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  • 管理人chaya

幼子


現代人は頭が悪い。頭が悪いというのは、頭を働かすことが悪い状態にあるということです。現代人は自分の頭の悪さを知らないのです。頭の悪さを知らないのに、頑固なのが一番悪いのです。

その原因は自分を自分だと思い過ぎているからです。神を信じることができないからです。救われる道は一つしかありません。聖書が言っていることを黙って受け入れるだけです。イエスが言うとおりにすればいいのです。

霊魂と自分とは違います。霊魂である自分を見つければいいのです。霊魂である自分が、分かれば何でもないのです。霊魂を見つけたら、人間的な努力は一切いらないのです。

人間として生きていたら、必ず地獄へ行きます。御仏前で死んだら、皆地獄へ行くのです。人間として生きていて、仏や神を信じていたからです。

人間として生きている自分が信じなければならないと思う。人間としていくら努力してもだめです。神は皆様の魂を相手にしているのです。それを人間として受け止めようとしているのです。人間はこの宇宙には認められていないのです。現世にはいますけれど、宇宙にはいないのです。神が認めていないからです。この世に通用している人間は、全部地獄へ放り込まれるでしょう。この世に生きている自分はだめです。いくら地団駄を踏んでもだめです。

バプテスマのヨハネが次のように述べています。

「私は悔い改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、私の後から来る人は私よりも力のある方で、私はその靴を脱がせてあげる値打ちもない。この方は、聖霊と火とによって、おまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」(マタイによる福音書3・11)。

ここに三つのバプテスマのことを書いています。第一には悔い改めのための水のバプテスマです。第二に、イエス・キリストの十字架による聖霊のバプテスマです。第三に、火のバプテスマです。この三つのバプテスマがあるのです。これが人間歴史を説明しているのです。

人間の霊魂はこの三つのバプテスマをどのように理解するかによって、永遠の運命が決まるのです。

異邦人はこの三つのバプテスマを全く知りません。バプテスマが何のことか分からないのです。キリスト教の牧師でも水のバプテスマを知りません。聖霊のバブテスマも火のバブテスマも知らないのです。

火のバプテスマという言い方は、ものすごい言い方です。全くものすごい言い方です。イエスは聖霊と火によっておまえたちにバプテスマをお授けになるだろうと言っていますが、この意味が分からないのです。

火のバプテスマとはどういうものか。聖霊のバプテスマとはどういうものか。「また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるいわけ、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」(同3・12)とありますが、これも分からないのです。

皆様は日本人として生まれた不幸と、日本人として生まれた幸福との両方がありますが、その両方共理解していないのです。日本人として生まれた不幸というのは、三十年も四十年も聖書の勉強を教会でしていながら、水のバプテスマ、聖霊のバプテスマ、火のバプテスマを全く知らないということです。人間はこの三つを受けるために、この世に生まれてきたのです。この三つのバプテスマを受けることが、地球上に生まれてきた目的です。

まず水のバプテスマを受けた者は、聖霊のバプテスマが受けられるのです。水のバプテスマが基本になっています。水のバプテスマを軽んじる者は、聖霊のバプテスマを受けられません。全部火のバプテスマ行きになるのです。

火のバプテスマは厳然たる神の処置です。「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けて崩れ、地とその上に造り出されたものも、皆焼きつくされるであろう」(ペテロの第二の手紙3・10)とあるとおりです。

火のバプテスマは地球を焼きつくしますが、地球に生きている霊魂も皆焼かれるのです。目に見える現象を信じていた霊魂も焼かれるのです。

地球は焼かれたらおしまいですが、魂はおしまいにならないのです。魂を焼くというのは、その人の記憶を焼くのです。その人の思いを焼くのですから、おしまいにはならないのです。ですから、どんな意味でも自分を捨てなければいけないのです。自分の気持ちがある間は、水のバプテスマを受けていないことになるのです。

