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時間はどうしてできたのか


聖書に次のように書いています。

「主なる神は言われた、『見よ、人は我々の一人のようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない』。

そこで、主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎の剣とを置いて、命の木の道を守らせた」(創世記3・22~24)。

この意味がなかなか分かりにくいのです。これは善悪の木の実を食べて、人間が罪人になってしまった後の状態を書いているのです。つまり、人間がこの世に生まれることになった直前の状態です。これは重大なことを言っているのです。

「主なる神は言われた、『見よ、人は我々の一人のようになり、善悪を知る者となった』」とあります。これは褒められているようですが、その反対です。善悪を知る木の実を食べたので、善悪を知る者になった。これは霊界において、神と一緒におられなくなったという意味です。善悪を知るというのは、神だけの特殊な機能です。神以外の者がこれをしますと、必ず死んでしまうのです。行った途端に、死んでしまうのです。

なぜそうなるかと言いますと、神は全能者であって、ありてある者です。ありてあるということは、唯一の絶対を意味するのです。絶対とは最高のことです。絶対の他に最高はありません。

ありてあるということについては、二つの解釈ができます。一つは生まれもせず、造られもせず、ただあるのです。神以外のものは何でも、生まれたか、造られたか、どちらかです。生まれもせず、造られもせず、ただあるというのは、神だけです。ありてあるというのは、その意味が自ら含まれているのです。

日本語でいうありてあるという言葉は、あるからあるという意味になるのです。これは英文ではI am that I am でありまして、I am というのは、私はあるのだと言っているのです。I am というのは、不完全に言い方で、I am a boy とか、I am a girl.  I am a man という目的語がつかなければ文章にはならないのです。

これをヘブル語で言いますと、エイ・エイ・アシュル・エイ・エイという言葉になるのです。エイ・エイというのはあるということですが、ただあることを意味しないのです。あるということが、そのまま永遠に存続すること、また、永遠に存続することを前提にして、エイ・エイ・と言っているのです。永遠に存続する可能性を含んで、エイ・エイと言っているのです。

エイ・エイという言葉は日本語に訳しようがないのです。日本語以外の言葉で、フランス語でもドイツ語でも、ロシア語でも、訳しようがないのです。I am と言わなければしょうがないのです。

永遠に存続することを含んでいるのですが、永遠にあらんとすると言い切ってしまうと、言い過ぎになるのです。あらんとするというのは、英語ではI will be になりますが、I will be と言うと言い過ぎになるのです。結局言い様がないのです。それで、あらんとするよりもあるという意味の方が強いですから、I am that I am. になっているのですが、正確な訳とは言えない面があるのです。

英文のI am that I am は、ありてあるとも訳せないのです。日本人であるとか、男である、女であるというのは、一人称ですから、あるになりますが、I am は自らあることを意味するのです。日本語ではあると訳さなければしょうがないのですが、これは非常に不完全な訳です。

完全な訳ではありませんけれど、そのように訳しておかなければしょうがないので、I am that I am を、私はありてあるものと、日本語で訳しているのです。文語訳では私はあってあるものとなるとおかしいのです。I am にはあってという意味はないのです。後の方のあるはいいのですが、あってあるという訳はおかしいのです。従って、神の正体がさっぱり分からないのです。人間の語法では説明できないものが、エイ・エイ・アッシュル・エイ・エイになっているのです。

この神が言われた。原文ではエホバが言われたとなっているのです。ありてある神が、「人間が我々の一人のようになった」と言っている。これはどういう事かと言いますと、人間がありてあるとなったのとは違うのです。

「見よ」という言葉を使っていますが、これは注意を喚起することで、これはいけないという意味です。これは警戒しなければならないとか、要注意という意味が強く現われているのです。

人間が我々の一人のようになった。これはいけないという言い方です。彼は手を伸べて、命の木からも取って食べて、永久に生きることを考えるだろうと、神は思ったのです。

悪魔は罪を犯したのではない。彼は罪を創造したのです。罪を創造したというのは、善悪を知ることとは違うのです。善悪そのものになってしまった。死そのものになってしまったのです。人間は善悪を知って死ぬと言っていますが、へびが堕落したというのは、死そのものになってしまったのです。へびは手を伸べて、命の木の実を取ることはできないのです。

