が、華厳経や維摩経、法華経に出ています。年柄年中会議をしている訳でもないと思われますが、一体何のために会議をするのかという事です。お釈迦さんを中心にして、色々と意見を出している。観世音菩薩が何か言っているということがお経に書いてあります。如来と菩薩が話し合っている。その他に何かあるかと言いますと、何もないのです。

罪が分からないから、救いが分からないのです。罪がある所に救いがあるのですが、罪に対する明確な認識がない所には、はっきりとした救いはないのです。罪に対する認識が表面的であって、本当の罪を捉えていない。罪の本質を認識していないことから、甘い考えになっているのです。

人を憎むとか恨むことが悪いことは分かります。そうすると、恨みさえしなければいいのか。世間のいわゆる善人と言われている人たちは、本当は罪人ではないのか。皆感覚、考えが甘いのです。

現実を真実だと思って生活している人は、全部罪人です。それが分からないのです。現実を真実だと思わなかったら、一体何が真実かというでしょう。現象が実体ではないとして、一体何が実体なのでしょうか。そういう肉の思いが罪だということが、今の人間には分からないのです。

犯罪行為とか、積極的な意味での罪業を表に出す生活、例えば嫁いびりをして、嫁と姑が年中喧嘩をしているとか、親子喧嘩をして財産の取り合いをしているとか、そういう事があれば、罪であることは分かります。しかし、世間の人々から信用され、信頼され、尊敬されている人は、罪人ではないと考えている。これが普通の人間の考え方です。神や仏にご厄介になるほどの悪い事をしたつもりはないと考えている人が多いようです。

ところが、自分が善人だと思っている人が、実は悪人です。猫被りです。宗教を信じている人は猫被りです。猫を被っている人間です。偽善者です。イエス・キリストが一番痛烈に非難したのは、この連中です。むしろ泥棒とか、人殺しというのは、人から言われなくても、自分は悪人だと認識せざるを得ないことをしているのです。

世間でいう善人というような人たちは、自分では悪いことをしていないと考えているでしょう。宗教家とか、道徳を重んじている人とか、慈善行為をしている人が、神の御名を積極的に汚しているのです。こういう罪に対する認識の甘さ、本質的な罪の意味を知らない甘さが、現在の人間にはあるのです。

もう一つは、罪の本質を間違って考えて、自分はだめな人間だと思い込んでいる面がある。これが僻み根性です。本人は僻んでいるとは思っていない。ところが、僻んでいるのです。心を明け渡して、神を信じることができない人間の心理状態は、実は全部僻んでいるのです。

人間は全部、現在肉体的に生きている固有名詞の人間を、自分だと思い込んでいるのです。固有名詞の肉体人間を自分だと思っていますと、イエスの生活態度、また、パウロの思想状態は自分の現在の気持ちと違って、あまりにもレベルが高すぎるように思えるのです。

実はそのように思えるだけであって、イエスやパウロは客観的に言えば、私たちと同じような状態、同じような条件で生きていたのです。聖書の言葉だけで見ますと、すばらしく高いレベルで生きていたように見えるのです。自分たちとは人間の出来具合が違っていると考えるのです。パウロはそう言ったかもしれない。イエスはそのように生活したかもしれない。しかし、私たちにはとてもそんな事ができるはずがないと考えるのです。

私みたいなものはだめだと思う。自分の思い煩いの習性がある。また、年中何かいらいらしているような気持ちがする。一を聞いて十を悟るどころか、三を聞いても一しか分からないと思う。三を聞いて一が分かったらいい方です。十を聞いても一も分からない。分かっていてもなかなか自分の実感にならない。つまり、十を聞いても十が分からない状態なのです。

そういう自分自身の気疎い状態、またはのろい状態としての肉の自分を見ている。その肉性の自分が自分だと思い込んでいるのです。そうして、自分はだめだと思っているのです。私はだめだというのは、僻み根性であって、肉なる自分と霊なる自分を比較すれば、問題にならないに決まっているのです。

イエスは荒野に導かれて、四十日、四十夜断食をして、肉と闘い続けた。そうして、闘いが終わった時に、聖霊に満たされて、我に返って空腹を覚えたのです(マタイによる福音書4・1、2)。

