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  • 管理人chaya

主体的と客体的


絶対ということが皆様のものになったら、とても口では言い現わせないような事になるのです。現在、キリストが座っている位に座ることが許されるのです。ところが、これをする人がめったにいないのです。

現実を受け止めることができるのは、人の子しかいないのです。現実が常であって、常の他にとこしえはないのです。これが分かればいいのです。原理や原則は簡単なものです。ところが、それが自分のものにはならないのです。分からないのは、皆様が人の子になっていないからです。人間だから分からないのです。

神は福音を霊魂に宛てているのであって、人間に宛ててはいないのです。人間は例外なく悪魔の子です。現実の肉の思いが焼きついているのです。悪魔の子でなかったら焼きつかないのです。

皆様が求めているのは何かと言いますと、皆様の父の欲を求めているのであって、悪魔は人間の中にもぐり込んで、あわよくば自分が天国へ入ろうとしているのです。この考えをなぜ見破って突破できないかということです。

イエスが主であることを、口で言い現わしていないからです。もう一つは、神が死人のうちからイエスを甦らせたことを信じていないからです。「自分の口で、イエスは主であることを告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスを甦らせたと信じるなら、あなたは救われる」と書いてあるとおりです(ローマ人への手紙10・9)。この両方をしていない。そこで、自分が生きていることになるのです。

皆様は食べていることを通して、神と交わっているのです。ところが、これが分からない。皆様は自分が生きていると思っていることによって、いつでも重荷がかかっているはずです。仕事のこと、家庭のこと、自分の霊長のこととか、何かが気にかかっているはずです。

ですから、自分が生きていると思うことは、皆様自身にとって、大変迷惑なことです。自分が被害妄想を受けているから、得しようと思うのです。現在、得しているのに、もっともっと得しようと考える。現在得していることが分かっていれば、さらに得しようと考える必要はないのです。こういう根本的な欠点を理解しなければいけないのです。

自分を捨ててしまう喜びを自分で経験しない人は、どうしてもだめです。自分を捨てる喜びを経験している人は、聖書のすばらしさが分かるのです。自分は初めからいないのです。初めからいないから、捨てるも捨てないもないのです。捨てるも捨てないもないのに、捨てようとしない。だから、イエスが主であるとなかなか言えないのです。

心で信じて義とされて、口で言い現わして救われる。九節では口で言い現わす方を先に書いている。復活を信じる方を後に書いているのです。十節では復活を信じる方を先に書いて、口で言い現わす方を後に書いている。どちらも同じことです。

イエスが主であると口で言い現わすというのは、どうも女性に対してではないようです。パウロ自身がユダヤ人でありまして、男ばかりに物をいう習慣がついているのです。ローマ人への手紙では男に対して書いているとは言っていませんが、手紙に出ている語法は、また語気から考えますと、女性に対する手紙とは受け取れないのです。

女性は自我がありますが、本質的に男ほど強くはないのです。女性は女性であるというコンプレックスを初めから持っているのです。ノーペニスコンプレックスを持っているのです。持っていないから求めようとするのですけれど、本質的には何もできないのです。ノーペニスの無力性を持っているから、王子様を求めざるを得ないのです。

これは陥罪後の状態ですけれど、幸か不幸か、罪を犯すきっかけを女が造ったので、苦しんで子を産むということを押しつけられたのですが、それでもなお夫を慕わなければならないのです。これは女性にとって非常に重いお仕置きになっています。だから、女性は男ほど自我が強くないという認識になるのです。

男はちりだからちりに帰るべきであると言っていますが、女には言っていません。ところが、男はちりに帰ろうとしないのです。女は骨の骨です。男はただの骨です。女は男の中に帰らなければならないという気持ちは持っています。女であることがそういう必然性になっているのです。

女の場合は楽です。自我意識に立てこもろうという度合いが、男より低いのです。だから、女は平明な感覚になりやすいのです。一般的な言い方をしますと、女性の方が求めやすいのです。男は自分自身で求めようとしない。自分の欲望の対象を求めようとはしますが、自分の人格がどこへ入ればいいのかということを考えもしないのです。女を自分の中へ入れなければならないということも分かっていないのです。従って、自分がどこかに入らなければならないということも知らないのです。

ちりということの意味が分からない。人間がいると思っているのです。人間存在とは何か。聖書を冷静に読んでみると分かるのですが、神は人間を全然造っていないのです。人間はどこまでも悪魔の子です。神は人の子よ帰れと言っています。神が造ったのは人の子です。人の子は人間とは全然違うのです。