人間は霊的に死んでいますが、生理的には生きているのです。死を創造したのではないのです。人間は死なされたのです。神の掟を破ったのです、死なねばならなくなったのです。死を創造したのではないのです。

悪魔は死そのものを自分で創造したのですから、悔い改められないのです。従って、手を伸べて命の木の実を取ることができないのです。悪魔は死そのものですから、命の木の実を取ろうと思わないのです。死んでしまったからです。今、皆様は罪人であるという根性を持っていながら、命の木の実を取ろうとしているのです。これがいけないのです。

エデンの園を追放された人間が、その手を伸べて、命の木の実を取ってはいけないのです。皆様は死なねばならない不完全な命を持っていながら、善悪の木の実を毎日三十個も、五十個も食べているのです。男性なら、一日に何百個と食べているでしょう。一つ食べても死ぬに決まっているものを、毎日三百個も五百個も食べているから、大変です。この感覚で聖書の勉強をしているのですから、困ったものです。肉の自分を持ったままで、聖書を勉強することが無理なのです。やってはならないことをしているのです。

ところがある程度、聖書の成り立ちを教えられなければ、命が全く分からないのですから、しょうがないのです。本当は、善悪の木の実を食べている人に、善悪の木の実が大好きな人に、聖書を説いてはいけないのです。罪を犯しているからです。聖書を説いてはいけない人に、聖書を説かなければならないのです。

皆様が今の気持ちで聖書を学ぶということは、善悪を知る状態になって、その汚い手で命の木の実を取ることになるのです。これはしてはいけないことです。触れてはいけない汚い手で、命の木の実に触ろうとしているからです。そういう傾向が皆様にあるのです。

皆様がなぜそうするかと言いますと、死にたくないからです。死にたくないから、必死で命の木の実を取ろうとするのです。ところが、善悪の木の実を食べている状態で、命の木の実を食べてしまいますと、死ななくなるのです。善悪の木の実を食べた人間が、死ななくなってしまうと、悪魔そのものになってしまうのです。死ななくなるというよりも、死ねなくなると言った方がいいのです。死ねなくなるから、永遠に苦しまなければならないことになるのです。

ですから、命の木の実に手を伸べて、その汚い手で命の木の実を食べるとしますと、却って永遠の死に放り込まれることになるのです。命は続きますが、善悪の木の実を食べたままで命が続くのです。

これはとこしえの命とは違います。ただ死ななくなったという事だけです。悪魔はこういう状態になっているのです。悪魔は自ら死を創造したのです。死と悪魔が一つになっているのです。死そのものが、悪魔そのものになってしまったのです。

その状態で命の木の実を食べてしまいますと、絶対に生き返ることはできません。ところが、死ぬこともできません。裁かれるだけの状態になってしまうのです。裁かれるために存在していることになっているのです。それはあまりにも悲惨な状態ですから、神は人間に命の木の実に行けないようにしてしまったのです。

二十四節に、「神は人を追い出した」とあります。エデンの園の東に、ケルビムと回る炎の剣を置いて、命の木の道を守らせたのです。なぜケルビムを置いたのか。ケルビムは命の木の道を守る知天使です。これを詳細に見ていきますと、興味津々たるものがあるのです。

神は人間を悪魔のようにしたくないのです。悪魔は火の池(地獄)以外に行く所がないのです。彼は自ら火の池になってしまったのです。火の池そのものになってしまったのです。彼は火の池で絶対に救われない状態で苦しみを受けることが、悪魔の状態です。

人間は悪魔と違います。火の池へ放り込まれて苦しみますが、自分の業(ごう)が果てるまで苦しみ続けるのです。本当に業が果てると神に帰ることになるのです。何万年かかるか、何億年かかるか分かりません。人によって違いますが、永久に火の池から出られないのではないのです。自分の業を果たしてしまうと、火の池にいることができなくなるのです。そうして、追い出される。結局神の元へ帰ることになるのです。

神の元へ帰っても、救われた者として待遇を受けるのではない。火の池でさんざん苦しんで、業を果たすことができた者は、奴隷として神の国に入ることになるのです。奴隷として入ることができた人は、神の国に入る資格があって入ったのではないのです。神の国に入っても、火の池の続きのような状態になるのです。

