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  • 管理人chaya

父の懐(2)


私たちの魂は本来御子です。私たちの魂がこの世にいるということは、御子が闇の中に住まわせられたように、御子が私よりも一歩先に闇に住まわせられていたのです。そういう経験を持っておられた御子が、もう一度人間としてこの世に下されたのです。今度は肉体を持って下されたのです。

前の時には肉体がなくて、霊として闇の内におられたのですが、今度は肉となって、この地上に下られたのです。これが言が肉となって、私たちの内に宿ったということです。それをヨハネが見たと言っているのです。

御子は一回は霊において暗きを経験し、もう一回は肉において暗きを経験されたのです。そういうお方が私たちの救い主です。そうすると、皆様を完全に救えるのです。霊的な意味での暗さに勝った。肉的な暗さにも勝った。完全な勝利です。御子はそういうお方です。恵みに満ち満ちているというのは、そういうことです。

パウロは次のように述べています。

「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしくして、僕のかたちをとり、人間の姿になられた。そのありさまは人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

それ故に、神は彼を高く引き上げ、すべての名に勝る名を彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエスは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ人への手紙2・6~11)。

現世に罪人の形をとって地上に下ることを父から命じられたのに、神と共にあることを捨てがたきこととは思わずに、それを固く保とうとはしないで、父の仰せのとおりに罪人の形をとって、地上に下りたもうた。これは本当に御子でなかったらできなかったことです。

そういうお方が皆様の夫です。ちょっと上等すぎるのです。皆様もそれに適うものだと思って頂きたいのです。今の自分のことを考えると、とても釣り合わないですから、自分自身の本性は御子と同質のものであると思って頂きたいのです。

私たちは神から来たのです。現在神によって生かされています。やがて神に帰るのです。ローマ人への手紙の十一章三十六節でパウロが言っているとおりです。

「人は神にかたどって、神のかたちのように造られている」。これは神の栄光そのものです。神の栄光とは、神の言葉のことです。御子のことです。私たちは御子でした。御子である神の栄光が、地上に遣わされているのです。

その事柄をよく心得て、自分の思いではなくて神の御心で生きるのです。父の御心を行う者は天国へ入るとイエスが言われたように、自分の思いではなく、神の御心で生きるのです。

父の御心を行う者のみ天国へ入るとイエスが言われたように、自分の思いで生きないで、父が今訓練しておられるのだということを弁えた人は、神の元に帰ることができるのです。

十七節になりますと、掟はモーセを通して与えられた。恵みと誠はイエス・キリストを通してきたとあります。掟は与えられたのであり、恵みと誠は向こうからやってきたのです。

イスラエルは掟が分かっていません。掟を与えられたものです。何に与えられたかと言いますと、肉体的に存在する人間に神が与えたものです。与えられたというのは、求めたから与えられたのです。やってきたというのは、求めないのにやってきたのです。恵みと誠は人間が求めていないのです。求めなかったのです。

ところが、掟の法は求めたのです。なぜそんなことをしたのかと言いますと、ユダヤ人は神自身が治めるか、掟を守ることによって神に仕えるか、どちらが良いかと神に聞かれた。神自身に睨まれたらけむたいので、掟を守る方にして下さいと言った。こういう愚かなことを言ったのです。それで掟が与えられたのです。掟を守る方が気楽だと思ったのです。

しかし、反対です。神の御顔の前にいる方が楽です。アブラハムは、「汝わが前に歩みて全かれ」と言われた。アブラハムは神の御顔の前にいたのです。イスラエルは神の御顔を見ようとしなかった。掟を行おうとしたのです。掟は神の影です。御顔を仰ごうとしないで、神の影で自分の肉性が生かされる余裕があると考えた。これは大変な考え違いです。

掟は一体何かと言いますと、肉体的に存在する人間はすべて女性です。掟は夫です。モーセの掟は肉体を持っている人間に対する夫の役割を演じているのです。神自身に治められたいと願うなら、神自らが夫になって下さるはずでしたが、それをお断わりして、掟を夫にしたいという注文を出したのです。これは旧約聖書の出エジプト記、申命記に書いてあります。ユダヤ人が注文したと書いているのです。

皆様が今仕えている夫も、皆様自身が注文したのです。結婚したいと思った。そう思って結婚したのです。人によって事情が違いますけれど、ある男性と一緒になることを承知したから、一緒になったのです。それが皆様に対して掟になっているのです。

肉体を持つイスラエルがモーセの掟に従わなければならなかったように、肉体を持つ女性は夫に従わなければならない義務があるのです。絶対的な責任があるのです。どんなに従いたくない夫でも、夫が肉体的に存在する女性に対する掟になっているのです。夫はおまえを治めるであろうと言っているのです。

夫に治められるのが、女性の運命です。そのように男はモーセの掟に従わなければならないのです。これが男の夫です。男の夫と女性の夫とがあるのです。

どんなに厄介な夫でも、それに従うのが皆様の運命です。女であることの運命です。夫であることがキリストであるということです。

良くても悪くても、夫の考えに従わなかったら、それに同意できなかったら、その人は女性として自らを完成することができないのです。女性はそれができると、一遍に楽になるのです。夫に従うという度胸をはっきりすえると、女性の霊魂の責任は男性に移ってしまうのです。そうすると、女性は楽になるのです。

