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記憶と裁き


人間は肉の思いが死であると分かっていても、それが止められないのです。それは自分のマインド(精神)が、へびの末によって押さえ込まれているからです。人間の命はマインドです。「肉の思いは死であるが、霊の思いは命であり、平安である」(ローマ人への手紙8・6)とありますが、この二つが人間に与えられているのです。

肉のマインドと霊のマインドと、二つのマインドが人間に与えられている。人間がマインドであるというのはこのことです。このマインドは人間自身のウィル(will)によって、左右されるのです。

人間のマインドは人間のウィルを受け止めるのではない。悪魔のウィルと神のウィルのどちらかを受け取るのです。どちらでも受け取るのです。マインドはウィルの受け皿です。ウィルの受け皿であるということは、善的にも悪的にも言えるのです。肉のウィルの受け皿でもあるが、霊のウィルの受け皿でもあるのです。そのどちらを主体にするかという選択を人間にさせているのです。

ウィルというよりもパーソナリティーと言った方がいいでしょう。人格と言うべきなのです。人間の人格は神に形どられた人格であるために、ウィルの働きを受け止めるのですが、神のウィルと人間のウィルとは、働き方の本質が違うのです。

キャラクターは本人のウィルからくるのです。人間が自由意志と言っているのは、パーソナリティーです。これは霊魂的なジャンルの問題です。

皆様は大変な橋を渡らなければ、彼岸へ到達できません。例えば、皆様の今までの記憶、感覚、認識を全部否定しなければいけないのです。皆様は聖書を読んでいますが、信じていないのです。人間の顕在意識はすべてへびの意識です。どんなに立派な説教ができようが、どんなに立派な証ができようがだめです。

イエスは自分をどう思っていたのか。パウロは次のように書いています。「肉のマインドと霊のマインドがある。肉のマインドはへびからきたものであり、霊のマインドは御霊からきたものである」。御霊が言い難い嘆きをもって、また、焼き尽くすほどの熱心さで、妬むほどの愛をもって人間を見ているのは、人間自身の霊を見ているのです。

人間自身の霊というのが、御霊が見ている人間です。イエスもまた、自分自身を霊として見ていたのです。そうすると、人間の実体とは何かです。

イエスは、「人はパンだけで生きる者ではなくて、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きる」(マタイによる福音書4・4)と言っています。

生きるということが、人間が存在する客観的な実体です。生きるということがなかったら、人間とは言えません。仮に肉体があっても、生きるということがなければ、人間とは言えないのです。

人間が生きているということが、人間の実体です。生きるということがなかったら、肉体という形があっても、人間とは言えません。心臓が止まり、脳波が止まったら、人間とは言えないのです。生きるということがなければ、生理機能も心理機能も働いていないことになるのです。生理機能、心理機能が働いていなければ、人間ではないのです。

生きるという状態がリビング(living)です。リブ(live)は生きているそのこと、リビングは生きている状態です。リブがなければ、リビングはないのです。リブというのは、人間の当体、実体を意味しているのです。

人間とは何かと言えば、リブです。人間とは何かという問いかけをすると、あやふやな言葉になる。人間の肉体をさすのか、社会的な存在をさすのか、個人的な認識をさすのかという疑問が出てくるのです。

人間が生きている当体は、リビングそのものの根底であって、リブについてはっきりした指摘ができなければ、人間の説明にはならないのです。

人はパンだけで生きるものではないと言っています。肉体に対するパンはリブに対する補足作用にはなります。補助的な条件にはなりますけれど、本質ではないのです。リブの本質はパンを食べることではない。では何かと言いますと、神の口から出る一つ一つの言葉です。

人間のリブの本体は、神の口から出る一つ一つに言(ことば)です。いわゆるプロシード(proceede)しているワード(word)です。プロシードワードはプロシードタイムを意味するのです。これが今です。人間が生きているのは何と言っても、生理機能と心理機能が働いていなければいけないのです。