皆様が人間をやめるという気持ちが分からない以上は、ローマ人への手紙十章十一節は分からないでしょう。理屈では分かります。それは文化論的に分かるということです。文化論的に分かるのと、魂の悟りとして分かるのとでは、全然違います。これが人間の文明文化の欠点です。

私たちは人間文明の欠点を乗り越えてしまわなければいけないのです。人に福音を伝える場合には、文化論的なペースを必要とする場合がありますが、霊魂には必要がありません。

例えば、私たちが花を見るとします。耳で聞いているとします。これを哲学的に言いますと、純粋経験と言います。ところが、その意味が分かっていない。これはどこまでも霊魂の経験です。霊魂の経験と人間の論理的認識とは違います。霊魂の経験が論理的認識になるような経験をしなければ、イエスが主であると言い現わすことができないのです。

花を見て美しいと感じるとか、料理を食べておいしいと感じるのは、純粋経験であって、人間の経験とは違うのです。これを人間は認識することができない。これが魂が死んでいることになるのです。女の人にこれが分からないのは、男性の中に入っていないからです。

イエスが主であると口で言い現わすのです。イエスが死人のうちから甦ったことを心で信じることができなければいけないのです。神が私たちに、これをさせようとしているのです。

「日出ずる所から生ける神の印を持つ天使が上ってくる」と聖書に書いているのです(ヨハネの黙示録7・2)。神がこれをヨハネに書かせたのです。神が書かせた以上、実現しなければいけないのです。

イエスを主とする自分とは何か。イエスを言い現わす自分ではない自分がいるのです。口でイエスが主であると言い現わす時の自分は、神がその魂に与えた正常な人格を伴った自分です。

自主的に生きている自分と、自主的に生きていない経験の主体になっている自分とがあるのです。経験の主になっている自分は、自主的な自分とは関係がないのです。経験するというのは、主体がいるのです。経験の主体がなければ、経験はできません。従って、経験している本人は、経験者としての主体性を持っていなければならないのです。これは自分と言えるのです。自分と言っても主我的な自分ではないのです。神に生かされている自分です。どこまでも客体性のものです。

生きている以上、神を経験しなければならない責任があるのです。神に生かされているということをスムーズに無理なく経験すれば、自分の口でイエスが主であると言い現わさなければならないのです。

皆様は霊魂として生きているのです。魂として生きているのですから、生かされている事実に目をつければいいだけのことです。生かされているという事実さえ見れば、イエスが主であると告白できるに決まっているのです。神は過大な要求をしているのではありません。正当な要求をしているのです。その正当さは、過大を意味しないのです。厳格すぎることはありません。神はまかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であるというのではないのです。まいている所から刈っているのです。

皆様が正当に正常に自分の立場を認めているのなら、自分の口でイエスが主であるというに決まっているのです。聖書に書いてあることを、そのまま言ってもだめです。本人の霊魂の受け止め方として、神に証しなければならないのです。人に証するのではなくて、神に証するのです。神に証できなければ、神はその人の信仰を認めないのです。

パウロは次のように述べています。

「しかし、信仰による義は、こう言っている。『あなたは心のうちで、誰が天に上るであろうかと言うな』。それはキリストを引き降ろすことである。また、『誰が底知れぬ所に下るであろうかと言うな』。それはキリストを死人の中から引き上げることである。

では、何と言ってるのか。『言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある』。この言葉とは、私たちが述べ伝えている信仰の言葉である」(同10・6~8)。

イエスが主であるという言葉は、信仰の言葉です。信仰の言葉は、言葉が開かれた人間でないと分からないのです。信仰による義という言葉が分からないのです。信仰の義というのは、私たちが神に生かされている義をいうのです。信仰は客体性の当体を言っているのであって、自分自身が生きていることを、客観的に見ればいいだけのことです。難しくはないのです。女性にはそれがすぐに分からないのです。

遣わされたというのは、二つの意味があるのです。一つはイエスをさすのです。それから、あなたがたの間にあなたがたが知らない人が立っているのですが、これが遣わされたものです。私たちは神に遣わされたのです。私たち自身の霊魂が、遣わされたのです。

男性は客体性に見ることがなかなかできないのですが、女性はこれをしたことがある。ここに女性の可能性と有難さがあるのです。

女性は男性が客観的に存在していることに欠陥があることを知っている。男性はハートがないから分からないのです。男性は自分の欠陥が分からないです。ハートはマインドで誤魔化されている。そこで困るのです。

なぜ自分が分からなければならないと思うのでしょうか。自分が分かる必要はないし、自分が救われる必要もないのです。自分が動物的に生きていると、六日目の創造になるのです。そうして、神のかたちのように造られたということを認識すればいいのです。