皆様は完全に夫に従おうとしないから、色々な形で重荷を背負っているのです。暗くなる原因も心が動揺する原因も、よく考えてみると、皆様が夫に従っていないからです。必ずそうなっています。

そんな事はないと言っても、自分が自分を弁護しているだけです。神から見ればそうなっているのです。そうすると、女性は夫には従わなければならないし、聖書を信じなければならないから、二重の損だと思うでしょう。そうではないのです。夫そのものがキリストですから、それに従う決心さえすれば、皆様の霊調はどんどん伸びるのです。

女性の魂の責任は夫が持たなければならないのです。これは宇宙の鉄則です。これを不合理だと考えるのは、女性の中にいる悪魔がそう考えるのです。ユダヤ人は掟が守りにくい。本当に守りにくいと考えた。これはユダヤ人の中にある悪魔がそう思ったのです。

現在の全世界の人間に対しては、イエス紀元が夫になっているのです。キリスト紀元が夫です。日曜日に仕事を休むことが夫です。ユダヤ人問題が全世界の夫です。ユダヤ人が大将でなければ、人間文明が展開しないということが、人類全体の夫です。

私たち異邦人は、夫のために祈っているのです。イスラエルは皆様の夫です。私たちの夫です。私たちは人間的にイスラエルに反抗しているのではない。ユダヤ人を迫害しているばかな国民がいますが、その連中は夫に抵抗している妻みたいなものです。白人はそれをしているのです。だから、白人は絶対に千年王国の中心にはなれません。

幸いにして私たち日本人は、ユダヤ人を迫害しなかったのです。むしろユダヤ人を助けたのです。本当に幸いです。だから、むちゃくちゃな夫を愛することができる。むちゃくちゃなユダヤ人を愛することができるのです。

皆様は目に見える夫を愛して頂きたい、尊敬して下さい。そうしなければ、皆様の霊魂は本当に目を開くことはできません。霊魂の目が開かなければ、心は幸せになれないのです。

なぜ自分を捨てて十字架を信じることができないのか。夫に惚れていないからです。夫を尊敬していないからです。完全に夫に仕えていないからです。夫を裁いている。あるいは夫を見下している。心の中で不満に思っているからです。掟に反抗しているからだめです。

肉体を持つ人間に掟が必要であるように、肉体の女には夫が必要です。男性の性器は命のシンボルです。女性は男性の性器を持っていないからです。これは当たり前です。だから、皆様は命を慕うという意味において、どうしても男性が必要です。

男性なしに直接キリストに結びつく人もありますが、それはその人の業の深さによるのです。業の深さによって、夫なしにキリストを直接信じることができる人もありますが、その人は人間的には大変不幸です。霊的には幸せですが、人間的には大変不幸です。

皆様が誰かの妻であるというのは、それだけ世間では威張っていられるのです。その代わりに、霊的には難しいのです。独身でいる人は、世間では威張れません。その代わりに霊的には楽です。神は公平です。誰も威張る必要もないし、臍を曲げることもないのです。これが掟と恵みの関係です。

掟はモーセによって与えられた。恵みと誠はイエス・キリストによって来ました。このことをよく考えて頂きたい。人間の肉体にはどうしても掟がいるのです。女の肉体には掟がいるのです。

恵みと誠は、魂に対する神の処置です。これは神が責任を持って、神の方から恵みと誠を下さったのです。これは人間の霊魂に対しては、キリスト自身が夫でありたもうからです。

人間がそれを知っていても知らなくても、人間がそれを信じても信じなくても、人間の魂はすべて神の妻です。キリストの妻です。そこで、キリストの方から恵みと誠を人間が求めないのに、与えて下さったのです。これがキリスト紀元です。イエス紀元の新約時代です。神の方から人間の方へやってきた。これは霊魂に対する神の処置です。掟はモーセによって与えられ、恵みと誠はイエス・キリストによって来たという言い方は、本当にすばらしいことです。こういう人間存在を、よくよく考えて頂きたいのです。

しかもなお、皆様が女であるということは、皆様自身が決めたことではないのです。神が決めたことですから、夫に従わなければならないと考えなくてもいい。ただ心を明け渡したらいいのです。そうすると、女であるということの方が、男であることよりもずっと楽であることが分かるのです。ただ従いさえすれば楽なのです。

イスラエルが掟を守るとどうなるのか。掟を守るということはどういうことなのか。例えば、モーセが掟を守るということです。人を殺してはいけない。嘘をついてはいけない。これは何を言っているのか。それを守るとどんな効能があるかです。それはすばらしい秘密があるのです。非常に深い秘密ですが、これが人間に分からないのです。

人が掟を守る。また、夫を心から敬愛して仕えますと、なぜそうしなければならないかが分かるのです。行ってみればいいのです。行わないから分からないのです。

現世で、誰もが反抗しているのではありません。中には夫を尊敬し、惚れている人もいます。そういう人の顔は明るいのです。暗い顔をしている時には、夫に背いているに決まっているのです。夫に従っている時は、いつも幸せそうです。女性は正直です。夫に従っている時はいつも心が平和です。従っていない時は、必ず波風が立っています。自分で自分のことを考えたら、すぐ分かります。

人間が掟に従っている時は、心がいつでも平和です。なぜ平和になるかです。モーセの十戒を行うとなぜ心が平和になるのか。これは神の御心を行うからですが、それがそのまま魂の願いでもあるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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