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  • 管理人chaya

はじめに


まず、自分の意見を捨てて、命そのものを生活する、命そのものを自分の世界観の基礎にするという考えを持てばいいのです。自分が生きていると考えている間はだめです。

命は光と同じ意味です。光は自分の存在を照らす光です。自分の存在だけでなく、過去、現在、未来に対しての光になるのです。これは阿弥陀経でも言っているのです。大無量寿経でも言っています。無量寿如来と無量光如来の二つの如来が一つになると、阿弥陀如来になるのです。人の命が人の光になるのです。

本当の命を勉強すれば、神が分かるのです。神という言葉を使うと、宗教ではないかという人がいますが、これはとんでもないことです。神は本来的には、上ということです。「神はすべてのものの上にある」という言葉が、新約聖書にあります(エペソ人への手紙4 ・ 6)。すべてのものを貫いて、すべてのものの中にあると言っています。これが神なのです。これは宗教ではないのです。神という言葉が嫌なら、上と言っておけばいいのです。上と言っても、神と言っても同じことなのです。宗教観念から抜け出して、自分の命を真正面から見るような厳しい感覚を持つのです。

日本の新興宗教は、ほとんどと言っていいほどシャーマニズムなのです。日本の風土に適している考え方なのです。これは命に全く関係がないものです。人間の生活の概念からそういう霊が生まれてくるのです。これは宗教の霊であって、命の本質に関する霊ではないのです。命の本質が人間の知恵、知識の源流になるのです。宗教の霊はシャーマニズムであって、霊媒なのです。これは俗世界の霊なのです。宗教でもだいぶ下品な方です。

本当の命とは、自分自身が生きていることの本質、五官の実体のことです。自分の目の働きをよく勉強することが、命を勉強することなのです。これが神の実体を把握する糸口になるのです。

宗教ではない神、人の命の光である神をはっきり把握するためには、目の働きをよく考えてみる必要があります。「目が正しければ、全身が明るいだろう」とイエスは言っています(マタイによる福音書6・22)。全身というのはホールボディでありまして、人間の肉体だけの全身ではなくて、過去的に存在する人間、現在的に存在する人間、未来的に存在するであろう人間全体のことです。全体を見るために、目はあるのです。

つまり、目の光とは何かと言いますと、神の機能的な象徴なのです。これを見ていきますと、自分自身の実体が分かってくるのです。生まれてくる前の状態、現在の自分の状態、現世を去ってからの自分の状態がはっきり分かってくるのです。

こういう見方をすることが、命を見る見方なのです。そのためには、自分の常識だけではだめです。常識は、非常に狭い範囲のことしか見えないのです。ですから、般若心経を正しく学ぶことが必要になるのです。

五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃という、般若心経の叡知を自分のものにするためには、現在までの我々の考え方が間違っていたこと、あやふやであったことをはっきり認めなければならないことが、前提になるのです。

本当の真面目さが私たちの気持ちに発生すれば、目の光がはっきり感じられるようになります。命の勉強をするというのは、こういうことを勉強することなのです。

目で見ることを観と言います。目は物を見るためにあるのではなくて、命を見るため、真実を見るためにあるのです。実は、目が見えることが、神の機能性をそのまま人に与えていることを示しているのです。神自身が人の目の働きとして、人と一緒に生きているのです。神が人と一緒に生きている。その働きが、目の働きとして現われているのです。

人の五官のあり方、その働きの真髄を素朴に捉えれば、本当の命の情緒が分かるのです。目が持っている情緒性から、命の直感性につながるのです。自分自身の命をじっと味わう感覚を、現代人は失ってしまったのです。情緒を味わう感覚を学校教育は奪ってしまったのです。学校は学校として当然学ばねばならないこともありますが、これは絶対ではないのです。社会生活をするために、学校教育が必要というだけのことです。これをそのまま命の問題にまで広げてしまうような考え方をしている。これが間違っているのです。

目が見えるということが、神の実物が人と一緒に生きていることなのです。これさえ分かれば、死なない命が分かるのです。現世に生まれてきて、現在目を使って生きています。これでも神が分からないというのは、その人の心がけがよくないからです。だから、死んでしまうのです。

本当の神を、目で見るという形で経験していながら分からない。人間がいること、これが神の実体なのです。これをはっきり証明したのが、イエスという人物です。鼻から息を出し入れしていることが、そのまま命の真髄であり、神そのものなのです。本当の命とはこれなのです。現在生きていながら、命が分からなくて死んでいくというのは、全く残念無念なことなのです。人は皆宇宙の命に生きているのです。一つの命に生きているのです。

太陽と地球の関係を勉強する必要があるのです。太陽がなければ地球は死んでしまいます。太陽と地球との関係が、キリストと人間全体の関係を現わしているのです。これが聖書に書いてあるのです。

「言わず語らず、聞こえないのにその響きは全地にあまねく、その言葉は地の果てまで及ぶ」と言っています(ローマ人への手紙10・18)。人の肉体構造の中には、神の言葉がつまっているのです。人が生きているのは、神の言葉の躍如たる働きなのです。地球の自転公転と同じ命が、人の中に満ちているのです。

だから、鳥の声を聞けば楽しいのです。大自然に接すれば、人の魂がはばたくのです。この命の実体を掴まえればいいのです。鯛を食べれば鯛の味がします。ブリを食べればブリの味がします。これはそのまま命の味わいを認識しているのです。

だから、正しく生きれば、人間は死ぬはずがないのです。ところが、これをする人がいない。文明思想が人間の情緒性を破壊したのです。学校教育によって、人間の情緒性が破壊されてしまった。知能の啓発だけをやかましく言ったために、ばかになったのです。知能の啓発もいいのですが、情緒の開発も同時にしなければ、人間はますます死の餌食になってしまうだけなのです。

死なねばならないというばかばかしい考えを持つことは、敗北主義なのです。負けることが分かっている戦争をしている。死にたくないのに、なぜ死ななければならないと考えるのか。死ぬことは負けることなのです。

死に勝つ方法があるのです。それがイエスの復活を受け取るという問題です。これは歴史的に証明されているのです。人間が死なないものであることが、イエスの復活によって証明されているのです。これがキリスト紀元です。現在の学問は、キリストの復活を徹底的に究明すべきなのです。

人間が死なないということがはっきり究明されれば、どんな開発でもすばらしい効果がもたらされるでしょう。人間の命は死ぬべきものではないのです。死なないものです。ただ命の捉え方が常識的な角度からだけしかしていない。これが現代文明の根本的な誤りです。


                               梶原和義

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