神の口から出る一つ一つの言が肉となることを条件としているのです。人間の本質は神の口から出る一つ一つの言ですが、神の口は何かというと、「譬をもうけて口を開き」とありますように、現象を現象として現わすこと、物を現わすごとに現われていることが、神が口を開いていることなのです。

ないものをあるように現わすこと、霊なるものを肉なるものとして表現することが、神の口です。神が口を開いて語っている一つ一つの言とは、プロシードしている状態を言うのです。これは不連続の連続を意味しているのです。

見た所、連続しているように見えます。電灯と同じです。見た所、ずっと点灯しているように見えますが、実際は一秒間に五十回か六十回、点滅を繰り返しているのです。万物の存在はそういう方法でなければ、現われないのです。

エブリーワード(every word)が、プロシードしているのです。人間の目に見えるということは、エブリーワードの連続です。五官の働きはエブリーワードの連続体です。人間の心理機能も、エブリーワードの連続体です。神の口から出る言が、心理機能として働いているのです。人間自身の力はどこにもありません。神の言の働きが、心理的に、生理的に構造しているのです。イエスは人間のリブを、このように説明しているのです。

瞬間、瞬間にしか人間のリブは存在していない。瞬間、瞬間が命であって、一時間、二時間と続いているものではありません。パウロもこのように述べているのです。これを考えると、無限の喜びがわいてきます。瞬間、瞬間ですから、過去の自分に責任を持たなくてもいいのです。過去の自分の言葉に責任を持たなくてもいいのです。

もし人間に救いがあるとしたら、イエスが言ったような見方を神がしてくれたら、救われるのです。神がそういう見方をしてくれたら、有難いのです。神は瞬間しか見ていませんから、昨日のことは見ていても忘れているのです。人間は覚えていますけれど、神は忘れているのです。

プロシードタイムというのは、人間の側からの現象であって、実はプロシードタイムはありません。時間はないのです。ただグレート・ホワイト・スローン(大いなる神の御座)から、電気が出ているだけです。稲妻が出ているだけです。これが命です。

私たちが接しているのは、形、色、味、香り、感触です。これ以外のものは感じられないのです。私たちが五官で接触するものは、全部電気です。電気と触れ合っているだけです。しかも、その電気は瞬間しか働いていないのです。

そうすると、タイムとは何か。どこにもないのです。プロシードしているエブリーワードはありますけれど、タイムはないのです。

神の口から出るワードの働きは、不思議とか奇妙という言葉では言い尽くせない深いものです。千々万々の事柄が入り乱れて、今ができているのです。心理的、物理的なあらゆるワードが集まっているのです。

ダビデは言っています。

「見よ、あなたは私の日をつかの間とされました。私の一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことにすべての人はその盛んな時でも息にすぎません」(詩篇39・5)。

人は息にすぎないのです。つかの間です。私の一生はあなたの前では無にひとしい。この神の前に歩みて全かれと言っているのです。

神の後ろに歩んで、地団駄踏んでもだめです。自分は六十年生きてきた、七十年生きてきた。こういう仕事をした。ああいう業績を残したと言ってもだめです。

私たちは宇宙の実体を存在の実証とすべきです。宇宙の実体的なあり方を、私たち自身の存在の実証とすべきです。自分の観念や自分の記憶を、自分の実証としてはいけないのです。

神は人間の罪を一切問題にしていない。東が西に遠いように、一切おまえたちの罪、記憶を忘れたと言っているのです。エブリーワードを人間の命として見ているのですから、神は罪を考えていません。東が西に遠いように、一切知らないと言っているのです。

ところが、人間は自分の罪の記憶、自分の肉の記憶、人に嘘を言った記憶、人を騙した記憶を記憶として持っている。これが火の池になるのです。自分の記憶に頼っている人は、その記憶に基づいて徹底的に裁かれるのです。しかし、神の口から出るエブリーワードが自分であると考えた人は、肉の記憶から一切解放されるのです。人間は自分の常識や記憶を顕在意識にしているので、勝手に死んでいくのです。勝手に滅んでいくのです。

