top of page
検索
  • 管理人chaya

レメクの時代


聖書に次のようにあります。

「レメクは二人の妻をめとった。一人の名をアダと言い、もう一人の名はチラと言った。アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。

その弟の名はユバルと言った。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。トバルカインの妹をナアマと言った。

レメクはその妻たちに言った

『アダとチラよ、私の声を聞け、

レメクの妻たちよ、私の言葉に耳を傾けよ。

私は受ける傷のために、人を殺し、

受ける打ち傷のために、私は若者を殺す。

カインのための復讐が七倍ならば、

レメクのための復讐は七十七倍』」(創世記4・19~24)

私たちがこの世に生まれた時に、すでにこの世があったのです。だから、この世があるという事に対しては、無条件で明瞭な先天的と言えるような認識を持たされてしまっているのです。

この場合の先天的という意味は、人間としての伝統的という意味です。霊魂の先天性ではなくて、人間としての前提性が否応なしに押しつけられていたのです。そのような意味での人間社会の伝統制というものが、嘘であったというのではありません。

人間が六千年の間、世の中を造ってきたということが、罪のトリックです。原罪のトリックであって、六千年の人間文明というものは、神的な意味での価値、実体性から判断しますと、全くゼロです。皆様の親がこの世に生きていたことが無意味です。日本という国ができたことが、霊魂の角度から言えば無意味です。

創世記の五章に、アダムの系図が書いてあります。神が人を創造された。神にかたどって人を造り、男と女に創造されたとあります。創世記の一章と大体似たように書いているのです。

彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられたとあります。これは複数の人間を指しているのです。神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけた。これはすばらしい言い方です。彼らとは相当多い人数を指しているのでしょう。三人や五人ではないはずです。多人数を指しているのです。

彼らをアダムと名づけたという言い方は、創世記第二章七節の「地のちりである人間に形を与えた」という内容とは全然違った言い方です。

五章の方は、土から出た人間を指しているのです。アダムと名づけたというのは、そういうことです。ヘブル語のアダムという意味は、土から出た人間を意味するのであって、土から出ていない人間はアダムとは言わないのです。地のちりであるものに形を与えて、命の息を吹き込んだとあります。これはアダムではないのです。恐らく原語でもアダムと言っていないと思われるのです。

地のちりである人間に、形を与えて命の息を吹き入れられた。これと、アダムと名づけられた人間とは違うのです。別のものです。これを同じものだと考えるのは、間違っているのです。アダムは土から出た人間です。陥罪後の人間を指しているのです。陥罪以前の人間は、五章には書いていないのです。そこで、創世記の一章から四章までを、精密に読んでいかなければならないのです。

創世記四章の人間が問題です。四章にはいわゆるカインとアベルの事が書いてありますが、カインとアベルという人間が本当にいたのかという問題です。これは人間ではなくて、人種を指していると考えるべきです。カイン的な人種とアベル的な人種と、二通りの人種がいたと考えられるのです。

カインというのは複数です。アベルも複数です。大体、数というのは神から見れば、複数も単数も同じです。アベルという固有名詞が複数を指す場合もありますが、個人と考えなければならない場合もあるのです。イエスやパウロの系列に属する人間は、すべてアベルに属するのです。それ以外の人間は、全部カインの系列に属するのです。

創世記の四章の劈頭にあるカインとアベルの固有名詞は個人を意味するものではないのです。こういうことが、キリスト教神学では全然分かっていないのです。創世記の四章をどのような位置におくべきか。聖書全体から見て、太陽系宇宙という構想から考えて、どのような位置に置くべきかがキリスト教では分からないのです。創世記四章の記事を見ていきますと、レメクがアダとチラに演説をしています。それが二十四節で消えているのです。

カインにあだをしたもの、カインを殺すような事をすれば、その復讐は七倍の罰を受ける。レメクに対する罰は七十七倍を受けるということを、厳然として言っているのです。これはどういうことなのか。これについて、学者は全く盲目です。

二十五節に、「アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を生み、セツと名づけられた」とあります。セツの系統が始まっているのです。セツの系統とカインの系統はどういう位置にあるのか。これが分からないのです。

有島武郎は「カインの末裔」という小説を書いていますが、カインの末裔という考え方は、この世に目的を持たないで、この世に生きている人間、自分自身の人生観をつっぱって自分の人生があるものと考えて、この世に生きている人間全体がカインの末裔になるのです。有島武郎はこんな気のきいたことを書いていません。ただ罪人のことを書いているだけですが、聖書的に言うとそうなるのです。

カインとその系列は、原罪人間の系列がそのまま出ているのです。これは人間であるとは言えるのですが、人間としてのあり方の空々寂々なあり方を示しているのです。人間が神を信じたいと思っていながら、自分自身の気持ちを神に押しつけようとしている。これが原罪人間の本性です。

原罪人間の本性を持ったままの歴史記録が、カインの末裔です。自分が言いたいことを言っている。やりたいことをしている。しかし、神から刑罰を受けることが嫌なのです。殺されることも嫌なのです。自分は人を殺すけれども、自分が殺されるのは嫌なのです。こういう気持ちがカインの感覚です。そういう気持ちを持った人間が住んでいるのです。創世記の第四章は、肉の人間の全体の記録を簡潔明瞭に書いているのです。人間全体の歴史は第四章で終わりです。

