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  • 管理人chaya

父と共にいる


人間は自分が生きているという立場から福音を見ようとするのです。これは無理もないことかもしれません。現在生きている人間を全く抜きにして福音を考えなさいと言っても無理ですけれど、現在生きている人間を基礎にして考えたら、必ず宗教になってしまいます。どんなに深く考えてもだめです。

パウロ以後、教会時代二千年の間、人間の立場を本当に離れて福音を見ることができた人がいないのです。個人が直感的に感じた程度のことはあるでしょう。例えば、芭蕉の詩境は、普通の人間が感じられないことを感じているのです。ある時には馬の気持ちになってみたり、またある時には、蟻の気持ちになってみたり、ある時には植物の気持ちになってみたりするのです。

これができると、人間の思いの外のいわゆる歌の国へ入っていけるのです。芭蕉はこれをしているのです。歌の国、詩の国で、人間の知らない命の味わいを、彼は捉えていた。芭蕉が立っていた基点は、他の人と違っていたのです。これがなかなか分からないのです。

聖書に次のようにあります。

「万物の終わりが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい」(ペテロの第一の手紙4・7)。キリスト教でもこれをいう牧師がいますが、この箇所をキリスト教的に取り上げているのです。

万物の終わりとは何か。これをいわゆる再臨という角度から見ていただけでは分からないのです。万物の終わりが近づいたというのは、万物が存在していないことを暗に読み込んでいるのです。歌い込んでいるのです。ペテロ自身の心境はともかくとして、これを書かせた聖霊の心境で考えますと、万物の終わりが近づいたという事は、万物の消滅を意味するのです。これは元々万物が存在していなかったことが裏づけになっているのです。

もし万物が本当に存在していたら、消滅するというばかなことがあるはずがないのです。存在は絶対です。存在という絶対的な現象が消滅することはありえないのです。

万物はありません。万象があるだけです。万象が万物として人間に感じられるのです。そうすると、万象とは一体何なのか。万象をどのように受け止めればいいかです。万物の終わりが近づいたとはどういうことなのか。万物が終わったらどうなるのか。万物は何のためにあったのか。人間は今万物に囲まれて生きているが、万物をどのように理解すればいいのか。

だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさいと言っていますが、心を確かにするとはどういうことなのかが分からない。どうしたら確かになるかです。

心を確かにするという箇所を英訳では、サウンド・マインド(sound mind)と訳しています。サウンドとは天的な感覚に魅了されて、神のセンスをそのまま自分のセンスとして受け止めるような健康をいうのです。

マインドとは何か。マインドが私たちの命について、どういう役割を演じているのか。ライフとマインドとどう違うかです。

イスラエルに福音を伝えようとしたら、根っ子から、葉から、普通の人間と全く違った人間になってしまわなければいけないのです。エリヤが神の人と言われたように、この世の人でなくなってしまわなければいけないのです。

人間は酔っぱらっているのです。この世に生まれて何十年か生きていたという記憶に酔っぱらっているのです。記憶から覚めていない。昨日まで生きていたという記憶で生きているのは、二日酔いです。

サウンド・マインドでなかったら、本当の信仰にはなりません。ところが、サウンド・マインドになれないのです。人間の常識、知識が人間のマインドになっています。マインドが神のマインドになってしまわなければいけないのです。意志(intent)が切り替えられなかったらいけないのです。意志が切り替えられないから、従来型のマインドになっているのです。

昨日まで自分という人間が生きていた。それが今日も続いている。そういう二日酔いの感覚から、覚めなければいけないのです。昨日の人間と違った人間にならなければいけないのです。神の注文どおりの、完全な人間にならなければいけないのです。自分自身が救われなくても、神の人になればいいのです。別の人間になるのです。

現象感覚と自我意識の二つの思いで生きている人は、その思いに酔っぱらっているのです。地球があるという思いと、固有名詞の自分があるという思いです。この思いがあるために、自分のマインドを立て直すことができないのです。

今の人間は病人です。自分の妄念に惑わされた精神患者です。こんなものが神のご用に立てるはずがないのです。

自分の記憶が嘘です。人間は自分の記憶に騙されているのです。仏典でいう人空はただの哲学ではありません。祈りの基本線です。この状態がいわゆる素面です。自分自身の意識から出てしまうのです。そして、ただ神の御心を祈るのです。そうしたら聞かれるに決まっています。

