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  • 管理人chaya

天然と自然


皆様には現在生きているという事実があります。生きているのは自分の命で生きているのではありません。命が自分という形で現われているのです。

命は宇宙全体の営みです。皆様が生きていらっしゃるという事は、宇宙の営みに与っていることなのです。これは宗教には関係がありません。皆様の魂は生まれる前にこの営みに触れていたのです。

その時に根本的な失敗をしてしまいました。神と一緒に、神の前で生きていながら、神を意識しないで、神ではないものを意識してしまった。自分を意識したのです。自分の気持ちで、自分の命を見てしまったのです。

自分が生きているという意識は、皆様が生まれる前にできた意識です。これが人間の恐ろしい罪です。創世記の二章と三章に書いてありますが、へびに騙されたというのはこれなのです。

悪魔という人格がへびという人格に化けて、前世にいたのです。へびとは何かと言いますと、ボディを持った生き物の中で、最もずるがしこいものです。ずるがしこいというのは、最も自我意識が強いということです。最も狡猾な生き物をへびという語形で現わしているのです。これが悪魔です。人間はへびの言葉をそのまま呑みこんでしまった。ずるがしこいというのは、自分が生きているという意識そのものが、ずるがしこいことの典型なのです。

現在の人間は、自分が生きているという意識に、全部呑みこまれているのです。今の人間は一人残らず、悪魔に呑みこまれているのです。そこで、宗教がはやるのです。宗教に頼る人はすべて、自分が幸福になろうと考えるのです。自分が成仏したい、自分が天国へ行きたい、自分が仏国浄土へ行こうと考えるのです。こういう考え方が間違っているのです。

現世に生きている間は、教会やお寺があります。だから、宗教観念が通用するのです。現世を去ってしまいますと、寺も教会もない所へ行きます。そこでは、宗教は一切通用しません。だから、現世に生きている間に、宗教をやめた方がいいのです。そうして生きているという事実を見つめるのです。

釈尊の悟りは宗教ではありません。仏法です。仏法というのは仏の則であって、仏というのは、人間自身がほとけてしまうことです。人間存在が心も体もほとけてしまうのです。これが仏の則でありまして、釈尊が空というのは、それを言っているのです。

釈尊は仏を見たことによって、来るべき新しい世界を見たのです。いわゆる仏国浄土を見たのです。それによって、現実の世界も、自分自身も、ほとけてしまったのです。この世の人から見れば、死んでしまったのと同じような状態になってしまったのです。

現世の営みから出てしまったのです。これが仏法です。日本の仏教は、釈尊の仏法に関係がないのです。自力も他力も、日本のすべての仏教は、お祖師さんの教えを説いています。

お祖師さんの宗教が日本の宗教になっている。これが悪いというのではありません。それはそれなりに、現世での教えにはなりますが、この世を出た教えにはなりません。皆様に必要なものは、現世での教えとなると同時に、この世を去った後にも、本当の真実のものとして、頼りになるものを勉強して頂きたいのです。

私が述べていることが宗教ではないということは、この世を去ってからでも役に立つという意味です。宗教はこの世だけしか役に立ちません。寺や教会がある所では、宗教は役に立ちますが、この世を去ってしまえば宗教は全く役に立たないのです。これをよく考えて頂きたいのです。

皆様の命は宇宙の営みでありまして、宇宙の営みは、地球ができる前からあるのです。天然が自然になって現われたのが、現在の地球です。現在の自然は、また元の天然に帰ります。やがて地球はなくなるに決まっています。お釈迦さんはこれを見ているのです。地球がなくなった後の世界を見ているのです。

イエス・キリストが十字架につけられて、現世を去った後に復活したということは、やがて来るべき新しい世界を示しているのです。現在の地球がなくなってからの新しい世界を示しているのです。現在の地球がなくなってからの新しい命を復活の命として、イエスが典型的に示しているのです。

釈尊が見た新しい世界と、イエス・キリストが現わした復活の命とは、同じものです。西洋文明の根本原理と、東洋哲学の根本原理は同じものです。仏教がある、キリスト教があると考えることが間違っているのです。

全世界の人間の命はないのです。テレビをご覧下さい。ラジオを聞いて下さい。宇宙中継、衛生中継ばかりです。世界中が一つの国になっているようです。皆様の人生観、世界観も、宇宙中継で考えて下さい。西洋も東洋もないのです。仏教もキリスト教もないのです。あるのは地球が存在するということだけです。

天然があって自然ができました。自然はまた天然に帰るのです。幽遠の命、宇宙の大生命の流れを勉強して頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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