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イマジネーション


キリストは地球計画の目的であって、地球計画そのものが神の財産です。創世ということが神の財産です。これは悪魔を自滅させるためでもありますが。同時に神の財産を造るためでもあるのです。

人間は自分のスケールで、キリストを小さく見ているのです。これは皆様に思想がないからです。思想は信仰ではありませんが、信仰の補助的なものです。信仰の基本を造るために、どうしても必要なものです。神の宇宙計画に対する思想が必要です。これがないと半面しか分からないのです。そのために皆様の信仰が進展しないのです。思想ががっちり根を張っていないと、信仰が成立しないのです。そういう状態で神を信じると、宗教観念になるに決まっています。

ユダヤ人は思想がありません。神の宇宙計画、特に地球計画に対する神の雄大な計画が、ユダヤ人に全然分かっていないのです。ユダヤ人は人間的には頭がいいのですが、神的には非常に鈍いのです。神は人をちりに帰らせてと言われた。「人の子よ、帰れ」と言われたのです(詩篇90・3)。この場合の人の子というのは、キリストの花嫁となるべき人をいうのです。人の子の本質はマインド(mind)です。人間存在を象徴すると、マインドになるのです。マインドがキリストの花嫁になるのです。

新約聖書に「二、三人が私の名によって集まる所に、キリストが一緒にいる」とあります。これは人間の集まりではありません。生ける神の子の集まりです。

とこしえの命に関係がある場合には、人を叱ったり怒ったりしなければならないのですが、関係がない場合にはどうでもいいのです。親子でも、兄弟でも、霊魂という点で言いますと、全く赤の他人です。何の関係もないのです。だから、イエスは父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そして、自分の命までも憎まなければ、私の弟子となることができないと言っているのです。

預言の霊を受けて、神の国を建ち上げるため、キリストをこの地上にお迎えして、具体的に世界の歴史をやり直すための中心人物になろうとしたら、現在の皆様の状態ではだめです。この世の固有名詞の人間ではだめです。固有名詞にこだわっているようではだめです。

夫婦であることが悪いというのではありません。固有名詞の存在である自分を自分と考えていることが悪いのです。家族というのは、どこまでも善悪の木の実を食べたための神の処置です。罪人としての神の処置であって、神の御霊を受け入れた者に対する処置ではないのです。神の御霊を受けた者は、神の家族として、キリストの家族としての意識を持たなければいけないのです。

神が地球を造ったと思えますが、地球を造ったのではなくて、万物を造ったのです。これが神の財産です。それが現在、虚無の形で現われている。これが第一創造です。万物が虚無の形で現われているので、悪魔がこれを狙っているのです。悪魔は虚無として現われた神の財産を狙っているのです。

パウロは次のように述べています。

「私は思う。今のこの時の苦しみは、やがて私たちに現わされようとする栄光に比べると、言うに足りない。

被造物は、実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。

実に、被造物全体が、今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている。

それだけではなく、御霊の最初の実を持っている私たち自身も、心の内で呻きながら、子たる自分を授けられること、すなわち、体の贖われることを待ち望んでいる」(ローマ人への手紙8・18~23)。

万物は虚無の状態から逃れて、誠の状態に帰りたいと願っている。被造物はそれを知っているのです。万物は万物として造られたから、万物としての自覚を持つようになったのです。神が万物を造らなければ、万物は自覚することができなかったのです。

この世のことは虚無ですから、どうでもいいのです。現象そのものが虚無です。その内容が問題です。夫婦という形は虚無です。その中身が問題です。永遠の愛があるかないかが問題です。人間としての愛はだめです。

イエスは人間的な愛を捨てなさいと言ったのです。妻を憎め、夫を憎め、子供を憎めというのは、人間的な係わりを捨てなさいと言っているのです。それを持っていたらだめです。とこしえの愛につながる本質が分かっているかどうかが問題です。

万物はこの世に現われてきたから、万物を知っているのです。皆様はこの世に人間として生まれてきたから、人の子のことを言われると、ああそうかと何となく分かるのです。もし人間としてこの世に生まれてこなかったら、人の子ということが全然分からなかったはずです。