神は人間を全く問題にしていません。世界のいわゆる英雄とか、豪傑とか、大人物、先哲賢人と言われた人々を十把一からげにして、一刀両断に切り捨てているのです。一切問題にしていないのです。全然無視しているのです。神が無視した人間の歴史が、カインの末裔として現われているのです。カインの末裔も神を問題にしていないのです。

最初にカインは神に供え物を持っていったように、神にちょっと色気を見せているのです。しかし、自分の信仰が取り上げられないで、腹を立ててアベル殺した。それ以後、カインは神を信じようとしていないのです。七節にあるように、神はカインに正しいことをしているのなら、顔を上げなさいと言っているのです。正しいことをしていないのなら、角口に伏している。罪がおまえを慕ってくるという言い方をしているのです。

現在の人間は悪魔に慕われているのです。罪に慕われているのです。悪魔に慕われているために、自分で聖書の勉強をしようとしてもできないのです。何かをしようとしても、罪が角口に待っていてできないのです。何かをしようと思った途端に、罪が一緒についてくるからです。人間は一人ですることができないのです。外を歩いても、仕事をしても、人間が何かをしようとすると、その角口に罪がいるのです。罪が一緒についてくるのです。

ある人が科学の勉強をしようとすると、必ず罪がついてくるのです。法律の勉強をしても、道徳の勉強をしても、聖書の勉強をしても、必ず罪がついてくるのです。聖書の勉強をしていても、罪が一緒に勉強しているので、本当の事は分からないのです。

人間が何もせずにじっとしていると、罪は知らん顔をしてじっとしているのです。ところが、何かをしようとすると、罪が一緒についてくるのです。何もせずにいると、罪は無関係ですが、何かをしようとするともう罪が一緒にいるのです。

信じようとしても、行おうとしても、善事善行をしているつもりでも、罪が一緒にいるのです。とにかく罪が角口にいるから困ったものです。

カインは人殺しです。カインの根性が現世に生きている人間の性根の基本になっているのです。カインは悪人ではありません。自分が働いて農作物を造ったのです。土を耕して土からできたものを神に供えたほどの善人です。神を信じたいと思ったのですが、自分よりもアベルの方が神に顧みられたので、腹を立てたのです。

今のユダヤ人、仏教徒、キリスト教信者、あらゆる宗教の信者は、皆カインと同じ気持ちを持っているのです。悪人とは見えないのです。人殺しの基本概念はどこから来ているのかと言いますと、欲から出ている場合もありますが、大体意見の相違が原因になっているのです。欲の場合でも意見の相違が基本的な原因です。

自分の意見に同意してくれない場合には、殺してしまえとなるのです。邪魔者は殺せとなるのです。カインはその典型です。神を信じたいと思っているし、弟のアベルでも自分の言うことを聞いてくれれば、別に殺そうと思っているのではないのです。自分で働いて生活しなければならないと思っているし、神から叱られると震え上がって、自分は罪人だと言っているのです。

世間の人に憎まれるとか、殺されると思っている。今の人間そっくりな考えた方です。いわゆる善人です。この世の善人がカインです。この世の道徳、法律、習慣、権利とか義務を口にしている人は、全部カインの系列に属する人です。

カインの記録というのは、いわゆるこの世の道徳好き、宗教好き、法律好き、善事善行好きの人間の記録です。この世の人間は宗教が好きで、神が好きです。法律を守ることが好きです。自分自身を善人ぶることが好きです。これは人間の道楽です。そういう道楽を持っている人間が、腹の底では人を殺す根性を持っているのです。

神はアベルの供え物を顧みて、カインの供え物を顧みなかった。これだけでカインはアベルを殺しているのです。しかし、神を憎む気持ちにはなれない。神は偉いお方であると分かっているからです。神からアベルは何処へ行ったのかと聞かれると、私はアベルの番人ではないから知らないと答えているのです。

まだこの時、人を殺してはいけないという法律はないし、掟もありませんでした。そういう時代でしたから、カインが人を殺したといって法律違反にはならないのです。だから、カインは殺人罪を犯したとは思っていないのです。

今の人間の生き方はことごとく人を憎み、精神的に人を殺しているのです。年中人を呪ったり、人を憎んでいる。これが罪であることを知らないのです。カインも知らなかったのです。カインは現在の人間の典型です。カインから六代目に生まれたのがレメクです。カインを入れて六代目です。人間の一代を千年として計算しますと、六代というのは六千年を意味します。カインの物語は六千年の人間文明の正体を、簡潔明瞭に暴露しているのです。これが創世記の四章の内容です。

創世記の三章までは、人間の前世の記録です。四章は人間がこの世に出てからの記録です。人間はこの世に出てからどうなるかという事を、四章一節から二十四節までで、六千年間をまとめて説明しているのです。これが創世記の四章です。

一番最後のレメクは、偽キリストを示しています。今のユダヤ人を指しているのです。

カインがアベルを殺したのは殺人です。この時には人を殺してはいけないという法律はありませんでしたが、神はいたのです。七倍の罰を受けるというのは、完全な刑罰を受けるということです。人を殺した者は、かならず刑罰を受けなければならない。自分の霊魂が殺されなければならない。つまり、神の裁きを受けなければならないのです。誤って人を殺してもだめだということを、神が言っているのです。

