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  • 管理人chaya


生物学に定向進化という言葉があります。生物は一定の方向に向かって進化するという考え方で、京大教授の故今西錦司氏が盛んに使っていました。この考え方を人間に当てはめてみますと、定向進化の状態であることを自覚すれば、人間は現在定向進化していることが分かるのです。

イエス・キリストの甦りが、定向進化の終極の目的です。甦りをはっきり狙えば、その時、その人は甦っているのです。ただ、甦りという実感が本当に与えられるまでには、相当の時間を要しますが、神と人との関係はそのようなものです。

自分の心に志を起こした時に、その人の志は成就しているのです。これが信仰です。だから、志を起こしたことは成就していると考えて、どんどん実行したらいいのです。

デパートへ買い物に行って、何を感じるのでしょうか。その時、全く死人の世界、地獄に入っているという実感があれば、救われているのです。あれも売っている、これも売っていると思って見ていたら、悪魔を認めている事になるのです。肉の思いでデパートへ行っているのです。これは御霊を崇めていないことになるのです。御霊を受けた時の言葉が自分の命です。これをしっかりとキープして頂きたいのです。

肉体はありません。ありませんが、あるように思えるのです。仕事の事で、ああしようと色々考える。これがこの世に生きている考えです。これから抜け出してしまわなければいけないのです。

自分が料理のことを考えて、自分が食材を買いに行くと考えている。これがこの世に生きている人間の考えです。お茶を飲んでも、ご飯を食べても、テレビを見ていても、映画を見ても楽しいと感じます。これはリビングの楽しさです。リビングのすばらしさです。

神は人間に、リビングという霊なる事実を経験させています。人間はリビングという霊なる事実を経験している時に、これはすばらしいと思っているのです。ところが、それを自分が経験していると思っている。そうすると、御霊を崇めていないことになるのです。

夕焼けの空を見て、すばらしいと感じるのはいいのですが、実は夕焼けは人の外にあるのではない。その人の中にあるのです。中にある夕焼けと外にある夕焼けが一つになっている。その時、魂は神の中に入っているのです。

自分が生きているという感覚が、へびの末の感覚です。この感覚によりますと、この世があるように思えるのです。これは十字架の処置をまともに信じていないから、そう思えるのです。

実際は、十字架によって悪魔の頭が砕かれている。物がなくなっているのです。これが神の処置です。神が人間の肉、動物の肉、地球という肉を消してしまっているのです。「すべての肉に私の御霊を注ぐ」とあります(使徒行伝2・17)。

神は十字架と復活とによって、断固たる処置をとってしまった。これが人間にはさっぱり分からないのです。だから、肉体があると思えるのです。物がある。地球があると思えるのです。地球があるかないかという問題です。般若心経に五蘊皆空という言葉があります。五蘊の一番最初は色蘊です。

色蘊とは何かと言いますと、目で見ているものがあるという考え方です。人間は太陽がある、自分の体がある、地球があると考えるのです。地面の上を歩いていると思っているのです。これは非常に鮮明な感覚です。この感覚のことを色蘊というのです。

釈尊は五蘊皆空と言っています。太陽がある、地球がある、森羅万象があるのは嘘だと言っているのです。日本ができてから、千四、五百年になりますけれど、これが本当に分かった人はいないのです。その証拠に、色蘊の本当の説明をした人がいないのです。

空とは何か。人間の意識から見れば、万物が存在していることの実体が分からないから、空だと言っているのです。空はからっぽではない。何かあるのです。例えば、花が咲いています。それが空です。花が咲いている格好は空ですが、花が咲いているという本質は、宇宙の命が端的に現われているのです。しかし、単なる命ではない。神のすばらしい思いがあるのです。

太陽が照ると明るくなり、暖かくなって、仕事がしやすい。こういうことが、神が人間に恋をしている現われです。これが恋の標準です。

神の御霊が皆様に恋をしている。これが太陽の明るさであったり、暖かさです。また、ご飯の味、魚の味、肉の味です。味があるということが、神の愛の表現です。人間は神の子として扱われているのです。

神は命を与えるために人を愛しているのです。神は人間に命を与える覚悟があるのです。命を受け取るようにという形で、愛を表現しているのです。

男が女を愛する場合は、その覚悟がいるのです。愛するという言葉はめったに使えないのです。これをいう以上は愛している人に、命を与える準備がいるのです。その準備がなければ、愛しているという言葉を使ってはいけないのです。

