top of page
検索
  • 管理人chaya

父の懐(3)


十八節には、「神を見た者はまだ一人もいない。ただ父の懐にいる一人子なる神だけが、神を現わした」とあります。父の懐にいる彼だけが、神を現わしたのであるとはどういうことか。イエス・キリストというお方は、かつて闇の懐にいたのです。今は父の懐にいるのです。闇と光の両面が完全に分かっているお方です。

父なる神というお方は、父なる神であって、この方は闇の方はもちろん十分にご承知ですが、闇の懐におられたのではないのです。父なる神が悪魔の懐にいるはずがないのです。父なる神はどこまでも造り主です。完全無欠のお方が父なる神であって、完全無欠というのは、一つの条件があるのです。影があるというのが条件です。

「ある」というもの、「存在」には影がなければならないのです。現在皆様がご存じのものの中で、影がないものが一つでもあるのでしょうか。

実は空気でも影があるのです。風でさえも影があるのです。人間の目で見えるような影ではありませんが、風や空気のあり方においての影があるのです。太陽光線には影がないように見えますが、やはり影があるのです。太陽光線をプリズムで分けますと、七色に分かれます。これは影がある証拠です。

そのように、「ありてある」お方が現われているのです。「ありてある」というお方、「存在」そのもののお方にも、また、影があるのです。影があるから完全です。影がなければ、神とは言えないのです。

人間がどんなにお金持ちでも、死の影がつきまとっているのです。「この夜をば わが夜とぞ思う望月の かけたることもなしと思えば」という、藤原道長の有名な歌があります。宇治の平等院を造った道長です。望月というのは満月です。自分の生活も地位も、満月のように丸い。欠けたる所がないという程、藤原道長は自分の人生に満足していたのです。

しかし、やはり死が恐ろしかった。そこで、宇治の平等院を造って、極楽の模様を平等院の天井に書いたのです。極楽浄土をそのまま自分の住まいにしたかったのです。やはり自分の心に影があったのです。

全知全能の神ご自身にも影がある。影がなければ、神ご自身の全知全能を全能として現わすことができないのです。影がいわゆる闇です。神はご自身の一人子を、ご自分の影の方へちょっと遣わされたのです。闇に遣わしたのです。今は闇は神に背いています。しかし、闇がなければ神の約束は成就しないのです。

神の全知全能は、約束の完成において完全に成就するのですが、これは闇がとことん神に反抗しているから成就するのです。これは八百長ではありません。宇宙の真理です。存在とはそういうものです。これについて理屈を言わずに、存在の状態を黙って受け取って頂きたい。皆様の頭ではいくら考えても分からないでしょう。

影と光との関係、表と裏の関係は一体ではあるが、別です。全く別です。別ではあるが一体です。しかし、どこまでも裏と裏、表と表です。

「汝わが前に歩みて全かれ」と神はアブラハムに言われた。神は前から拝むべきものです。後ろから拝んでもしかたがないのです。

神を見た者は一人もいない。一人子の神だけがこれを現わした。一人子の神は父の懐におられたから、これが分かったのです。父の懐にいれば、父が悪魔に対してどういう気持ちを持っておられるかが、十分に分かっているのです。なぜ父が遠慮しておられるように見えるのか。そのことをイエスは十分に知っていたのです。

父が遠慮しておられるのではない。悪魔が悪魔でなければ、神が神ではないことを、イエスは知っておられたのです。父の懐におられたからです。

イエスになられた神の御子は、かつて悪魔の懐におられたのです。今は昇天されて、父の懐におられるのです。第三の天において、父の懐におられるのです。その前に、彼が地上におられた時にも、肉体的に生きているという状態で、父の懐を知っておられたのです。

神は肉体を持っていないと言いますが、これは正確ではないのです。なるほど、父なる神は肉体を持っておられない。しかし、子なる神として肉体を持っておられるのです。父の懐にいるお方が、肉体的にはっきり人間生活を経験しておられた。このことは、肉体的に生きているとはどういうことかを、神ご自身が御子を通して経験されたという事になるのです。

一人子の神が、人としてこの世に現われた。これは神ご自身が肉体的な意味での経験をするためであった。父自らが人となりたもうことはできない。また、そうする必要もないのです。

生みたまえる一人子というのは、父ご自身とは寸分違わないお方です。ただ位が違うだけなのです。父なるお方と子なるお方という位があるだけであって、本質は同じです。従って、子なるお方が肉体をとって現われたということは、そのまま父なる神の経験になるのです。そういう形で、父なる神も自ら御子を通して、肉体を経験されたということが言えるのです。