人の子というのは人間の本質です。生まれる前の人間をいうのです。生まれる前の状態で、現在生きていることが人の子です。皆様は人間として生きています。商売とか仕事、家庭、夫婦のことを考えている。これは人間として生きている証拠です。これがいけないのです。皆様が客観的に生きている状態は神の子です。これは悪くないのです。現世のことに心を使うことが間違っているのです。家庭とか、夫婦、商売、仕事については、放っておいたらいいのです。あるがままの状態でいいのです。信仰がどんどん前進すればいいのです。

「父母、妻子、兄弟を憎め」。人間として愛するとか、人間として責任を持つことがいけないのです。人道主義、道徳主義、経験主義が皆間違っているのです。この世にとっては、それは必要でしょう。神にとっては必要がないのです。

神とは何か。人間を人間としている全体です。これがすべて人間が行き着く所です。人間が行き着く所に行き着かないで、うろうろしているからいけないのです。人間が行き着く所へ行き着いたらいいのです。これが神です。

生まれる前の状態であれば、人間が人間であることが自覚できないので、神の財産にならないのです。自覚すると神の財産になるのです。だから、現世に生まれてきたのです。自覚したという状態で、神を認識しているのです。万物は神を認識している。しかし、神の子になることはできないのです。そこで、人間が代表者になって、万物に所を得させることができるのです。

万物は自分が万物であることは知っていますが、虚無の状態からどうしたら逃れることができるのか分からないのです。人間はそれが分かるのです。イエスがしたようにしたらいいのです。そうすると、人間自身が人間の状態から逃れることができると同時に、万物を済度することができるのです。

万物の最高の状態が人間ですから、人間が目を開いて、神が人間を造った神の処置に従って神を生きればいいのです。そうすると、万物が全部救われることになる。これを神が狙っているのです。そうすると、万物が神の財産になるのです。万物が神の財産となったら人間自身は、その万物を委ねられて、神に代わって万物を支配することになる。これをキリストというのです。

万物がキリストの花嫁になる。花嫁になるというのは、財産になるということです。万物の中で人格を持つのは人間だけですから、妻と呼ばれるのは人間だけです。こういうスケールのことを地球計画というのです。これがキリストです。

人間および地球にいる万物は、キリストのために造られたのです。キリストは万物を救うため、万物に自覚を与えるため、神の財産になるために、自らを十字架につけた。そして、復活したのです。地球計画がキリストです。地球の主体人格がキリストです。キリストはそういう人格です。その人格が復活のキリストに現われているのです。

人がいることと、その人の人格とは違います。人間が人間であることを意識している客観的な人格がある。これをイエスというのです。ところが、人間は自分が生きていると考えている。これが間違っているのです。

人が生きている実質、実体がイエスです。自分を意識していたのでは、イエスという人格にお目にかかれないのです。

自分が自分ではなくて、人間という格好で生きているもの、人間の客観的なあり方がイエスです。これがエホバの御名を証しているのです。人間を人の子として生かしているものがエホバです。これが万物を顕揚している。人間に神の財産である万物を委ねている。これが世々限り無く王となるということです。王というのは、管理する責任者であって、ただ自分が威張ることではない。万物を管理することが、世々限り無く王となることです。

人が生きているという客観的な人格を認識すればいい。そうすれば勝手に神の子になってしまうのです。皆様がそれに気づくと、万物が認識したと同じ効果を持つようになるのです。人間一人がイエスの名を信じると、万物が目を覚まして救われるのです。その人が目を覚ますと、万物が救われるということは、その人が万物の王となるということです。

私たちが良くても悪くても、万物は人に頼らざるを得ない。人の後ろに万物がつながっているのです。人間一人が完成することは、万物が完成することになる。これを花嫁というのです。万物を娶ることになるからです。人間から見れば万物は花婿になるのです。

万物という言葉の中に、人間というポストと万物というポストと二つあります。人間というポストが花嫁になる。花嫁の後ろに万物がつながっているのです。人の子という花嫁をイエス・キリストが娶ることになると、万物は花嫁と一緒に皆キリストのものになるのです。この事をヨハネの黙示録の第五章十二節に「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、熱意と、誉れと、栄光と、賛美とを受けるにふさわしい」と書いています。