結婚をしている人は、結婚をする前の恋愛の時の感覚に帰ることです。結婚をしたあとの感覚は皆性欲だからだめです。まず、自分が生きているという気持ちを征伐しなければいけないのです。地球がないということは、よほど熟練しなければ分からないことです。

万物は目に見えていますが、神の働きがそのように見えるのです。例えば、ハレー水星のようなものです。ハレー水星にはしっぽがあります。頭が水星の本体で、尾を引いているのです。七十年に一度、地球に近づいてくるのです。

神の言葉の働きというのは、ハレー水星の頭のようなものです。現象はしっぽのようなものです。肉の思いはしっぽのようなものばかりを見ているのです。言葉の働きを見ないで、しっぽばかりを見ているのです。これを現象感覚というのです。現象感覚がある間は、神の国に入っていないのです。

生きているというのは楽しいことですが、自分という悪魔がいるのです。生きているというのは、自分の思いとは何の関係もありません。生きているということは楽しいことであって、自分がどう思おうと何の関係もないのです。

生きているということは霊です。自分の思いは全部肉です。これをしっかり弁えなければいけないのです。

十字架と復活によって、人間は完全になくなっているのです。この世に生きている自分はいないのです。それなら、自分と思えるものは何なのか。これを色蘊というのです。聖書はこれを肉の思いと言っています。自分がいるとか、自分が何十年間かこの世に生きていて、経験してきたと思っています。この自分がいるに違いないと思っている。これを肉の思いというのです。

生かされているという事実はありますが、これは人間の思いとは違います。生かされているという事以外の思いは、全部肉の思いです。

イエスは言っています。

「誰でも、父、母、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命まで捨てて、私の元に来るのでなければ、私の弟子となることはできない。自分の十字架を負うて、私についてくるのでなければ、私の弟子となることはできない」(ルカによる福音書14・26、27)。

おまえ自身の父、おまえ自身の母、おまえ自身の妻、おまえ自身の兄弟を捨てよと言っています。口語訳では捨てなさいと訳していますが、憎めと訳した方がいいのです。捨てると言っても、絶縁しなさいという意味ではないのです。父を捨てる、母を捨てるというのではなく、おまえ自身の父、おまえ自身の母があるという気持ちを憎むのです。

人間は結婚したことによって、妻も夫も両方共だめになっているのです。結婚という事がどれほど悪いものかを人々は知らないのです。男女の感覚は、恋愛でなかったらだめです。結婚して、三十年、四十年経てば、恋愛はできないと考えたらいけないのです。恋愛は毎日し直すことをいうのです。毎日惚れるような感覚でなかったら、恋愛とは言えないのです。

神と人が恋愛関係で成り立っているのです。胸が痛むような愛する感覚が流れ出るようでなかったら、本当の恋とは言えないのです。神は人間に対してそういう恋をしているのです。ところが、人間はぽかんとしている。妬むほどに愛するという神の愛が分からないのです。

皆様に与えられている果物の味、牛肉の味、魚の味が神の愛のしるしなのです。愛のシグナル、プロポーズの方法です。その証拠に、ご飯は何回食べても新しい味がするのです。昨日食べたから、今日は食べないとは言わないのです。神が人間を愛していることが、いつでも新鮮であることを示しているのです。味覚とはそういうものです。

イエスは、「おまえの父、おまえの母、おまえの妻を憎め」と言っています。自分の親を親と思っている間は、自分の業(ごう)がつきまとうのです。

親の業から離れられないというのは、古き人が生きている証拠です。自分の家族を今のような考えで見ていたら、絶対に携挙されません。ここが厳しいのです。結婚してからずっと続いている見方をしていたらだめです。携挙されなかったら、いくら聖書が分かっても地獄へ行くことになるのです。

神の福音は厳しいものです。そのかわりに絶対です。非常に厳しいかわりに、絶対に間違いないのです。聖書に書いてあるとおりに実行すれば、必ず救われるのです。

聖書に書いてあるとおりのことが救いであって、聖書の言葉が命になるのです。それを少しでも値引きしたらだめです。

憎むとはどういう事か。父を憎め、母を憎め、妻を憎めと言っていますが、これはどういう事かと言いますと、自分の心の中にある父、自分の心の中にある母を憎むのです。肉親の父母は肉体的には父母ですが、魂的には本当の父母ではありません。

魂の本当の父は神です。魂の本当の母は聖霊です。肉親の父母を本当の親と思っていると、魂の父母が全く分からなくなるのです。肉親の父母は仮の父母です。もっとはっきり言えば、偽の父母です。そんなものを父母だと思っていてはだめだと言っているのです。人間が持っている肉の思いは、皆間違っています。これを改めなければ、携挙されないのです。

