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父の懐(1)


ヨハネは次のように書いています。

「私たちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、恵みに恵みを加えられた。律法はモーセを通して与えられ、恵みとまこととは、イエス・キリストを通してきたのである。

神は見た者はまだ一人もいない。ただ父の懐にいる一人子なる神だけが、神を現わしたのである」(ヨハネによる福音書1・16~18)。

イエスが主であるということはどういうことか。私たちの生涯を通して、これだけを学ぶのが目的です。

十六節に、私たちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、恵みに恵みを加えられたとあります。これは英訳でみますと、イエスに満ちているそれから、すべてのものを私たちは受けたのだとなっています。つまり、イエスに満ちているものから私たちは受けているのです。

イエスにどういうものが満ちているのか。また、なぜイエスだけに満ちているのか。また、私たちがイエスに満ちているものから受けて、私たちが恵まれるとはどういうことか。

イエスが恵みに満ちている。満ち満ちていると言っていますが、イエスに満ちているというより、イエス自身がフルネス(fulness )であるのです。イエスがフルネスであるというそのことから、私たちは受けるのです。イエスが満ち満ちている。恵みに恵みが満ちているというそのことの意味が、まず分からなければいけないのです。

イエスにはどうして恵みに満ちているのか。キリスト教的に言えば、イエスは神の一人子だから、恵みに満ちているのだという考え方になるのです。これが根本的に間違っている訳ではありませんが、そういう考え方をしていますと、イエスに満ちているその恵みを私たち自身のものとすることが、なかなか難しくなるのです。

イエスと私たちは本来同じものです。どのように同じかと言いますと、まずイエスは神の言(ことば)です。御子です。神の光そのものです。

神の光そのものである御子が、一人子として生まれたのですが、世の基をおかないずっと前に生まれたのです。「すべての造られたものに先立って生まれた方である」と、パウロは言っています(コロサイ人への手紙1・15)。すべてのものに先立ってということは、天使長ルシファーが造られる前という意味です。

まず神がありたもうた。神がありたもうたとほとんど同時に御子が生まれたのです。御子はルシファーより先に生まれていたのです。光が生まれていたのです。

天使長ルシファーが天使長として立てられた時に、神の光であり、神の言でいます所の御子が、ルシファーと共におられたのです。だからこそ、天使長は天使長としての力を持つことができるようになったのです。

御子というお方は、神の栄光そのものです。ヘブル人への手紙を見ますと、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿である」と書いています(同1・3)。神の本質の輝き、響き、力そのものを代表するお方が、御子、一人子です。いや先に生まれた一人子はそういうお方です。

ルシファーを天使長として神が用いることになれば、それだけの力を与えなければ、仕事ができません。神の代理者として、宇宙を治めるだけの力を彼は持たねばならない。それを、与えられなければならないのです。

そこで、御子なる光が、天使長に遣わされたのです。御子というお方はそういうお方であって、神の懐だけにおられたのとは違うのです。非常に苦労しておられるお方です。

御子はルシファーの元に遣わされた。それによって、ルシファーが天使長になれたのです。これは口で言えば簡単な言い方になりますが、その内容はとても私たちの頭で創造できるような事ではありません。御子が父の元を離れて、ルシファーの所へ遣わされた。そうして、ルシファーの意志に従って御子が働かなければならない事になったのです。

御子としては最初は良かったかもしれませんが、ルシファーがだんだん逆性的になっていた。その時点において、非常に苦労されたに決まっているのです。

神の一人子であるお方が、ルシファーの所へ遣わされた。そのルシファーの中に、逆性の兆しが出始めたのです。そうしてルシファーが、父に逆らうような事を考え始めた。そういう事を通して、御子は非常に苦労されたに違いないのです。

御子が苦しまれた。父の一人子がルシファーの中に芽生え始めた逆性によって、ある場合には父の御心ではない方向に、御子が働かなければならなくなったからです。父が御子をルシファーの内に遣わされたのですから、ルシファーと共に働くということが、その時点においての父の御子でありますから、御子が勝手にやめる訳にはいかないのです。

父の御心は絶対ですから、御子自身の本性にあわないような働きであっても、無理やりにそうさせられる、悪魔に服従させられるというような、ひどいめに合わざるを得なかったに違いないのです。そうでなければ、ルシファーの中に逆性が発生する理由がないのです。もし御子がルシファーの中におられなかったら、ルシファー自身に逆性が発生するはずがないのです。

分かりやすく言いますと、皆様の中に言がなかったら、つまり理性がなかったら、皆様は腹を立てたり、人を恨んだり、悲しんだり、悩んだり、または、喜んだり、楽しんだりできるはずがないのです。

