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ラオデキヤの教会


聖書に次のようにあります。

「ラオデキヤにある教会の御使いに、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、誠の証人、神に造られたものの根源である方が、次のように言われる。

私はあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、生温いので、あなたを口から吐き出そう。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もないと言っているが、実はあなた自身が惨めな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。

そこで、あなたに勧める。富む者となるために、私から火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身につけるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。

すべて私の愛している者を、私は叱ったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。

見よ、私は戸の外に立って叩いている。誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその中に入って彼と食を共にし、彼もまた私と食を共にするであろう。

勝利を得る者には、私と共に私の座につかせよう。それはちょうど、私が勝利を得て、私の父と共にその御座についたのと同様である。

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」(ヨハネの黙示録3・14~22)。

第七の教会というのは、教会時代の終わりの教会を指すものだと言われています。これは王国時代直前の教会を指すものです。

ルネッサンス以降において、人間の権利が強調された結果、教会が強いて反対するのでもなく賛成するのでもない状態で、福音が全世界に述べ伝えられたために、聖書を読むのが当たり前になってしまったのです。

聖書を理解することが、人間の義務のようにさえ考えられることになってしまった。その結果、福音の真髄がぼやけてしまったのです。これは近世および現代の教会に対する御霊の声であると言えるのです。

現世にいる人間はこういう危険な状態におかれているのです。人間主義の教会にいる人々は、聖書が分かっていると思っているのです。文化的な意識でも聖書はそれなりに分かります。聖書の他に真理がないことも分かります。聖書の要項を箇条書にすれば、皆分かります。ところが、信仰が分からないのです。

一番考えなければいけないことは、キリストの方から、口から吐き出すと言われていることです。こんなことは、他の教会には言われていないのです。この傾向は現代の教会に出ているのです。

自分からやめようとしないのです。しかし、やろうともしないのです。やろうとしていると口では言いますが、心では現世における生活を認めているのです。口ではやろうというような言い方をしているのです。

現在、新約聖書が世界のベストセラーになっています。今日ほど、新約聖書が売れる時代はないのです。ところが、神の信仰がないのです。聖書の思想が一般化され、常識化されている。文化教養になっているのです。聖書が文化財として扱われているのです。聖書は文化財ではありません。世界古典文学全集の中に聖書が入っているのです。そういうおかしいことはあってはならないのに、そういうことになっているのです。

よく考えなければならないことは、この世のあり方を認めたらだめだということです。人権主義を批判すると、そうならざるを得ないのです。これは人権主義が悪いのではなくて、文明そのものが悪いのです。これは個々の人間の責任ではないと言われるかもしれませんが、結果的に被害を受けているのは、個々の人間です。そういう状態ですから、私はお前たちを口から吐き出そうと言われているのです。

また、教会自身も神の口から吐き出されようとしているかもしれないのです。心から神を崇めることができなくなっているからです。

すべて愛しているものを叱ったり、懲らしめたりすると言っています。だから、熱心になって悔い改めなさいと言っています。文語訳では励みて悔い改めよとなっています。励みて悔い改めるというのは妙な言い方ですが、普通に悪かったと思うだけではいけないのです。

この時代は、分かったと思っている人ほど危ないのです。それは自ら富んでいると思っているからです。十七節にあるように、何の不自由もないと思っているからです。自ら豊かであると思っている。自分は救われていると盛んに言うのです。これが間違っているのです。

二十一節に、「勝利を得る者には、私と共に私の座につかせよう。それはちょうど、私が勝利を得て、私の父と共にその御座についたのと同様である」と書いています。

ヒラデルヒアの教会に対しては、「私の神の御名と、私の神の都、すなわち、天と私の神の御元から下ってくる新しいエルサレムの名を与える」と言っているのです(同3・12)。キリスト自身の新しい名を与えるのです。

ヒラデルヒアの教会とラオデキヤの教会とでは、全く別の扱いが示されているのです。ラオデキヤに対しては、私と共に私の座につかせるとあります。これが花嫁であって、キリストの座に座れるのです。キリスト自身が勝利を得て、私の父と共にその御座につくであろうと言っているのです。