悪魔は火の池の本質ですから、神の国へ絶対に入れません。皆様が仮に間違って火の池へ行ったとしますと、初めて悪魔の正体が分かるのです。

悪魔は自ら死を創造した。自ら火の池の炎になっているのです。神は人間がそうならないようにと考えた。善悪の木の実を食べたので、命の木の実を取れないようにと考えたのです。そこで、ケルビムという知天使と回る炎の剣を置いて、自我意識、現象意識という肉の思いを持つものを完全に遮断したのです。

「人が我々の一人のようになった」という妙な言葉がありますが、これはどういう事か、重大な意味があるのです。神はありてあるものです。生まれもせず、造られもせず、天然にあるものです。神がありてあるものという意味は、おのずからあることを意味するのです。おのずからあるということは、私たちが今考えているあるということとは違うのです。私たちが見ているあるというのは、生まれたか、造られたかを見て、そこに何かがあると考えているのです。

ありてあるというのは、おのずからのことです。おのずからという言葉の説明が、人間には正確にできません。おのずからと言われたら、その意味は分かりますが、説明ができないのです。ごく自然にとか、天然にとかということ位なら言えますけれど、これは形容詞的な言い方であって、本質的な解説にはなっていないのです。

おのずからというのはおのずからです。おのずからは人間の理性よりも大きいものです。だから、人間の理性の範囲では、おのずからの説明は完全にはできないのです。形容することくらいはできますが、完全に解説できないのです。これが神です。

神があるとはどういう事かと言いますと、説明ができない状態であるのです。これをありてあるというのです。

神は善悪を考えても大丈夫です。なぜ大丈夫かと言いますと、神の本質はおのずからですから、おのずからの人格が善悪を考えても、その本質を永遠の立場から判断できるのです。おのずからという永遠の立場から判断できるのです。

ところが、人間は善悪の木の実を食べたために、肉になってしまったのです。肉の思いを持ってしまったのです。肉の思いを持ってしまった人間が善悪を考えると、悪魔と同じことしか考えられないのです。そこで、我々の一人のようになってしまったというのは有難いようですが、全然有難くないのです。

神と同じように善悪を考えるようになった。善悪を考えるという点では同じですが、神はおのずからです。人間は死んでしまったのです。肉になったのです。肉の立場からおのずからを考えると、間違っているに決まっているのです。

困ったことに皆様は、肉の立場、人間の立場で善悪を考えるのは名人です。それも熟練しているのです。やってはいけないのに、朝から晩まで善悪を考えずにいられないから困ったものです。

利害とは何か。人間の立場から考えて、善であることが利です。害は自分の立場から考えて、悪であることが害です。これがいけないのです。自分の立場から利害を考えてはいけないのです。

人間の場合、利害を考えると善悪になってしまうのです。ですから、人間という立場から、死んでしまうという限定された命でしか生きることができない状態になってしまうと、その状態で善悪を考えてはいけないのです。これをしたら、いよいよ悪くなるのです。善悪を考えることによって、ますます悪くなるのです。皆様はまずこれをやめて頂きたいのです。

人間は現世に追い出されたのです。二十三節にあるように、主なる神は人をエデンの園から追い出したのです。人間はエデンの園から追い出されて、この世に来たのです。この世に生まれてきたということは、エデンの園から追い出されたのです。追放された人間がいる所がこの世です。この世は大きな強制収容所です。前世で神が絶対にしてはいけないと言われたことを破った犯罪者ばかりが送られている刑務所になるのです。この世に出てきたということは、すでに火の池の前段階に置かれているのです。火の池そのものではありませんが、火の池へ到る道へ放り出されたのです。

悪魔(へび)のいうことを聞いて、それに同意した結果、そうなったのです。そうして、肉の人間でありながら、善悪を考え始めたのです。皆様はエデンに置いておくことができないので、エデンの外へ追放されたのです。このことを、骨身にしみて実感して頂きたいのです。

人間は死んでいる状態に置かれているのです。皆様は肉体的には生かされています。肉体的に生かされているということは、霊的には死んでいるのです。従って、この状態で善悪を考えてはいけないのです。肉体的に生きている状態のままで、聖書を勉強して、命の木の実を食べようと考えることは、宇宙の法則に反しているのです。聖書によって禁じられているだけではなくて、宇宙の法則に反しているのです。

宇宙の法則というのは、おのずからの法則です。人間はこれに反しているのです。人間が現在肉体的に生きているということが、宇宙の法則に反しているのです。それを知っていながら、皆様は命の木の実を食べようとしているのです。