歩いている場合でもそうです。私が歩いているのではない。神の中に生きている魂が歩いているのです。肉体を持つことが魂の条件ですから、肉体を持っていることが悪いのではない。肉体感覚だけで生きていることが悪いのです。

大空の青さとは何でしょうか。快晴の日の大空の青さを見ると、心が本当に洗われます。空の青さというのは、ちりの色です。神が大空を張った。そこへちりをばらまいたのです。

地球を取り巻く大空と、大空の外の空とどう違うのかと言いますと、ちりがあるかないかの違いです。太陽系宇宙においてはちりはごく希薄ですが、地球に近い所ほどちり的現象が見られるのです。太陽系の外の世界には、ほとんどちりはないでしょう。

私たちが見ている青空は、ちりの青さです。ちりがなければ青くならないのです。ちりがなければ、太陽が地球を燃やしてしまうでしょう。ちりがなければ昼は数百度、夜はマイナス数十度になるでしょう。とても生物の住める条件ではないのです。

まず神は大空を張ったのです。そして、大空の上の水と下の水を分けたのです(創世記1・6、7)。その時皆様は何処にいたのでしょうか。雨が降る、雪が降るという現象も、植物が生えるという現象も全部ちりの働きです。オールマイティ(allmighty )という事はちりを意味するのです。ちり自身がオールマイティです。人間の精子もちりの働きです。

天の星のように、浜の砂のように、膨大なちりが地球を取り巻いている。これが地球を生かしているのです。自分がちりであることが分かると、初めて自分の人生がなかったことが分かるのです。

聖書に次のようにあります。

「主が昔そのわざをなし始められる時、

そのわざの初めとして、私を造られた。

いにしえ、地のなかった時、

初めに、私を立てられた。

まず海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、

私はすでに生まれ、

山もまだ定められず、丘もまだなかった時、

私はすでに生まれた。

すなわち神がまだ地をも野をも、

地のちりのもとを造られなかった時である。

彼が天を造り、海のおもてに大空を張られた時、

私はそこにあった。

彼が上に空を堅く立たせ、

淵の泉を強く定め、

海にその限界を立て、

水にその岸を越えないようにし、

また地の基を定められた時、

私はそのかたわらにあって、名匠となり、

日々に喜び、常にその前に楽しみ、

その地で楽しみ、

また世の人を喜んだ」(箴言8・22~31)。

彼が天を造り、海のおもてに大空を張られた時、私はそこにいたと書いているのです。人間の魂本来の面目は、自分がちりであることをはっきり自覚することなのです。人間は精子によってできたのですが、この精子はちりから造られたのです。ちりが精子に化けたのでなければ、精子は一体何処から来たのでしょうか。

宇宙の精子が人間の精子になっているのです。一回の射精で、二~三億の精子が放出されて、その中にたったの一匹が人間になるのです。その人間の中でも、本当に自分の出自を悟ることができる人は、めったにいないのです。ですから、人の祈りは宇宙に冠絶する絶大な力があるのです。

今まで、人間としてこの世に生まれてきた人は、推定で、七、八百億人位でしょう。その中から、本当に天のエルサレムに帰ることができる人は、ごくわずかでしょう。ですから、自分の祈りと信仰がどれほどの価値があるかを、よく考えていただきたいのです。

福音は宇宙存在の実体をそのまま現わしているのです。その一つに処女降誕という大秘密があります。聖書は事実を書いているのです。

マイティ(mighty)とはちりのことです。大空に展開しているちりは、神ご自身のあり方を示しているのです。神ご自身のあり方がちりそのものです。神は「見よ、我は天地に満ちるにあらずや」と言っていますが、これはちりのことを言っているのです。

神はちりによって神のかたちのように人を造り、それをデストロイして大空にまいたのです。こういうことを考えると、初めて空の青さが分かるのです。神ご自身に形どられたものがデストロイされて、これが大空にまかれて、空の青さになったのです。

人間は時間と空間を超絶した存在です。それを悟ると、超人になるのです。スーパーマンになるべきです。これが神の人です。この世の人間とは違います。人間創造の原理は全く驚嘆すべきことです。