これは、父と御子と御霊が一つになって、父ご自身の影を変えて、新しいものにされた。つまり、影が働いた事によって、神の約束が具体的に発動したのです。

もし逆性が発生しなかったら、神は約束を立てる必要がなかったのです。逆性が働き出すことによって、約束が立てられて、発動するチャンスとなったのです。結局、影が作用したために、新しい天と地が生み出される原因になったのです。

私たちも罪人としてこの世に送られたから、すべてを治める力を与えられる可能性が与えられたのです。もし私たちが罪人でなかったら、万物を治める程の知恵と力を自分自身のものにすることはできなかったでしょう。ここに、罪のある所に恵みの光も差し込んでくるという原理があるのです。

だから、業が深かろうが、自分がつまらない者に見えようが、そういうことを思えば思うほど、与えられた恵みの深さ高さを、大いに期待すべきです。地面が窪んでいる場合、窪みが大きければ大きい程、溜まる水も多いに決まっています。そのように悪いことが大きければ大きい程、恵みも大きいと受け取ったらいいのです。災いを幸いに変えたらいいのです。

そのように考えると、非常に伸び伸びと生きることができるのです。この世においてつまらない自分が生きていると思っていても、つまらないことが多ければ多いほど、ますます神の恵みが多く理解できることになるのですから、つまらない自分であることに感謝したらいいのです。

イエスは悲しみの人してこの世に出てきた。誰が父親であるか、普通の人には分からない状態で、この世に出てきたのです。これは最も業が深い状態です。皆様とは比較にならない程、業が深かったのです。父親が誰であるか分からない状態で、この世に出てきたのですから、本当に業が深かったのです。

その業の深さを耐えて耐えきって、ついに一番すばらしい恵みを神から勝ち取ることができたのです。ですから、私みたいな者とは、決して思ってはいけないのです。そういう人間だからこそ、神からすばらしい恵みを与えてもらえる可能性の方に目をつけたらいいのです。現在の自分より、よりすばらしいものを与えられるという可能性を見つけることは、恵みという言葉になるのです。

「信仰と望みと愛の三つは一つである」とパウロが言っていますが、望みというのは可能性のことです。可能性は自分自身の現在の状態が悪ければ悪いほど、可能性がすばらしいものであることになるのです。

イエスが肉体をとって現われた。このことは、神が人として人間存在を経験されたということです。これを反対に言いますと、人間存在が神を経験することができるという道が開かれたということになるのです。

神が人となったということは、人が神になれる可能性が開かれたということです。これは絶対的な可能性です。これが一人子が地上に来られたということです。今、地上にいる私たちは、一人子が地上に来られたことを鏡にして見るなら、自分自身の望み、可能性がどういうものであるかが、簡単に分かるようにできているのです。

ナザレのイエスが神の生みたまえる一人子であって、肉体をとられたお方であったということが分かれば、私たち自身が神の御子として待遇される可能性があることは、簡単に分かるのです。この簡単なことを信じるのです。自分の思いを信じてはいけないのです。

人間は自分の思いにすぐに取りつかれるのです。そうして、何か自分がいじめられているような、ひがみ根性を持つようになるのです。自分の思いを信じるなと、イエスはいつも言われたのです。イエスが現世に出てきて、いつでも悪魔と闘って勝った秘訣はこれです。ただ自分の思いを信じなかった。それだけなのです。

もしイエスのような運命の人が、自分の思いを信じたら、とても悪魔に勝つことはできなかったでしょう。ナザレの村に生まれて、ああいう運命の元に生まれてきたことを、世間から何と言われたのか。自分が生まれたことによって、母親から何と言われたのか。また、父親が陰で何と言われているのか。それをイエスは耳で何回も聞いていたはずです。

自分が生まれたことが、両親にまで甚大な迷惑をかけていることを、イエスは直感できたに違いないのです。自分が生まれたことによって、父親や母親がどれほど迷惑を被っていたかということです。

イエスの両親は悪い人ではなかったのに、そのように取り扱われていたのです。聖書にはそのように書いていません。マリアは非常に恵まれた人だと書いています。神から見ればそうなりますが、人から見れば正反対です。マリアは最も軽蔑されるべき人であったとなるのです。

人間が見ている自分と、神が見ている自分とでは、全く逆になるのです。ですから、自分の気持ちですぐ暗くなりやすいということでも、決してひがむ必要はない。ひがまなければならない理由があっても、それは恵みに変えてもらえる資格だと思えばいいのです。ひがみ根性が強い人間ほど、恵まれる可能性が大きいと思えばいいのです。

イエスが父の懐にいたとはどんな状態だったのでしょうか。昔は赤ん坊を背中におんぶしないで、前の胸の所、つまり懐に入れていた人がたくさんいたのです。日本の平安朝の時代にはそうでした。

働く女性は背中におんぶをしたのですが、あまり働かない上流家庭の人は、懐に入れたのです。牛若丸が常盤御前の懐に抱かれている絵が描かれていますが、その時代の風俗としては当たり前のことでした。