ここが聖書の難しい点でありまして、聖書を勉強しなければいけないのですが、この世に生まれてきたままの人間が聖書を勉強してはいけないのです。皆様は聖書がもう一つ分かりにくいと言われます。聖書が分かりにくい原因は、一皮剥いてしまわない状態で聖書を勉強しているからです。皆様の心に割礼が施されていないからです。

人間は肉の命(肉体的な命)を与えられていますが、肉の命は仮の命です。仮に生きているような形を許しているのです。悪魔と同じように扱いたくないので、仮に生きている形を与えられている。これが肉の命です。

生きていながら、霊的には死んでいるのです。肉的には生きているのです。仮の命の状態を許しているのです。手を伸べて、命の木の実を取って食べて、永久に生きているかもしれない。仮に生きている状態、本質的には生きていない状態で、手を伸べて命の木の実を取って食べることになりますと死なないことになりますが、悪魔と同じことになってしまうのです。

死なないというのは有難いようですが、死ねない状態になるのです。そこで、悪魔と同じように、火の池に定着してしまうのです。自分の業を果たすことができなくなってしまうからです。これがかわいそうだから、エデンの園から追い出したのです。

今、現在、皆様方が肉体的に生きているのは、仮の命であって、本当の命ではありません。だから、自我意識が許されているのです。自我意識が許されている状態で、聖書の勉強をすることは間違っているのです。だから、分からないのは当たり前です。自我意識を脱ぎ去ってしまうことが、聖書の勉強をするための基本条件になるのです。

現世とは何か。現世があることは中途半端なものです。皆様の直感で分かるように、地球には限界があります。地球は永遠に存続するものではありません。物理的に存続するものは、永遠に存在する可能性を持っていないのです。物理的に成立しているということは、限定された存在であることを意味しているのです。地球は仮の存在であって、永遠の存在ではありません。

理論物理学は物理の運動を説明しているのです。物理は一つの法則であって、絶対ではないのです。法則が変化すると、物理が変化してしまうのです。第一原子はプロトンが一つ、エレクトロンが一つです。第一原子が消滅すると、恐ろしいことが起きるのです。地球上の水素原子が消えてしまうのです。そうすると、地球は一瞬のうちに消滅してしまいます。

今の地球は、いつそうなるか分からない危険性を秘めているのです。やがて地球はそうなるでしょう。太陽と地球のバランスが破れるとそうなるのです。太陽と地球のバランスが、どうして保たれているのか。なぜ地球と太陽が、現在のバランスにおいて存続しているのか。これが太陽系の謎です。

人間存在の本質が、これを存続させているのです。現在の学問では、これが説明できないのです。現在の学問は極めてレベルが低く、範囲が狭いのです。例えば、紫外線の外側、赤外線の外側の世界が分からないのです。紫外線と赤外線の範囲内のことは分かりますが、赤外線の外、紫外線の外の膨大な世界のことは分からないのです。

人間が生きているのは、紫外線と赤外線の範囲内です。これが虹の契約の世界です。ごくわずかな世界しか許されていない。ところが、人間は皆分かったつもりでいる。これが大間違いです。

肉の思いを解脱しますと、紫外線の外が見えてくるのです。そうすると、前から時間が流れてくることが分かってくるのです。

ある川にカルガモが泳いでいました。かなり流れが早い川ですから、カモは流れに逆らって、一生懸命に泳いでいるのです。カモは進んでいるつもりですが、全く進まずに止まった状態にあるのです。

人間も同じことをしているのです。人間は絶対に進歩しません。ところが、人間は進歩できると考えているのです。人間の学問は汚い手を伸べて、命の木の実をもぎ取ろうとしています。神はそうはさせないのです。

この世に生きている人間は、科学をいくら勉強しても、哲学をいくら勉強しても、命の木の実をつかまえることは絶対にできません。永遠の命、本当の聖書は、命の木の実です。人間がいくら聖書の勉強をしても、命は全く分かりません。これがキリスト教の間違いです。

この世の人間、死ぬことが分かっている人間が、いくら聖書の勉強をしてもだめです。態度を改めて頂きたいのです。本当に聖書を勉強するのでしたら、男性は女性のあり方を学んで頂きたいのです。女性は割合に感度がいいのです。受け入れるという気持ちがいいのです。男性はだめです。自分で何かをしようという気持ちが強すぎるからです。