神は人間を息としか思っていない。私の前ではおまえの命はないのだ。私から見れば、おまえはただの息だと言っている。これは痛快です。これが分かれば、人間は救われるに決まっているのです。神がそう思っているのですから、それを信じたらいいのです。有難いことだから、そうしたらいいのです。人間のリブは神の口から出るエブリーワードですから、救われるのです。そうでなければ、人間は絶対に救われないのです。

人間はただの息です。ところが、へびの意見によって、継続的に生きているという感覚をねじ入れられてきたのです。へび自身は継続的に生きているのです。へびは瞬間を見ていない。自分が生きているという意識を発明したからです。

悪魔は自分が生きているという思想を創造した。これが偽りの創造です。偽りを創造した時に、記憶が発生したのです。記憶の本体は嘘です。パウロは「私の嘘によって神の真実が現われたとすれば、なにおか言わんや」と言っている。記憶は嘘です。記憶は宇宙における最も大きい嘘です。この嘘が原因になって、人間は全部死んでいくのです。これから解放されると、子供になってしまうのです。

ダビデは言っています。

「まことに人は影のようにさまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです。彼らは積みたくわえるけれども、誰がそれを収めるかを知りません」(同39・6)。

五節は、「おまえたちは霧にすぎない」と言っているのです。霧にすぎないというのは、神から見れば、人間はただの瞬間にすぎないと言っているのです。その生存が八十年、九十年と続くのですから、人間は長く生きていると思うのです。

瞬間が続くことがエターナル(eternal )です。瞬間でなければエターナルにならないのです。エターナルをエバーラスティング(everlusting )にしてしまう。いわゆる不連続の連続を、べったりの連続にしてしまう。人間の目にはべったりあるように思えるのです。

記憶は嘘の最も大きいものです。これを承知して頂きたいのです。火の池の原因になるのは、人間自身の記憶です。神は記憶を裁くのです。これが火の池です。裁かれるのは記憶であって、ありもしないことを信じていたから裁かれるのです。ありてあるものを信じないで、ありもしないことを信じていたから、裁きの対象になるのです。

皆様は記憶を否定できるのでしょうか。今の皆様は記憶の化け物です。人間が生活しているのは何か。記憶のロボットが生活しているのです。それをダビデは影と言っている。人の世にあるのは影にすぎないのです。むなしいことばかりしているからです。

なぜ影になるのかというと、記憶を実体だと思っているからです。人間がどんなに良いことを考えても、どんなに神を信じても、それが皆嘘です。記憶で信じているからです。記憶で御霊を受けている。だから、御霊を崇められないのです。記憶を用いて御霊を受けていてもだめです。

人間の脳細胞はコンピューターと同じ組織を持っているのです。生まれる前にインプットされたものが、今働いているのです。これが御霊によって働き出しているのです。これを考えると、人間の命は瞬間しかないようにできているのです。神のインプットに従って考えれば、記憶はなくなるのです。違う脳波になるのです。生まれる前の脳波と、生まれた後の記憶とは違うのです。

人間の記憶は悪魔が造った嘘です。その嘘に引きずられて、肉の思いが勝手に生まれてくるのです。肉の思いの原因は記憶です。記憶を持ったままで現世を去れば、必ず裁かれて、地獄行きです。ですから、記憶の入れ替えをしなければならないのですが、どうしたらそれができるかです。

それができる方法がたった一つあります。御霊を崇めたら記憶の入れ替えができるのです。有難いことに、人間の脳波の原理は生まれてくる前の原理です。目で見ているとか、手で触っているという生まれた後の妄念的な記憶ではないのです。これがはっきり分かればいいのです。

人間の文明は記憶だけでできているのです。歴史は人間の記憶ではありません。神の処置です。文明は人間の記憶です。文明は人間の理屈から生まれてくるものです。人間の理屈や記憶は全部記憶の集積です。歴史は人間が勝手に造ったものではありません。いわゆる民族の盛衰興亡は神の処置だとパウロは言っています。それは神を尋ね、さぐるためだと言っているのです。だから、ヒストリー(history )が、ヒズストーリー(hisstory)になるのです。彼の(his )物語(story )であり、神の物語です。