ラオデキヤの教会になりますと、条件が非常に厳しい点と、何でもないような点と両方あります。例えば、私は戸の外に立って叩いている。誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその中に入り込んで、彼と食事を共にしようと言っているのです。キリストの声を聞いて、ただ戸を開ければいいのですが、これができないのです。

条件はキリストの声を聞くこと、戸を開けることだけです。分かっているとか、分かったと思ったらだめです。これは戸を閉めているのです。一切自分の考えをやめたらいいのです。

当時のユダヤの住宅の玄関ドアーは、外側にはノブがありませんでした。内側にのみノブがあったのです。内側から開けないと戸は開かなかったのです。戸の外に立って戸を叩いているのは、再臨直前のキリストを指しているのです。私はすぐに来ると言っている。「私はすぐに来る」(同22・12)というのが、戸の外に立っている姿勢です。

ラオデキヤの教会の人が、中から戸を開けさえすれば、キリストが再臨するのです。私は中へ入ると言っている。キリストが歴史の中へ入っていくのです。人間の歴史の中へキリストが入っていくのです。これは大変なことを言っているのです。

人間自身が戸を開いたら、その中へ入っていく。私はお前と一緒に食事をする。彼もまた、私と共に食事をすると、丁寧に書いているのです。これは新天新地における神と人とのあり方と、同じ形容になっているのです。

新天新地では、「神は幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を拭いとって下さる」(同21・3、4)とあります。人が神と共に住み、神もまた、人と共に住むのです。

千年王国が現われると、人間の世界は変わってしまいます。今の人間が考えている人権とか、権利が無くなってしまいまして、命がはっきり感じられるようになるのです。人間が今考えているマイホームが、キリストにとって一番邪魔になるのです。

キリストが戸の外に立って、催促しているのです。キリストの方から入ってもいいかと催促しているのです。こういうことが言われているのは、ラオデキヤの教会だけです。他の教会にはそういうことは言われていません。

七つの教会の一番最後の教会は、キリストの方から中へ入って、一緒に食事をすると言っています。これはキリストが再臨を促進したいと思っていることの現われです。

ラオデキヤの教会は文面から見ますと、七つの教会の中で一番堕落した教会のように見えますが、この教会が王国時代のキリストの側近になるのです。皆様はキリストの側近にならなければならない人たちです。

千年の間、神と共に世を治め、キリストの側近になるのがラオデキヤの教会です。一番最後に呼ばれた者が、一番最初に給料をもらうのです。この人々が一番多く神から教えられるのです。パウロやヨハネが言っていないことを、どんどん教えられるのです。

私たちが今生きているのは、未生以前の命によるのです。皆様の五官の感覚は、生まれる前の神の言(ことば)です。生まれる前の神の言で生きていますから、この意味が正しく分かればいいのです。

つまり、目で見ていること、耳で聞いていること、手で触っていることが、とこしえの命なのです。ところが、それを皆様は肉の思いで受け取っているからいけないのです。皆様はマイホームでどのような気持ちで生活しているのでしょうか。皆様の五官が皆様のマイホームでどのように扱われているのでしょうか。これをよくお考え頂きたいのです。

皆様の体から五官を抜いてしまえば、生活が成り立たないのです。人間は五官で生きているのです。その五官は生まれる前に神に植えられた言(ことば)です。生まれる前の言を、生まれた後の肉の思いで使っている。これが間違っているのです。

人間は生まれた後の思いで生きていますから、肉の思いで生きているのです。ところが、五官の感覚はマインドという地盤の上に神の言が植えられたものです。そのマインドが全部肉になっていますから、神の言が全部肉のように働いているのです。これでは助からないのは当然です。

家庭のリーダーシップをどちらがとっているかを考えて頂きたいのです。家庭のあり方が非常に重要な問題になってくるのです。人間の家庭は、実は生まれる前の感覚が中心になっているのです。ところが、人間の生活は生まれた後の肉の思いに牛耳られてしまっているとすると、責任を取らされることになるのです。

