聖書の言葉が命であることが分からないのです。「信じる者にはとこしえの命がある」と、イエスが言っていますが、それは言葉が命だからです。人間の霊魂は神の女になっている。神の命の言葉が精子であって、これを受け取っていない者は魂ではないのです。魂は神の精子を受け取ることが絶対必要です。
聖書に次のようにあります。
「あなたがたが新に生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言葉によったのである。人は皆、草のごとく、その栄華は皆草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉はとこしえに残る」(ペテロの第一の手紙1・23、24)。
あなたがたが新に生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種、即ち神の変わることのない生ける御言葉によったのだとあります。朽ちない種を英語ではシード(seed)という単語を使っています。シードとは精子です。これを受けなかったらいけないのです。これが本当のセックスです。
イエスは私の肉は誠の食物、私の血は誠の飲み物と言っていますから、誠の精子もあるのです。こういうことを自分の霊魂で実感できなかったらだめです。これは女性にはよく分かるはずです。
人間の魂は神の精子を受け取るためにあるのです。皆様の魂には森羅万象がインプットされているのです。しかし、皆様の霊魂の中心(性器)に神の精子がインプットされなかったら、全部死んでしまうのです。男性は女性を抱いていながら、これが分からないのです。神ははっきり現わしているのに、人間には分からないのです。
女性の性器とは何か。なぜ男性は女性の性器がたまらなく好きなのか。好きなのに分からないのです。本当に皆様は粗雑な生き方をしていますので、分からないのです。言わなければ分かりませんが、言われても分からないのです。
男性が今持っている命は、朽ちる種からできた命です。人間の精子から生まれた者は、朽ち果てるのです。神の精子から生まれた者は、死なないのです。これが二十三節に書いてあるのです。
皆様は朽ちる種をたくさん持っています。聖書の言葉は朽ちない種ですが、これを受け取ろうとしないのです。男性は徹底的に神の前にへりくだらなければいけないのです。男性は本当の精子を持っていない。性器を持っていないのですから、自分の中にそれを造らなければいけないのです。そのためには女性を食べなければいけないのです。女性を食べなければ、自分の中に性器ができないからです。
セックスはすばらしい奥義ですが、それが何のことか分からないのです。人間は肉体を発見した時に、まず性器を発見したのです。男性は女性の性器が本当に好きですから、なぜ好きなのかということを考えたはずです。男性はなぜ女性に触れたいと思うのか。そういう心理状態をよく考えてみなければいけないのです。これが分からないようでは、生まれてきた値打ちがありません。
女性がいるというのはすばらしいことですが、それを食べないのです。女性がすばらしいことが分かっても、食べてしまわなければ何にもならないのです。女性もまた、自分を男性に食べられてしまわなければ、何にもならないのです。ただ女性として生きていても、火の池へ行くだけです。
人間存在は大変なものです。人間の脳細胞には霊的に七十億と、肉的に七十億、合計百四十億というすばらしいものがインプットされているのです、これが分かれば、ほとんど全知全能の神と同じくらいになるのです。
イエスは肉体を持っていながら、全知全能の神と同じくらいになっていたのです。イエスは神の内で生きるのは、当たり前だと思っていた。皆様は肉で生きているのが当たり前だと思っている。この考えが根本から間違っているということに気づかなかったらどうしようもないのです。皆様は責任感がないからいけないのです。
神の精子を受け取って、それを人に与えなければいけないのです。これが命を与える霊です。パウロはコリント人への第一の手紙の十五章四十五節で言っていますが、命を与える霊というのは、神の精子がある生ける言葉を、人々に与えることができるものです。これができて初めて、男性と言えるのです。誠の精子を人に与えることができるからです。
一般の男性が与える精子は、朽ちる種です。与えてもいいだけのものです。誠の精子を与えるためには、朽ちない種を与えなければいけないのです。皆様の脳細胞は、朽ちる種を与えることがまともな事だとは思っていないのです。ただ世間の習慣でそうしているだけのことです。
イエスは「私の肉を食べなさい」と言っています(ヨハネによる福音書6・53~56)。どのように食べればいいのか。イエスの肉をどのように食べたらいいのか、血を飲むとはどうすることか。
朽ちない種を人間の魂の性器に与えるためにはどうしたらいいのか。人間は全部神の女です。まず性器の準備からしなければいけないのです。性器は無限のものです。いつでも抱きたくなるのです。何回でも抱きたくなるのです。
人間が生きていること、人間のリビングがそのまま性器です。人間は毎日、毎日、三回食事をします。無限にするのです。今日は食べるのをやめておこうとは思わないのです。人間が生きていることはリビングですが、これがそのまま性器です。人間のリビングをもっとも端的に現わしたのが、女性の性器です。