文明はヒズストーリーではありません。文明は人間の考えであって、その根源は記憶です。そのリーダーシップを取っているのが、専門学です。これは断片的な思想ばかりです。

人が生きているのは、神の口から出る一つ一つの言である。これが人間の命だとイエスははっきり規定しているのです。この規定に基づいてごらんになれば、記憶がどれほど間違っているかが分かるでしょう。

人間生活の中で矛盾が起こるのは当たり前です。嘘を踏まえて嘘の生活をしているのですから、まともな生活ができるはずがないのです。それが影のような生活になるのです。鼻から息を吹き込まれたことが人間創造になっていますから、人間は息にすぎないのです。実体は息であって、内容はへびの思想ばかりです。

永遠という時間があるように考えたり、六十年、七十年という時間があるように考えたりするのは、全部へびから出たものです。へびは死ぬということがないのです。だから、自ら時間を意識しなければならないような天性を持っているのです。

人間は死ぬということがあります。だから、時間を意識しなければならない必要性がないのです。人間の本体から考えると、時間を意識することが間違っているのです。いつ死ぬか分からないからです。いつ死ぬか分からない人間が、時間があるとか、何十年生きていると考えることが無意味です。邪(よこし)まな記憶を積むだけです。

人間の考え方の良い悪いは別として、人間が生きているのは、神の口から出る一つ一つの言葉であると言っている。これは人間の記憶を見事に裏切る発言です。これを踏まえて生きると、命は瞬間しかないことが分かるのです。これは色々な方法で説明することができるのです。聖書の色々な箇所を引用して説明することができるのです。

人間が生きているのは瞬間だけです。それでいいのです。瞬間、瞬間しかないという原理が分かりますと、自分の年齢は存在しないのです。従って、今生まれた嬰児になることは、自由にできるのです。七十歳、八十歳の人でも、今生まれた嬰児になれるのです。あつかましいと思われるかもしれませんが、事実です。これを考えると、神において生きるという条件が発生するのです。

瞬間とは何かというと、神の口から出る一つ一つの言です。これが分かった人は神を信じない訳にはいかないのです。イエスは父の言う事しか実行していないと言いますが、瞬間を生きていたからそう言えるのです。瞬間しか生きていないから、そうならざるを得ないのです。今皆様に命がなくなるような瞬間がきても、それを神の口から出る言として受け止めればいいのです。

人間が生きていることが瞬間だけだとすると、人間の知識、常識、記憶の間違いは明らかです。これが分かれば、私たちは自分の記憶、他人の記憶に一切係わる必要がなくなるのです。自分はいないのですから、自分の記憶を自分が否認しても、神は怒りません。これがイエスが考えている人生観です。人の子はこれだとはっきり決めているのです。

食べ物があってもいいし、なくてもいい。死ぬなら死んでもいいし、生きてもいい。一切を神に任せているのです。こういう生き方をすると、影ではなくなるのです。生きていることが実体になるのです。

人が世に生きているのは影にすぎない。記憶で生きていると、皆影になるのです。神の口から出るエブリーワードで生きていると、皆実体になるのです。そうすると、神を信じた信仰も、祈りも、実体になるのです。これが神を信じる基礎になるのです。

人間の記憶は悪魔に肩入れしたものです。自分の記憶で生きているのは、悪魔に自分を売り込んでいることになるのです。そうすれば、火の池へ行くに決まっているのですから、やめなければいけないのです。記憶を持っているということが、その人が火の池へ行くことになるのです。火の池の火種は記憶に決まっています。記憶以外の火種はないからです。