時間が前から流れてきています。人間はそれに逆らって進んでいるつもりですが、第三者から見れば、全く止まっているのです。先程のカルガモと同じです。人間は同じ所に立ち止まっているのです。

そこで、時間の流れをどう見るか。時間の流れが分かってくると、時間の流れを計算に入れて、泳ぐことができるのです。そうすると、時間の流れの中で生きていながら、前に行くことも、後ろに行くことも自由にできるのです。時間の流れの速度が分かってきますと、時間の本質がどこから来て、どこへ行くのかが分かってくるのです。

今日という日が昨日になるのです。今日という日が昨日になっていく原理です。なぜそうなるのか。これが分かってきますと、命の考え方も変わってくるのです。そうすると、泳ぎ方も変わってくるのです。聖霊を受けると泳ぎ方が変わってくるのです。

宗教は何十年勉強しても、時の流れがなぜあるのか、どこへ流れていくのか絶対に分かりません。分からずに聖書の勉強をしていても、同じ所に立ち止まっているカルガモと同じ状態です。全然前進しないのです。

時間がどこから来て、どこへ行くのかが分かってきますと、時間の流れをマスターすることができるのです。時間を溯ることができるし、戻ることもできるのです。同じ所に停止する必要はないのです。

時の流れとは一体何なのか。地球ができるまで、太陽ができるまで、つまり、太陽系の宇宙ができるまでは、時の流れはなかったのです。そういうものを造る必要がなかったからです。時間は初めからあったのではありません。時間は神ではありません。神はありてあるものです。自ずからあるものです。時間は神ではありませんから、時間はある時に必要があって発生したのです。どうして時間が発生したのか。この説明が学問では全くできませんが、これが命に大関係があるのです。

命の本質は何か。時間の流れの勉強ができないと、命の本質をつかまえることはできません。仏教ではこれができないのです。死んだら極楽へ行くと言いますが、そこはどういう所か、そこで何をするのかという具体的な説明はありません。それはただの譬話でありまして、時間の本質的についての説明は全くありません。

時間の本質が分かると、永遠が分かります。時間の本質が分からない人は、永遠が分からないのです。永遠はだらだらと長いものではない。英語ではエバーラスティング(everlasting )とエターナル(eternal )と、二つの永遠があるのです。日本語では永遠は一種類しかありません。エバーラスティングは永続する永遠を言います。エターナルは瞬間瞬間の連続をいうのです。この両方が分からないといけないのです。

永遠の命をマスターしようと思えば、時間がどうして発生したのか、何のために発生したのかを知らなければいけないのです。

時間があるのは、流れていく先があるということです。地球の時間はどこへ流れていくのか。何の目的で時間が流れているのか。こういうことが分かって初めて、なるほど聖書はそういうものかということが分かるのです。

男の人はもっともっと、単純になって頂きたいのです。女の人は天性的に単純になっているのです。それは女の人が前世で、男の下に造られているからです。男は女の上に立っているから分からないのです。自分は男だと思っています。旦那様だと思っています。これがいけないのです。女は私は女ですものと言っている。女ですものとは半分ひねくれて、半分は謙遜になっている言い方です。これだけ男とは違います。女の人は命に対する感度が違います。これを男性は考えて頂きたいのです。

女は男の下におかれているから、直感的に平明な感覚で命の流れ、現実の宇宙構造の秘密が分かるのです。男はこれが分からないのです。時間があるということは、宇宙構造の秘密です。現在の宇宙が構成されているのは、時間という不思議なものと、空間という奇怪なものとの両方によっているのです。

人間の学理、学説では時間の本質、空間の本質が分からないのです。それで学問、学問と崇めているのですから、学問はばかなものです。皆様は、学理、学説という考え方、文明思想を信じることをやめて頂きたい。レベルが非常に低いものですから、そんなレベルの低いものを信じることをやめて頂きたいのです。

命の勉強は存在の根本から見ていかなければならないのです。太陽系宇宙がどうして存在するのか。これから勉強していかなければならないのです。私の考えは、ただイエスの考えを受け売りしているだけです。イエスの考えを私という格好でお話ししているのです。イエスは時間を逆算したのです。時間のあり方をこなして、見事に逆算してみせたのです。そうして、時間そのものを自分のものとして見せたのです。