カインは普通の人間が普通に持っている気持ちを代弁しているのです。宗教は好きだけれど、本当に心から神を拝することはできないのです。神を尊敬することくらいは知っていますけれど、人を殺すのです。とにかく、矛盾しているのです。

カインはアベルを殺しても何とも思っていなかったのです。アベルを何処へやったのかと言われて初めて、殺した事の重大さに気がついて、震えおののいているのです。アベルを平気で殺していながら、おまえが殺したアベルの血が地面に染み込んでいると言われて、にわかに震え上がったのです。これは人間の原罪感覚をそのまま現わしているのです。

普通人間は生きている時に、私は警察のご厄介になったことがないと言っているのです。何一つ盗んだこともないし、人に迷惑をかけたことがないから、自分は地獄へ行くはずがないと考えているのです。

ところが、自我意識で生きている人間は、魂を全く無視している。つまり、魂を殺しているのです。だから、おまえはアベルを何処へやったのかと二、三回言われると、殺したと言わざるを得ないのです。自分の罪が暴露されると震え上がるのです。世間で威張っていても、神の前に引き出されると震え上がるのです。

レメクは偽キリストの雛形です。カインの根性をそのままレメクが受け継いでいるのです。カインの根性がそのままユダヤ人の根性になるのです。

今の人間は白人も黒人も、アジア人も、全部カインの根性を持っている。なぜそうなるのかと言いますと、全世界の人間にカインの根性をばらまいたのはユダヤ人です。ユダヤ人が本当にアブラハムの業を行っていて神の前に歩んでいたら、人間の文明はこれほどひどく堕落しなかったでしょう。

こういうことを教えられた私たち日本人は、重大な責任があるのです。私たちはカインの轍を絶対に踏んではいけないのです。ついでに述べておきますと、エデンの東というのは、実在する土地ではありません。実在しないのです。エデンの東は、現在の人間から見ると、漠然とした所で、何処にあるか分からない所です。

人間は罪を犯したために、エデンという前世から放り出されて、今世に出てきました。創世記の三章二十四節に、「神は人を追い出した。エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎の剣とを置いて、命の木の道を守らせた」と書いています。

命の木はエデンの中にあるはずです。ところが、エデンの園の東に、ケルビムと回る炎の剣を置いたとあるのです。命の木はエデンの園にあるのです。しかし、自ら回る炎の剣は、エデンの東にあるのです。エデンの東は罪人がいる場所です。エデンの東には命の木はありません。あるのはエデンの園です。エデンの東にあるのは宗教だけです。これはどういう事か。現世で生きているままの状態で聖書を読んでもだめだと神が言っているのです。

現世に生きている人間は、エデンの東にいるのです。ところが、エデンの東にはケルビムと回る炎の剣が置かれているから、エデンの東でいくら聖書を勉強してもだめです。従って、すべての宗教は全部嘘になるのです。肉体を持った人間はエデンの東にいます。エデンの東にいる人間がいくら聖書を勉強してもだめです。自ら回る炎の剣があるからです。

自ら回る炎の剣とは何かと言いますと、神の怒りが炎から啓示されているということです。自分がまともに神を信じていないということは、自分が知っているはずです。そういう状態でいくら神を信じてもだめです。炎の剣があり、ケルビムがいるからです。

ケルビムは神の知恵です。神の知恵が頑張っているから、それに勝つことはできないのです。聖書をいくら勉強しても、キリスト教の神学をいくら学んでも、神のケルビムに勝つことはできないのです。

聖書をいくら勉強しても分からないのはなぜか。ケルビムが頑張っているからです。聖書の言葉と一緒にケルビムがいるのです。だから、聖書を読んでも分からないのです。

実は聖書の言葉はケルビムです。だから、聖書の言葉を読もうとすれば、自分自身がケルビムになってしまわなければいけないのです。

預言者とはケルビムのことです。ケルビムでなければ、神の言葉を知らされるはずがないのです。人間に神の言葉が開かれることはないのです。旧約聖書の預言者は全部ケルビムばかりです。

問題は六代目のレメクです。レメクはどういう人物か。人間文明も六千年目になると、完全にレメクの所帯になるのです。レメクは二人の妻を持っています。一人はアダで、もう一人はチラです。カインの末も初めは割合におとなしかったのですが、六代目に到ってがぜん張り切り出したのです。これは十七世紀頃のユダヤ人の光景です。ルネッサンスの始まりです。神から完全に離れてしまって、ユダヤ的な伝統精神をユダヤ人が否定した。これがルネッサンスの勃興です。

ルネッサンスとはヘブライズムを信じるユダヤ人が、ヘレニズムを信じたのです。この時ユダヤ人は二人の妻を持ったのです。神の約束と異邦人の性格と、二人の妻を持って、自ら選民の座を降りたのです。ユダヤ人は約束の民ではなくなった。それだけでなくて、偽キリストになったのです。そして、人間文明を犯し始めたのです。キリストよりも人間の方が偉いと言い出した。これが人権主義思想です。