聖書に次のようにあります。

「主よ、あなたは世々われらのすみかで

いらせられる。

山がまだ生まれず、

あなたがまだ地と世界とを造られなかった時、

とこしえからとこしえまで、

あなたは神でいらせられる。

あなたは人をちりに帰らせて言われます。

『人の子よ、帰れ』と」(詩篇90・1~3)。

神はちりに帰らせた。神に形どって造った人をデストロイしたのです。このちりに向かって、人の子よ帰れと命令しているのです。

仏典には、「北の方に如来が何千億、南の方に何千億、東の方に何千億、西の方に何千億が須彌山に集まっている」とあります。その数は数え切れないのです。

明けの明星を見た釈尊は、恐らく神に造られた人をデストロイしたことを見たから、千の千倍、万の万倍と言えるような無数の如来が天空に充満していることが分かったのでしょう。これが華厳経に現われているのです。法華経の初めにもこの思想が現われているのです。

こういうスケールで見るのです。そうしますと、六十年この世に生きていたとか、八十年生きていたというつまらない事を考えなくなるのです。

抱いてもらうことを喜んでいる女性は、不自然の用、逆性で生きているのです。自然の用は抱いてもらわなくても愛がストレートに分かる人です。これが純性の愛です。

人間は何十年もこの世に生きていながら、この世に生きていたという事を精密に分解していないのです。この世に生きていたという経験を持っていながら、その経験を生かして使っていないのです。五十年生きていた人は、五十年なりに日の老いたる者と言えるのです。五十年生きていたらもう十分です。

人間の理性と、神が人を自分の形に造ったということ、ちりに帰らせたということと、どういう関係にあるのかということです。砕くということがハンディワークになるのです。人間の語法としては、神の御手の業として砕かれたという程度しか言い様がないのです。あまり完全な語法を用いすぎると、人間に分からないのです。なぜなら、人間の理性はちりのように砕かれている理性です。だから、神は不完全な語法でしか言うことができないのです。

皆様は自分を賢い頭だと思わないで頂きたいのです。自分の記憶や自分の推理、判断の能力を信じてはいけないのです。なぜかと言いますと、砕かれた能力だからです。砕かれた理性なのです。皆様の理性は砕かれたほんの一かけらしか働いていないのです。従って、皆様の記憶判断を信じることがおかしいのです。

そういうものを信じると、全部悪魔に所を得られる結果になるのです。不完全な推理、判断、記憶しか持っていないから、その記憶を捨てなければならないのです。

パウロは次のように述べています。

「なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを明らかにされたのである。

神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。従って、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神として崇めず、感謝もせず、却ってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。

彼らは自ら知者と称しながら、愚になり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである」(ローマ人への手紙1・19~23)。

不朽の神の栄光は地球に満ちています。それは自然全体として現われているのです。自然は全体が一つあるだけであって、朽ちる人間、鳥、獣、這うもの、植物があるのではありません。不朽の神の栄光が大自然として一つあるだけです。部分的に人間として現われているが、人間がいるのではないのです。

地球を完結無類の条件にして、森羅万象が発生するように仕向けているのは、ちりの働きです。ちりの功徳は絶大無限のものがあります。これをオールマイティと言います。これ以外にはオールマイティは必要がないのです。

神はまず大空という格好でオールマイティをばらまいたのです。自分の領分としてばらまいたのです。神の全能の両手によって、地球をかかえてしまったのです。

創世記二章七節に、人間創造について書いています。「主なる神は土のちりで人を造った」とあります。この箇所は英訳では、ザ・ロード・ゴッド・フォームド・マン・ザ・ダスト・オブ・ザ・グラウンド(the lord,God formed man the dust of the ground. )となっています。

主なる神が土のちりである人間に形を与えたのです。人間の精子に形を与えたのです。人間の精子はちりによって造られているのです。土のちりである人間に形を与えたと聖書は断言しています。形を与えただけであって、人間を造ったのではないのです。

「神は自分のかたちに人を創造された」とあります(同1・27)。これは創造の六日目のできごとです。だから、人間創造は六日目に行われたと思ってしまうのです。ところが、そうではないのです。

「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」(同1・26)とあるのは、神自らがしたことを述べているだけです。そして、これに海の魚と、空の鳥、家畜と獣、地に這うすべてのものを治めさせるとあるのです。これは全地を治めるという途方もない能力を持つに決まっているものを造ったことを意味するのです。

全天全地を治めるような途方もない能力は、すでに準備されていたのです。具体的な形で現わすと人間になるのです。空の鳥、海の魚、地に這う生き物を治めるものが人間なのです。このような人間はすでに準備されていたのです。

神においては、過去的表現も、現在的表現も、未来的表現も全部同じです。神は「千年は一日のごとく、一日は千年のごとく」という角度で考えますから、六日目に人間創造の記述がありますが、これを預言という光で見ますと、六日目そのものを意味するものではないのです。