人間の味覚、聴覚、視覚は、生まれる前に植えられた感覚です。生まれる前に植えられたものであるなら、生まれる前の感覚で用いなければいけないに決まっているのです。

ユダヤ人は見事に人間を裏返したのです。これがルネッサンスです。ルネッサンスの旗印というのは、これから人間文明が始まるという旗印です。ヘブライズムを信奉するユダヤ人が、ヘレニズムを信じている異邦人に頭を下げた。これは明らかに人間の文明をユダヤ人が主張し始めたことになるのです。

ルネッサンス、文芸復興という言葉そのものが、新約を否定して、ギリシャの文明を担ぐことになった印です。新約時代の十字架と復活を無視して、それ以前の異邦人の文明、ギリシャ・ローマの文明を持ち込むということは、明らかに神を踏みにじる宣言です。キリストの栄光を蹂躙する宣言です。

皆様はそういう時代に生きているのです。しかも、そういう文明を謳歌してきたのです。皆様が学んだ学校、皆様が交わっている世間は、全部人権主義、民主主義社会でした。皆様が生まれた家庭もそうでした。

ですから、皆様は本来救われるべき人間とは違います。絶対に救われない人間です。ただ死んでいくために生きていて、死んだ後に永遠の裁きを得る人間です。こういう人間が救われたいと思うのなら、家庭に対する考えを全部捨ててしまわなければいけないのです。親に育てられた時の気持ち、学校へ行った時の気持ちを捨てるのです。結婚をした時の気持ちを捨てるのです。

ラオデキヤの時代に真剣に勉強している霊魂は、正に携挙される人です。そこで、千年王国の間、キリストの側近になるのです。ユダヤ人を指導することになるのです。ラオデキヤ時代の以前の教会の人々は、ユダヤ人にふれる必要がなかったのです。ユダヤ人にふれる必要が起きたのは、フィラデルフィアの教会からです。

皆様はユダヤ人と接触しなければならないのです。ユダヤ人と接触した霊魂が、ユダヤ人を治める場合の第一部隊になるのです。第一先導部隊があります。ユダヤ人を悔い改めに追い込む部隊です。第一部隊が千年王国の第一の指導者になるのです。

ラオデキヤの教会は、教会時代最後の教会、キリスト再臨直前の教会です。この霊魂を神が妬むほどに愛しているのです。ですから、ラオデキヤの教会は、どうしても悔い改めて頂かなければ困るのです。

皆様は悔い改めたいと思っているでしょう。ところが、育ちが悪いのです。近世文明、現代文明の空気を吸って生まれた人間は育ちが悪いですから、本人がやる気になっていても、神から見るとやる気になっていないのです。そのままで携挙される訳にはいかないのです。携挙される条件は、五百年前も千年前も同じです。パウロがテサロニケ前書、後書で言っている、キリストの再臨に対する心構えと同じ条件です。

ところが、人間が生きている状態が、極端に悪くなっている。テサロニケの手紙が書かれた時代と今の時代とを比べると、極端に悪くなっているのです。

こういう悪条件に置かれている私たちは、どうしてもこの難関を突破しなければならないのです。十重二十重の悪魔の包囲を突破して、キリストの再臨に間に合う者にならなければいけないのです。そこでもう一度、悔い改めよ、熱心に悔い改めよと言わなければならないのです。ただの悔い改めではいけないのです。半気違いになって、悔い改めよと言わなければならないのです。

皆様は自分がどんなに育ちが悪いかを知らないのです。責任、義務的な観念は全くなくて、権利の意識が非常に強いのです。皆様が悪いのではなくて、育ちが悪いのです。文明が悪いのです。文明の悪さの理由、内容を、十分に知らなければならないのです。

現代文明は人間の魂を殺しているのです。人間の思いは幻覚です。今の人間はほとんど気違いです。こんな者が福音が信じられるはずがないのです。そのような時代に育った者でありながら、福音の真髄をどうしても知りたいと願うことが不思議です。

ラオデキヤの霊魂は、携挙間際の霊魂です。キリストの側近として、ユダヤ人を指導しなければならないグループです。千年王国の主役を演じるのですから、旧約時代の預言者くらいではだめです。旧約時代の預言者は、エホバかく言うということを伝えれば良かったのです。

千年王国の指導者はそうではない。エホバかく言うと告げるだけではいけないのです。キリストの復活の命が地球の真ん中に下りてくるのですから、それを全世界の人間に教えなければいけないのです。