水のバプテスマを受けるとどうなるのか。ヨハネは悔い改めのためのバプテスマを授けていたのです。ところが、皆様は悔い改めができていないのです。父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けられていながら、父と子と聖霊による悔い改めをしていない。イエスは弟子に全世界の人にそうしなさいと言っているのです。

信じるとは何かと言いますと、私たちは目で見ていますが、これが信じることです。だから、目で見ていることに感謝しなければならない。さらに、花が見えることに感謝しなければならないのです。

目が見えることが神の栄光の働きです。花は命の栄光の現われです。栄光と言っても色々あります。経綸の栄光、御心の栄光、形の栄光、神の処置の栄光があります。神の栄光が花として現われているのです。それを見るという栄光が見ている。栄光が栄光を見ているのです。

見ていることが信じていることです。花が咲いていることは、花が神を信じていることです。神が信じている花を、神を信じている目が見ているのです。ところが、本人は少しもそれを感じていない。本人の心は悪魔だからです。生きている人間は皆悪魔です。人間が生きていることが悪魔です。これが分かればいいのです。

聖書に次のようにあります。

「しかし、カインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで、主はカインに言われた、『なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔を上げたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません』」(創世記4 ・ 5~7)。

罪が犬のようになって門口で待っているのです。異邦人の犬というのはこのことです。訳が分からずに、すぐ腹を立てるのです。神に叱られると、すぐ腹を立てるのです。これが原罪という犬です。何か思うと犬が待っているのです。体を動かそうとすると、もう原罪がいるのです。気持ちが原罪に引っかかってしまうのです。原罪を蹴飛ばしてという訳にはいかないのです。罪が待っているからです。

固有名詞があると信じている人は、魂は絶対に救われません。固有名詞は魂の敵です。これを知ることを悔い改めというのです。そのために、毎日でも水のバプテスマを受ける必要があるのです。

人が生きていることが御霊の働きです。心臓が動いていることが御霊の働きです。この働きについていけばいいのです。自分であれこれと考えなくてもいいのです。固有名詞から離れてしまうのです。固有名詞と縁を切るのです。これが水のバプテスマです。

自分が生きていると思っている者は、どうしても神を生きることができません。神を生きていない者は、神を辱めているのです。

自分の目が見えることが神ですから、神によって目が見えていること、心臓が動いていることを神として崇めなければ、自分が生きていることになるのです。自分が生きていることは、神の命を横取りしていることになるのです。自分が生きているから、生きている神を辱めることになるのです。生きているという神の栄光を辱めて、自分が神の座に座していることになるのです。

分からなかったら分かりませんと、神に白状したらいいのです。イエスがいつも幼児になれと言っています。幼児になるというのは、幼児の無邪気さを思い出しなさいと言っているのです。自分が良くなろうと考えるからいけないのです。自分が良くなろうとすると、必ず神と衝突するのです。自分自身が神のようになっているからです。

これが偶像です。特に大人は、自分という偶像を信じている。固有名詞という偶像を信じているのです。信じているだけではなくて、拝んでいるのです。

自分が生きていると思っている人は、自分を拝んでいるのです。生きているのは自分の思いを告白しているのであって、神が人間を生かしている命の実体を全く見ていません。リビングという実体を生きているのではなくて、自分が生きているというその思いを信じているのです。これが偶像崇拝です。

人間は本当に生きているのではなくて、死んでいるのです。自分の思いで自分の生き方を捉えているのですから、せっかくのリビングが死んでしまっているのです。リブ(live)がデッド(dead)になっているのです。反対になっているのです。自分で思うからそうなるのです。自分で思わなければ、リビングはリビングです。自分が思うからリビングが死んでしまうのです。デッドになってしまう。ばかなことをしているのです。自分で考えることをせずに、信じればいいのです。

アベルは自分の命を捧げる代わりに、自分が飼っている生き物を捧げた。これは生き物の命を捧げたことになるのです。自分の命を捧げることはできないから、やむを得ず自分の命の代わりに、飼っている生き物を捧げたのです。だから、アベルの捧げ物を神が良しとしたのです。