断食をして祈っている間は、イエスは食事を全く忘れていたのです。そんなことを考えなかったのです。霊的に祈りに没頭していたからです。ようやく闘いが終わって、勝利の確信を与えられて、ふっと我に返った時に、空腹を覚えたのです。私たちなら、断食をした一日目の終わりに、もう空腹になったでしょう。二日目や三日目になれば、もうくたくたになるでしょう。そういう状態である私たちと、四十日、四十夜断食をした後に飢えたもうという状態とでは、だいぶ違います。だから、イエスにはとても及ばないと考えるのです。

これは当然の事です。とても及ばない自分を自分だと思っているのです。固有名詞の自分を自分だと思っている。イエスのように純粋な潔い心、一筋に父なる神の御名を崇めるということは、とても自分にはできないと考える。そうして私はだめだと思うのです。

だめだと思うのはいいとして、だめならどうするのかという事です。だめで放っておいてもいいのか。私はだめだと言って、そのまま神の前に通ると思っているのかということです。私はだめだと思う。だめだと思っている自分が死んでしまうとする。そうして、大審判の時に、キリストの大前に立った時、私はだめでしたと言う。その結果、地獄へ放り込まれることになるのです。

肉体を持って生きている人間がだめな事は、初めから分かっているのです。それだから、十字架があるのです。お前は死んだのだ。イエス・キリストの十字架があるし、洗礼があるのです。だめな人間がこの世から消えてしまうように、洗礼を受けたのです。洗礼を受けたけれど、だめな人間がやはり生きている。これは洗礼を信じていないのです。洗礼を受けていながら、何をしているのかと言いたいのです。

次のような話があるのです。ある人とある人が結婚をした。旦那さんが奥さんを愛して、自分の愛妻だと思っている。奥さんの方はどういう訳か、どうも結婚したような気がしないというのです。一年も二年も愛されているけれど、どうも奥さんのような気がしない。一緒に暮らしていながら、奥さんのように気がしないのです。

本人がどのような気持ちであっても、現在生活している内容は奥さんとして生活しているのです。具体的に奥さんとして生活していながら、本人は今までの自分の習性に基づいて考えているので、奥さんみたいな気がしないのです。お手伝いさんのような気がするというのです。これはおかしいのですが、こういうことはあるのです。

皆様も洗礼を受けた。聖書を勉強している自分はクリスチャンであると思うことは、決して間違っていないのです。ところが、クリスチャンというのは、キリストの持ち物という意味です。しかし、キリストの持ち物のような気がしないのです、やはり、自分で自分を持っているのです。自分はキリストの持ち物であるという自覚がはっきりしないのです。自分という古き人、固有名詞の自分という人格が、自分を持っているのです。これはキリストのものではない。自分のものです。

洗礼を受けて、聖書を信じ、御霊を受けた以上、もうその人は自分自身のものではないのです。ところが実際には、そういう感じがしないのです。そう信じないから感じがしないのです。

肉体的に生きている自分を、やはり自分だと思い込んでいるのです。いつまでもそう思い込んでいるのです。洗礼を受けても、その瞬間ははっと思ったかもしれないけれど、家に帰ると元のもくあみで、自分が生きているという状態が続くのです。

これは一体どういう事なのか。結局、固有名詞の自分、肉なる人間を自分だと思い込んでいる。そうして、私はだめだと思っている。私はだめだという私はどうなるのか。どうにもならないのです。だめだと思ったままで死んでしまわなければならないのです。

だめだという人間は既に死んでいるのであって、そんなものは本当の自分とは違うものだということを信じるために、十字架が立っているのです。私はだめだということは、初めから決まっているのです。

自分はだめだ。だめだから十字架を信じるのです。だめな自分が死んでしまって、新しい人生がイエスによって提供されている。このことを十分承知の上で、お前の古き人はもう死んでしまった。今いるお前は洗礼を受けて、肉体的にも新しい人になっているのだと言い聞かせればいいのです。

霊的にも前の人間とは違う。お前が犯した罪、肉のお前の生活がきれいになくなっているということを、神が認めている。これをはっきり自分に言えばいいのです。ところが、それを自分が信じていない。神がそのように認めてくださっているのに、自分が信じないのです。

先の話ですが、ご主人が奥さんを愛して、奥さんだと思っているのに、奥さんの方で、私は奥さんのような気がしないと言って頑張っている。いつまでもそういう気持ちがなくならないとすれば、これは困ったものです。救いがなくなってしまっているのです。洗礼を受けて、聖書を信じて生活していながら、なお肉の自分を自分だと思い込んでいることになりますと、神の救いが無効になるのです。