人間のリビングが魂です。これが性器です。人間が生きていることが性器であって、そこへ、生ける神の言葉が注がれている。ですから、いつでも妊娠できるチャンスが与えられているのです。
人間が生きていることは、恐ろしいほどあらたかなことです。創世の原理、創人の原理から考えて、人間の霊魂は何なのか。神は人間を何のために造ったのか。イエスはどういう気持ちで生きていたのか。
イエスは「父が私を愛したように、私もあなたがたを愛したい。私の愛におれ」と言っています。これはキリストの妻に対する呼びかけです。
朽ちない種が御言葉です。この言葉が人間の魂に宿る時に、新に生きるのです。人間が新に生まれるのは、一度生まれたらいいのではない。パウロは、「日に新なり、日々新なり」と言っています。毎日新しくなるのです。魂がどんどん伸びていくのです。
聖書を学ぶためには、恋愛感覚がどうしてもいるのです。神は無限の命の種の主(あるじ)ですから、神を学ぶ時には、恋愛感情がなかったら学べないのです。
人間の魂は恋愛機能です。神の愛を受け取るための機能です。今の女性のセックスは犯されるセックスです。これは肉のセックスです。霊のセックスは喜びのセックスです。人間の魂は朽ちない種を求めるために、この世に出てきたのです。朽ちない種を与えられると、霊魂がすぐに喜ぶのです。驚くべき喜び方をするのです。人間の魂は、神の朽ちない言葉に対して、いつでも濡れていなければいけないのです。
森羅万象は神の言葉です。人間の生活状態も神の言葉です。自分の目に女性がいるということも、神の言葉です。自分が男であるということも、神の言葉です。目の前にあるものは、皆神の精子の形容ばかりです。
毎日、毎日、神の精子を経験していながら、それが分からない人は、火の池に行くことになるのです。火の池に行けば、しまった、しまったと、朝から晩まで泣きわめいていなければならないのです。悲しみ歯噛みするとあるからです。
女性は現在生きていながら、自分の色気が分からないのです。神と人間の霊魂の関係が分かると、女性の色気が困るくらいに分かるのです。女性のちょっとした挙措動作に、こぼれるような色気があるのです。神がなぜ女性の色気を男性に感じさせているのか。それは男性の霊魂に色気を持たせるためです。そうすると、神がその人の霊魂に色気を感じるのです。
二十四節に、「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉はとこしえに残る」とあります。これは何の変哲もない言葉ですが、主の言葉はとこしえに残るのです。これが種です。神の種を受けたら、とこしえに残るのです。
人間のリビングは色気ばかりです。これは注意しなければ分かりませんが、注意してみれば、いくらでも分かるのです。男性が女性の手を握ると、感じるものがあります。骨の骨を感じるのです。人間の霊魂が骨の骨です。これになると、神の言葉がどんどん入ってくるのです。
色気は人間の脳細胞にインプットされるのです。神には驚くべき色気があるのです。女性の手に触ると、それが分かるのです。女性の体は本当にあるのかというとないのです。ないけれども感触はあるのです。
創世記の二章七節に、「主なる神は、地のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた」とあります。英訳では、formed man the dust of the ground となっています。フォームドとは、形を与えたと訳したらいいのです。最近の報道ですが、ある運動選手が独特のフォームで、陸上競技の世界新記録を打ち立てたとありました。そのフォームが残っているのかというと、残っていないのです。フォームは瞬間的なものです。これが神の霊が水の表を動かしているということです。
フォームは瞬間的な働きをする場合が多いのです。相撲の場合でも、小さな力士が大きな力士を投げ飛ばすのは、フォームによるのです。勝つのはフォームによるのです。相撲力とはフォームの力です。
神は地のちりである人間に、形を与えたのです。形を与えてはいるが、実体を与えたのではないのです。欲望とはどういうものかと言いますと、実体がなければ発生しないものです。自分が生きているという実体、人間の肉体という実体がなければ、欲望は発生しないのです。性欲も貪欲も宗教欲も、すべて実体がなければ発生しないのです。
ところが、神は人間に実体を与えてはいないのです。これをどのように考えるのかということです。神は人間にフォームを与えてはいるが、実体を与えてはいないのです。ところが、人間は欲望があると思っているのです。
欲望とは一体何か。性欲とは何か。食欲とは何か。ここに人間生活の根本的なペテンがあるのです。これは大ペテンです。これを女性は直感しているのです。だから、女性はセックスがどうもおかしいと思っているのです。そう思っている女性を男性は好きになるのです。ここに人間のばかばかしさがあるのです。
女性は求めて求めているのです。いつでも求めているのです。何を求めているのかと言いますと、愛を求めているのです。女性は愛を形容する格好で生きているのです。それで男は困るのです。
神は人間にフォームを与えたのです。実体を与えていないのです。実体があるという思いを、肉の思いというのです。人間は肉の思いによって、実体を造ってしまっているのです。ばかなことをしているのです。
