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  • 管理人chaya

欲望を超克する


人間は何のために生きているのか。文明は肉体人間に奉仕すること、現世における人間生活に奉仕することが、人生全体の根本的な目的であると考えているのです。地球上で人間が生活することが、人間の最高の目的だと考えているのです。

ところが、何のためにこの地球上で人間が生活を営まなければならないのかということについての、目的論的なものを考えようとしない。何のために人間がこの地球上で生活しなければならないかが分からない。これが西欧文明の大欠点です。

東洋人は異邦人ですが、この問題をいくらか考えようとしたのです。それが般若心経や阿弥陀経の思想に見られるのです。法華経になりますと、多少現世的な事が現われてきますけれど、阿弥陀経や般若心経では大乗仏教本来のあり方が、面目躍如として現われているのです。両者は現世に生きることが目的ではないということを、はっきり言い切っているのです。

日蓮宗はそうは言いません。現世に生きることが目的だというセンスが、相当強いようです。ですから、十把一からげに日本の宗教改革と言いましても、道元や親鸞と日蓮とは、だいぶ違うのです。

人間は現世に生きることが目的で生まれてきたのではありません。もし現世に生きることが目的なら、何のために現世に生きているのかという事についての明確な思想が、はっきり確立されていなければならないのです。

あらゆる人間哲学をひっくり返しても、人間が現世に生きている目的について、はっきりしたことを言っていないのです。ギリシヤ哲学のプラトンとか、マルクスの自由の王国位が、最高の思想です。マルクスが提唱した自由の王国が実現しても、やはり人間は死んでいくのです。人間が死ぬのなら、イデアがあろうと、自由の王国ができようと変わりがないのです。

人間の唯一の目的は死を超克することです。死を乗り越えることです。欲望を乗り越え、死を乗り越えることです。ところが、欲望を乗り越えることもせず、死を乗り越えることもしない。魂の渇望を全く癒すことができないままで、現世を去っていかなければならない。これが文明の目的であるとすると、文明ほどばかばかしいものはないのです。

人間が肉体に従って生きているということは、自分の人生を空振りしてしまうことになるのです。人間が生きていることの実体を冷静に考えてみますと、私たちは自ら水や空気を製造している訳ではないし、太陽光線を製造しているのでもない。大自然によって養われているとしか考えられないのです。

大自然の支配者は、神としか言い様がないのです。神なんかあるもんかという人がいますけれど、大自然がこのように運行している事実は、神としか言い様がないのです。神があるかないかではない。大自然が運行しているという事実があるのです。雨が降ったり、川が流れたり、水が海へ流れていって、また、大空へ帰っていき、再び雨になって地上に降り注ぐ。このような事実を神というのです。

自然は循環すると言います。自然は循環すると言っても、循環の原理があります。循環するという大自然の法則が働かなければ、循環という運動は発生しないのです。そうすると、法則とは何かということが、また問題になるのです。結局、神と言わなければしょうがないのです。神と言ってなぜ悪いのでしょうか。

人間は肉の思いで神を受け取ろうとするのです。肉の思いと神とは正反対です。ですから、肉の思いによって神を信じたくないと思っているのです。

神は霊です。人間は肉です。肉と霊は相闘うに決まっています。肉の思いを持つ者は、霊なるものに反発したくなるに決まっているのです。

人間は神に生かされていながら、とことん神に反対したい性格を持っているのです。肉の心を持ったままで神を信じると、宗教の神になるのです。宗教の神は必ず人間を裏切るのです。人間を裏切るに決まっています。

宗教の神に裏切られた実例を、皆様は良くご存じでしょう。あちこちの宗教へ行って、結局お金を取られただけです。御利益はなかったのです。牧師さんは死んだら天国へ行くと言います。天国へ行くか行かないか分からない。死んだ人が生き返って、報告した事実はどこにもないのです。

ところがその事実が、聖書には堂々と書かれているのです。イエスは死んだけれども復活して、黄泉のこと、人屋のことを、はっきり話しているのです。四十日の間に、しばしば弟子たちに現われて、神の国のこと、死んだ後のことを説明したのです。そのように、現存在する目に見える世界ではない、目に見えない世界、霊的事実を説明したのです。これが神の国です。

イエス以外の人で、死を破って復活した人は、一人もいません。私たちは腹が立っても気に入らなくても、イエスを信じる以外に、死後の消息を弁えることはできないのです。

人間は死んだらどうなるのか。新約聖書を読めば簡単に分かるのです。このように聖書は、全宇宙の裏と表を明確に示しているのです。これ以外に信じるべきものがないことを知るべきです。

現在生かされているのは、神に生かされているのです。大自然の運行によって生かされているのです。神の意志によって運行している大自然によって生かされているのです。だから、人間が現在生かされているという状態は、このままで完全無欠です。欲望の奴隷になって生きなければならない必要性はどこにもないのです。