ただエホバかく言うと告げるだけではいけない。王国の人間を全部キリストの復活にふさわしい霊長に仕立てかえなければいけないのです。できませんではすまないのです。

責任感が第一に必要です。自分が救われる救われないの問題ではない。神の国が成就するかしないかの問題です。それに対して、責任を自覚するような気持ちを持って頂きたいのです。

今からでも遅くないのですから、皆様の生活ぶりを神の国にふさわしいように、切り替えて頂きたいのです。現世に生きているのは本当の命ではありませんから、そんなものに執着しないで頂きたいのです。王国をねらって頂きたいのです。生活に対する目のつけ所が、そこにあるのです。自分の生活が良くなるという問題ではなくて、王国にどうするかが、皆様の生活の命題になるはずです。

そこでどうしたらいいかです。婚礼のお客であるユダヤ人は断食をします。花嫁はどうすればいいかです。新しい皮袋をどこで見つけてくるかです。これは聖書のあちらこちらに書いているのですけれど、問題は皆様が現在生きているのは、ラオデキヤという世の中に生きているのです。民主主義の世の中に生きています。偽キリストの王国に生きています。

やがて世界の政治家が妥協するでしょう。現在はまだ偽キリストが現われたとは言えませんが、偽キリストが現われる条件は十分に整っています。

そこで、世界の政治家が妥協して、世界に一時代的な平和、人間文明の最終段階における平和という擬装工作が成就しますと、偽キリスト王国の花が咲くのです。人間が万歳、万歳と言って、人間文明が完成するのです。

それを見越して、私たちはどういう手を打つのか。まず何を考えなければならないのか。同じ皮袋でも、使徒行伝時代の考え方と、今の考え方とでは違ってきているのです。使徒行伝時代と今とは、基本的な原理は同じでしょう。ところが、現在の社会では、人間本位になっているために、経済的に行き詰まるとか、思想的に弾圧されるということが、全然なくなっているのです。苦しもうとしても苦しめなくなっているのです。

現在の日本の状態は、一番自由です。人間が一番威張りかえっているのです。こういうところから私たちが出るのです。そういう条件が悪い中で、キリストの側近になるためには、どういう手を打ったらいいのか。今の時代の皮袋はどんな皮袋なのかということです。

ヨハネは言っています。

「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めは難しいものではない。なぜなら、すべて神から生まれた者は、世に勝つからである。そして、私たちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか」(ヨハネの第一の手紙5・3~5)。

世に勝つのです。ラオデキヤの世に勝つのです。文明の世に勝つのです。世に勝てない者は、絶対に携挙されません。ただ勝つのではありません。世の上に出てしまうのです。世を乗り越えて、ゆうゆうと勝つのです。自分の家庭を問題にしたらいけないのです。自分の信仰を問題にしたらいけないのです。やっとの思いで勝つのではない。ゆうゆうと勝つのです。

この世に勝つ。この世を乗り越えてしまう以外に、自分の信仰を全うする方法はありません。これが今の時代の皮袋です。世に勝てる皮袋です。

この世とは何か。厳密に正確に言うと、この世とは自分のことです。自分に勝ったら世に勝つことができるのです。自分に負けたら世に勝てないのです。自分自身が霊の思いによって、やっと勝つのではない。余裕しゃくしゃくとして、自分の肉を乗り越えるのです。頭に鉢巻きをして、汗水をたらしてする信仰ではだめです。オーバーカム(overcome)というのは、余裕しゃくしゃくとして勝つことです。自分に勝っていくのです。これは口で言うのは簡単ですが、実行することはなかなか難しいかもしれません。

三節に、「神を愛するというのは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めは難しいものではない」と言っています。戒めは難しいものではないとあります。これは何を言っているのかと言いますと、四節には、「すなわち、すべて神から生まれた者は、世に勝つからである」と言っているのです。

