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  • 管理人chaya

神の業(わざ)が現われる


聖書に次のような記事があります。

「イエスが道を通っておられる時、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それとも両親ですか』。

イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したものでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現われるためである』」(ヨハネによる福音書9・1~3)。

生まれながらの盲人がいるのは、本人の罪なのか、あるいは両親の罪なのかと、弟子がイエスに聞いたのです。

子供の時に不注意で盲になったとか、戦争へ行って盲になった場合には、原因がはっきりしているのですが、生まれながらの盲人となると、これはなぜなのかと言いたくなるのです。

生まれながらの盲人というのは、全盲です。全く見えない人です。生まれた時から見えないのです。目はあっても見えないのですから、見たことがないのです。そうすると一体誰の責任なのかと言わざるをえないのです。

異邦人は皆この状態です。生まれながらにして、異邦人は魂の目が見えないのです。ところが異邦人は自分が盲であることを誇りにしていばっているのです。神なんかあるもんか。神かもうな仏ほっとけと堂々と言っているのです。

神なんかあるもんかと言っているのは、わしは目が見えないのは当たり前だ、目が見えるのはばかだと言っていることになるのです。

盲人という点からだけ言うと、お気の毒です。生まれながら魂の目が開いていないのですから、このことをよく考えて頂きたいのです。

私たちが日本人として生れた。これは今となっては有難いことです。なぜなら、神の御名、イエスの御名が、今日本で開かれているからです。これは世界中どこへ行ってもないのですから、今となっては日本に生まれたことは幸いなことです。

本来日本には、福音はなかったのです。世界中で一番中途半端でややこしいのが日本人です。思想的には白人でありながら、顔は黄色人種です。黄色人種でありながら、自分は白人だと思っている。そう思いたいのです。日本人は黄色人種でもないし白人でもない。中途半端な民族です。こんなややこしい人種はいないのです。白人の思想を取り入れて、日本本来の良い所を失っているのです。世界中で一番粕な民族です。

そういう粕な民族に、神ご自身の本当の神たる実体を現わしているのです。これは恐縮千万と言わなければならないのです。今となっては日本人に生れたことが有難いことになるのです。

ところが、本来日本人は何も知らないのです。例えば吉田松陰は「体は私なり 心は公なり」と言っています。何のことか分からずに言っているのです。彼の思想はレベルが低かったと言わなければならないのです。

自分が言うことが人にも分かる。この程度しか考えていなかったのです。明治維新の英雄とか先覚者とか言われる人々も同じようなものです。

明治維新をつくった伊藤博文とか、山形有朋は、松下村塾のしたっぱみたいな人物です。松下村塾の中心人物は高杉晋作とか久坂玄瑞ですが、死んでしまいました。端くれの人物が生き残って総理大臣になっていばっていたのです。

日本の黎明期の大先覚者が吉田松陰ですが、それほどの人物でも、今言った程度のことしか知らないのです。

心が公だと言いますが、なぜそういうことになるのかということです。体は個人と言いますが、果たして肉体人間がいるかどうかです。

ところが肉体人間はいないのです。肉体はただのポイントです。肉体人間がいると考えていたから、吉田松陰は首を切られて死んだのです。彼は死ぬ人間の思想しか持っていなかったのです。

世界中の人間の理性は一つです。だから、英語を日本語に翻訳できるのです。日本語をロシア語に翻訳できるのです。お互いに悲しいことを悲しい、おもしろいことをおもしろいと思うのです。アメリカのチャップリンの映画が世界中で歓迎されるというのは、誰が見てもおもしろいからです。

世界中の人間の心が、一つでつながっているということがなぜかということが、吉田松陰に説明できなかったのです。

吉田松陰は魂があることを知らなかったのです。神という言葉を使っていますが、神とは何かを知らなかったのです。彼は聖書から見れば盲目です。こういう人が大偉人と言われているのです。

今の日本人は吉田松陰よりもっと悪くなっているのです。悪くなりすぎるくらいに悪くなっているのです。吉田松陰や高杉晋作なら、まだ日本人としていばれるのです。

今の人間は全く獣と同じです。全くエコノミックアニマルです。お金儲けのことしか考えないのです。これが生まれながらの盲です。こんなものは軽蔑したくなるのです。ど盲と言いたくなるのです。

自分自身の理性の状態、魂の状態をじっと考えたら分かるのです。推理、判断、記憶、直感というすばらしい機能があるのです。自由意志もあります。こういう意志の力、情操の力というすばらしいものがある。これは一体何かということです。