カインは自分の手で造ったものを捧げている。神はそれが気に入らなかったのです。自分の手作りのものを捧げるというのは、自分の命を捧げていることにはならないのです。自分の理屈を捧げていることになる。自分の理屈を弁解しようと思っているのです。自分の行いや自分の考えを神の前に持ち出しているのです。モーセのやり方と同じです。自分の行いを神に誉めてもらおうと思っているのです。

人間的な一切の行為を神は認めないのです。人間がいくら力んでもだめです。神が考えているのは魂の救いであって、人間の救いではありません。

カインの悪い所は、憤って神の前に顔を伏せたことです。これが原因になって、アベルを殺したのです。神の前に顔を伏せただけならいいのですが、これが原因で弟のアベルを殺したことが悪いのです。自分の気持ちが分かってもらえなかったという事だけが原因です。

イエスは言っています。

「よく聞きなさい。心を入れ替えて幼子のように自分を低くする者が、天国で一番偉いのである。また、誰でもこのような一人の幼子を、私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのである。しかし、私を信じるこれらの小さき者の一人をつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて、海の深みに沈められる方がその人の益になる」(マタイによる福音書18・3~6)。

これができなければ、イエスを受け入れることができないのです。イエス自身は、私を信じなさいと言っています。私を信じる者は死んでも生きると言っています。ヨハネはイエスを信じるとはあまり言っていません。全然言っていないことはありませんが、イエスを受け入れるという言い方をしています。

信じることと、受け入れることとは違います。ニュアンスが違うのです。皆様もこの間違いをしているのです。イエスを信じようとすると、それが宗教観念になってしまいやすいのです。

今の人間ではイエスを信じようとしてもだめです。水のバプテスマのことが本当に分かっているなら、イエスを信じることができるでしょう。ところが、水のバプテスマのことが本当に分かっていない人には、イエスを受け入れるという方がいいのです。

ヨハネは次のように言っています。

「すべての人を照らす誠の光があって、世に来た。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった。

しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1 ・ 9~12)。

誠の光があった。これが人間になってこの世に来た。彼を受け入れるというのは、誠の光を受け入れるのです。そうすると、その人が光になるのです。これがイエスを受け入れるということです。イエスを受け入れると、その人が誠の光になるのです。信じるのではなくて、受け入れるのです。そうすると、その人が誠の光になるのです。

その人が救われるのではない。その人は消えてしまうのです。消えてしまって、誠の光が現われるのです。その人が良くなるのではない。その人が消えて、誠の光が現われるのです。

御霊を受けた人は、受けた時のことをもう一度よくお考え頂きますと、よく分かります。御霊を受けた時は誠の光になったのです。聖書の言葉によって、誠の光になったのです。神がそれを認めてくれたのです。

これは人間が御霊を受けたのではなくて、神の御霊が人間を受け入れてくれたのです。その時、御霊が自分の命だということに切り替えてしまうと、ずっと御霊の中に入っていけたのです。それを自分が御霊を受けたと考えているから、だめになるのです。

人間が御霊を受けたのではない。御霊が命だったのです。それをたぐっていけばいいのです。そうしたら、新しい命の中へ入っていけるのです。これをすればいいのです。

神は固有名詞の人間を救いたいのではない。新しい人を造りたいのです。だから、いつまでも固有名詞の人間であってはならない。御霊を受けたということは、新しい命を与えられたことですから、できるだけ早く新しい命に生きるべきです。

パウロは言っています。

「すなわち、あなたがたは以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨てて、心の深みまで新にされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである」(エペソ人への手紙4・22~24)。

古き人を脱ぎ捨てて、新しい命を着るのです。新しい命の自分に入っていくのです。これを難しいと思ったらだめです。難しくても分からないと思っても、それをしなければならないのです。

