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  • 管理人chaya

霊魂の完成


人生には矛盾と落胆と悲しみがあるだけです。なぜそうなるかと言いますと、根本的な考え違いをしているからです。

人間は自分が生きていると思っています。自分の命があり、自分の人生があり、自分の仕事、自分の財産、自分の家庭があると思っています。自分が生きていると思っていますから、自分の生命を自分の立場から捉えているのです。ところが、人間は自分が生まれたいと思って生まれてきたのではありませんし、自分の力で生きているのでもありません。いくら自分の力で生きていると思っても、太陽光線、空気、水、自然環境を自分の力で造っている人はいないはずです。

皆様の仕事にしても、相手があるに決まっています。相手は他人です。他人が皆様の気持ちを良く知っているとは思えないのです。知ってくれている人はいるかもしれませんが、ほとんど無理解でしょう。知ってくれていても、その人の利害得失があります。従って、皆様の利害得失と一致しないのは当たり前です。

命は自分のものではありません。それを自分が生きていると思っています。そう思い込まされているのです。そのために人生は矛盾だらけのような気がするのです。それは個人の責任でもありますが、この世の人間全体の責任でもあるのです。現世に生きているうちにこの矛盾を解決しておかなければ、将来大変なことになるのです。人生は現世だけのものではありません。来世があるのです。そこで困るのです。

皆様の生活には今日があります。昨日があって今日がある。今日があって明日があるのです。このことを皆様は承知しているでしょう。だから、今日という日を正常に送ることができるのです。もし明日がなければどうなるのでしょうか。大混乱になるでしょう。もし明日があるかどうか分からなければ、明日があることを認識していなければ、今日の皆様の生活は成立しないでしょう。成り立たないでしょう。

そのように、皆様の人生は生まれる前がありました。死んだ後には人生が続いているのです。これが命というものの本当のあり方です。

死んでから命があるもんかと言う人がいますが、これは現世の常識的な理屈です。その人がどう思っても、命は命であって、命の本質は皆様方の思うとおりにはいきません。皆様方は命を経験させられているのであって、自分で命を自由にすることは全くできません。

命の本質、本性は何か。これは皆様自身で割り切ることができないものです。命が皆様を生かしているのです。皆様は客観的に生かされているのであって、生きているのではありません。皆様は自分で生まれたいと思って生まれたのではありません。従って、皆様の命は初めから皆様のものではないのです。これが神と皆様との関係です。地球と人間との関係です。

地球があることが人間がいることの原理になっています。地球がなければ皆様の肉体があるはずがないのです。宇宙があるから地球がある。地球があることが皆様の命があることです。この原則は絶対に曲げることも変えることもできません。これが神と人間の霊魂との関係です。ですから、素朴に神を認めることが、皆様方の自身の霊魂の本質を、皆様方自身が認めることになるのです。

霊魂の本質が分かれば、皆様は死ななくなるのです。霊魂の本質、命の本質が分からないから死んでいくのです。霊魂と命は同じものです。命の本質が分からないから、死ななければならないのです。

これは宗教でも哲学でもありません。今生きていることを通して、自分自身の人生を生きている事柄を通して、具体的に実体的に捉えることができた人は、心臓が止まっても皆様方の精神活動の命は止まりません。目が見えなくなっても、精神活動としての命は止まりません。命の本質は本来、精神活動です。精神が働いていれば、心臓が止まっても、目が見えなくなっても関係がありません。永遠の命は肉体に関係なく存在しているのです。

皆様が死んでも地球の命はあります。仮に地球がなくなっても、宇宙の大生命は存在しているのです。命の本質は人間の思想に関係なく存在しているのです。これを神と言います。

これは宗教でも哲学でもありません。皆様は現実にこの神と付き合っているのです。神と付き合っている状態のことを、生きているというのです。自分の思うとおりにならないのは当たり前です。神がいるから人が生きているのです。自分が生きている人は自分の思うとおりにはいかないのです。

国も世界も、すべて神が存在することを前提としているのです。これは宗教ではありません。当然のことです。この当然のことを当然のこととして弁えることが、皆様の霊魂の目が開かれるための第一の入口です。

皆様の霊魂が永遠の命である神に触れるためには、地球が存在することの原理に基づいて皆様方の命を考えなければならないのです。

命の本質を弁えないままで心臓が止まりますと、大変なことになるのです。皆様の肉体は灰になりますが、命は無くならないのです。現世を去りますと、皆様は肉体がない状態で命だけの状態になってしまいます。神の本質がそのまま命の本質になっているのです。神の実体が分からない状態で心臓が止まってしまいますと、命が分からないままの状態で死ななければならないことになります。そこで、霊魂の裁きという問題が起こってくるのです。

七十年も八十年も生きていながら、本当の命を弁えようとしなかった。これは無責任極まりないことです。七十年、八十年、長い人は九十年、百年の無責任な状態のしわ寄せが、死んでから起こるのです。

命の本質は宇宙の実質です。これを現在経験しているのです。そこで、命を弁えることができますと、逆に宇宙の主(あるじ)になるのです。命が宇宙の実体ですから、宇宙の実体である命をマスターすれば、自分が宇宙の主になるのは当然です。これを霊魂の完成というのです。

ナザレのイエスは現在、目が見える状態である間に、命の本質をつかまえたのです。そのように生きているうちに自分の命の本質を捉えるのです。命の本質は神そのものですから、生きているうちに神と一つになってしまうのです。そうすると、その人は死ななくなるのです。

知らぬ存ぜぬと言って、人間の我儘は神の前には通用しません。神のこと、命のことを考えてきましたといくら理屈を言っても、命の本質を知ることにはなりません。

大体、生きることが本体であって、仕事をすることが本体ではありません。仕事をすることが本体だと考えるのは現代人の根本的な間違いです。

自分の家庭の事、会社の事、友人関係の事よりも、まず自分の命の事を知ることが必要です。命の事が分かれば、友人関係も、仕事も商売も良くなるでしょう。命が人生全体の基本原理です。命という基本原理を弁えることが、人生の目的です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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