パウロは、「あなたがたは、以前の生活に属する情欲に迷って、滅び行く古き人を脱ぎ捨てなさい」と言っています(エペソ人への手紙4・22)。情欲に迷って滅び行くという所を英語では、that waxeth corrupt after the lusts of deceit となっています。これは詐欺の欲望に従って滅び行くと直訳されているのです。
情欲というものが詐欺です。嘘です。ありもしないものです。人間に実体がないのですから、あるはずがないのです。実体がないのに、欲望があるはずがないのです。肉体という実体がないのに、欲望があると考えている。そう考えさせられているのです。
今の人間の命は詐欺にあっている命であって、火の池に引きずり込まれるに決まっている詐欺にあっているのです。
神は人間の命に形を与えたのです。地のちりである人間に形を与えたのです。人間を造ったとは書いていないのです。日本語の口語訳聖書では、「主なる神は土のちりで人を造り」(創世記2・7)と訳しています。神が人間を造ったと勝手に解釈しています。人を造ったという表現は、人間という実体が造られたことになるのです。実体が造られたという事実はありません。形を与えただけのことです。
実体がなければ、欲望があるはずがないのです。欲望とは何かと言いますと、人間の肉の思いによって造り上げたイマジネーションです。これは詐欺に決まっているのです。性欲も食欲も詐欺にかかっているのです。
よく考えて頂きたいことは、万物が存在するということは、神の霊が水の表を動かしているだけなのです。物があるのではない。動かしている状態が継続的にある。継続的に動かしているのですから、肉の目で見ると、エバーラスティング(everlusting )に見えるのです。継続的にあるように見えるのです。
例えば、六十サイクルの電気で点灯している電球は、一秒間に六十回点滅をくり返しているのですが、人間の目には電灯はずっと点灯しているように見えるのです。
ピッチャーが投げるボールは、継続的に飛んでいって、キャッチャーのミットにおさまるように見えるのですが、実際には球は瞬間、瞬間に、断続的に動いているのです。人間の目には、球は継続的に動いているように見えるのですが、これは目の錯覚です。
今、今、今という瞬間にだけ、神の霊が水の表を動かしているのです。今動かしているのであって、昨日の継続で、今日も動かしているのではないのです。
般若心経が言っているように、肉体的に、現象的に存在するものは空なるものです。大体、物が現象的に存在しているというばかなことはないのです。人間の肉のイマジネーションで、それがあるように思えるだけです。人間は昨日があった、一昨日があったと思えるのです。犬はそんなことは思わないのです。人間は勝手にそう思っているのです。だから、人間だけが火の池へ行くのです。
猿には人間の狡猾さが現われています。人間の狡猾さが、動物に現われているのです、その中で、へびが最も狡猾であったとあるのです。
神の霊が水の表を動かしているだけです。このことは、理論物理学で考えても分かるのです。物理運動はあるけれども、物質はないのです。理論物理学を勉強しなくても、時間が流れているということが分かれば、空間も流れていることが分かるはずです。
詐欺にかかっている者は、皆死んでしまうのです。物質はないということを信じて生きるのです。そうすると、御霊がどんどん助けて下さるのです。
信じないから、実感が与えられないのです。信じる者は救われるとありますが、救われる者というのは、実感を与えられる者と解釈してもいいのです。そうすると、何でもどんどん遠慮なく発言できるようになるのです。
物質は存在しないのです。あると思っているのは、人間が勝手にそう思っているだけです。これは間違っているのです。
とにかく、人間が生きている状態を見て下さい。ジュースを飲んだり、お菓子を食べたり、テレビを見たり、電話をかけたり、読んだり書いたりしています。神の子でなければできないことばかりをしているのです。妄念だけが自分がいると思っているのです。だから、火の池に行かなければならないのです。疲れた時にコーヒーを飲む。これは生ける神の子でなければできないことをしているのです。
形というのは淵の表の現象です。淵の表でなければ、天使長は創造に協力しないのです。天使長に協力させようと思うと、淵の表にあることを認めなければならないのです。形あるものを認めなければならないのです。
創世の原理とは何か。プラスとマイナスの両方がなければ創造されないのです。これが三次元の世代のあり方です。プラスとマイナスが二つなければ、電気にはならないのです。電気の現象が万物存在の根本原理です。
物があるのではない。電気があるだけです。色があるのも、香り、形があるのも、皆電気です。物質があるのは、すべて電気の働きです。
闇が協力しなければ、物質ができない。これが三次元の絶対的な約束事です。三次元の約束事として人間が造られることになりますと、淵の表という条件で造られることになるのです。
形を与えたというのは、そういうことです。神が淵の表を与えたのです。ところが、淵の表は実体ではありません。ただ、形があるだけです。淵という停滞現象は、表面だけであって、底の方は流れているのです。停滞しているように見えるのは、表面だけです。これが形になって見えるのです。