なぜヨハネは難しいことではないと言っているのか。ユダヤ人は掟を二千年も三千年も行っていながら、未だに分からないのです。ところが、ヨハネは戒めを守るのは難しくないと言っている。なぜ難しくないと言っているのでしょうか。なぜ難しくないかと言いますと、すべて神から生まれた者は、罪に勝つとあるからです。世に勝てない者は、神から生まれていないのです。自我の自分に勝てない者は、神から生まれていないことになるのです。これが新約聖書の標準です。皮袋の標準です。世に勝つという皮袋なら、新しい酒をいっぱい入れても破れません。世に勝つのでなかったら、信仰を全うすることができません。

ラオデキヤの時代は、この世が神の国になっているのであって、この世が完全に人間を解放している時代です。現世では、肉の思いが全開しているのです。肉の人間、人間の肉性を全開しているのです。これを乗り越えたら、これ以上誘惑するものはありません。悪魔が自分を全力投球しているのであって、悪魔の全力投球のボールを打ち返したら、悪魔の負けです。全開している人権主義、民主主義の文明を打ったら、悪魔に勝てるのです。これ以上、悪魔は成す術がないのです。

現在の文明は、悪魔が全力投球している時代です。ここで打たれたら、悪魔は終わりです。投げる球がなくなるからです。これが世に勝つことです。霊魂の勝利とは何か。世に勝つことです。これが霊魂の勝利です。この勝利を得なければ、この世を乗り越えることはできないのです。

パウロの時代には、こういう条件はなかったかもしれないのです。悪魔が本気になってパウロを攻めたので、喧嘩がしやすかったのです。この頃は、社会は私たちを攻めてこないですから、私たちの方が世を乗り越えなければいけないのです。攻めてくる相手には喧嘩はしやすいのですが、攻めてこないからオーバーカムするしかないのです。オーバーカムはよほど頭が切れて、精神力がないとできません。よほど福音の実体が分かっていないとできないのです。

どうしてこれを実行するのか。水と血と御霊の証を持つのです。これしかないのです。ヨハネは、「イエスを神の子と信じる者は、水と血と御霊の証を持つ」と言っていますが、この証がきちっと身についていない者は、世に勝てないのです。

世に勝つのは私たちの信仰であると言っていますが、この信仰の内容は何かと言いますと、イエスを神の子と信じることです。イエスを神の子と信じるとはどのように信じることかと言いますと、ヨハネは次のように述べています。

「このイエス・キリストは、水と血とを通ってこられた方である。水によるだけでなく、水と血を通ってこられた方である。その証をするものは、御霊である。御霊は真理だからである。証をするものが、三つある。御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。

私たちは人間の証を受け入れるが、しかし、神の証はさらに勝っている。神の証というのは、すなわち、御子について立てられた証である。神の子を信じる者は、自分のうちにこの証を持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子について証せられたその証を信じていないからである。その証とは、神が永遠の命を私たちに賜り、かつ、その命が御子のうちにあるということである。

御子を持つ者は命を持ち、神の御子を持たない者は命を持っていない」(同5・6~12)。

六節の終わりの方に、その証をする者は御霊であるとあります。これは水と血とによってこられた方を証すると言っているのです。

神の子イエスは、水によるだけでなく、水と血とによってこられた方である。その証をする者は御霊であると言っています。これはイエスがどんな方であるかということを、御霊が証するという意味です。

七節は違います。イエスを証するものは、水と血と御霊であると言っています。水と血が分かったということは、御霊の証によって分かったのです。六節はそれを書いているのです。

七節と八節は、預言の霊でないと分かりません。六節はイエスが神の子であるとはどういうことか。イエスは水と血とを通ってこられたと書いているのです。

七節は、証するものが三つある。これはイエスの証とは違います。皆様が本当にイエスを信じているかどうかを証するものが三つあると言っている。皆様の信仰が正しいか正しくないかを証するものが三つあると言っているのです。

イエスが水と血と御霊によってこられた方だということは分かります。イエスを私たちに教えてくれるのが六節です。七節に書いていることは、私たち自身の信仰の善し悪しを点検するお方が、三つあると言っているのです。御霊の証、水の証、血の証が皆様にあるのか。この三つの証が皆様にあれば、皆様は本物であるというのです。

ラオデキヤの時代、民主主義、人権主義の時代、何の不自由もない時代に、勝たなければいけない。勝つためには、御霊が証してくれるような勝ち方でなければならないのです。

イエスが神の子であることを、御霊が証していた。イエスが神の子であることを、イエス自身に水が証していた。血が証していた。イエスは水の証と血の証、御霊の証の三つを持っていたのです。