皆様は万物を、キリストに帰属させるかどうかの端緒になるのです。皆様の後ろには万物がいるからです。皆様自身はキリストの妻になるのです。そうすると、皆様につながっている万物は、キリストの財産になるのです。同時に、あなたがたの財産でもあるのです。

これは神の預言ですから、神の預言どおりになるのです。そのためには、皆様は固有名詞の人間であることをやめて頂きたい。ただ現在生かされている客観的な人格がありますが、これは固有名詞の人間ではありません。これがイエスです。

固有名詞の人間はいない。ただ生きているという人格があるだけです。この人格がエホバの御名を有形化したものです。ありてあるというものを有形化したもの、現実化したものが人の子です。これは大変なことです。宇宙に属することです。こういうことが世界中の人間に分からないのです。現世に生きている人間には、こういうことが全く分かりません。私は神の国における人間の存在状態を話しているのです。

花婿は一切の責任を負わなければならない責任者です。花婿としてのキリストと、花嫁としての人間、この二つが一体となって、現在の物理的な地球が消滅した後に、新天新地における新しいエルサレムになるのです。

新しいエルサレムは一つの人格です。新しいエルサレムの後に、万物が永遠につながっているのです。神がそのように仕向けるのです。人間が神に協力すれば、神の新しいエルサレムは必ず成就するのです。そうして、予定どおりに世々限り無く王とならなければいけないのです。神がそのように期待しているからです。

メシアはこの世界を治めて王になるのです。いわゆるローマ皇帝のようなものとは違います。この世の大王様とは違います。

キリストは自分自身が人の子であったと同時に、人の子を娶る花婿でもあるのです。それで、現世で人の子であるという自覚を持つ者は、皆すべてこれから結婚するのであって、今までに結婚したのではないのです。今までの結婚を本物だと思うと、もう結婚できないのです。重婚になるからです。

今までの結婚はテストケースであって、肉によって霊の模倣をしていたのです。予行演習をしていたのです。それが本物になるため、本当の結婚を実行するために、聖書を勉強しているのです。

この世に生まれて色々な事を経験して、今日に到ったということが、花嫁になるための準備ばかりをしていたのです。そうして、イエス・キリストが花婿であることがはっきり分かれば、現世から出てしまって携挙されることが分かるのです。

携挙を目標にして勉強することになりますと、現世の自分をはっきり捨ててしまわなければならないことになるのです。捨ててしまって働かなくなって、遊んでいるということではありません。現世の事を問題にしなくなったということです。問題にしなくても、所帯のこと、仕事のことはついてくるのです。万物がついてくるように、皆様の所帯もついてくるのです。

皆様についてくるのは万物だけではありません。皆様が知っている人も知らない人もついてくるのてす。自分一人が勉強していると思ったらいけないのです。皆様の信仰が徹底するかしないかは、相当多数の他人と万物とに、大きな影響があるのです。今皆様はそういう訓練を受けて、キリストの花嫁になれるかなれないかの岐路に立っているのです。

この世の学問、法律、道徳、宗教は固有名詞の人間が生きていることを含めて、皆作り話、嘘です。固有名詞を信じるなら、嘘を信じていることになるのです。一方、イエスがキリストであるというのは、神が作った作り話です。新約聖書は神が作った作り話です。イエス・キリストの復活によって、すべての人に新しい命が与えられている。これは神が作った作り話です。人間(悪魔)が作った作り話と、神が作った作り話と、どちらが上等か。どちらにしても人間は作り話を信じるしかないのです。

分かりやすく言えば、新約聖書は神が作った作り話です。人間の一生、一国の歴史、世界の文明は人間が作った作り話です。本当のものではありません。個々の人間の人生は、個々の人間の作り話です。

この宇宙にはフィクションしかないのです。どのフィクションが一番上等かを見つけた者が勝つのです。新約聖書は神の作品です。誰かが作品を作らなければ物語はできません。自分の価値観や世界観に基づいて作った作り話は、自分の作り話です。多くの書物があるというのは、こういうことです。多くの書とは多くの作り話です。