こういう形を人間は与えられたのです。従って、闇が人間存在を認めた格好になっているのです。闇がそれを認めなければ、人間存在が地球上に現われないのです。神は闇が認めるような形を、人間に与えたと言っているのです。形を与えたのであって、実体を与えたのではない。形はどこまでも形であって、実体ではないのです。
もし実体がなければ、欲望は有りえないのです。欲望は実体を基礎にしなければ、発生しないのです。欲望とか願望というのは、実体を基礎にしなければ、発生しません。実体がなくて、ただ願いだけがあるということは、有りえないのです。
願いとか欲は、実体がなければ発生しない。ところが、人間には実体がないのです。ただ形だけがあるのです。
これを正確に理解するのが、神の国に属する神の精子になるのです。魂は神の女の性器ですから、神の言葉を一つひとつ受け止めることができるのです。ところが、自分という人間がいると思っている。これではだめです。
欲望はただの感覚だけです。感覚は肉の思いです。感覚がなぜ肉の思いになるかです。感覚は人間の五官の後思になるのです。前思と後思がありまして、前思は直感です。良いとか悪いとか言わない、ただ、感じるだけです。
後思は、ああこうだと色々考えるのです。後思が間違っているのです。前思は直感です。後思は意識です。直感は見た瞬間の感覚です。直感によって意識が発生するのです。
般若心経でいう受、想、行は前思です。識は後思です。姦淫の念を持つというのは、識の方です。仏教の唯識論で説明するとこうなるのです。
結局、人間の意識が間違っているのです。直感はあるがままのものを、あるがままに見ているのです。それを意識している仕方が間違っているのです。
色情を抱いてというのは、後思で女を見ているのです。後思がイマジネーションです。人間が肉体的に生きているのは、全くのいんちきの考えです。肉体はただの形です。呼吸機能、心臓、肺、血液循環の働き、消化機能、呼吸機能、排泄機能が人間になっているだけです。
池や川の深い所を淵と言います。淵の上の部分は、水が澱んでいます。全く停滞して動かないように見えますが、底の方の水は動いています。少しずつ動いているのです。人間の場合は、血液が循環しています。呼吸しています。心臓とか肺、胃、腸が働いています。こういう機能全体の働きが人間の形をとっているのです。冷静、平明に見れば、自分がいないことが分かるはずです。
人間が生きていることが、そのまま女性の性器になっているのです。人間の魂は性器です。神から見れば、はっきり女性の性器です。「我々の形に、我々にかたどって人を造った」(創世記1・26)ということが、それを意味しているのです。
女が肉を男に売り込んだ。男がそれを買った結果、女が子を産むことになったのです。もしエホバがへびの誘惑に乗らなかったら、女は死ななかったし、男も死ななかったのです。従って、子を産む必要がなかったのです。
こういうことを考えてみますと、人間の性行為は間違っているということになるのです。しかし、神は黙って見ているのです。それを通して何かが分かればいいと思っているからです。
人間は罪を犯すことがなければ、命が分からないのです。アダムは罪を犯したから、命の木の実を取りにいこうと考えたのです。そうしたら、自ら回る炎の剣が回っていたのです。
罪を犯さなければ、命の木の実を食べようとは思わないのです。だから、神は人間の性行為を黙って見ているのです。女性の性器を通して、何かが分かればいいと思って、女性の性器を見せているのです。ところが、女性の性器専門になって、何も分からないのです。
女が亭主に惚れると、男は盲になってしまうのです。男はそういう弱い者なのです。本当の愛というのは、肉の形を取っても取らなくても、それに関係がないのです。肉の形を取る場合もありますが、愛というのは永遠です。
信仰と望みと愛の三つは永遠です。信仰と望みはある時期がくると、必要がなくなるのです。ニューエルサレムに入ってしまえば、神の家の中で神と一緒にいるのです。信仰はいりません。目の前に神がいるからです。
しかし、愛は永遠にあるのです。新天新地に入ってからでも、愛は永遠にあるのです。永遠を意味するものでなければ、愛とは言わないのです。普通の女性が願っているものは、愛ではなくて欲です。
愛は見ただけで胸が苦しくなるような、切羽詰まった感覚です。愛は前思です。見ただけで気持ちが切迫するのを現実に味わうのでなかったらいけないのです。後思の問題ではない。前思の問題です。
愛は永遠ですから、永遠の角度から女性を見ることができる者、また、見られることができる女性が、永遠の愛を感じることができるのです。これはすばらしいことで、現実に有りうるのです。
これは肉ではなくて霊です。霊の思いは命なり、平安なりです。現世のことを考えないで、霊に従って女性を愛することになると、永遠の愛が分かるのです。触れても触れなくても同じことです。あり方は触れたくなるに決まっています。しかし触れなくても、愛は愛です。それは精神的につながるもの、永遠につながるものであって、これは分かるのです。
イエスの回りには数人の女性がいましたが、そういう関係でした。マグダラのマリアは、髪の毛でイエスの足を拭くほど燃えていたのです。
イエスは次のように言っています。
「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。私は命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でパンを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことがない。