ヨハネがイエスの胸にもたれかかったと聖書にありますが、日本のように儒教的な礼儀作法をやかましくいう民族では考えられないことですが、イスラエルでは決しておかしくはない風習でしょう。

ヨハネがイエスの胸にもたれかかっていたという状態が、父の懐にいると言えるのです。皆様もそれをしたらいいのです。

一切の警戒心を持たない。自分を守ろうとか、ひがみ心を持たないのです。イエスは父の懐にいて、この世で生きておられたのです。だから、父を信じることができたのです。皆様も父の懐にいるような気持ちの信仰でなかったら、とてもイエスを信じることはできません。

自分は物を知らないとか、人よりも劣っていると思えたら、却って父が恵みを与えて下さる原因であると思ったらいいのです。そういう厚かましい考え方をするのです。ひがむよりもずうずうしく考えた方が、その人を神が愛するのです。

心を尽くして神を愛することが一番必要です。心を尽くして神を愛するというのは、神に対して絶対に警戒心を持たないのです。自分の運命を呪ったり、生まれ性を悔やんだりしないのです。

信仰を妨げるという意味では、ひがみ根性が一番悪いのです。何よりも悪いのです。ひがむ人は、神を警戒するのです。神に近寄ろうとしないのです。だから、一番神に敵することになるのです。

生まれ性が悪い癖になっているのです。これが業です。この業を果たすのです。つまり、現世に生まれてきた自分が死んでしまうのです。そうしなければ救われないのです。理屈に合おうが合わなかろうが、結局救われなかったら負けです。どんなに自分が立派で正しいと思っても、キリストを信じなかったら、結局負けです。死ぬのが嫌なら、地獄へ行くのが嫌なら、ひがむのをやめなければいけないのです。

イエスの生き方、やり方が、父なる神をそのまま現わしているのです。神を現わしたのは、一人子だけであると言っています。神ご自身の本当の姿、本当の御心を現わしたのは、一人子だけである。だから、イエスがこの世で生きていたその生き方を、そのまま自分がなぞっているのです。イエスの生き方を下敷きにして、その上に自分の生き方を乗せていくようにするのです。

現世で損をしようが得をしようが、どうでもいいのです。損をすればするほど儲かるのですから、人からも自分自身も損をしたと思えば儲かるのです。ところが、損をしないでおこうと考える。その結果、自分を滅びに負いやってしまうことになるのです。イエスのように父の懐に入ろうとしないからです。

どんなに悪い人間でも、父の懐に入ったらいいのです。父の懐に飛び込んだらいいのです。横着と、本当に神に頼るということは、非常に似た所があるのです。

イエスは決して横着ではなかった。どこまでも父の懐にいたのです。自分の悪いことも、つまらない事も、疑われたり悪口を言われていることも、全部承知の上で、父の懐に転がり込んだのです。父の懐にいるから、叱りようがないのです。

「窮鳥懐に入れば、猟師もこれを撃たず」と言います。鳥を追いかけている猟師が、その鳥を見つけて殺そうとしたら、その鳥が怪我をしながら、猟師の懐に飛び込んでしまった。そうしたら、その鳥はもう殺せないのです。窮鳥懐に入れば、猟師も殺さずです。ましてや、愛なる父です。父なる神の懐に飛び込んだらもう勝ちです。

惚れるというのはそういうことです。キリストに惚れるというのは、キリストの胸に転がり込むことです。それをしないで、じっと眺めているからいけないのです。自分がいいとか悪いとかということではありません。懐に入ることがいいのであって、自分が良くても悪くても関係がないのです。懐に入らなかったら負けです。いくら悪くても懐に入ったら勝ちです。

イエスは父の懐に飛び込んだので、神が万物を生かしている意味が良く分かったのです。何のために牛や馬がいるのか。何のために犬や猫がいるかが分かったのです。

他人が自分にどういう気持ちを持っているのか。ユダヤ人がこれからどうなるのか。そういう事についての父の御心が、イエスには手に取るように分かったのです。この病気は治るか治らないかということまで分かったのです。

皆様がどうしても聖書が分からない、神が分からないというのは、父の懐に入っていないからです。簡単です。心が暗くなったり、寂しくなったりするのは、父の懐に入っていないからです。

もし心が寂しい気持ちになったら、父の懐に入って下さい。何か今日は、もう一つ神と自分が接近していない。神と自分との間に、厚い壁があるような気持ちがしたら、その気持ちを信じるのをやめたらいいのです。私がどう思おうが、私の心臓が動いていることが父です。これが分かれば、父の懐にいるのです。

目が見えることが、神の御霊の働きです。そうすると、私と父はインマヌエルです。インマヌエルなら、私の気持ちが暗かろうが、悲しかろうが、寂しかろうが関係ないのです。私の気持ちを捨てたらいいのです。