「多くの書があって、もう一つの命の書がある」と書いています(ヨハネの黙示録20・12)。人間は神ではありませんから、人間から見れば聖書は作り話としか見えないのです。だから、聖書は本当でしょうかという疑問が生じるのです。

人間は誰かのいうことを信じなければしょうがないのです。キリストは総攬であって、万物を総攬するのです。これが私たちの夫です。花婿です。マインド(精神)という人格は、キリストの花嫁になるための人格です。キリストの花嫁になりそこなったマインドは、火の池の焚物になって、永遠に焼かれるのです。

マインドはとても良く燃えるのです。神の国のプラスのエネルギーになるくらいですから、火の池でマイナスのエネルギーになって、とても良く燃えるのです。マインドである以上、神を信じるか火の池へ行くかどちらかしかないのです。どちらにも関係がないマインドはありえないのです。人間がマインドとしてこの世に生まれた以上、神をつかまえそこなった者は、惨憺たるものになるのです。

良かれ悪しかれ、マインドは一つのイメージを持っています。マインドはイメージなしに生きられないのです。そのイメージがイエスのイメージと一つになった者は、イエスの花嫁になる。イエスのイメージと一つになれなかった者は、火の池行きになるのです。

私たちはマインドをやめる訳にはいかないのです。皆様がマインドである以上、そのマインドを何かの形で片付けなければならないのです。マインドは鏡のようなものですから、何かに属さなければならないのです。鏡の中から映像を出す訳にはいかないのです。

人間はすべての事柄をマインドに変えるのです。肉の事柄をマインドに変える。肉に従う者は、肉の事柄をマインドに変えるのです。イマジネーションを造る原理になるのです。イマジネーションは、それを造った者の命になってしまうのです。肉の事を思うと、それがイマジネーションになって、命になる。命のあり方を支配してしまうのです。

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安とである」とあります(ローマ人への手紙8・6)。肉の思いによって、肉のイマジネーションができるのです。肉のイマジネーションは、地球の終了と同時に消えてしまうのです。

ヨハネの黙示録に、「天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった」とあります(20・11)。これが肉のイマジネーションです。神が肉を造ったのではない。神は万物という肉を造ったのではないのです。

神が第一創造で物を造られたのかと言いますと、これは闇が淵の表にあるということを条件にして、水の表を神の御霊が動かしているのです。闇が淵の表にあることを条件にして物が造られたのです。

ところが、物が本当にあるかと言いますと、ないのです。闇が淵の表にあるという条件が物になっているのです。物が実際にあるのかと言いますと、ないのです。形があるだけです。これはイマジネーションです。

神が闇が淵の表にあるということを頭に置いて、神自身のイマジネーションを現わした。これは肉の思いではありませんが、肉の思いと同じようなものです。神には肉の思いがあるはずがありません。闇が淵の表にあるということを条件にして創造を考えると、形になるのです。すべての物に形がなかったら、闇という大天使が賞賛しないからです。認めないからです。

光と闇がなければ、この世は造られないのです。光を昼と名づけ、闇を夜と名づけたのですから、第一原則に基づかなければ天地創造はできないのです。闇を夜と名づけたのは神ですから、そう名づけて神は闇を承認したのです。だから、光という原理だけでは創造はできないのです。

「地のちりであるものに形を与えた」(創世記2・7)。地のちりでさえも形を与えなければならないのです。地のちりはマインドです。マインドさえも形を与えた。形なしではマインドはこの宇宙に現われないのです。

天地万物はどんなものでも形があることになったのです。例えば、愛でも例外ではない。愛は形にすることができないものですが、神が愛であるなら形で現わされなければならないのです。

どんなものでも形において現われない物は、この宇宙に認められないのです。これが唯物論の原理です。形があるものでなければ認められない。形がないものは要するに観念論になるのです。これがマルクスの理論です。物になぜ形があるのか。このことをよく知って頂きたい。万物に形があるはずがないのに形があるのは、闇があるからです。闇の顔を立てて、万物に形を与えたのです。