私は天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である」。
そこで、ユダヤ人らが互いに論じて言った、「この人はどうして、自分の肉を私たちに与えて食べさせることができようか」。
イエスは彼らに言われた、
「よくよく言っておく、人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者には、永遠の命があり、私はその人を終わりの日に甦らせるであろう。
私の肉は誠の食物、私の血は誠の飲み物である。私の肉を食べ、私の血を飲む者は私におり、私もまたその人にいる。
生ける父が私を遣わされた。また、私が父によって生きているように、私を食べる者も私によって生きるであろう。
天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」(ヨハネによる福音書6・47~48)。
誠の食べ物、誠の飲み物とあります。イエスの言葉は誠の種です。これを受け止めるか受け止めないかによって、命の実を結ぶか結ばないかが決まるのです。ここに本当のセックスがあるのです。
誠の食べ物があれば、誠の精子もあるに決まっているのです。人間は肉体的に存在する形において、女を抱こうとする。これが姦淫です。姦淫の念を抱いて女を見るとは、このことを言っているのです。肉体的に存在する思いにおいて、肉体的に存在する女を抱くことが姦淫です。
肉体はないのです。ないのに情欲の詐欺にかかって、詐欺の感覚の通りに女を犯そうと考える。これが姦淫です。夫婦でも夫婦でなくても、これをしている人は皆姦淫を犯しているのです。これがはっきり火の池の刑罰になるのです。
男も女も、両方共、そこはかとなくそれを知っているはずです。特に女性はそれを知っています。はっきり分からないが、どうもおかしいと思っているのです。女性は性欲のあり方が間違っていることを知っているのです。男性は世間の習性だと言って、それを実行しているのです。これが男と女の違いです。
姦淫とは何かと言いますと、妻であっても、肉体を持って女を犯すこと、また、男に犯されることが姦淫です。これをしますと、男も女も両方共姦淫になるのです。犯す方も犯される方も、両方共姦淫になるのです。だから、夫婦は考えなければならないのです。
イエスの肉を食べ、血を飲むことができると、姦淫ではなくなってしまうのです。そこで、イエスの肉を食べるとはどういうことかが、大きな問題になるのです。
とにかく、男女の関係の本質が変わってしまわなければいけないのです。寝室における行動が変わってしまうのです。男女が抱き合うことが悪いのではない。肉体を持っている感覚で女を犯すこと、また、男に犯されることが罪です。姦淫は罪に決まっています。霊的に考えるセックスは、いわゆる世間でいうものとは違うのです。
肉体においてセックスを考えたら姦淫になるのです。姦淫の念を抱いて見るというのは、それを言っているのです。そこで、どのように考えたらいいのか。ここでイエスの肉を食べるということが、決定的な問題になるのです。このことを女性は直感的に知っているのです。だから、性行為を恥ずかしい行為だと思えるのです。
肉体を持っていて性行為をすることが間違っているということを、女性は知っているのです。先天的に女性はそれを知っているのです。しかし、どこがどう間違っているか分からない。だから世間並になってしまうのです。そこで、イエスの肉を食べなければいけないのです。
聖書に次のようにあります。
「なぜなら、すべて神から生まれた者は、世に勝つからである。そして、私たちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか。
このイエス・キリストは、水と血とを通ってこられた方である。水によるだけではなく、水と血とによって来られたのである。その証をするものは、御霊(みたま)である。御霊は真理だからである。証をするものが三つある。御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。
私たちは人間の証を受け入れるが、しかし、神の証はさらに勝っている。神の証というのは、すなわち、御子について立てられた証である。神の子を信じる者は、自分のうちに、この証を持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子について証せられたその証を信じていないからである」(ヨハネの第一の手紙5・4~10)。
神が御子について証せられた証とありますが、それがどんな証かと言いますと、六節に「このイエス・キリストは水と血を通ってこられた」とあります。その証をする者は御霊であるとあります。御霊は真理だからとあるのです。
イエス・キリストは水と血とを通ってこられた方です。水だけでなくて、水と血を通ってこられた方で、私の肉を食べ、私の血を飲まなければ命はないと言っています。イエスの肉は水です。イエスは水を通ってこられた。水によるだけでなく、水と血を通してこられたのです。これは意味深長です。
肉とは何か。水です。水とは何か。水の本質が分からなければいけないのです。水の本質が分かると、初めて、水を通してこられたという意味が分かるのです。