現在、父なる神によって生かされているのです。父なる神によって生かされているとすれば、生かされていること自体が、神の恵みの内にあるに決まっているのです。この事実に気がつきさえすれば、肉の思いに追い立てられて、いらいらする必要は全くないのです。

「一日の苦労は、その日一日だけで十分である。明日のことは明日自身が思い煩うであろう」とイエスは言いました(マタイによる福音書6・34)。明日のことは明日自身が思い煩うであろう。これはすばらしい思想です。明日という時間がどうして来るのか。時間の本質は一体何なのか。こういうことが、ユダヤ人の文明では全然分からないのです。

新約聖書を正しく読んでいけば、時間がどうして造られたのか、人間とどのような係わりを持っているのかが分かってくるのです。人間が生きている状態を霊的に観察すれば、そういう不可解な部分が明らかになるのです。いらいらする必要は毛頭ないことが、良く分かるのです。

それだけではなくて、神の恵みが現在十分に与えられていることに、気がつくのです。今生かされているという現実という実物こそ、神の恵みの実体です。とこしえの命の実物です。とこしえの命の実物を、現在、現前という形で経験していながら、何をうろうろしているのかと言いたいのです。人間はばかなものです。本当にばかなものです。

すばらしいとこしえの命の実体が目の前にありながら、それを見極める力がないために、欲望に振り回されて、何十年かの人生が空振りに終わってしまうのです。

自分が現に生かされている客体的事実がありますから、これを見ればいいのです。それを見るために生まれてきたのであって、それを見さえすれば、人生の目的は完全に果たされるのです。これが果たせると、第二の目的が生まれてくるのです。

神に会えば、神に面会すれば、神に生かされていることがはっきり分かります。現前が神の御名であることが十分に分かるのです。これが分かりますと、欲望というのは、神の現前に与えられている感覚の歪曲であったということが分かるのです。

現前において人間に与えられている神の恵みを、肉性によって歪曲したものが、欲望という感覚で感じられるのです。性欲、食欲の正体をはっきり見極められますから、慌てず、焦らず、ゆうゆうと対処できるようになるのです。欲望を断つ必要もないのです。欲望から逃げ出す必要もないのです。逃げ出したところで何にもならないのです。

あるものはあるのです。欲望を迂回して、欲望から逃げ出して、向こうへ出ようとしても、結局負けたことになるのです。神を信じて、客体的に生かされている自分を自覚すれば、欲望の真ん中を堂々と歩いていけるのです。そこで初めて、欲望をマスターすることができる。克服することができるのです。

欲望はマスターすべきものです。克服すべきものであって、避けるべきものではないのです。欲望を避けようとすると、かえって大敵になる。真正面から向き直ると、小さな虫けらになってしまうのです。こらっと喝すれば、尻尾を巻いて退散するのです。

現前に生かされている神の恵みを喜ぶ、とこしえの命によりて生かされている喜び、神の御名を賛美したらいいのです。神の御名を賛美すると、欲望の満足がいかにばかばかしいものであり、小さなものであるかが分かるのです。

それよりも、現前において神を喜ぶことの方が、もっと大きいのです。欲望の奴隷になるよりも、神の御名を賛美して、神の子として生かされていることを感謝する方が、はるかに喜びが大きいのです。この喜びが分からないために、欲望にしてやられるのです。欲望に牛耳られて引き回されるのです。神を賛美することさえできれば、欲望の奴隷になることは毛頭ありません。

魂は父なる神によって生かされています。これは万全の状態で生かされているのです。ところが、魂自身はその事実を弁え知ることができない状態に置かれているのです。父なる神によって生かされているという有難い状態を、魂は知ることができない状態に置かれているからです。

なぜかと言いますと、人間の顕在意識が魂の上にのさばって、肉の思いが人間の魂を押さえ込んでいるから、魂は思索の自由を失っているのです。魂は神の恵みを喜びたいとは思っていますが、喜ぶ自由が与えられていないのです。

魂自体は父なる神に生かされていることを知りたいと願っていますが、それを知ることができない状態によって生かされているのです。肉体的な条件によって押さえ込まれているので、霊なる状態が全く分からないのです。

そこで、十字架によって、肉体的に生きている自分が死んでいることを確認する方法を選ぶしかないのです。肉に従って生きていれば、どうせ死ぬに決まっているのです。どうせ死ぬものであれば、早く死んだ方がいいのです。

肉によって生きるのか、霊によって生きるのか。これは人間が決めなければならない人生の追分です。右へ行くか左に行くか。これはどうせ決めなければならない別れ道です。

パウロは、「わが恵みは汝に対してすでに十分である」と、神から言われたのです。パウロは自分の目が悪かったようです。そこで何とか目を治して下さいと神に祈ったのですが、そこに神の恵みがあったのです。