これがいわゆるひがみです。ひがみというのは、私はだめだといういかにもへり下っているように思えるのですが、実は自分自身の根性を絶対に明け渡そうとしない、非常に強固な神に対する反抗です。神の処置を信じようとしないのです。

洗礼を受けた事を信じようとしないのです。聖書を学んでいるという事実を信じようとしないのです。神の処置を信じようとしないのです。そうして、固有名詞の自分を自分だと思い込んでいる。自分の思いが自分だと思い込んでいる。肉の思いによって自分が自分だと思い込んでいるのです。

自分の肉の思いで自分を見ている。自分の肉の思いで自分を握り込んだり、商売を握り込んだりしている。そのような状態を自分だと確認しているのです。そういう状態では何回聖書の話を聞いてもだめです。

聖書にはそう書いてあるかもしれないけれど、私はそうはできないと考えてしまう。私はとてもだめだと思うのです。とてもだめだと思う人間がこの世にいるのではない。イエスを学んでいる時には、イエスそのものが自分なのだということを信じるために、イエスを学ぶのです。

「キリスト我にありて生くるなり」とパウロが言っていたように、キリストをして汝らの心に住まわしめるのです。パウロはキリストを自分の心に住まわせていたのです。私たちはキリストを自分の心に住まわせていたパウロの気持ちに同化するために、パウロを学ぶのです。ところが、どこまでもパウロはパウロ、自分は自分だと考えている。そうすると、聖書をただのテキストとして学んでいることになるのです。聖書が自分の命になっていない。どこまでも肉の自分を自分だと思い込んでいるのです。これがひがみ根性です。

ひがみとは何か。私はだめだというように、肉の思いの自分、罪人である自分であると思い込んで、そこから一歩も出ようとしない気持ちです。自分という古き人から一歩も出ようとしないのです。自分という家の中に閉じこもったままで、すくんでいるのです。外へ出ればいいのに、出ようとしないのです。キリストを信じようとしないのです。神の処置を素直に受け取ろうとしないのです。これがひがみです。

イエスを甦らせたように、あなたも甦らせたことが、神の処置です。十字架によって古き人を殺し、復活によってすべての人を新しくした。この神の処置をスムースに受け取ろうとしないことは、神に対する明白な反抗になるのです。

なぜそんなに頑張ろうとするのか。ただ固有名詞の自分を自分だと思っているだけです。現実を真実だと思い込んでいるからです。現実を真実だと思い、現象を実体だと思っているから、肉体的に生きている肉性の自分を自分だと思い込むことになるのです。これがひがみ根性の基本です。

ひがみ根性と罪人であることの本質は同じものですけれど、罪人であるという考え方は、罪を軽く見ているのです。これくらいのことは構わないだろうと思って、悪口を言ったり、嘘を言ったり、いんちきなことをしている。ちょっと肉欲にふけることをしたり、これくらいの事はいいだろうと考えて、罪を軽く見るのです。

一方ひがみ根性の方はどうかというと、罪を軽く見過ぎているのです。自分はだめだと考えて、だめな自分ばかりを見ているのです。罪は永遠不滅のものであると思い込んでいるのです。人間の罪悪は永遠不滅のものである。従って、神の子としての自分が救われるとか、キリストの花嫁として全うされるということは、有りえないという気持ちになるのです。そこで、私はだめだ、私はだめだと言っている。そのくせ、腹の底では救われたいと思い、キリストの花嫁になりたいと思っているのです。救われたいと思っていながら、私はだめだと念入りに思っているのです。

罪を軽く見ることは絶対にいけませんが、ひがみ根性を信じることも絶対にいけないのです。妙なもので、人間は罪を軽く見すぎて神を侮るのです。また、肉性の自分を重く見すぎて、ただ恐れおののいて神の前に出ようとしないのです。どちらにしても間違っているのです。

一つは罪を侮り、もう一つは罪を重く見すぎてる。肉性人間が自分の本質だと思い込んでいるのです。肉性人間が自分の本質であることは間違いありませんが、これは箸にも棒にもかからない人間ですから、死んでしまうしかないのです。

自分はだめです。だめに決まっています。だから、十字架があるのです。十字架によって、罪人であるどうにもしかたがない自分が、処分されてしまうのですから、これを受け取ればいいのです。

聖書を学び始めた時から、洗礼を受けた時から、はっきり自分自身が別の人間であるという気持ちで、大胆にずうずうしい気持ちで、神の前に自分を押し出すのです。今まで生きてきた固有名詞の自分とは何の関係もありません。神が父です。この父によって生かされているという気持ちで、いつも生きるのです。今まで誰々の息子として、また、娘として生活してきた。それは本当の自分とは違うのです。この自分は初めから死んでいるのです。