イエスについてイザヤは、次のように述べています。
「誰が我々の聞いたことを信じ得たか。
主の腕は、誰に現われたか。
彼は主の前に若木のように、
乾いた土から出る根のように育った。
彼には我々の見るべき姿がなく、威厳もなく、
我々の慕うべき美しさもない。
彼は侮られる人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔を覆って忌み嫌われる者のように、
彼は侮られた。我々も彼を尊ばなかった。
まことに彼は我々の病を負い、
我々の悲しみになった。
しかるに、我々は思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は我々のとがのために傷つけられ、
我々の不義のために砕かれたのだ。
彼は自ら懲らしめをうけて、
我々に平安を与え、
その打たれた傷によって、
我々は癒されたのだ。
我々は皆羊のように迷って、
各々自分の道に向かって行った。
主は我々すべての者の不義を、
彼の上におかれた。
彼は虐げられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場に開かれていく小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。
彼は暴虐な裁きによって取り去られた。
その代の人のうち、誰が思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと、
彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。
しかも、彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分をとがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより、光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
それゆえ、私は彼に大いなる者と共に、
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に、獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも、彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした」(イザヤ書53・1~12)。
イザヤ書五十三章のメシアに対する預言と、ヨハネによる福音書の六章四十七節から五十五節をつきあわせて考えると、イエスという人がどういう人であったかが分かるのです。
水というのは何か。ペテロは次のように述べています。
「すなわち、彼らはこのことを認めようとしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水で覆われて滅んでしまった。
しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々が裁かれ、滅ぼされるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである」(ペテロの第二の手紙3・5~7)。
「神はまた言われた、『水の間に大空があって、水と水とを分けよ』。そのようになった。神は大空を造って、大空の下の水と大空の上の水とを分けられた。神はその大空を天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である」(創世記1・6~8)。
ここに水の秘密が出ているのです。水とは何か。般若心経で言うと空になるのです。物理的に言うと、宇宙空間のことです。宇宙空間を聖書は水と呼んでいるのです。
宇宙空間は本質的にガス体です。これは第一原子である水素原子の充満体であるかもしれないのです。これが水の顔です。神の霊がこれを動かしているのです。水の顔が宇宙全体に広がっているのです。
水と水との間に大空を張ったことによって、空の上の水と空の下の水とが分けられた。神はこの大空を天と名づけた。これは意味深長です。興味津々たるものがあるのです。
水というのは、初めからあったと思われるのです。初めからあったというのは、どういうことなのか。現在の人間の常識で言えば、宇宙空間の第一と考えられるものです。これが水の原点です。そこで、水と水との間に大空を張ったということが重要になるのです。
大空の下の水と上の水が分けられたとあります。これはどういうことなのか。大空という言葉は何かです。
聖書は次のように書いています。
「主よ、あなたは世々われらのすみかで
いらせられる。
山がまだ生まれず、
あなたがまだ地と世界とを造られなかった時、
とこしえからとこしえまで、
あなたは神でいらせられる。
あなたは人をちりに帰らせてと言われます。
『人の子よ、帰れ』。と」(詩篇90・1~3)。
この当時の預言者の感覚で言いますと、地球の存在が宇宙存在でした。今のような天文学はありませんから、太陽系宇宙とか、銀河系という感覚は全然ありませんでした。
実は聖書が見ている宇宙空間の考え、星の考え方が、魂の糧になるのです。人間が天文学で考えている宇宙は、理論的にはその通りですが、その星が存在する経過から考えますと、聖書の方が正しいのです。