イエスの真似をして、私は父と一緒にいると思ったらいいのです。そう決めたらいいのです。自分の気持ちを捨てる。これだけでいいのです。生かされていることが神です。父です。生かされているという事実があったら、その中へ転がり込んだらいいのです。これが父の懐です。

十八節に、「父の懐にいる一人子なる神だけが、神を現わした」とあります。これはどういうことかと言いますと、イエスの場合、父の懐にいたということが、一人子なる神です。神と一人子が別々にいたのではない。懐にいたということが神ということです。父と自分を別け隔てしていない。父と自分を一つとして見ていたのです。

肉体を持っている人間が、肉体を持っている人間を見たら、訳が分からない欠点があるように思えるのです。パリサイ人やサドカイ人がイエスを見た時、イエスが全く箸にも棒にもかからない、むちゃくちゃな人間に見えたでしょう。だから、イエスを殺したのです。殺そうと思うのは、よくよくのことです。生かしておけない程、悪い奴だと思ったから殺したのです。少々悪い人間なら、十字架につけよとは言わなかったのです。

皆様の目から見たら、私もそのように見えるかもしれません。私に近い人間ほど、私が信用できない人間に見えるかもしれません。そういうことになりやすいのです。私に近い人間ほど、私が自分勝手で、理屈ばかり並べている人間に見えるのです。

イエスの兄弟がそう思っていたのです。小ヤコブと言われた人がイエスの弟ですが、イエスが生きている間は、イエスの話を全然聞かなかったのです。イエスが昇天してから、ペテロやヨハネに言われて、兄貴は偉い人だったのかなあと思えてきたのです。小ヤコブはイエスが復活昇天してから、祭り上げられて、エルサレムの教会の監督になっているのです。そんなものです。

イエスに近い人間ほど、イエスがしていることが訳が分からないように見えたのです。これはやむを得ない人間の運命です。肉体を持っている人間はそうなるのです。イエスをまともに見ようと思ったら、肉体を持っているという条件を考えたらいけないのです。これを考えるから分からなくなるのです。自分が肉体を持っている。イエスが肉体を持っている。これを考えると、イエスが分からなくなるのです。

言(ことば)は肉となったのです(ヨハネによる福音書1・14)。言が肉となったのであって、言が肉ではないのです。肉という仮の姿を取ったのです。この世に生まれた人間は、罪人という仮の姿を取って生きているのです。皆様は肉体を持つことによって、罪人という仮の姿を取らされているのです。肉体が本当の自分ではないのです。

肉体を持つという仮の姿を取らされている状態で、イエスをどのように信じるかを試験されているのです。それだけのことです。自分の思いを捨てるか捨てないか。肉体的に生きている自分を信じるか信じないかを試されているのです。

肉体的に生きている自分を信じると、自分が良くても他人は悪いと考えるのです。あの人は嫌いだ、この人は好きだと考える。あの人は善人だ、この人は悪人だと思えるのです。善悪利害得失を考えるのは、すべて現象を実体だと考えるからです。

イエスがこの世に遣わされたのは、人間は実は肉体的に存在するものでない。人間の本性は霊なるものであって、肉なるものではないということを証明するためだったのです。そこで、イエスを信じると言いながら、なお肉体的に生きている自分を信じるとすれば、その人はイエスを信じていないことになるのです。

イエスは肉体的に生きていたが、霊に従って歩んでいた。父の懐にいたということが、霊に従って歩んでいたことです。イエスは肉体的に生きていたが、それを自分自身の気持ちに置いていなかった。色即是空をそのまま実行していたのです。イエスは本当に色即是空を実行していたのです。十八節にはそのことが書かれているのです。

父の懐にいます神の一人子という言い方は、イエスは肉体的に生きていなかったということを意味するのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:1回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

人間は今の自分の命が死ぬに決まっていることが、よく分かっているのです。よく分かっていながら、それをやめることができない。これを原罪というのです。原罪とは何かと言いますと、生まれる前に犯した罪のことです。 アダムがエデンの園でへびの言葉を鵜呑みにした。サーペントというへびに引っ掛かったのです。サーペントの思想がそのまま肉の思いの原点になっています。皆様は好むと好まざるとに係わらず、生まれる前に肉の思

しあわせ

自分自身の存在が無意味であり、無価値であることを確認して、身を引くという考えが日本にあります。私さえ身を引けば、それで四方八方が円満に収まるという考えです。これは一種の自慰行為です。自分自身が犠牲になることによって、誰かを幸福にしてあげようとか、ある事を円満に収めてあげようという、母性愛的な、動物愛みたいな考え方です。そうして身を引こうと考えるのです。 その時の気持ちが全然嘘という訳でもないのです

bottom of page