イエスの人間観を踏まえて、創世記三章の十六節の神の宣言を読んでみると、よく分かります。

「次に女に言われた。

私はあなたの産みの苦しみを大いに増す。

あなたは苦しんで子を生む。

それでもなお、あなたは夫を慕い、

彼はあなたを治めるであろう」。

これが現在の世界の家庭の実体です。家庭とはこのことです。女は苦しんで子を生を産むのです。分娩の状態だけを見れば、必ずしも苦しんで子を産むとは限らないのですから、この宣告は空文のように思えますけれど、子を産むことに対する一切の負担は、こうなっているのです。

子を産むことだけではない。育てることも、また、成長して親に心配させることも、全部女が苦しまなければならない原因です。苦しんで子を産むというのは、苦しんで子を産むという分娩のことも含まれています。男は女に産ませておいて、平気な顔をしているのです。

女が苦しんで子を産むということが、現世のあらゆる矛盾の根底になっているのです。苦しんで子を産むということが、女のあらゆる弱点を示しているのです。孕みの苦しみ、産みの苦しみ、育ての苦しみ、子供に反抗されてぼろくそに言われて、苦しむのが女です。男は知らん顔をしているのです。

女は三章十六節に完全に閉じ込められている。それでもなお、夫を慕うのです。これが陥罪に対する神の宣告です。苦しんで子を産むという言葉の中に、非常に微妙な意味で原罪の正体が出ています。非常にデリケートな意味で、善悪の木の実の正体が出ているのです。善悪の木の実を食べさせたのは誰かが、示されているのです。

今、神は家庭の状況を改造できなければだめだと言っているのではない。神は人間を問題にしていないのですから、できなくても神はいちいち咎めないでしょう。しかし、私たちの報いには大関係があります。携挙された後の報い、世々限り無く王となるということには、大関係があるのです。

根本から考えなければならないのは、やはり男です。三章十六節は女に対する宣告です。女は今まで弱い者になっている。そこで、一応強い者である男の方から家庭を改造する形を取らなければならないのです。

ところが、男は現存するマイホームがすべて、原罪の宣告の結果にできたものであるということを知らない。そこで、困るのです。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろうと言っています。これがいつまで続くかということです。

女はなぜ夫に慕わなければならないのか。女が善悪を知る木の実を食べさせたからです。善悪を知る木の実を現在も食べさせ続けていることが、夫に支配される原因です。女はそれをよく知っているはずです。女は善悪を知る木の実を食べさせて、儲かるという計算をした。儲かるという言い方は適当でないとしますと、自分が得をすると思ったのです。賢くなるに好ましいと思ったのです。

その結果、最もうるわしいものを、肉の肉にすり替えたのです。骨の骨であるものを、肉の肉にすり替えたのです。これが善悪を知る木の実です。

皆様が本当に辿るべきすばらしい恋愛の道は、今通っている道ではありません。その証拠に、どんな熱烈な恋愛をしていても、結婚してしばらくすると、ばかみたいになってしまうのです。清純な結婚以前の感覚がなくなってしまうのです。善悪を知る木の実が、いかに悪いものであるかということの証明になるのです。どんな清純な恋愛をしても、結婚してしばらくすると、清純さが全くなくなってしまうのです。

そこで、夫婦である皆様に言いますが、もう一度恋愛し直して頂きたい。そうすると、すばらしくなるのです。例外はありません。誰も彼も、皆そうしなければならないのです。男は、今までの家庭の考えをやめて、結婚前の純情さに返ってほしいのです。結婚前の感覚を知っていますから、それを取り戻したらいいのです。皆様が携挙されるということを条件にすれば、皆様の家庭生活の感覚は変わってしまわなければいけないのです。そうしたら、奥さんが本当に幸せになるのです。

女が夫を慕うようになった結果、女が骨の骨であるという本質が消えてしまったのです。夫を慕わなければならなくなった結果、自分の妻が骨の骨であるハートであって、女の勉強をしなければ、女を食べなければ、自分の命がないということが完全に分からなくなったのです。

善悪の木の実を食べた結果、骨の骨がさっぱり分からなくなった。男から取られたばかりの女だったら、これぞ今や私の骨の骨と言えるでしょう。ところが、結婚して古女房になると、それが消えてしまうのです。その結果、男が自分の命を見つけることができなくなったのです。女に対する刑罰のようですが、男に対する辛辣な皮肉です。