皆様の中に御子がおいでになればこそ、喜怒哀楽の感情が働くのです。それを皆様は、自分が苦しんでいる。自分が悲しんでいると考えているでしょう。それが御子の業であるということ、自分に与えられた魂としての御子の業であるということを考えていないでしょう。これがルシファーの中に逆性が発生した当時の状態です。それを今皆様が経験しているのです。そうして、自分の肉性によって自分の内にいます御子をいじめているのです。例えば、人を恨む、焼きもちを妬く、つまらないことに悲しんだり、ちょっと病気になったら暗くなったりして、御子をいじめているのです。

思い悩むこと、つまらないことに暗くなったり、喜んだり、恨んだりする能力の根源は何かと言いますと、人間に与えられている神の栄光です。

聖書に次のように書いています。

「人間は何者だから、

これを御心に留められるのだろうか。

人の子が何者だから、これを顧みられるのだろうか。

あなたは、しばらくの間、

彼を御使いたちよりも低い者となし、

栄光と誉れとを冠として彼に与え、

万物をその足の下に服従させて下さった」(ヘブル人への手紙2・6~8)。

人間を御使いたちよりも低く造って、これに栄光と誉れとをかむらせたと書いています。栄光と誉れとは御子の事です。御子が神の栄光です。神の栄光が人間に与えられている。それと同じように、ルシファーにも与えられていたのです。

ところが、ルシファーが淵の表に座することになった。そういうことをしたのです。その時、御子は非常に苦しんだのです。ルシファーの中にあって、ルシファーに苦しめられたのですが、御子が自分からルシファーから出ていく訳にはいかなかったのです。父の御心だからしょうがない。じっと我慢しておられたのです。

その時点において、御子はさんざん苦しんで、訓練をお受けになったに決まっているのです。この間だけでも、何億年、何十億年という長い時間を、苦しみ続けておられたのです。

今皆様の中にいたもう御子も、そのように苦しんでおられるのです。皆様の中にあるいと小さきキリストの兄弟が御子です。御子がいなければ、考えたり、計算したり、記憶したり、推理判断したりできないのです。できないのに、御子を肉の思いでさんざんこき使っているのです。それと同じように、御子はルシファーの中で、さんざん苦しんでおられたのです。

やがて、ルシファーの思いがだんだん明白になって、宇宙の表面に現われてきた。淵の表に定着し始めたので、これはいけないと父がお考えになったのです。父なる神が計画を変更なさるということは、よくよくのことです。父はめったに変更されないのです。神が神であるから、変更されないのです。

ところが、天使長の逆性がいよいよ明らかになって、それが宇宙の表面を支配するようになってきたので、父なる神はやむを得ず光あれと言わなければならなくなったのです。そして、闇の中から光よいでよと言われたのです(創世記1・3、4)。

いでよということは、ルシファーの中にある御子に向かって、おまえは出てきなさいという命令です。それを言われたのです。神は「光あれ」と言われた。すると、光があったというのはそのことです。

光が出ていったのですが、暗きはこれを悟らなかったのです。なぜ悟らなかったのかということです。これは意味深長です。皆様もこのことをよくよく注意しなければいけないのです。皆様は考えたり、推理、判断、記憶し、仕事をしていますが、それを自分がしていると思っています。これは神の言が皆様の内に働いているからできるのです。

そこで、もし皆様の中から、御子が出ていったとします。人間の場合そういうことはめったにありませんが、ないとは言えないのです。例えば、つまらないことに臍を曲げておかしくなったり、暗くなったりしますと、御子が皆様から出て行くことになるのです。出て行かなければならないことになるのです。

今、私たちのグループは御霊に導かれています。私たちのグループから出ていくことは、御霊の導きに逆らうことになるのです。御子が皆様の中から出て行っても、今まで習った聖書のことを記憶しています。これは消えないのです。自分の魂が経験していますから、それが自分の持ち物になっていますから、消えないのです。

だから、一人でも信仰ができると思うのです。今まで教えられたことは頭に残っています。しかし、それ以上は伸びません。霊的に成長しないのです。しん止りになります。今まで聞いた記憶を言っているだけです。しかし、少しも成長しないのです。自分で御言葉が開かれませんから、少しも伸びないのです。

御名の福音を聞いて、それを理解した。それはすばらしいと思って一時は感心した。しかし、臍を曲げて神に逆らった。臍を曲げた途端に、恵みに恵みを加えられることがなくなった。しかしそれまでの記憶が消えた訳ではない。これが現在の悪魔の状態です。