イエスの心理状態を客観的に説明すると、このようになるのです。イエスはそういう格好で生きていて、見事に宇宙構造の根本を貫いて、永遠を見ることができたし、神がそれを認定したのです。これが復活です。

神がイエスの考え方を認定したのです。そこでイエスが時間の流れを見事にマスターした。イエスの世界観が間違っていなかった証拠に、復活したのです。復活という格好で神が承認した。私たちはこのイエスに学ぶしか、時間を解明する方法はないのです。イエスがどうして時間をマスターしたのか。彼は時間の源流に溯って行ったのです。普通のカルガモではなかったのです。

皆様もイエスの真似をしたらいいのです。皆様の理性は、時間の流れを溯る脳力を持っているのです。皆様の理性、良心、記憶力、推理判断力を積み重ねていけば、特殊な精神能力を造ることができるのです。

人間の精神能力は時間の下にあるのではなくて、上にあるのです。空間の上にあるのです。私たちが生きている命の上にあるのです。万物が存在しているものよりも、もっと深く大きいものを持っているのです。これが神の御座の回りを飛んでいる四つの生き物です。これは皆様の精神能力ではないのです。

神の御座の精神能力が、皆様の中で推理力になり、判断力になり、記憶力になり、演繹力として働いているのです。これが皆様の精神能力であって、その精神能力が自分のものではないということが分かりますと、本来の力を持つようになってくるのです。そうすると、時間空間を超越して考えることができるようになるのです。永遠が分かってくるのです。

こういうことを勉強するためには、現在生きている気持ちを棚上げにしないとできないのです。自分という気持ちを持ったままでは、こういう勉強はできないのです。これを悔い改めて福音を信じるというのです。今までの常識を持ったままで、聖書の勉強をしてもだめです。このことを分かって頂きたいのです。

時間とは何か、空間とは何か。これは人間の哲学の範囲の問題ではありません。超哲学の問題です。超宗教の問題です。超科学の問題です。人間の理性の限界を超えてお話ししているのです。

神の御座の回りを飛んでいる四つの生き物という不思議な宇宙構造があるのです。この不思議な宇宙構造が皆様の中に働いているのです。なぜかと言いますと、皆様の中に神の御座があるからです。

ヨハネはこれを、バトモスの島で神に黙示されたのです。黙示というのは本人の中に潜在していることを指摘されたということです。本人の中に潜在していなければ、黙示されても分からないのです。

ヨハネが持っていたものを、外に現わして見せられたのです。これが神によって幻の内に示されたのです。天使がこう言った。長老がこう言ったという形で、ヨハネの中にあるものを見せたのです。

皆様の百四十億の脳細胞は、すばらしいものを持っているのです。私がお話ししていることは、皆様の中に秘められている不思議な能力を説明しているのです。皆様は生まれる前に、神と一緒にいたのです。神と一緒にいた時に、神によって驚くべき知恵と知識の内容をインプットされたのです。それを持って生まれてきたのです。

皆様の中に、黙示録の内容があるのです。なければヨハネに黙示録を書かせるはずがないのです。人間の中にないものを、神が書かせるはずがないのです。イエス・キリストも、バトモスのヨハネも、皆様の中にあるのです。それを分からないと勝手に思っているのです。それを本当に理解するためには、自分という人間を滅却することが先決問題になるのです。

虹は不思議なものでありまして、紫外線と赤外線の間の七色を圧縮すると、光になってしまうのです。一つの光が展開すると、七色の世界になるのです。これが物理世界です。電波とか波長の働きが、虹という宇宙構造になって働いている。この中に、サイエンス・ケミカルが内包されている。それが物質になって私たちに感じられるのです。

物質があるのではない。虹があるだけです。光であるか色であるか。液体になったり、気体になったり、固体になったりしていますが、皆同じものです。その働きは虹という一語につきるのです。

虹の働きが物になっている。これがノアの洪水の後に、神が人間に与えられた条件です。人間は虹の契約という条件においてしか生きることができないのです。現在の極めてレベルが低い科学でさえも、虹という気体的な現象において現われた万物を嫌々認めていると言えるでしょう。

色があるのではない。物があるのでもない。エネルギーがあるのです。エネルギーがそういう格好に見えるだけです。いわゆる紫外線から赤外線までの間において、現象世界の万物があるのです。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手に触れるものは、その範囲にあるのです。それ以外のことは一切分かりません。