救いとは何か。御霊を受けてから、何年も何十年もこの世で暮らさなければなりません。この世で暮らした結果、神がその人を認めて、永遠の生ける神の子として、キリストの祭司にしようとしているのです。この世を去る前に、自分自身に生きないで神に生きるという訓練ができていたら、この世を去る時に、神の使いが迎えに来て、アブラハムの懐に持っていくのです。

イエスの名によって幼子を受け取ったら何が分かるのかと言いますと、自分ではない自分が分かるのです。今まで何十年間かこの世に生きてきた古い人ではない、神にかたどられて義と聖とによって造られた新しい人が分かるのです。これが分からない人は結局だめです。

御霊を受けたからと言ってもだめです。御霊は救いの手付けであって、まだ本当のものをもらっていないのです。手付けをもらった人は、本当のものをもらう資格が与えられていますから、手付けの意味をよく理解すれば、救いを与えられるのです。

神が欲しいと思っている者とは何か。キリストと共に世界を治める者、万物の王になって、キリストと共に世界を治める者を募集しているのです。皆様を救うのではありません。キリストの花嫁を募集しているのです。これが神の狙いです。ですから、自分が消えてしまわなければ、花嫁になれるはずがないのです。

そのためには、イエスを受け入れることが必要です。イエスを受けた者、即ちその名を信じた者とありますが、誠の光を受けて、誠の光に同化することが、その名を信じることになるのです。イエスを受け入れるとは、幼子を受け入れることです。これは実際に体験してみないと分からないことです。

幼子の体験は、食物の味、遊んだことの楽しさとして残っています。これを思い出すのです。その時の気持ちになれば、イエスを受け入れることができるのです。これがとこしえの命の受け取り方です。

今の皆様はなかなかイエスが信じられません。全くの大人ですからだめです。ひがみ根性を持っている人は、絶対にイエスを信じることはできません。ただ幼子の時のことを思い出して、幼子の一人をイエスの名のために受け取る。これしかないのです。ところが、この経験をしている人がほとんどいないのです。

ヨハネによる福音書の一章十二節では、「彼を受けた者、即ちその名を信じた者」と書いています。しかし、その受けとめ方が書いていないのです。ただ彼を受けた者と書いています。どうして彼を受けるのか。どうして受けたらいいのか。この説明ができる人がいないのです。

イエスの名を信じるとはどうすることかと言いますと、イエスの名のように生きることです。イエスの名のように生きるというのは、イエスの名において幼子を受け入れるのです。幼子の一人を受け入れることができない者は、彼の名が分かっていないからです。彼の名が分かっていない者は、彼を受け取れないのです。彼を受けた者は彼の名を信じていなければならないし、彼の名を信じている者は、幼子のようにイエスの名が受け止められていなければならないのです。これがはっきり説明できますと、初めて聖霊によってよろしいと言われるのです。

この生き方が皆様の生活でできたなら、初めて古き人を脱ぎ捨てて、精神の霊を新にして、義と聖とによった造られた新しい人を着ることができるのです。

イエスの名のゆえに一人子を受け取るとはどうすることか。一人子のあり方をじっと見てみますと、私たちが幼子であった時のことを思い出したら分かるのです。幼い時にはすべてに感動したのです。キャラメルの味、梨の味、柿の味、栗の味、鳥が飛んでいる姿、蝉の鳴き声、魚が泳いでいる姿など、すべてに感動したのです。これが実はとこしえの命を経験していたのです。

イエスの名のゆえに幼子を受け入れるというのは何かと言いますと、生活を楽しむこと、味を喜ぶこと、命を喜ぶことです。幼子の生き方は、食べること、飲むこと、遊ぶことです。これがそのままとこしえの命の喜びになっているのです。命を喜んでいるのです。ザ・リビングを喜んでいるのです。