「神が造ったものすべての物を見られたところ、それははなはだ良かった」(同1・31)というのが、創世全体の神の結論ですが、その最終段階が人間創造です。これはそれまでのことを総括的に述べているのです。

大体、創世ということの根源が何であったのか。そこに目的があるに決まっているのです。神の場合、手段と目的は一つです。言は神と共にあり、言は即ち神であったというように、手段と目的が一つになっているのです。

人間を造ったのではなくて、空の鳥、海の魚、地に這うものを治めるものができたのです。アーサーとバーラーが巧みに織り込まれているのです。アーサーは現われた状態を意味します。バーラーは創造です。ここを深く掘れば掘るほど、大原理が発見されるのです。

まず人間の原形がちりであるということをよく心にとめて、それを自分自身で十分に消化するのです。消化したことが、エネルギーになって沸き出るようになった後に、人に語るべきです。これが預言のペースです。

まず自分自身が生活で実行し、実感できるようになるのです。実践できないのは理解が足りないからです。もっと深く、強く、明確に分かりたいと思うのです。そうすると、聖書が助けてくれるのです。

ちりであることを生活するのです。それが消化吸収されて、生活の力になるくらいの経験をしてから人に言うのです。そうすると、力んで言わなくても、おだやかに言ったことが、人の心にビーンと響くのです。マスターして言うのです。マスターして言わないと説得力がないのです。

リビング・ソールとして造られた人が、罪を犯した。そこで、救われることの第一条件とは何か。どういう意識を持てば救われたことになるかです。原罪動物から本当に解放されるためには、どうすればいいか。

パウロは「心を更えて新しくせよ」と言っています。心とはマインドです。マインドを更えなければ命は変わらないのです。

人間はマインドの価値が分かっていないのです。これはリビングそのものの意味です。マインドはリビングです。リビングがマインドになって現われているのです。マインドが歪んでいたらリビングが歪んでくるのです。記憶の根幹が間違っています。

記憶の中心のマインドを切り替えなかったらいけないのです。これはできるかできないかの問題ではなくて、やらなければならないことです。やろうとすればできるのです。マインドがリビングだということぐらいは、ちょっと考えたら分かるのです。

知情意の知がマインドです。マインドで人間は生きているのです。これが変わればいいのです。現象世界と直接接しているのはマインドです。人間の命はマインドそのものです。マインドが外界に触れている。マインドが人間のリビングを形造っているのです。リビング・ソールであるべきものが、リビングマンになっているのです。

リビングマンはいないのです。マンは仮称であって、実称ではないのです。本当の実体はリビング・ソールです。マンというのは罪人に対する呼び方です。神が鼻から息を吹き込んだことによって、人を皆リビング・ソールにしたのです。リビングマンにしたのではないのです。ところが、人間はマンは認めるが、ソールは認めないのです。

日本人は魂という言葉を知っていますが、魂の実体を知りません。学者、宗教家が魂の実体が説明できないのです。日本のキリスト教の牧師で、魂の説明ができる人がいないのです。リビング・ソールという言葉が聖書にあっても、誰も説明できないのです。

サウンドとは実直を基礎にしたものです。素朴、篤実、朴訥であってほしいのです。神が相手にするのは、サウンドの人間だけです。サウンドでないというのは、その人自身が神を相手にしていないからです。神は非常に篤実、朴訥です。一切駆け引きをしないのです。

皆様は御霊を恐れる気持ちがないからいけないのです。薬を飲む時でも、食事をする時でも、靴を履く時でも、一つひとつ丁寧にするのです。

生きていることがそのまま父の内にいることです。イエスはI am in the father といつも言っていたのです。自分が生きていることが、いつも父と共にいることを確認していたのです。これを謙遜と言います。私は柔和にしてへり下る者であるというのは、こういうことを言うのです。

父の内にいるという感覚でお茶を飲むのです。そういう感覚で聖書を読むのです。生きているということは父の内にいることです。父が共にいなければ、私たちが生きているという事実はないのです。神は命です。命なる神が共にいなければ、生きているという現実があるはずがないのです。

丁寧に生きるのです。そうすると、サウンド・マインドが分かるのです。私は父の内にいるという気持ちを、いつも持って生きるのです。そうすれば、精神の霊を新しくすることができるのです。

精神の霊が新しくなれば、命が新しくなるのです。そうすると、皆様の記憶の状態が変わってしまうのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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