現世に生きている人間を殺してはいけない。現世に生きている人間はレルクやレメクの妻です。これを殺してはいけない。現実の人間文明を否定してはいけない。現実の人間を殺すのは、カインを殺すよりもっと恐ろしい。現代社会にいながら、文明の根本精神に反抗する者は、七十七倍の罰を受けると言い出したのです。

神の子になっていない者、イエスを信じることができない者、ケルビムになっていない者は、怖くて文明に反対できないのです。

レメクの時代、人間文明の終末段階においては、原罪がふんぞりかえっているのです。神なんかあるもんか、神は死んだと、堂々と言っているのです。神は死んだと、白昼公然と言っているのです。

人間は解放された。新約聖書から解放された。イエスがキリストであることを信じる必要がなくなったと言っているのです。これが信教の自由です。信教の自由とは、神を信じても信じなくてもいいということです。信じても信じなくてもいいと言いますから、人間は信じなくてもいいという方に賛成するのです。

レメクの時代の現代文明は、神は死んだと堂々と言う文明です。キリスト教、聖書は、全部宗教になってしまったのです。聖書が全部宗教になってしまったので、プロテスタントも、カトリックも、洗礼さえ受ければ、死んでから天国へ行けると言うのです。死んでから天国へ行ければ、この世を去ることは怖くないのです。これを言い出したのはレメクです。ユダヤ人です。プロテスタントをつくったのはユダヤ人です。

ルーテルとかカルビンがキリストを信じて、死んでから天国へ行くと言い出した。これを言われることは、死ななくてもいいと言われたのと同じようなものです。神を信じなくてもいい、死ななくてもいいとなった。これがレメクの時代です。偽キリストの時代です。ユダヤ人がイエス・キリストの復活を信じることが嫌だから、イエス・キリストの復活を信じなくてもいいような理屈を造り出した。これがレメクの演説です。

現代文明に反対してはいけないと言うのです。人間が造った堂々たる文明ですから、神のことを考える必要がない。角口にいる小犬がライオンのようになった。たてがみを立てて、猛然と吠えているのです。これが現代文明です。現代の学問です。

神はその程度のものだ。アベルを殺したカインを、神は刑罰しなかった。従って、神が人間を罰することができない。神の刑罰は嘘だと言うのです。これが現代文明の考え方です。地獄なんかあるもんか。へびが善悪を知る木の実を食べさせても死ななかった。絶対に死なない。これをレメクが強調しているのです。

人間文明の本質は人間に与えられた絶対的なペースだから、人間文明を否定することは最も恐ろしいことだ。七十七代までの罪だとレメクが言うのです。現代の学問は厳然としてこれを主張しているのです。神の掟、人間の良心より、学問が最高だと頑張っているのです。

アダとチラの二人の妻をレメクは持ったのです。ユダヤ人はルネッサンスにおいて、神の約束の民であることよりも、 世界の主(あるじ)であることを考えた。これがルネッサンスの思想です。

神の約束を踏まえているし、人類全体を踏まえている。この両方を押さえているレメクが、神に向かって開き直っている。やれるものならやってみよと、神に向かって開き直っているのです。アブラハムの約束は名目だけであって、何でもない。殺されたイエスはただの人間だ。キリストでも何でもない。復活は大嘘だと言っているのです。

約束の民であるという看板と、異邦人全体という看板を自分の妾にしたのです。だから、ユダヤ人がユダヤ人でなくなったのです。ユダヤ人が異邦人の王になって、偽キリストになったのです。これがレメクの時代です。

七十七倍ということについて言及しておきますと、カインを殺す者は、刑罰を受けるとあります。これは本人が刑罰を受けるということです。

ところが、レメクを殺すことになりますと、全世界の文明そのものを否定することになるから、全世界の人間を殺すことになる。文明を否定することは、世の中全体を殺すことになるから、気をつけろとどなっている。だから、七十七倍の刑罰を受けることになる。これがユダヤ人の言い分です。

カインの罪はユダヤ人の罪を象徴的に言っているのです。もちろん創世記四章の時点ではユダヤ人はいませんが、ユダヤ人の本性がこの時点でできたのです。

レメクの考え方は、完全にユダヤ主義です。これは人間主義と言った方が妥当かもしれません。人間主義を造ったのが、ユダヤ人の働きによるのです。

ユダヤ人はピンからキリまで我々が悪いとは言いたくないでしょう。そのとおりです。ユダヤ人だけが神に反抗しているのではありませんが、イスラエル民族は世の光です。地の塩です。光が光を放たなくなったので、世の中全体が暗くなったのです。「汝らは世の光なり」とイエスに言われたように、イスラエル民族は世の光の民族であって、これが光を放たなければ、世界全体に悪影響を及ぼすことになるのです。これは歴史の流れから見て当然です。

約束の民は良い意味においても、悪い意味においても、中心民族になるのです。悪ければ悪いなりに、悪いことの中心民族になる。良ければ良いことの中心になる。これが約束の民です。神の約束を肉的に展開するのも、霊的に展開するのも、約束の民の心構え一つによるのです。