言が肉となったというのは、現世に肉体的に生まれてきて、神の栄光を賛美するためです。神の栄光とは何かと言いますと、生きていること、生かされていることが神の栄光です。神の栄光である命が、肉となった状態が、人間が生きていることです。また、生かされていることです。これがイエスの御名ですから、これを喜ぶのです。これがイエスの御名の実感です。

そこで、皆様が生きている喜びを幼子のようにすぱっと受け取ったら、それがそのまま永遠の命になるのです。命の喜びを賛美しているのです。だから、おいしいのです。楽しいのです。嬉しいのです。

人間の五官の中で一番印象深いのは、舌の味です。これが一番強く感じられるのです。食べることは味わうこと、味わうことは命の本体、とこしえの命を味わっているのです。

「永遠の命とは、唯一の、誠の神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネによる福音書17・3)とヨハネが言っています。

知るというのは、ギリシア語でギノスコーです。これは味わうこと、味わい知ることです。ただ知ることではありません。

「アダムはエバを知った。彼女は身ごもってカインを産んだ」とあります(創世記4 ・ 1)。これが知るということです。知るというのは、食べることと同じ意味です。だから、女性は食べ物です。女性は食べられるものです。女性に触るというのは、食べていることです。体で食べているのです。舌で食べるのも、体で食べるのも同じことです。

男は女が好きで好きでたまりません。触れたくて触れたくてたまらないのです。なぜか。触れて、味わって、命の実体を味わいたいからです。

触れることは食べることを意味するのです。味わうことがギノスコーです。神は味わわなければ分からないお方です。イエス・キリストは味わわなければ分からないお方です。唯一の誠のあなたと、あなたが遣わしたイエス・キリストを味わうのです。神を食べよ、キリストを食べよと言っているのです。これが信仰の秘訣です。

イエスは言っています。

「私の肉を食べ、私の血を飲む者には、永遠の命があり、私はその人を終わりの日に甦らせるであろう。私の肉は誠の食物、私の血は誠の飲み物である。私の肉を食べ、私の血を飲む者は私におり、私もまたその人におる」(ヨハネによる福音書6・54~56)。

イエスは私の肉を食べ、私の血を飲めと言っています。イエスを食べない者はイエスに関係がないのです。キリスト教ではイエスの肉を食べ、血を飲むとはどうすることかが分からないのです。聖餐式を盛んにしていますけれど、全然イエスを食べていないのです。聖餐式をしなくてもいいのです。毎日イエスを食べたらいいのです。これが誠の礼拝、神の礼拝です。

寝ても起きても、皆様の心臓が動いています。皆様の目が見えます。これがイエスです。心臓が動いていることを味わうのです。幼子の状態になっていると、イエスの命と自分の命が一つになっていることが分かるのです。幼子の状態を私の名のゆえに受け取ったら、私自身を受け取ったことになるのです。

イエス自身を受け取ると、もう永久に滅びません。すでにイエスは甦っているのですから、どんな事にも勝てるのです。イエスはこの世に勝っているのですから、どんな事にも勝てるのです。

肉体的に生きている事がイエスです。言が肉となっているのがイエスです。イエスである証拠に、食べたらおいしいのです。甘いのです。人間の五官は触るためにあるのです。触ったら気持ちがいい。それがイエスだから気持ちがいいのです。とこしえの命はそういうものです。

人間が愛したり、味わったりしていることが、そのまま言(ことば)を味わっているのです。言を経験しているのです。命を経験しているのです。肉体で命を経験しているのです。これをロゴスというのです。肉体的に命を経験している状態をロゴスというのです。

神の口から出る言が私になって、命を経験している。イエスはそういう感覚で生きていたのです。人間の本体は神の口から出る言だと言っているのです。

イエスはいつも神に触っていた。神を経験していた。自分の五官の働きによって経験していたのです。これがイエスのザ・リビングです。ザ・リビングが救いであるという聖書の秘密がここにあるのです。この秘密は、ヨハネによる福音書、マタイによる福音書、ルカによる福音書にも流れているのです。これを皆様もぜひ経験して頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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