暗きはこれを悟らなかったというのは、自分の記憶が消えた訳ではない。御子が悪魔と共にいて、闇の内に御子がおられて、ルシファーがいろいろと経験した。そのすばらしい経験を自分の力で経験したと思っています。だから、自分の中から光が出ていっても、それで自分がだめになったとは思っていないのです。私たちのグループから出ていった人も同じです。暗きはこれを悟らなかったというのは、こういう状態です。

ところが、実はこれを悟るべき顕著な状態があるのです。なぜあるのかと言いますと、光が闇から出ていった。光と闇とを分けられたと書いているのです。光と闇が分けられた時に、闇はもはや天使長ではなくなっているのです。天使長の位を天から追放されて、地に落とされたのです。

天から追い落とされたとはどういう事かと言いますと、ルシファー自身の観念が固定して、それ以上進歩しなくなったという事です。これが地に追い落とされたという事です。例えば、私たちのグループから出ていった人の観念は固定している。それ以上伸びません。本人はそれに気づきません。これが暗きは悟らざりきという事です。

自分の能力が一向に減っていないと思っているのです。人間の力は減っていないというだけではだめです。毎日増えていかなったらだめです。増えていかないということは、減っていることです。

手習いは坂に車を押すごとく、油断をすれば後に戻るというのです。皆様の霊長が、毎日毎日前進していないということは、減っているということになるのです。御霊を受けたことは受けた。しかし、御霊を崇めないで、疎かにしている。なみしている。腹を立てる。人を恨む。そうすると、御霊を受けた状態からずるずると落ちているのです。前進していないのです。

前進していないということは、落ちていることです。ところが、本人は御霊を受けたと思っているのです。受けたことは受けたが落ちているのです。それに気がつかない。これが暗きはそれを悟らざりきということです。

悪魔は天から追い落とされて、肉の思いで固まってしまったのです。固まってしまったということが、神から捨てられたということです。しかし、彼は自分の記憶があるために、かつて御子が自分と共におられた。その時に彼は神と交わることができたのです。

その時の記憶に基づいて、今でも神と交わりはするのです。神の前にどんどん出ていって、神に訴えるのです。訴えるのですけれど、御子が共におられたように、自由闊達に神の御心を知ることが全くできなくなっているのです。

注意して頂きたい。皆様もこうなる危険性があるのです。自分の力でしていると思ったら大間違いです。自分の力で聖書が分かっている、御霊を受けたと思っていると大間違いです。グループに留まりたもう御霊のおかげです。グループから離れた途端に、ぴしゃっと止まります。

御子はルシファーの中におられた時に、苦労をしておられたのです。そこで、恵みに恵みが満ちたのです。ルシファーの中でさんざん苦労されたので、神は御子に満ち満ちた恵みを与えたもうたのです。

取り合えず与えられたのではありません。御子だから、ただで恵みが与えられたのではないのです。神はそんなえこひいきはなさらないのです。御子でさえも理由がなければ、神は恵みを与えたまわないのです。

私たちもこの世に遣わされて、肉の中に住まわされて苦労している。そのおかげで、現世において恵みを与えられるのです。そのように、御子もまた、ルシファーの中で苦労しておられたのです。

そこで神は「光よ現われよ。光よいでよ」とおおせになったのです。その時、御子が闇の中から引き出されて、恵みが与えられたのです。これが十六節に出ているのです。

御子が神の恵みに満ち満ちているのは、かつてルシファーの中におられて、さんざん苦労されたからです。そういう意味で、御子は悪魔のことをよく知っておられるのです。悪魔の腹の中におられたからです。悪魔のやり口をよく知っておられるのです。

現在皆様はそれをしているのです。肉の思いがどんなものであるかをよくご存じです。知ってるどころか、肉の思いの大将になって、思いわずらって、臍を曲げて暗くなる名人です。悪魔も顔負けするくらいの名人です。

そこでそれに私たちは勝つのです。御子は悪魔と共におられたが、光が闇に負けたことはないのです。闇の中に闇と共におられても、光はいつでも絶えず光は光であったのです。そこで、光あれと言いたもう時に、御子に恵みが加えられたのです。

やがて、皆様も光あれと言われるでしょう。これが携挙です。または、この世を去る時です。この世を去る時には仕事はすんだ。だから、私の所へ帰れと神が言われるのです。

その時、皆様はこの世を去る時に、天へ凱旋するのです。神の元へ帰って再び苦労しなくてもいいように、御子と同じように第三の天に座することを許されるのです。私たちは現世にいる間、喜んで苦労したらいいのです。

パウロが「すべての艱難にも喜びをなす」と言っているように、どのような事も恐れる心配はないのです。いつでも心は明るくあればいいのです。やがて皆様は御子に恵みが満ちあふれたように、皆様もそうなるに決まっているのです。この世を出たらそうなるに決まっているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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