これはそのまま私たちにも言えるのです。私たちの信仰がそのままユダヤ民族のあり方に影響するのです。私たち自身が本当に日出る国におけるメッセンジャーとして、イスラエルの額に生ける神の印を押すことができるかどうか。その役目にふさわしい心情を持つことができるかどうかです。そのことが直にイスラエルに反映するのです。そうして、イスラエルの状態が万民に反映するのです。

今、私たちは責任の場に置かれています。人数が多い少ないではない。少なくてもいいから、本当に聖書の原理、原点に一致できるかどうかです。これは理想論ではありません。神が私たちに聖書をこれほど詳しく教えて下さるのは、神が私たちをどれほど重視しているかということの現われです。極端に言えば、数十人でも数百人でもいいのです。本当に聖書信仰に徹底すればいいのです。腹の底から、聖書の権化になってもらいたいのです。

日出る国の天使は、イスラエルの額に生ける神の御名を印すべき責任を持っているのですから、その責任に耐える者にならなければいけない。神がそのように仕向けているので、そう考えなければいけないのです。

レメクはアダムから見て七代目、カインから見て六代目です。アダムから見ると文明の終末を意味するのです。人間の世代の盈満を意味するのです。カインから見ると、カインの肉性の盈満性を意味するのです。これがレメクです。人間歴史の終末において、罪人の歴史の終末においても、結局行き着くところはレメクしかないのです。人間文明はレメクで終わってしまう。これが神の予告です。

その時には、約束の民はほとんどいません。約束の民という自信を持っている者は、ほとんどいないのです。ユダヤ人は割礼を実行していますが、割礼の本義がほとんど考えられていません。ただの儀式になっているのです。神がアブラハムに割礼を命じたのは、儀式ではありません。霊的状態の本質、本性を示すために、神がアブラハムに命じたのです。

男の陽の皮は、人間存在が持つ所の肉の命を示しているのです。肉の命の皮を切ってしまわなければ、約束の民の意味を持たないのです。肉の思いを解脱すること、人間自身が人間そのものをアウフヘーベンするのです。この考えが割礼に現われているのです。皮を切らずに神を信じても、何にもならないのです。

今のユダヤ人は割礼の意味を全然理解していません。これは皮を切らないのと同じことになるのです。皮を切るというのは、肉的に存在する人間そのものを、人間が否定することです。異邦人が聖霊を受けれると、そうなるのです。割礼をしたのと同じようになるのです。

私たちは世間並みのキリスト教の集団ではありません。神の国の到来のため、イスラエルに神の御名を印すための、特選のグループです。ユダヤ人が選民であるなら、私たちは特選の民です。新約の光をそのままこの身に受けて、キリストの復活を証するための証人であるべきです。

復活の証をするのは、預言の霊を受けているグループです。「イエスの証は預言の霊である」(ヨハネの黙示録19・10)。この言葉は私たちにおいて証されるべきです。

イエスの証人でありたいと思う人は、そういう願いを持つべきです。そういう願いを持てば、神は預言の霊を与えるに決まっているのです。極めて素朴な感覚で、そういう気持ちが持てるかどうかだけなのです。

人間文明が全く目的を持たないのです。持たないだけでなく、レメクにおいて象徴されるように、レメク自身が驕りに驕っているのです。誇りに誇っているのです。轟然と胸をはって、やれるものならやってみよと、神に闘いを挑むような態度をしている。

カインに手向かう者は七倍の罰を受けるが、わしに手向かう者は七十七倍の罰を受けると言い切っているのです。

神に向かって堂々と挑戦しているのです。これが現代文明が取っている向こう見ずな態度です。これを敢えてひけらかしている。これがノーベル委員会の思想です。

ユダヤ人はノーベル委員会の学問的思想によって、全世界を指導できると考えているのです。ノーベル委員会の決定こそは、全世界の文明の本質を支持するものである。ノーベル委員会が世界の学会を指導すると考えているのです。

なるほど、現在は学問によって政治が行われています。大学出の人々が政治、経済を行っています。従って、ノーベル委員会の感覚によって、現代文明の全体が支配されていると言ってもいいのです。政治家が良いか悪いかの決定も、ノーベル委員会のペースでなされているのです。ノーベル委員会の意気揚々たる態度が、これを示しているのです。

ユダヤ人が自らヘレニズムの思想を掲げて、啓蒙主義の名によって、人権主義を主張しているのです。教育を普及させるという言い方によって、個人主義、人権主義を強調しているのであって、それがそのままレメクの根性なのです。

やがてレメクの根性は、完全に人間文明を行き詰まらせることになるのです。レメクは二人の妻を娶っていますが、アダという妻からはヤバルという子供が生まれている。彼らは天幕に住んで家畜を飼う者の先祖になった。羊や牛さえ飼っていれば、着るものと食べるものは何とかなるのです。家畜を飼うものというのは、着るものと食べるものの祖先となるという意味です。

弟のユバルは琴や笛をふく人々の先祖となったとあります。琴や笛は何を意味するのかと言いますと、第三次産業全体を意味しているのです。

預言書には、末の時代には多くの者が行き渡るとあります。これは旅行を意味するのです。世界中の人間が、あちらこちら旅行をするのです。これを旧約聖書は預言しているのです。

