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  • 管理人chaya

神に生きる


人間が現世で生きているという事は、もちろん自分が生きているのではありません。生かされているのです。生かされているというのは、もちろん神に生かされているのです。だから、生かされているという事自体が、父の大能の内の御手の内に置かれているということになるのです。

このことを意識すれば、大能の御手が自分の味方になってくれるのです。意識するというのは、信じることです。信じなければ大能の御手は味方にはなりません。

なぜそうなるのかと言いますと、父の御心は人間自身に神の御名を悟らせるため、神の愛を悟らせるために、この世に魂を遣わされたのです。これは魂自身のためではなく、神御自身の愛の対象として魂を送られたのです。自分が神の愛の対象であるということを自覚しますと、魂は無限の平安を味わうことができるのです。

パウロが「平安の神があなたがたを守りたもう」と言っているように、神の平安が私たちを守って下さることになるのです。

これは絶対者の平安です。愛の平安です。それを経験するために、自分が生かされているのです。そのことが父なる神によるものであるということを、いつでも考えようとするのです。

これは非常に素朴な幼児のような幼稚と言えるほどの素朴な信仰ですが、この素朴な信仰が最もレベルが高い、高邁な信仰になるのです。神は宇宙の絶対者ですが、絶対者の腕は大自然が展開しているように、非常に素朴な形で動いている、働いているのです。

この神の素朴さとマッチするような感覚を持とうと思えば、人間自身も素朴にならざるを得ないのです。神の素朴さを自分の父と呼ぼうとするなら、自分の気持ちも素朴な神の子であるという気持ちを持たなければいけないのです。

父の御心に合うような素朴な気持ちを持たなければ、神の大能を味方にすることはできません。神のリズムに自分に合わせていくのです。落ち着いて、冷静に、淡々として、神のリズムに合わせるのです。

自分の感情や自分のプライドのようなものに係わらず、雲が流れるようなごく自然の状態に自分をおくのです。父なる神の御名の内に自分自身をおいて、存在を通して働いている神の全能が自分の味方であると信じて、この大自然の素朴な法則に合うような形で、自分の心を用いるように考えるのです。これが神を信じる人の心の使い方になるのです。

一切を神に委ねて、必ず神が成して下さると信じて、神の守りを意識して、素朴に神に接触していくのです。生かされているということは、素朴な事です。これほど素朴な事はありません。目が見えること、耳が聞こえること、五官の働きは素朴そのものです。あるがままの状態が、あるがままに見えるのです。あるがままの音があるがままに聞こえるのです。

決して、曲がったり歪んだりして人間の目に入るのではありません。これがそのまま生かされているという事実です。臆面なく、たじろう事なく、疑う事なく、ただ信じるのです。「恐れるなただ信ぜよ」でいいのです。

死にたるものを生かすというのが、神の大能です。神の大能はちょうど太陽が輝くようなあり方で、人間の命に働きかけてくるのです。太陽が輝くようなあり方で、人間の魂に働きかけるのですから、心を開いて単純に信じるのです。

幼児のようにただ父なる神に寄り添っていくやり方が、一番賢明なやり方です。大人のような思いはかり、心づかい、理屈のつけ方が一番神に嫌われるのです。

「父なる神は宇宙の秘密、天地の奥義を、知者学者に隠して、嬰児に示して下さった」とイエスは言っています。神の御心は嬰児の心にちょうど合うような素朴なものですから、嬰児の感覚を持つことです。大人であるという思いはかりや、知者学者のような理屈、自己弁護、自己弁解を一切捨てて、幼児のように直接に神御自身を見るというやり方をするのです。

これは恋愛と同じことです。恋愛感情の場合には、一切の理屈を抜きにして、好きな人は好きだと考える。ただ好きだから好きです。なぜ好きかと言われても分からない。

そういう感覚で神に寄り添っていくのです。叱られても、蹴飛ばされても、構わずに、神に寄り添っていくのです。そうすると、神に叱られることが神の愛だということが分かるのです。

寄り添っていかずに、しり込みをしながら、神の顔色をうかがっていると、恐ろしい神のように見えるのです。そこで神を警戒する。神の愛を疑うのです。そうして自分自身が暗くなるのです。これは最も下手なやり方です。

十字架によって今までの古い人の思いはかりの人生は、既になくなっていることを確信して、昨日までの自分の行き掛かりや、自分の立場、自分の考えにこだわらないで、ただ率直に、真っ直ぐに、単純に神を見るのです。

単純という言葉ほど、信仰の秘訣はありません。信じるということは単純になることです。ただ信じよとイエスが言っています。単純に信じることを言うのです。これが全能者の中に自分自身を入れる、唯一の方法です。

しようと思うことが自由意志の働かせ方です。自由意志をそのように働かせて、自分の知恵や才覚で自分の意志を用いないで、自分の魂を働かせていくのです。自由意志を大人の考えで働かせないのです。子供のような考え方に自由意志を持っていくのです。

絶えず、自己訓練を続けていくのです。それをしますと、父なる神との接触が自ずからできるようになります。これが神を信じる、神を受け止めるという方法になるのです。

信じるというのは、全能者が自分と共にいますと意識するのです。ただそれだけです。意識するというのは、初めからそれを実感するのです。なぜそうなるかを考えない。どうしたらそうなるかも考えないのです。

幼児はいちいちそういう事を考えません。神は全能者である。共にいるのです。インマヌエルという事が神の御名です。神の方から私はお前と共にいるとおっしゃっているのですから、ああそうですかと答えたらいいのです。

全能者が私と共にいますとはっきり意識したらいいのです。御名を意識するのです。自分は一人ぼっちで生きているのではない。自分は人間と一緒に所帯をつくって生きているのではないのです。人間と一緒に生きていると思うと、神と一緒に生きていない気がします。妻と一緒に生きている。子供と一緒に生きていると考えないのです。

灯台守は妻と二人で、沖行く船の無事を祈って、灯を照らすという歌がありますが、実は灯台守でも神と共に灯をともしているのです。ところが、神と共にと考えないで、妻と共にと考えているから、悲しみや苦しみが幾年月もあるのです。そういう大人の考えをやめるのです。

生きていることが神です。心臓が動いていることが神です。目が見えることが、神と共にいますことの明々白々な証拠です。

目が見えることが神と共にいる証拠です。こんな明らかな証拠があるのですから、少しも臆病にならないで、僻まず、神が共にいますことを早く受け止めてしまうのです。これが幼児の信仰です。

そうすると、人生がどれほど奥深いかが分かるのです。この瞬間に生きていることが、どれほど深遠なものであるかが分かってくるのです。

雨が地面にしみこむように、だんだん神の愛が分かってきます。神の愛がしみこんだ地面から、自然に花が咲いて実が結ぶことになるのです。魂の実を結ぶのです。そうなるために、私たちはこの世に生まれてきたのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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