イエスが主である。神の子であると信じるなら、この三つが皆様にもあるはずだというのです。御霊と血と水の三つが証するなら、私たちはもう何も言う必要はないのです。これは人間が生きていることの最高の状態です。

私たちがこういう信仰を持つためには、すべての偶像を捨てなければいけないのです。人間は自分が生きていると思っています。これは何かと言いますと、自分という偶像が生きているのです。パウロは偶像を警戒しなさいと言っています。偶像から身を守れと言っているのです。

人間の肉体生活が偶像になっています。自分という偶像は、自尊心であり、マイホームになったり、自分の経験にもなっています。自分が認めているものは、皆偶像です。これが間違っているのです。

自分の自尊心から離れ、自分の立場、経験から離れ、自分の勉強、自分の興味から離れたら、生きている値打ちがないのではないかと言われるかもしれませんが、これが間違っているのです。

今の時代の皮袋は、こういう皮袋です。この皮袋なら、絶対に破れないからです。どんなに発酵力が強い酒でも、この皮袋なら大丈夫です。新しい酒は新しい皮袋に入れなければいけない。ラオデキヤの時代には、ラオデキヤの皮袋があるのです。使徒行伝時代の皮袋とは違います。

ラオデキヤの時代にふさわしい皮袋に酒を入れた者は、王国時代の側近になるのです。とにかく、千年の間、イスラエルを指導しなければならないのですから、全世界は皆様によって指導されることになるのです。だから、現世において偶像から離れていなければならないのです。この時に皆様の人生は始まるのです。

日本は世界の東の果てです。極東です。日本の社会は世界の掃き溜めの社会ですが、この日本の社会から、新しい皮袋を持った人々が現われる。これは全くなかったことです。

水が証するのです。水はえこひいきしません。血が証するのです。えこひいきは全くありません。水と血と御霊が証したら、その人は救われるに決まっています。女性はこういう人をねらっているのです。ヨハネが最後まで頑張って、とうとう人間の偶像を否定したのです。

この難関を突破したら、この世に勝てます。悪魔に勝てます。自分に勝てたら悪魔に勝てるのです。水と血と御霊は、神の御子を証するのです。水の本来のあり方、血の本来のあり方において、水と血とを通ってきたことを、御霊が証するのです。これはイエス自身が生きていた状態を、御霊が説明しているのです。

水と血によるイエスが、御霊によって分かったとすれば、この時皆様の中にも、御霊の証、水の証、血の証があるのです。これは全く信仰完成のペースです。今までのキリスト教は、六節の水と血と御霊の証でさえもないのです。ましてや、水と血と御霊をどう証しているかは全く分かりません。

六節はキリストの元に携挙される証です。キリストの復活の栄光体がそのままその人の肉体になってしまうのですから、キリストの復活の栄光を受け取ることができる状態の水、血を言っているのです。

六節、七節、八節を見ていて、同じことを言っているようにみえるという読み方をしている人は、携挙されません。六節、七節は人間の正体を書いているのです。携挙されるという標準があるのです。信仰の標準があるのです。これは人間の証ではありません。神の証です。

神はどういう人を御子とお考えになっているのか。水が証するもの、血が証するものを、御子とお考えになっているのです。イエスが洗礼を受けて水から上った時、水が証したのです。これを神が良しと言われたのです(マタイによる福音書3・16、17)。

これは普通の聖書の勉強のしかたでは分かりません。聖霊が鳩のように下ったのですから、水がどんな証をしたのか。神自らが、アイ・アム・ウェル・プリーズド(I am well pleased )と言われた。私はとても嬉しいという証です。

そういう神の証、万物が歓呼する証に送られて、皆様は天へ行くのです。人間はこのために、この世に生まれてきたのです。万物の歓呼は、ヨハネの黙示録の第五章に書いています。万物はイエス・キリストとその一党に拍手しているのです。

皆様はキリストの花嫁として、キリストの妻として、堂々と天に凱旋するのです。そういう栄光が皆様を待っているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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