神の働きは瞬間しかありません。瞬間しかないものが、物ができるはずがないのです。デカルトの哲学でいうように、物は永続すると言います。心は瞬間ですけれども、物は永続するというのです。物と心は別だという。これが西洋哲学の第一原理です。ところが、永続するものはないのです。時間は今しかないからです。従って、家が何十年も永続するという事実はないのです。今があるだけです。

しかし、物が永続するように思えるのです。なぜ思えるのかと言いますと、人間が肉の思いを持っているからです。肉はないのです。ないけれどもあるように思えるのです。実際にあるのは形があるだけです。万物は形だけです。形だけだから、虚無と言わなければならないのです。被造物が虚無に服しているというのは、形という概念によって限定されているということを意味するのです。

被造物には形があるもののように考えられている。ところが、形があるというのは大迷惑です。ない状態があるように思われているのですから、大迷惑に決まっています。

やがて地球は終わります。地球には形があるだけであって、地球という物体は存在していない。地球の場合は形と共に運動があるのです。電場の運動、磁場の運動、宇宙線の運動があるだけです。一時間前の地球はどこにも存在しないのです。

ヨハネの黙示録に書いていますように、大いなる白い御座があるのです。これは今だけしかないのです。そこで、天も地も御顔の前から逃げ去って、跡形もなくなるのです。神のイマジネーションによって、天と地という格好になっている。それがなくなるのです。地球が存在する時が満ちると、それ以上は存在しないのです。神の御座の前から、天も地も全部逃げ去ってしまう。形があるものは一切逃げ去ってしまうのです。

物は初めからなかったのです。これが分かる人間だけが、現世の桎梏から解放されるのです。自分自身のウィルによって、人間の思いはどちらにも転換できるのです。マインドはウィルの受け皿ですからできるのです。皆様は世々限り無く王となるべき人ですから、もう少し深く勉強して頂きたいのです。

心が潔い者、目が清い者、偽りのない信仰の者が、エホバの山に立つのです。シオンの山に立てる人になって頂きたい。潔くなければいけない。潔いというのは責任を持つことをいうのです。

「悪魔のために、人間の肉のために、花婿が奪い去られるであろう。十字架にかからねばならない時が来る。その時には断食をするであろう」とあります。婚礼の客でさえも、花婿が奪い去られる時には断食をするしかないのです。

ユダヤ人の場合は本当に断食をします。現世で食べることができなくなるからです。皆様は御霊を受けてはいるが、花婿を見ている訳ではない。そうすると、皆様はどうしなければならないのでしょうか。皆様は毎日、飲んだり食べたりしていますが、これが神です。神を捉えることは何でもないのですが、これだけでは携挙されません。花嫁はどうすべきか。まず、的確に神をつかまえることから始めるのです。神をつかまえたら、断食をする代わりにどうするのか。これが問題です。

神をつかまえたらどうするかです。神をつかまえない者は、花嫁にはならないのですから、まず神をつかまえることです。神をつかまえたら、つかまえたというイマジネーションになっていないといけないのです。ただの理論ではいけないのです。理論はイマジネーションではないからです。

神をつかまえると、人間の思いのイマジネーションが神のイマジネーションの中に入っていくのです。これだけで携挙されるのかと言いますと、そうではないのです。それは花嫁としての自覚がはっきりしたということです。花嫁としての自覚の基礎がはっきりすれば、断食の代わりに何をするかです。

これが分かると、今まで分かっていた命ではない命がはっきり分かるのです。今まで自分が生きていた世界ではない、神の国に生きているというイメージが開かれてくるのです。これが神の国に入ったというイメージです。神の国に入ったというイメージでも結構ですが、神の国に入って、ぽかんとしているのではないのです。

キリストの花嫁になる者はキリストの再臨を待ち望むために、しなければならない姿勢、態度があるのです。「嫁は自らその備えを全うした」と書いてあるのです。自らその備えを全うしたというのは、今という時にリビングを通して神をつかまえるのです。今という時に、生ける誠の神をつかまえる。生ける神の印を捉えるとはこのことです。