大体、満天の星とは何か。水です。星はガス体の働きです。それが比較的濃厚なのが星です。薄い所が空間です。空間とか固体は、濃いか薄いかの違いです。
創世記の一章に書いてあるのは、現在の物理学者や天文学者が考えている宇宙とは、違うものです。神が人間の霊魂に訴える演繹方法になっています。大空の外というのは、非物理的なものになっています。人間の霊魂には、こういう言い方の方がよく分かるのです。
神は人間の霊魂に命を与えることを目的にしています。人間の霊魂は神から見れば、女性の性器そのものですから、これに精子を与えることが目的です。精子を受けたものだけが、新天新地において、神の幕屋に入ることが許されるのです。
この目的にそわない者は、学者や神学者が何と言っても、火の池の足しになるだけです。神の幕屋の足しにはならないのです。学者がいうことは、知恵、知識とも言えないのです。
人間の学理、学説は神から見れば、肉のイマジネーションです。それを信じたい人はご自由ですが、火の池に連結しているのです。火の池行きの、欲望という名の列車です。
聖書は神の言葉です。命を捉えたいと思う者は、聖書の世界観を学ぶことの方が、霊魂に密着しているのです。料理を食べたらおいしく感じます。マグロを食べたらマグロの味がします。鯛を食べれば鯛の味がします。そういう五官で生きているのです。人間が生きている感覚で見たり、聞いたり、味わったりしていることが、命の足しになるのです。
イエス・キリストが水によって来たという、大ざっぱな書き方をしていますが、これを素直に受け取れば、新天新地に入れるのです。これに色々と理屈をつけると、人間のアンダスタンド(understand)になってしまうのです。人間の知恵は、皆火の池向きになっています。命がさっぱり分からないのです。
物理空間を実体的に捉えると、命が分からなくなるのです。物理空間はただの譬に過ぎないのです。譬をもうけて口を開き、初めから隠されていることを、あなたがたに教える。これが神のやり方です。
私たちは天地に広がっている万物、天体現象を通して、世の初めに何があったのか。何が隠れたのか、隠れたものを尋ねたらいいのです。
世の初めに何があったのが分からない状態で、いくら星の研究をしても、プラスにはならないのです。学者ばかになるだけです。これがいわゆる肉のイマジネーションです。
神はこのような宇宙の秘密を、私たちのような無知の者に教えたのです。赤ん坊に教えたのです。ワイズ(wise)やアンダスタンド(understand)には教えなかったのです。
私たちがこの世に生きている目的は一体何か。この世に生きていてもしょうがないのです。この世に生きていても、ただ死ぬだけです。そうすると、この世に生きている目的は、天体現象を合理的に理解することではなくて、直感的に自分自身の命に適合するように捉えることが、原点になるのです。
時間とか空間は本来ないのです。人間の肉の思いであるように思えるだけなのです。
聖書の世の初めという言葉が使われていますが、初めとはいつの事でしょうか。これは昔のことだと言えますが、今のことだとも言えるのです。時間を過去とか未来とか、勝手に人間が言っているのです。実際はヨハネによる福音書第六章四十七節にあったように、信じる者にはとこしえの命があるのです。聖書を信じない者は、とこしえの命が持てないような生まれ性なのです。
この世が造られたのは、何万年、何億年前のこととは違います。端的に言いますと、今日生きている人間にとっては、この世は今日だけしかないのです。世は今という時間だけしかありません。命も今です。地球も今だけです。
神の前という言葉があります。「わが前に歩みて全かれ」と言います。神の前には、物も時間もないのです。ただ神の言葉だけがある。これが信じられるかどうかです。
肉体があるとか、男がいる女がいると人間が思っているのは、人間が考えたイマジネーションであって、神の前には神の言葉しか通用しないのです。それが合理的であろうが、不合理であろうが、それを信じる者はとこしえの命を持っているのです。信じられない者はしょうがない。火の池へ行かなければならない事になるのです。人間的な合理性がどのように正確なものであると思えても、それは人間の思いです。
大空に星が無数に輝いていますが、それが今もあると断言できるのでしょうか。断言できないのです。一万光年の彼方にある星は、一万年前には光っていましたが、現在もあるかどうか分からないのです。今見ている光は、一万年前の光を見ているのです。天文学は現在あるかどうか分からない星を、あるものと仮定して扱っているのです。
現在生きている人間の常識で、明日がある、明後日がある、自分がいる、他人がいると思っていますが、やがて死んでしまうのです。しかし、神の言葉を信じる者は、とこしえの命を持つのです。
すべての人を照らす誠の光があって、それがイエスになって世に来たのです。それが嘘であっても、誠であっても、イエスが復活したという事実があるのです。
イエスが復活したのは人間的に言えば、二千年も前ということになりますけれど、二千年というのは、ほんの少し前のことです。何万光年、何億光年から考えれば、問題にならない位に短い時間になるのです。これが分かれば救われるのです。