自分の心理機能をじっと覗きこんで見る。古井戸を覗きこむように、自分の心理構造をじっと覗いてみるのです。そうすると神が分かるのです。

自分が生かされているという事実をじっと見れば、神が分かり、イエスが分かるのです。ああ自分の魂に父がいる、自分の魂には父がなければならないことが分かるはずです。そうすると、生れながらの盲の目が少し開きかかるのです。

ところが、今の日本人はそういうことを全然しようとしない。ただ生活だけしている。性欲、食欲しか考えていないのです。全くばかみたいなものです。

生活とかマイホームというと体裁はいいのですが、実際は性欲と食欲だけです。本当はばかなものです。全く動物です。そういう状態に、日本人はおかれているのです。

これは一体日本人の罪なのか。あるいは日本人の先祖が悪かったのか。今現在の日本人が悪いのか。日本人が生れながらの盲人であるということは、誰の責任になるのか。実際日本の先祖が悪かったということも言えるでしょう。

日本人の先祖はどういうものか分からないのです。混血民族ですから、ややこしくてよく分からないのです。南方から土着民が船で来たという説もありますし、シベリア、朝鮮からやって来たという説もあるのです。

とにかく日本人は雑種民族です。犬なら一番安物です。一番餌を食べるが、番犬にならないのです。日本人にはあらゆる人種が入りまじっているようです。

東の果てというのは掃き溜めであって、ちりが集った掃き溜めです。全く典型的な生れながらの盲人です。

日本人がそういう状態であるのは、誰の責任なのか。よほど運が悪いのか。そうではない。これは神の業が現われるためだとイエスが説明しているのです。これは本人の罪ではない。親の罪でもない。神の業が現われるためです。日本人は全くの雑種民族です。何でも受け入れることをいばっているのです。

魂における節操、人間の心理的な意味での節操が、ほとんどない民族です。仏教がきたら受け入れる。キリスト教がきたら受け入れる。マルクスがきたら大歓迎し、実在主義がきたら大歓迎するのです。

とにかく日本人は旺盛です。融通がきくというか、何でも受け入れるのです。東西文化が交流する所といばっていますが、あんまりほめたことではないのです。

これが日本人の魂の状態で、全く雑犬雑種の野良犬根性を現わしているのです。こういうやくざな民族ですから、聖書の真理が現われても、一向に驚きもしないのです。キリスト教は間違っているとぼろくそに言っても、けろんとしているのです。

こういうことが、ある意味では幸いしているのです。無頓着、無関心、無責任、無自覚な人間どもの集りの日本ですから、私たちは誰に遠慮会釈もなく、堂々と真理が説けるのです。ところが説いても説いてもまともに受け取る人がいないのです。

実際日本人で、全てを捨てて我に従えというイエスの言葉に、従える人はよほどの人です。

日本人は全く生まれながらの盲人です。これは神の業が現われるためです。神の業が現われるためには、盲人でなければならないのです。生れながらの盲人でなかったらいけないのです。

何も知らない者に、神の福音の驚くべきスケールが示されるのです。何かを知っている人はかえってだめです。原形があるからいけないのです。元の色があるから、本当の白生地に染めることができないのです。

アメリカ人はエホバの御名、イエスの御名に関心は示すでしょう。びっくりしますが、純真に、丸裸になってキリストの御名を受けましょうという人はいないでしょう。

神の業を示すためには、下に地色があってはいけないのです。全く地色がない、全くの盲人だからこそ、神の業がいかんなく現われるのです。ここに物を知らない人の良さがあるのです。

私たちが現世に送られていること、現在このように生かされていることが、そのまま神の栄光です。

神なんかあるもんかという人に、神はご飯を与えている。なぜそんなことをしているのか。ご飯を食べさせているだけでなくて、一人ひとりの性欲にまで神が責任を持って奥さんを与えている。なぜこんなことをしているのか。

人々は家を与えられ、それなりの生活を与えられている。こんなことをする価値があるのかと言いたいのです。これができるのは第三の天にいるキリストが祈っているからです。キリストが祈っていなかったら、神の敵である人間が、こんなに養われているはずがないのです。

神に敵している人間たちが、こんなに神によってかわいがられるはずがないのです。敵を愛せよということを、神が行っているのです。これはキリストのおかげです。キリストが父よ彼らを許したまえと祈っている。この祈りに神は勝てないのです。

キリストは今、父なる神の右に座しておられるのです。キリストの祈りは絶対です。神は腹が立ってげんこつを振り上げても、そのげんこつを下ろせないのです。キリストがちょっと待てと言っているからです。

キリストが神の右にいますから、神はどうにもならないのです。そこでキリストの祈りに答えて、神は人間を生かしておいでになるのです。このことを忘れてはいけないのです。神の悪口を言っても、キリストの悪口を言っても、神は黙って人間を生かしているのです。