ところが、自分が生きているという気持ちを持ったままでは、神のかたちのように造られた自分が分かりません。そこで、体が疲れた時に、これは自分ではないと思ったらいいのです。そうすると、弱っている状態から抜け出してしまうことができるのです。これが信奉の工夫です。

とにかく、自分のマインドによって自分の存在の当体を変えてしまうのです。存在の当体を変質してしまうのです。これがマインドの驚くべき働きです。周波数の転換です。これができなければ絶対に携挙(けいきょ)されません。ああしなければいけないとか、こうしなければいけないとか、掟的に考えてはいけない。アバ父よと呼ぶ子としての霊を受けたらいいのです。

自分と神が親子関係であって、モーセは律法による義人は生きると言っています。これが人間です。モーセは律法によって生きることもありうると言っているのです。これはかろうじて千年王国の民になりうる状態です。

掟の義によって生きる人は、自分が生きていると思っているのです。自分という人間がいることを、主体的に見ているのです。自分が働いている。自分が聖書を勉強していると思っているのです。

そうではないのです。自分が生きているのではない。生きていることが自分という格好になっているのです。これを信仰の義というのです。掟の義というのは、人間が義とされることをいうのです。神が義とされれば、自分は勝手に義とされるのです。人間が神を義とするから、神に義とされるのです。

神を義とする。神が偉いと思ったらいいのです。自分が救われると思う必要はないのです。自分が救われたいと思うのではなくて、神がすばらしいと思ったらいいのです。これをアバ父よと呼ぶ子たる霊というのです。

生かされているという事実が、自分という格好で現われているだけであって、どこまでも、自分は客体性のものです。自分が客体であるということが分かれば、死なないのです。純粋経験をしていけるのです。

目で花を見ていることが、純粋経験です。その中へ入っていけるのです。人間の五官の機能は、人の中で純粋に、客体的に働いています。だから、目で見ると、純粋客観になるのです。自分が見るのではなくて、見せられているのです。生きているのではなくて、生かされているのです。このことさえ分かれば、死なないのです。たったこれだけのことです。

自分が救われなければならないとか、自分が分からなければいけないとかということを、考える必要がないのです。

人格を二つに分けると、物の面と心の面とに分かれるのです。人間は人格を与えられていますから、神と同じ働きではだめです。生理的に働く面と、心理的な面と二つがいるのです。生理的には五官があり、心理的には理性と良心として働くのです。

五官として働く人間性は、十章十八節にあるように、全地に響きわたっている言葉を捉えているのです。物質があるのではない。味があったり、色、形がありますが、全部周波数です。周波数が御座から出ています。これを肉体的に捉えているのです。

もう一方、理性と良心は神に植えられたものですから、神に戻りたいと思うに決まっているのです。人間の目や耳が見たり聞いたりしているのは、五官によって神を捉えているのです。初めからの言を捉えているのです。理性と良心は、無限の真理、最高の善を求めている。これは最高の愛です。人間はそういう働きしかしていないのです。

人格において肉体を持っている。これをイエスというのです。神しか求めようのないイエスの意識を、自分の意識だと思うと、悪魔になってしまうのです。それを神の子の意識と考えて、イエスが水と血とを経験しに来たように、自分も水と血を経験しに来たと考えたらいいのです。

人間が肉体的に生きていることがイエスです。神はイエスしか認めていない。イエスが主であるというのは、これを認めることなのです。

皆様は先天的な生理構造と心理構造を与えられている。そして、生まれる前の世界から、現在の世界へ押し出されたのです。

人間の人格性が魂です。魂が肉体的に生きている状態を、イエスというのです。エホバの御名がそのまま形になって生きている。エホバの現実の受け皿となるために、肉体的に生きている。これをイエスというのです。だから、エホバが救いということが名前になっているのです。

五官が何を求めているのか。人間の人格が何を求めているのかを考えて下さい。エホバばかりを求めているのです。人が生きていることがエホバですから、イエスが主であるというのは当たり前です。イエスが主であると言わない方がおかしいのです。イエスが主であるということが分かれば、死なないのです。イエスはこの世が造られる前に、神と一緒にいた人格です。これが今ここにいるのです。

主体的存在を、客体に切り替えればいいのです。皆様方の現在性は先天性です。先天性がそのまま現在性になっているのです。先天性という時間が、現在的になっているだけです。この世でア・プリオリを生きているのです。肉の世界はどこまでも仮の世界であって、実体ではないのです。これさえ分かればいいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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