リビングという今において、神に惚れるしかしょうがないのです。また、神に惚れられるしかしょうがないのです。そこで、女性の恋愛感情は尊いのです。惚れるか惚れないか、女性はこれで勝負しているのです。
惚れるということは、確かなことです。信じるとは惚れることです。惚れる者はとこしえの命を持っていると言ってもいいのです。心を尽し、精神を尽し、力を尽して、神を愛するというのは、惚れることです。
理論的、科学的に宇宙の状態を知って、地獄へ行く方がいいのか、直感的に惚れて神の国へ行く方がいいのか、どちらがいいのかです。結局、合理的であろうがなかろうが、神の言葉という絶対の世界へ入り込んでしまわなければ、命は与えられないのです。相対の世界でうろうろしていてもだめです。聖書は神の言葉であって、この言葉を信じる者は、とこしえの命を持っているのです。聖書の言葉が命です。
イエスが復活したことは、神の処置です。絶対です。復活したということ、死を破ったという事実が神の証明です。神はイエスを復活させたことによって、人間を新しく生んだとありますから、この神の処置を信じるしかないのです。
もろもろの人を照らす誠の光があって、世に来た。彼は人間という格好で生きていた。彼が生きている本来の姿に気づいた時に、彼の肉体はたちまち変わってしまった。こういう事実が地球の中で発生しているのです。また、彼が復活した後に、焼き魚を食べた事も記録されているのです。彼が五百人の人が見ている前で、昇天した。この事実を、あなたがたが見ているように、また、やってくると言っているのです。
復活という事実が、人間歴史の中へ、人間の合理主義の中へ強引に割り込んでくるのです。
今、ユダヤ人が世界を引っかき回しているという事実は、明々白々な事実です。もしユダヤ人問題がなかったら、聖書を信じることが難しいのです。ユダヤ人問題があるということは、聖書が神の言葉であることを、端的に証明しているのです。ユダヤ人がいるということが聖書が神の言葉であることを、客観的に証明しているのです。従って、イエスが復活したことも、また、証明しているのです。
水の世界とは何か。大空に幕が張られた。この幕の正体が地のちりです。神は地球の回りにちりの幕を張っていたのです。そして、大空の上の水と下の水とが分けられた。上の水はガス体ばかりです。下の水は驚くべき森羅万象の世界が展開しているのです。
森羅万象とは何か。水です。万物は水から出て、水によりて成り立っている。人間の体も、野菜も、馬も、魚も、全部水です。大空に張られた下の水ということが、そのまま万物の存在を証明しているのです。地球を含めて、森羅万象全体を水と見るかどうか、これを水と見られる人は幸いです。水と見られない人は、火の池へ行ってから考えたらいいのです。
大空の下の水は、水素原子と考えられるのです。水素原子によって、すべてのものが造られているのです。もしこれが嘘だとすると、地球存在と命との連関関係、現在の膨大な森羅万象の証明ができないのです。
水という言葉の中には、電気現象が含まれているのです。水がなければ、電気現象は起きないのです。電場も磁場もできないでしょう。水と電気の関係は、現在の学問では説明できませんけれど、電気現象は大空の上にもあるでしょう。
地のちりとは何か。ちりの働きによって、地球の上にある水ができているのです。水がなければ、太陽光線の遮断はできません。地球にこんな大きな海があるということは、ちりがあるためです。神が大空を張った。大空を天と名づけた。大空がなぜ天と名づけられたのか。天とは一体何かです。天が人間の思考の根源です。神の投影が天です。
神は人をちりに帰らせた。地のちりは驚くべき性能を持っているのです。今から千年前の地球の酸素の消費量は、現在の何万分の一か、もっと少ない量であったでしょう。人間や動物が消費する酸素だけでした。
ところが現在は、酸素を膨大に消費しているのです。自動車の驚くべき増加、航空機や船舶の増加によって、膨大な酸素を消費しているのです。しかし、地球は危機的状況にならないのです。それを調整しているのが、ちりの働きです。いくら酸素を消耗しても、酸素が欠乏しないのはなぜか。ちりがそれを調整しているからです。
地球全体の温度、湿度、雨量、風量を調整しているのも、すべてちりの働きによるのです。すべてのものが生まれる状態、花が咲いたり、果物ができたり、牛や豚が太ったり、魚が育ったり、いわゆる森羅万象はすべて合理的に生育している。
この合理性はどこから来ているのか。神は何によってこういう処置をしているのか。これはすべてちりの働きによるのです。地のちりは驚くべきものであって、宇宙構成の重要な役割を演じているのです。
人をちりに帰らせたとあります。人という人格性をちりに帰らせたのです。ですから、地のちりは膨大なマインドの集団です。これが地球に満ちていて、地球全体を管理調整しているのです。マインドという精神構造が働かなければ、地球の管理調整はできないのです。いかに全知全能の神と言っても、精神構造の働きがなかったら、できないのです。
極微の世界と極大の世界が、同じ運動を繰り返していますが、その原則は神の言葉です。その神の言葉に応じて、マインドが働いている。だから、地球上で、犬が走ったり、鳥が飛んだり、花が咲いたり、魚が泳いだりしているのです。こういうことをよく考えて頂きたいのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)