キリストが祈りをやめて、異邦人を生かしているべきではないという時が、やがてきます。そうしたら絶対に救われません。信じますと言っても、どうぞかんべんして下さいと祈ってもだめです。

やがて異邦人は叩き潰されるでしょう。その日は迫っています。キリストが祈りをやめる時に、そうなるのです。

キリストが今祈っておられる時にこそ、キリストの御名による祈りは聞き入れるし、また、キリストを軽んじていても、福音をばかにしていても、キリストの祈りはあらゆるものを越えた絶対的な大威力を持っているのです。

十字架によって全ての罪がなくなっているのです。だから、神なんかあるもんかという罪も、瞬間、瞬間キリストによって癒されている。救われているのです。だから生かされているのです。

ところが、キリストが祈りをやめたら、一切生かされなくなります。許されなくなるのです。神をあなどることは最も恐ろしい事です。

キリストの福音は何の事か分からないと、世間では考えられています。今年が二〇一一年であることは誰でも知っています。これはイエス・キリストを中心にして世界歴史が成立した証拠です。これが二〇一一年です。

なぜイエスが誕生した年を紀元元年にしているのか。イエスが生まれるまでの人間と、イエスが生れた後の人間とでは、全然質が違うのです。これが世界歴史となって現われているのです。

それから日曜休日です。日曜日を休むことは、イエスの復活を私たちが記念していることになるのです。イエスの復活記念日を知らなくても、今は休まなければならないように神が仕向けているのです。

全世界の人間は、全部日曜日を休ませられている。つまり、キリストの復活によって新しい人間になっていることを、神が知らせるために、神がそういう処置をとっているのです。もちろん世界の人はそんなことを考えて日曜を休んでいるのではない。日曜を休むのは昔から決まっていることだと言うでしょう。

昔から決まっていたのではない。全世界に聖書と御霊とが世界に行き渡った結果、こうなったのです。

福音は全世界に述べ伝えられると預言されていますが、その預言が成就して、全世界に福音が伝わった結果、日曜休日が世界的な常識になったのです。社会的な必然性になったのです。

日曜日の意味を知っても知らなくても、日曜日を休んでいるということは、イエス・キリストの復活が世界に公然たる事実になっているということです。これが日曜日の意味です。

知らない人は知らない人が悪いのです。知っても知らなくても、現在の世界の歴史的必然性というものは、絶対に曲げられないのです。日曜日の原理、西暦紀元の原理は、絶対に破ることができない事実です。

世界中の人間は、一つの常識で生きている。一つの理性の働きで生きている。一つの意識で生きているのです。一つの血で生きている。全世界には一人の人間しかいないのです。だから日本人とアメリカ人が結婚できるし、黒人とエスキモー人とが結婚できるのです。

人間は一人しかいない。これがキリストによって代理されているのです。聖書は外国から来たものだから、一切信じないといってもだめです。今年が二〇一一年というのは、世界的な事実です。

そのように全世界に福音が行き渡った結果、聖書的な必然性が今や世界の常識になっているのです。これが、今の人間はキリストの贖いによって、キリストの祈りによって毎日生かされているという証明になっているのです。

世界中の人間が食べていけるのは、キリストが復活昇天したからです。キリストが祈っていなかったら、神に反抗し、キリストを踏みつけている人間たちを、生かしている理由がないのです。

日本人が全く生まれながらの盲人であるというのは、このような本当の福音が日本に知らされるためであったのです。本当の盲には本当の真理が分かるのです。神の業が現われるためです。

生れながらの盲人は本人の罪ではありません。先祖代々の罪でもない。神が日本人という野良犬みたいな民族を特別に取っておいたのです。この訳の分からない無鉄砲な無節操な民、生意気で欲望ばかりの民を、特別に取っておいたのです。

人間文明の終末に、日本民族を特別に取っておいて、特別に神が用いようとしているのです。神の業がこの民族の上に現われようとしているのです。

私たちは福音の原理が開かれたことによって、これがどういう波紋を世界に描いていくのか。全く期して待つべきものがあるのです。驚くべき状態に発展するでしょう。今は、わずかなわずかな、バイキンみたいな火種ですが、これが世界に広がると、世界歴史が新しくなるという大変な神の業が行われることになるのです。

この神の業が行われるために、この生れながらの盲人の民族が、末の時代のために取っておかれたのです。

期待をもって、希望をもって、素直な感覚で、神の御霊を崇めて聖書を勉強して頂きたい。神が味方であると信じて、単純な気持ちで、聖書を勉強して下さい。むなしくなって、徹底的に誠意を持ってすれば、必ず神が助けて下さるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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