世間並の夫婦は、自分の妻、自分の夫とお互いに思っていますが、それではだめです。今まで描いていた夫婦という考えではだめです。それは肉のイマジネーションによる夫婦像です。肉のイマジネーションによって、自分の夫がいる、自分の妻がいると考えているのです。

肉のイマジネーションが一番悪いのです。自分でそう思っているからいけないのです。自分の肉で考えている夫、自分の肉で考えている妻がいたのでは携挙されません。これは大きな問題です。こういうことを全部大掃除しなければいけないのです。気に入ってもいらなくても、しなければ必ず地獄へ行くに決まっています。

神の福音は非常に厳しいですが、非常に正確で真実です。この難関をどうしても通らなければいけないのです。

人間が考えている夫、人間が考えている妻は、すべて肉のイマジネーションです。神の前には、人間の思いや肉の行為は一切受け入れられないのです。とにかく携挙されなかったらだめです。携挙されないような信仰は、全く宗教観念にすぎないのです。ただの道楽です。

人間が見ている父母は、どこまでも人間が見ている父母であって、本当の親とは違います。それは肉体の親であって、魂の親とは違います。ただ両親が肉体を与える契機になったというだけであって、魂とは何の関係もないのです。

それと同じことが、夫婦の場合も言えるのです。夫婦が肉体的に交わっているのは、ただ善悪の木の実を食べたり、食べさせたりしているだけです。

そこでイエスが、「おまえの妻を憎め、おまえの夫を憎め」と言っているのです。夫という人間を憎むのではない。自分の中にある夫という偶像を憎むのです。自分の中にある妻という偶像を憎むのです。人間的に捨てるとか、憎まなくてもいい。自分の中にある偶像を憎むのです。偶像というイマジネーションを憎むのです。

大体、肉体人間はいないのです。生かされていること、つまりリビングしかないのです。ところが、肉体人間がいると考えている。これが肉のイマジネーションです。この大掃除をしなければ、携挙されません。今までこういう大掃除をした人はいませんが、しなければならないのです。携挙というのはそういう標準です。

女をじっと見ると、女であることの中に驚くべきものが隠れていることが分かります。驚くべき骨の骨が隠れているのです。男は女が本当に分かると好きになれるのですが、それは現世の感覚とは違った意味で、好きになれるのです。アダムが初めてエバを見た時、「これこそついに、私の骨の骨」と言った感覚が分かってくるのです。これが分かる男でなかったらだめです。

肉の思いで見ている女は女ではありません。女であることが女です。これを神が愛している。神が人間の本質を妬むほど愛している。これが分かってくると、初めて恋の意味が分かるのです。

例えば、目の前に花があるとします。これはあるのではなくて、肉のイマジネーションが花を造っているのです。見た瞬間はあったのですが、三十分たってもある。一時間たってもあると思えるのは、肉のイマジネーションです。本当の花を見ているのではありません。

現世で人間が言ったこと、人間として言ったことは、皆嘘です。神の子として言った事だけが本当です。イエスは言葉そのものでしたから、イエスが言った一言一言は本当です。この世に生きている人間はイエスではありません。イエスを信じなければならない霊魂です。イエスを信じなくて言ったことは皆嘘です。

四十歳の人が四十年生きてきたと思うことが、間違っているのです。そんな事実はありません。四十年間生きていたという事実はないのです。神の口から出ている一つひとつの言葉が、その人の命です。四十年間続いて生きているという事はないのです。三十歳の人は三十年生きてきたという思いが迷信です。

肉体人間が思ったこと、考えたことは、全部肉の思いです。人間は霊なるものであって、瞬間瞬間生きているのです。これが人の霊です。これを神が妬む程に愛しているのです。

五十年生きていた人間、六十年生きていた人間を、果たして御霊が愛するのでしょうか。七十歳、八十歳のお爺さん、お婆さんを愛して、どうするのでしょうか。

人間が常識で考えていることは、命の本物ではありません。命は神のものです。だから、生きていることが楽しいのです。ところが、自分が生きていると思うと、その思いは悪魔の思いになっているのです。これが神の命を横取りしているのです。

神に生かされているのは霊です。自分が生きているのは肉です。肉の思いで生きていたら、必ず死ぬのです。生かされているということだけを掴まえるのです。分かっても分からなくても、どうでもいいのです。分かったと思っても、分からないと思っても、どちらも自分です。

生かされているという事実を毎日経験していますが、これだけを見たらいいのです。携挙されるためには、人間のイマジネーションの外に出てしまうことが必要です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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