現代では第三次産業が花を開いているのです。笛を吹いたり琴を奏でるのは芸術を意味するのかと言いますと、そうではありません。芸能を意味するのです。人間が享楽主義、歓楽主義に走って、旅行ばかりをするというのが、現代の風潮です。

もう一人の妻チラはトバルカインを生んでいます。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となっているのですが、これは軍事産業全体を指しているのです。

現代の末の時代において、文明が何を産んだのかと言いますと、まず食べて着ること、そして、第三次産業的によって、大いに遊ぶこと、そして、戦争をすることの三つです。文明はこの三つしか産んでいないのです。これ以外に何もないのです。

学理学説と大げさに言いますが、学という価値はないのです。学とは何か。人間の本性に対して光を与えるものが、本当の学です。人間の本質的な存在に対して目を開くこと、命の光を求める方向を与えることが、現代文明には全くありません。従って、学と言えるものはないのです。

神を学ぶこと、命を学ぶことが全滅しているのです。この状態が最も顕著に現われているのがレメクの時代です。カインを殺す者が七倍なら、レメクを殺す者は七十七倍であると、胸をはって広言しているのです。

初代の文明より、中世の文明よりも、現代文明こそは黄金の時代であって、これしかないと堂々と言っているのです。我々は地球でこれだけのことをしたのだというのが、レメクの傲然たる態度です。これを偽キリストと言わずに何と言ったらいいのでしょうか。私たちはこういう時代に生きていることを、よく考えて頂きたいのです。

カインに対する神の言い分は、罪が角口に伏しているから、おまえは罪を治めなければならないと言っているのです。罪を治めなければならないのが、カインの末裔の仕事だと言っているのです。

今の人間は何をしているのか。教育は何をしているのか。政治、経済は何をしているのか。ただ罪とつき合っているだけです。今の学問、道徳、伝統は何をしているのか。ただ罪とつき合うだけではなくて、罪に餌を与えているのです。罪が極端な形になると人間が滅びるから、極端な形にならないように罪をなだめ、罪を養い、罪を奉っているのです。罪が出過ぎると頭を叩くことはありますが、罪と相撲をとっているのです。

罪と相撲をとることが人間の歴史です。これ以外のことはしていないのです。政治も経済も、法律、学問も、人間がしていることは皆罪とつき合っているのです。人間文明は罪とつき合っているだけです。国家も家庭も、学校へ行く目的も、事業を経営する目的も、罪とつき合うことばかりです。それ以外に仕事はないのです。

罪を撲滅することはできません。まあまあと言って、罪をなだめているのです。そればかりをしているのです。

カインの末裔は罪に奉公しているのです。罪を奉り、罪にサービスしているのです。これ以外に現代文明の目的はありません。現在の人間世界は何のためにあるのかと言いますと、人間の罪とつき合うためにあるのです。罪をなくすためではない。罪を飼い馴らすためにあるのです。角口に伏している犬に餌をやるように、罪を飼い馴らしているのです。これが文明の正体です。

罪はだんだん太っていくのです。人間が欲望を満足すればするほど、罪は太っていくのです。「人間の幸福は欲望の満足である」と、レーニンは言っています。この思想は罪を飼い馴らす思想です。人間はこればかりをしているのです。

創世記の第四章は、人間文明の本質をずばっと言っているのです。カインのやり方、カインの思想がそのまま人間の道徳主義、宗教主義になっているのです。人間は神を恐れているようで神を崇めたい。神から切り離されるのが辛いのです。

ところが、レメクは堂々としています。カインでさえも七倍なら、レメクは七十七倍だと、堂々と居直っているのです。ここに、人間文明の粗雑さ、無意味さがあるのです。

神は創世記の四章で、人間の歴史が終わるまでの間、キリストが再臨するまでの六千年を簡潔明瞭に書いているのです。三章までは前世のできごとです。三章の続きが四章ですが、四章は本当の歴史の展開にはなっていません。セツ以後がノアの祖先になりますが、カインはノアの祖先ではないのです。

四章は人間の六千年に対する神の予告です。これが世界の宗教学者に全然分かっていないのです。レメクがどういう人物なのか、全然分かっていません。

レメクに反抗するということは、文明に反抗することです。これをする人はめったにいません。学校教育に反対する先生はいました。だいぶ前に亡くなられた奈良女子大の岡潔教授は、知性の教育をやりすぎると、情操がだめになると言っていました。

情緒が少々だめになってもいいのですが、情操がだめになると、どうしようもないのです。情操は人間の命、神、真理に対する基本的な考えです。情緒というのは、音楽の聞き方、詩の読み方、絵画の鑑賞の仕方です。情操の方が上です。音楽の聞き方、絵画の鑑賞くらいは少々下手でも構いません。情操がしっかりしていたらいいのです。

情操がしっかりしていて、霊魂の問題について理解があればいいのです。緒緒はあった方がいいという程度のものですが、情操はなければならないのです。現代文明の欠陥を見るためには、情操がどうしてもいるのです。現代人には情操の根源が枯渇しているのです。だから、自分自身の肉の思いに勝てないのです。自分の肉と喧嘩することができないのです。