人間の側から考えて、自分に対して神の恵みが不十分だと思える面があるかもしれない。例えば、精神的に、また、肉体的に、職業的に、家庭的に、どうも自分に対する神の恵みが不十分だと思える点があるかもしれないが、それは皆様の思いです。自分の思いを信じることをやめたらいいのです。これで十分だと思って頂きたいのです。

神を信じるということは、自分の思いを信じないことです。だから、自分自身の不平を引っ込めたらいいのです。不満を引っ込めるのです。自分の不平不満を正当化している間は、絶対に幸福にはなれません。

自分自身の現在の状態が、完全な幸福の状態にあるのです。それを受け止めようとしないで、自分の思いを信じて、勝手に不幸になっているのです。自分自身にざまあみろと言っておけばいいのです。

「私の恵みは、すでにお前に十分である」というパウロに対する神の言い方は、すべての人に対して、皆様自身一人ひとりに対して、完全に適用される原則です。この神と人との原則を、まず黙って受け取って頂きたいのです。自分の不平不満を棚にあげるのです。そんなものを持っていたら、暗くなるだけです。

魂は神に恵まれているという事実を知りたいのですが、肉の思いに妨げられて知ることができないのです。魂は神から出てきたものですから、神以外のものでは絶対に満足できません。いくらおいしいものを食べても、いくらすばらしい恋愛をしても、それによって魂は満足できないのです。

恋愛でも、仕事でも、家庭の営みも、霊なるものとして受け止めることができますと、現前的なすばらしさがすぐに分かるのです。生かされているすばらしさが、すぐに分かるのです。

それを神の恵みとして受け取らないことになりますと、基本的人権に基づいてストライキを実行しようかとなるのです。神を信じないで自分を信じている所から、人間の不幸が訪れるのです。人間は勝手に不幸せに落ち込んでいくのです。だから、自分自身に向かって、ざまあみやがれと言えばいいのです。

人間の魂は肉の思いにさえぎられて神を喜ぶことができません。そこで、魂が不平不満を抱くことになるのです。この不平不満が肉の欲望に化けて、肉的に現われるのです。肉欲に変化するのです。人間の本願が欲望に化けて踊り出すのです。

親鸞は自分自身の性欲と阿弥陀如来の本願との関係が分からなかった。同じような気もするが、違うような気もする。どこがどう違うのか。神に生かされているという決め手でも親鸞に分からなかったのです。現前が神の恵みであることが分からなかった。現前に仏国浄土があることが分からなかったのです。そこで、親鸞は地獄一定の身であると考えた。いかなる行も及び難き身である。どんな難行苦行をしても、結局地獄へ行かなければならないと考えた。

しかし、阿弥陀如来の本願があるから、救われなければならない。阿弥陀如来の国と、今生きている国とは、十万億土の隔たりがあると考えた。これは気の毒でした。親鸞が生きていたのは新約の時代でしたが、彼には聖書と聖霊がなかったのです。私たちには聖書と聖霊がありますから、今ここに、仏国浄土があることが分かるのです。

自分の思いを捨てて、神の思いを受け取ったらいいのです。そうすると、欲望に勝つことは十分にできるのです。肉の働きを殺すことはできるのです。肉に従って生きているから、肉の働きが生じるのです。霊に従って生きることになれば、肉体の働きを殺すことは何でもない。むしろ、それが喜びになるのです。神の恵みによって、欲望に勝つことができるという喜びです。これは死に勝つことができた感謝です。

欲に勝つものは死に勝ったのです。肉に勝つものは、自分に勝ったのです。己に勝つものは、この世に勝ったのです。イエスは我世に勝てりと言いましたが、イエスと同じように、世に勝つことができるのです。

魂が神の御霊によって生きることができるなら、神の恵みによって十分に満足することができるのです。肉の欲望に引っかかって、がつがつする必要はないのです。肉体の働きに引きずられることはありません。神が分からない、父の恵みが分からないために、肉体的な欲望に負けてしまうのです。そこで、肉体の働きを克服することができなくなるのです。

実は肉体の働きというものこそ、よくよく見ると、父から与えられたすばらしい恵みです。それを欲望として受け止めてしまうから、与えられた恵みが却ってその人の仇になるのです。欲望はないのです。神が人間に与えている恵みが、肉によって見れば欲望のように見えるのです。

神を信じて頂きたい。自分の欲望を捨てて神を信じるのです。御霊によって生きるのです。このすばらしい事実に気づくことが、肉欲を克服する中心命題になるのです。神に生かされている事実に気がつけば、顕在意識のセンスがひっくり返ってしまうのです。皆様の常識のセンスがひっくり返るのです。キリストによって父の御心に結びつくことができる。それが自分の顕在意識となるのです。

神と共に生きている。生きていることは神と対話していることである。このセンスが自分のものになれば、現前に生きていることが、文字通りすばらしい恵みであることが分かるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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