今聖書を学んでいるのは神の御子です。神が選んで教育しているのです。皆様自身が選んだのではないのです。聖書を信じて信仰を持たなければならないように仕向けたのは神です。「汝ら我を選ばす、我汝を選びたり」とありますように、神の方が選んだのです。キリストが私たちを選んでくれたのです。

何を遠慮するのでしょうか。自分はだめだとなぜ思うのでしょうか。だめな自分は既に死んでいるのです。罪を軽く見ることをやめて下さい。現象が実体だと思っている人間は絶対に救われません。

現象を実体だと考えて、肉性の自分を自分と考えていることは、皆罪です。これを存在悪と言います。生きていること自体が悪です。嘘を言わなくても、喧嘩をしなくても、真面目に商売をしていても、現世に生きている自分が自分だと思っていることが罪です。自分が存在すること自体が罪です。これを存在悪というのです。

社会悪とか、因縁悪とか色々ありますが、人間悪というのは存在悪です。生きていること自体が罪です。だから、自分が生きていない状態に自分を持っていけばいいのです。皆様がこの世に生きているのは、神の機能によって生かされているのであって、自分が生きているのではありません。神の機能によって生かされているだけのことです。

自分が生きているのではない。従って、自分が生きているという気持ちを撤回したらいいのです。撤回すべき理由はいくらでもあるのです。自分が生きていないと考える方が考えやすいのです。ところが、自分が生きていると考えている。これがひがみ根性です。

自分の証をしている間はだめです。自分の証をしなくなると、神の子の証が勝手にできるようになるのです。神を生きるということは楽しいことです。神を喜ぶこと、神を生きることです。肉性の人間から全く開放された本当の楽しさがあるのです。こういうことが素直に口から出るようになったら、もうその人ではありません。

自分が生きていると思っている間は、いつまでも罪の重荷はなくなりません。自分の今までの悪い惰性がありますから、惰性について告白することは悪いことではありません。キリストが肉体にあった時に、大いなる叫びと涙とを持って、神に祈ったとあります。執念深い悪魔が、肉性の自分について離れようとしない。頑強な悪魔に対して、肉体を持つ人間の弱さを感じることはいいのです。しかし、弱い自分は自分ではないのです。

そういう弱さは自分にあるけれども、現在キリストを信じて生きている自分は、キリストの名によって神の前に立たされている自分であって、私たちの命はキリストご自身です。キリストが自分の命です。自分が自分の命ではありません。それを自分が生きていると思っている。キリストの命が自分という格好で現われているだけのことです。これをキリストを信じるというのです。命なるキリストが自分という形で現われているだけです。

これが証できるようになりますと、ひがみ根性から出ることができるのです。ひがみ根性がなくなると、父なる神の御心に生きることがとても楽しいものだということてが実感できるのです。

自分の気持ちの中に自分がいるのではない。自分が導かれているという客観条件が自分になるのです。自分という気持ちの中に閉じ込められないで頂きたい。自分が現在生かされているという条件が自分になるのです。自分が全く変わってしまうのです。これを般若波羅蜜多というのです。向こう岸へ渡ってしまうのです。こちら岸にいないのです。そうすると初めて、罪人という意識から逃れることになるのです。

ひがみ根性が一番困るのです。御霊を受けてからでも、このひがみ根性はなかなかなくなりません。私みたいな者といつも思っているのです。私みたいな者というのは、大変謙遜しているように思えますが、こういう人は神のいうことを聞こうとしません。

私みたいな者はだめではとへり下っているように見えますが、神から言われることを聞かないのです。私にはできませんというのです。できませんと言わずにやれば、私みたいな者とは言わなくなるのです。

やらないものだから、いつまでたっても、私みたいな者と言っているのです。へり下っているように見えて、非常に傲慢です。これをへり下り傲慢というのです。ひがむ者はこれをしているのです。こういうおかしい根性が人間にあるのです。

キリスト教の信者は皆こういう考え方をしています。この根性が皆様からなくならなければ、皆様の考えは宗教観念になるのです。私みたいな者はと思いつつ聖書の勉強をしている人は、心を本当に神に明け渡していないのです。

心を神に明け渡すことを信じると言います。心を明け渡さないのは、信じていないことになるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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