男は自分のあばら骨を見つけることができなくなった。神を信じることができなくなった。ここから宗教がはびこることになったのです。神ではないものを神と言って、自分自身を誤魔化しておくというペースが、ここからできたのです。宗教観念のペースがここからできたのです。

神が女に刑罰を与えたことが、現在のセックスになって現われているのです。これは刑罰そのものです。これをそのまま感受していると、肉体的に、性欲的にセックスをすることが習慣になってしまうと、それが当たり前になってしまうのです。

セックスが肉に固定してしまうと、花嫁の備えが全然できなくなってしまうのです。恋する喜びがなくなってしまうからです。キリストは恋慕う者に現われる。これが再臨の原理です。

キリストの再臨は恋慕う者に現われるとありますが、キリストを恋慕うとはどういうことかが分からないのです。

肉のセックスが当たり前だという観念が定着してしまうと、セックスの本当の意味が分からなくなってしまいます。セックスの意味が分からなくなると、命の性(さが)が見えなくなるのです。こういう人は救われません。携挙されるためには、愛の本質が分からなかったらいけないのです。愛することができる弾力的なハートでなかったら、とてもキリストを迎えることができません。

今の私たちには難しい問題ですけれど、今の末の時代に全く落ち込んでしまっている人間歴史を新しくするためには、難しいからできないと言っておれないのです。覆水を盆に返さなければいけないのです。覆水は盆に返らずというのが、日本の諺ですけれど、返らずと言っていてはだめです。覆水を盆に返さなければならないのです。これは私たちがやる気があれば、理想的にはできなくても、御霊の助けがあれば、必ずできるのです、

この末の時代に、異邦人の端くれが三章十六節にある女に対する刑罰を、逆算しようという壮大な、壮烈な、厳粛な思いを持ったとすれば、神が誉めてくれるでしょう。

これには、霊に従いて肉の働きを殺すということも考えなければいけないのです。私たち家庭生活は、現世に生きることが目的ではないことを、まず悟ることです。家庭生活は現世のものだと考えている間はだめです。家庭生活は来世のものだという考え方に、切り替えてしまわなければいけないのです。

女はキリストに仕えるように夫に仕えるという言葉は分かるのですが、男はキリストに仕えるということが分からないのです。女がなぜキリストに仕えるように夫に仕えることができるのかということが、マグダラのマリアの態度で分かるのです。マグダラのマリアとか、ベタニヤのマリアという人々が、夢中になってイエスに従ったのです。女の本体はハートです。だから、イエスに心底惚れたのです。女の惚れ方を、男は女を抱くことによって、勉強しなければいけない。セックスは善悪を知る木の実の焦点ですから、今からでも遅くないから勉強して頂きたいのです。

皆様はこれを乗り越えなければ、携挙の準備ができません。キリストの妻になるのです。麻の細布を着るということは、これを乗り越えることです。

女が善悪の木の実を食べさせたのですから、男は逆に女に、命の木の実を食べさせなければいけないのです。善悪の木の実を食べたために、肉の喜びを女が味わったのですから、そのお礼に、命の木の実を食べさせなければならないのです。

命の木の実というのは何か。本当の混じり気のない愛です。これが神の救いにあずかる入口です。これから神の救いの実体の中へ入っていかなければならないのです。

男と女がメール(male)とフィメール(female)でなくなるのです。そうすると、非常に自由になるのです。男と女の場合には善悪の木の実がありますが、メールとフィメールになりますと、持っている所の性の本来の認識がわいてくるのです。

携挙になると、そのメールでさえもノーメールになるのです。そこまで行かなければならないのです。皆様はそれができるのです。やる気がありさえすればできるのです。女は骨の骨です。少々面倒ですけれど、女が骨の骨になるのは難しくないのです。

以上述べたことは、人間が本当の神の救いの実物をつかまえるための絶対的な条件です。どうしても経験しなければならない境地です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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