四章の内容は具体的預言ではありません。人間歴史の流れに対する神の予告ですから、正確な記述ではありません。

レメクの思想の特長は、カインから出てきているのです。カインの思想がレメクにおいて実を結んでいるのです。二十三節を読むと、レメクはアダとチラに対して演説しています。「妻たちよ、私の言葉に耳を傾けよ」と言っています。これは全人類に対する偽キリストの呼びかけです。

ユダヤ人は現在レメクの位置に立っています。全世界の人間を自分の妻にしているつもりです。ユダヤ人たちは、ヘブライズムを捨てて、文芸復興を唱えた時、モーセにこだわるという考えを捨てた時から、全世界のリーダーシップを取り出したのです。全世界の指導性を身につけたつもりでいるのです。これがルネッサンスです。

そこで、ユダヤ人は言います。人間文明は神の旧約聖書、新約聖書によって脅かされるものではない。この言い方は二十三節の後半に出ています。私は受けた傷のために人を殺したとあります。これは旧約時代の預言者を殺したことです。人間文明が旧約時代の預言者を殺した。ユダヤ人が殺したのではないと言っているのです。これはどういうことか。

受けた傷のために、人間の文明思想、社会思想が預言者を殺したのです。受けた傷とは何か。人間文明の思想は、神の預言によって傷を受けたのです。イザヤやエゼキエルは痛烈な預言をしました。アモスは「神殿を白く塗りたる墓に豚のような女が寝ている」と、ユダヤ人をぼろくそに言ったのです。ユダヤ人は文明の代表者であって、ユダヤ人が殺したのは、文明が殺したと言っているのです。

その次に、受ける打ち傷のために、若者を殺すと言っているのです。ユダヤ人は打たれて半死半生になった。これがイエスの十字架です。文明を半殺しにしたのは十字架です。傷を負わしたのは、ナザレのイエスです。

ナザレのイエスが、文明を徹底的に完膚無きまでに叩いたのです。それに対して、私は若者を殺したと堂々と言っているのです。三十三才のイエス、若者のイエスを十字架につけたのです。文明は意気揚々として、神に宣言しているのです。現代の人間文明にとって一番邪魔になるのは、旧約聖書と新約聖書です。これが一番嫌なのです。これがなければ、文明はもっとふんぞりかえって、威張っていられるのです。

キリスト教は何でもない。キリスト教は文明の弟子ですが、聖書はそうではない。聖書は神の言葉であって、これが正確に説き明かされると、レメクが困るのです。従って、私たちはレメクにとって最大の敵になるのです。

カインは、「あなたは、今日、私を地の表から追放されました。私はあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。私を見つける人は誰でも私を殺すでしょう」(創世記4・14)と失望しているのですが、これに対して神は次のようにしているのです。

「カインを見つける者が、誰でも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つの印をつけられた。そして、カインを殺す者は七倍の罰を神が与える」と言っているのです(同4・15)。

神がなぜこう言ったのかと言いますと、カインは罪人です。罪人がこの世に偉そうな顔をして生きている資格はありませんが、しかし、エデンの東であるこの地は、罪人が住むべき国です。罪人が住む国にカインがいても、殺すことはできないのです。

この世というのは、へびの言葉を信じて悪魔と妥協した人間を入れる所です。この世はカインを入れなければならないし、カインを殺してはいけないのです。なぜなら、カインの末裔から、神を信じる者が出てくる可能性があるからです。私たちはカインの末裔です。しかし、悪魔を否定して神を信じているのです。カインを殺すのは神の処置であって、人間がカインに刑罰を与えてはいけないのです。

現世は罪人の世界ですから、現世に罪人が住んでいるのは当たり前です。罪人を憎んではいけない。罪を憎まなければいけないのです。

神はカインに、一つの印を与えると言っている。これは何かというと、カインに理性を与えたのです。この時代の人類はホモ・ファーベルであって、理性を持っていない人間だけがいたのです。ホモ・ファーベルは理性を持たない人間です。従って、理性を持っている者は、理性を持たない人間を簡単に押さえることができるのです。

おまえは罪人の子であるけれど、理性を与えると神がカインに言ったのです。理性を与えられたカインは、嫁さんをもらって町長になっているのです。殺されるどころか、人々の長になっているのです。

ユダヤ人がイエス・キリストを殺してから、神がユダヤ人を全世界に追いやった。そこで、ユダヤ人は王になっているのです。神がアブラハムに、「私はあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起こそう。また、王たちもあなたから出るであろう」と言われたのです(同17・6)。世界の王は全部ユダヤ系です。これは神の預言のとおりになっているのです。

約束をもらったユダヤ人と、理性をもらったカインは、同じようなあり方になっているのです。古代社会、未開時代の理性は、それ以後における約束を与えられた選民と、同じ価値を持っているのです。

絢爛豪華な文明を見ると、人間の歴史には大きい価値があると思えるのですが、創世記の四章で、その内容をはっきり示しているのです。カインの思想が文明の本性であることを、神がはっきり定義しているのです。

人間文明は目的を持っていないのです。カインもレメクも目的を持っていません。レメクは自分は偉い、自分に反抗する者は七十七倍の罰を受けると威張っていますけれど、レメクは人間に目的を与えることができなかったのです。理想を与えることができなかったのです。