これは生ける神の印を捉える絶対的なポイントですが、花嫁の備えをすることとは少し違います。第三の天のキリストを愛するということです。生ける神の印を捉える段階と、キリストの花嫁の備えをするという段階とでは段階が違います。生ける神の印というのは、ユダヤ人に伝道するためにどうしても必要なものです。これはユダヤ人に伝道するためであって、キリストの花嫁が自ら身繕いをすることとは違います。

とにかく、皆様の後ろには万物が続いているのです。万物に対して責任が持てないなら、人の事も神の事も言えません。今、今というリビングを通して、神を捉えることが一番大事です。

イスラエルに対しては、花嫁の心得とは言っていません。詩篇に述べていることは、イスラエルに対する神の御心であって、ダビデの詩の中には花嫁の心得がないことはないのですが、はっきり言っていません。ユダヤ人の中からも花嫁になる人は出るでしょう。ですから、ユダヤ人に花嫁の心得について全然言っていない訳ではありません。

詩篇に、「神の右の手が自分を支えていてくれる」とあります。神に生きる要件を述べています。これは花嫁の備えとは違います。六十三詩篇が分からなければ、花嫁にはなれませんが、花嫁の備えは詩篇よりもっと上になります。

イエスは次のように言っています。

「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。

誰も真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。

誰も新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋も無駄になる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば、両方とも長持ちするであろう」(マタイによる福音書9・15~17)。

皆様が今、今という時間に、神をまざまざと実感しているとすれば、それは新しい皮袋に入れるべきです。新しい酒が分かったら、どんな皮袋に入れるかです。

キリスト教の人々は神の国の入口まで来ているのですが、神の国の中へ全然入らないのです。入ろうとしないのです。入ろうとして来る人を全部占領して、中へ入らせないのです。ユダヤ人が同じことをしているのです。天国の入口に頑張っていて、自ら入らないし、入ろうとする人々を入れないのです。

私たちはどうやら、かろうじて神の国に入ることができつつあるのです。入口にとどまっていないのです。これは聖書的に言えば、すでに入っているのです。得たりと信じよという言葉がありますが、入口に立っていることはもう入っていることになるのです。

そこで、私たちが生きているという生き様です。私たちは異邦人として、この世に生きているのです。この世に生きていて、この世の生活を送っている。女には家庭があり、男には会社があります。こういう厄介なものがある。これは元の皮袋です。こういう古い皮袋のままでは神の国へ入れないのです。入ってもだめです。皮が破れてしまうだけです。

神の国に入るには、神の国へ入れるような新しい皮袋を持たなければいけないのです。新しい皮袋とは新しい世界観や価値観です。家庭に対しても、自分に対しても、仕事に対しても、見方を全部新しくしなければいけないのです。今の感覚でいたらだめです。偽善者になるだけです。

どんな感覚を持てばいいのか。これは花嫁の備えのもう一つ手前の問題になるのです。新しい皮袋ができてから、花嫁の備えを考えなければならないのです。異邦人の中からキリストの花嫁として携挙されるということは、特別の恵みです。本当に新約聖書の奥義に徹するというのは、並大抵のことではありません。自分が他人になるくらいのことではありません。皮袋が新しくならなければいけないのです。

霊の思いで家庭生活をするとどうなるのか。肉はないのです。神の御霊による感覚で、家庭生活をどう見るのか。これが皮袋の問題です。

新しい皮袋が分かれば、神はすぐに分かるのです。新しい皮袋が分からなければ、神をつかまえてもだめです。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れる。マタイによる福音書の九章十七節を、はっきり実行した教会、信者は、イエス以後二千年の間いなかったのです。この意味でも、私たちは教会時代のラストランナーになるのです。

今の時代はラオデキヤの時代です。自分が正しいと思っている人間ばかりです。この時代に、新約の原理という新しい酒を新しい皮袋に入れなければならないのです。

本当に福音を信じると、生活はどうなるのか。どう変わったらいいのか。これが二千年の間、誰にも言われたことがないのです。新しい皮袋を解明した人は、二千年来ないのですから、これを成し遂げたら手柄になるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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