ところが、紫外線の外、赤外線の外は円形になっていて、膨大に広がっているのです。無限の広がりになっている。現在の肉体人間が把握しているのは、ほんの一部です。人間は虹の契約の範囲内しか知りません。それを学問だと言って威張っているのです。こういう威張り方は、傲慢不遜な考えです。そういう学問、文明を尊重する考えを捨てなければいけないのです。これを捨てることが、悔い改めの一つになるのです。

皆様の脳細胞は、現代学のようなレベルの低いもので満足できるものではありません。

宇宙の初めには時間はありませんでした。虹でさえもなかったのです。太陽系宇宙ができるまでは、時間も空間もなかったのです。漠然とした空間はあったでしょう。それは空間と名づけられるものではないのです。空間という言い方は、空間と名づけられるような実体をさすのであって、大空間というのはあるには違いありませんが、人間が測定できるものではないのです。

何万光年とか、何億光年と言いますが、それはあるには違いありませんが、現世に生きている人間が正確に認識できるものではないのです。認識することができないものでも、説明されると分かるのです。皆様の百四十億の脳細胞の中には、驚くべき宇宙の展開があるのです。

虹の範囲内に拘束されていると、永遠の命が分からないのです。イエス・キリストの復活が分からないのです。イエス・キリストの復活は、虹の範囲の問題とは違うのです。紫外線の外、赤外線の外の問題なのです。これを考えようとすると、人間の能力性の外の問題を考えなければならないのです。これを信仰というのです。

人間が現世に生きているということは、カルガモが流れに逆らって泳いでいる程度のものであって、泳いでいるけれど同じ地点にとどまっているのです。全然進歩していないのです。文明に押し流されて、だんだん後退しているのです。

そこで皆様が永遠の命をつかまえようと思ったら、時間の流れの性質を心得て、時間の流れがどこからくるのか、何のためにくるのか、いつ始まったのかという淵源に溯っていくような能力がいるのです。ただのカルガモではだめです。

悔い改めて福音を信じると、今までの人間の精神能力になかったものが分かるのです。実は永遠が皆様の脳細胞の中にあるのです。赤外線の外があるのです。虹の中でうろうろしている必要がないのです。虹の外に出るだけの能力は、脳細胞にあるのです。しかし、脳波が悪いのです。脳波が現実の命にだけしか働いていないのです。

人間はこの世の中で何をしているのかと言いますと、脳波が脳細胞を刺激しているのです。脳波が脳細胞を刺激して、目を覚まします。これが分かったということです。脳細胞が若干、目を覚ましたのです。未だに目を覚ましていない脳細胞を刺激するのです。

聖書を勉強しますと、脳波のあり方が変わってくるのです。脳波がだんだんイエス・キリストの復活に近づいていくのです。脳波の状態が、人間の脳波ではない状態に変わってしまうのです。これを救いというのです。

現在までに留まっているカルガモの状態をやめてもらいたいのです。これが悔い改めです。自分の今までのペースを捨てるのです。今までの気持ちにとらわれないのです。これをして頂きたいのです。

イエスは生きているうちに、普通の人間が捉えている脳波ではない脳波を捉えることに成功したのです。どうして成功したのかと言いますと、肉体を持っていたイエスが、洗礼を受けたのです。そして、水から上がった時に、彼自身の精神状態によって、今までの脳波の外に出てしまったのです。肉体がない状態になったのです。神から見て肉体がない状態になっていた。それで気に入った、とても気に入った。ああこれだと神が喜んだのです。

イエスの脳波の状態が変わってしまったのです。彼自身の精神能力によって、彼自身の脳波が変わったのです。肉体的に生きていたが、肉体的に生まれていない世界に出てしまったのです。肉の思いから霊の思いに入っていったのです。これは皆様でもできるのです。私はイエスほどではありませんが、その真似をしようと考えているのです。

神の目から見ると、皆様の足は泥んこです。人間は靴を履いていてそれほど汚くないと思っているのですが、神から見ると、泥の世界を歩いているのです。

神はその足を洗えと言っているのです。私は皆様の足を洗ってあげようと考えているのですが、皆様はきれいだから、洗ってもらわなくてもいいと思っているのです。そこで困っているのです。この世で足を洗うことが、神の国へ行く準備行動になるのです。