ユダヤ主義は目的を持っていない主義です。ただ文明という形だけを与えている。民主主義は何を目的にしているのかというと、目的がないのです。民主主義は目的を持たない政治思想です。民主主義は民主主義そのものが目的です。民主主義は生活することが目的です。民主的に生活して、その結果どこへ行くのか。それを一切言ってはいけないのです。それを尋ねてはいけないのです。

だから、今の学校で生徒が先生に、この学校の目的は何かと質問してはいけないのです。大学生が教授に、そういう質問をしてはいけないのです。そういう質問をすることを禁じているのです。

民主政治は民主そのものが目的です。民主の他に目的を持っていない。これが民主政治、民主主義です。文明は目的を持っていない。政治も学問も教育も、目的を持っていない。目的を持っていないのが、カインのていたらくであることを、よく承知して頂きたいのです。

人間生活にどういう目的があるのでしょうか。現世の生活を送ることだけが目的です。それ以外に、理想も希望もないのです。現世の生活がばかばかしいものであることは、皆良く知っているのです。知っていながら、自分の生活に目的を持とうとしない。目標を立てようとしないのです。これが現代文明の特長です。

カインは罪を犯したので、神は「あなたが土地を耕しても、土地はもはやあなたのために実を結びません」と言っています(同4・12)。

罪を犯した人間は、現実生活で目的を持つことができない。人間はこの世に生きていても、実を結ぶことができないのです。人間がこの世に生きている生活に、目的を立てることができないからです。

目的を立ててもだめです。人間自身が罪を犯していますから、罪を犯したままの人間がこの世に生きていても、目的を持つことができないのです。だから、土はおまえのために、実を結ばないと言っているのです。地球は人間の住み処として与えられてはいるけれど、地球に住んでいることについて、何かの目的を持つことができないと言っているのです。

古代社会、中世社会では、人間存在に何らかの理屈をつける余地があったのです。六代目のレメクの時代になってからは、人間の中にある能力性、可能性がだめになった。人間の中にある希望性がなくなった。これが近代文明、現代文明です。

人権思想によって人間自身が人間の発育、完成をストップしてしまった。これがレメクの思想です。レメクが正面に頑張って、文明にのってしまうと、文明はそれ以上どうにもならなくなるのです。レメクの人格が、人間文明を牛耳ってしまったからです。

現代人はレメクの思想に圧倒されているので、自分自身を脱ぎ捨てるという決心がなければ、レメクに反抗することはできません。自分自身を投げ捨てる。古き人を脱ぎ捨てることができれば、レメクと喧嘩できるのです。古き人を脱ぎ捨てなければ、レメクと喧嘩することはできません。レメクに反抗できなければ、聖書に従うことはできません。

創世記四章の記述は、人間社会の中から聖書を軽んじて、神を踏みつけて、自ら自分で自分の肉性を誇るような思想がはっきり現われるということを、神が予告しているのです。レメクである偽キリストの人格を説明するために、カインの実例をひいて、神が説明しているのです。これが四章の記述の目的です。

カインの末裔から偽キリストが出る。ユダヤ人が知らず知らずのうちに、そのようなテクニックに引っかかってしまう。自ら肉のキリストを自分で造って、自分自身の城に立てこもろうとする傾向が出てくることを、神が預言しているのです。

近代文明、現代文明は私たちが認めても認めなくても、レメクの状態になっているのです。レメクの文明の出現によって、人間はまともに聖書が読めなくなっているのです。レメクに反抗することが不可能になっているからです。

今の文明はそういう文明です。ですから、現代のレメクの文明の真ん中で、このような事が堂々と言えるということは、世界には全くない極めて恵まれた状態に、私たちが置かれていることを示しているのです。日本の社会でなければ、こういう光は現われてこないでしょう。ところが、日本の社会でこういう光が現われても、誰も感心しません。全然反応がありません。こういう無関心な社会ですから、神が遠慮しないで、聖書の真理を掲示しているのです。

神が聖書の真理を掲示していますけれど、日本の社会がそれを認めることは難しいのです。もし、私たちの福音が韓国社会で開かれたら、たちまち大反響が生じ、私たちは大先生になるでしょう。その代わりに福音がだめになるのです。こういうジレンマがあるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:6回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

人間は今の自分の命が死ぬに決まっていることが、よく分かっているのです。よく分かっていながら、それをやめることができない。これを原罪というのです。原罪とは何かと言いますと、生まれる前に犯した罪のことです。 アダムがエデンの園でへびの言葉を鵜呑みにした。サーペントというへびに引っ掛かったのです。サーペントの思想がそのまま肉の思いの原点になっています。皆様は好むと好まざるとに係わらず、生まれる前に肉の思

しあわせ

自分自身の存在が無意味であり、無価値であることを確認して、身を引くという考えが日本にあります。私さえ身を引けば、それで四方八方が円満に収まるという考えです。これは一種の自慰行為です。自分自身が犠牲になることによって、誰かを幸福にしてあげようとか、ある事を円満に収めてあげようという、母性愛的な、動物愛みたいな考え方です。そうして身を引こうと考えるのです。 その時の気持ちが全然嘘という訳でもないのです

bottom of page