紫外線から赤外線の範囲内が、現象世界です。物質はすべて電気現象です。光がまずガス体になり、ガス体が液体になる。液体が固体になる。物理構造はすべて虹の範囲の世界です。ところが、皆様の百四十億の脳細胞は、もっと大きい世界を知っているのです。

皆様は元はエデンにいたのです。その時に、神と一緒に住んでいたのです。皆様自身がエデンにいたのです。アダムとは誰か、実はアダムと言っても、山田さんと言っても本質的には同じです。皆様自身がエデンにいたアダムと同じものだということを、まず悟って頂きたいのです。

私がエデンにいたと考えなければ、エデンのことが実体的に分からないのです。私の祖先がいたという考えではだめです。自分がエデンにいたという生々しい実感が必要です。エデンで罪を犯したのは自分です。自分が善悪の木の実を食べたのです。これを認識すると、自分の霊魂の責任が非常に闡明になってくるのです。こういう気持ちを持つことを、悔い改めるというのです。

アダムと自分は何の関係もないと思ったらだめです。一人の人格と、全世界の人間の人格は同じものです。人間的には全世界は一人です。数ではなくて質的には同じです。

皆様の人格は、はっきりエデンの園でへびの言葉を聞いたのです。へびの言葉を聞いて賛成したのが、皆様自身です。現世があるというのは、へびの思想です。へびの言葉によって、現世があると思っているのです。人間はへびの思想によって生きているのです。

アダムの事件を人の事だと思わずに、自分のことだと思って頂きたい。そうすると、分かってくるのです。エデンの出来事が皆様自身の出来事だと考えますと、実感が持てるのです。皆様はエデンにいたほどの優秀な人間です。神の命の息を吹き込まれたのです。ことに男の人は、直接神の息が吹き込まれたのです。

女の人は直接神の命を吹き込まれてはいませんが、すばらしい男性のハートが女性になっていることを認識して頂きたいのです。男性も女性も、エデンにいた時と同じものが今いるのです。エデンも現実も同じです。

神が悔い改めを命令しているのは、当たり前です。今のままで聖書を勉強しようという気持ちが間違っているのです。それは宇宙の法則に反するのです。肉の命で生きているままの状態で、霊の命を捉えようと思うことが、宇宙の原理に反することです。ですから、自分の思いを捨てて頂きたいのです。

時の流れがどうしてできたのかということを、簡単に申し上げておきますと、天使長という人格が罪を犯して、肉の思いで生きるようになった。宇宙に大異変が生じたのです。宇宙になかったあるべかざる事が起きたのです。これが大爆発です。ビッグバーンが発生したのです。

これによって神は太陽系宇宙を造らなければならないことになった。太陽系宇宙は宇宙構造のハプニングです。これはノーマルな状態ではないのです。ノーマルではない状態を、神はどうして造ったのか。大爆発という異変がどうして起こったのか。これは神の命の原理、宇宙構造の原理に異変が起きたからです。これが大爆発になって現われたのです。

どういう異変、支障が起きたのかと言いますと、天使長である悪魔が神から独立して存在するという認識を持ったので、悪魔の認識を逆用することを考えた。悪魔的な人格を自滅させることによって、神自身が完璧無類の神になるように考えたのです。これが神の約束です。

神が約束を考えた時に、宇宙に未来が発生したのです。その時から、時間を計算することができるようになったのです。それから百五十億年経過しているのです。それまでは、時間はなかったのです。時間を計算する必要がなかったからです。ところが、神が目的を持つことによって、宇宙に未来が発生した。これが約束です。その時に時間が発生したのです。

約束は未来を想定しているのです。神が約束を考え始めた時に、未来という不思議なものが宇宙に発生したのです。大体、宇宙に未来はいらないのです。宇宙の本質は無始無終です。宇宙は空間的にも時間的にも、無限無窮です。無限無窮の宇宙には目的がなかったのです。

ところが、神が目的を持ち始めた時に、未来が発生したのです。目的は未来を意味するのです。神が自分自身の内に約束を考えた時に、未来が発生したのです。

神は宇宙構造全体の人格ですから、神の中で考えられた事は、そのまま宇宙の実体になるのです。未来という時間が発生したのは、その時です。それから時間という流れが始まったのです。これが時の流れになっているのです。

そこで、時の流れを溯れば、神の約束という大問題に突き当たることになるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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