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  • 管理人chaya

現前


存在の本源である「ありてある」というお方の御名、ありてあるということは、本質的に現前を意味するのです。ありてあるということは、過去を意味しないのです。現前だけを意味するのです。

もちろん、この場合の現前は、過去を含んでいると言えるでしょう。含んではいますが、それに拘泥していないのです。例えば、父なる神の御心の中には、かつて天地を造りたもうたこと、また、御子をこの地上に遣わしたこと、彼を十字架につけて甦らせ昇天させたことなどは、もちろん神の御心の中にあるのです。

これは現前と同じ形で、神の御心の中にあるという意味です。一切の過去は、現前と同じ形で神の御心の中にあるのです。

人間が過去と考えるのは、自分の過去という形で、ずるずると引きずっているのです。過去という時間、過去という経験をそのまま引きずって歩いているのです。だから、その人の後ろには、過去という長い長い縄が、ぞろぞろとついてきているのです。三十年、四十年、長い人は七十年、八十年と縄を引きずって歩いているのです。

これを引きずって歩いていると、縄を踏まれたら、止まらなければならないことになるのです。本人が縄を引きずっていればそういうことになるのです。過去を咎められると、神を信じるという前向きの姿勢が取れなくなるのです。

過去があっても、自分自身の過去を前向きに活用することができる形で用いたらいいのです。つまり、過去はありますが、これに対して自分は責任を負えないし、負う必要もないのです。対人関係においては別ですが、対神関係においては、それでいいのです。

人間は過去に対して責任を負うことができないのです。例えば、昨日、人を罵ったとします。罵るという失敗をした。ああ悪いことをしたと思うのです。それを何とかやり直したいと思っても、悪かったと言って謝る程度の事はできますが、それ以上のことはできないのです。録音テープなら、過去の音声を消して、新しい音声を吹き込むことはできますが、人間の過ちはどうしようもないのです。白紙に戻すことができないのです。

自分の罪を自分で消してしまうこと、贖うことはできません。神の御心に従わなければ、自分の罪を許されることは全くできないのです。そうすれば、過去は実在しないことになるのです。

人間関係の記憶内容としてはありえても、神と人間の関係においては、実在しないのです。エホバの御名が共にいます神です。存在の本源です。「我はありてあるものなり」というお方です。

ありてあるというお方が徹底的に現前です。現前だけしか存在しない。現前に存在するという事がらの中に過去が当然含まれていますけれど、過去を引きずるという形で含まれているのではないのです。

そこで、自分の過去が現存するような形でいますと、七十年、八十年の縄を引きずって歩いていることになるのです。縄を踏まれると、前に進めなくなるのです。神を信じることができなくなるのです。

そうすると、罪の許しということを、まともに信じることができなくなるのです。口で信じますと言っても、心から罪が解放されないのです。古き人を脱ぎ捨てるという芸当ができないのです。

ところが、パウロは古き人を脱ぎ捨てると言っている。これは過去が存在しないからできるのです。「後ろにあるものを忘れて、前にあるものを望む」とパウロが言っていますが(ピリピ人への手紙3・13)、この姿勢がなかったら、信仰は成り立たないのです。

罪の許しと、過去に対するその人の感覚は、非常に重要な関係にあるのです。過去における自分の生活が現存しているように意識している人には、罪の許しはありません。その人自身が自分の過去を認めているのですから、古き人を認めていることになるのです。この場合には罪が許されていないことになるのです。

神がその人の罪を許していても、その人が自分の過去を認めているなら、その人自身が自分の罪をとどめていることになるのです。そういう人は罪が許されていません。神に従いて神を信じることをしていないのです。自分の思いに従って、自分の過去を見ているのです。この場合は罪が許されることがありません。

キリスト教では、このことが偽善的になっているのです。過去の生活を承知していながら、また、過去の生活を認めていながら、十字架によって罪が許されましたと言っている。これが偽善者です。

私たちが罪が許されたと言いたければ、はっきり自分の過去が現存していないことを、神と人の前で言い現わさなければならないのです。

自分の過去は存在しないと言いましても、また、商業取り引きとか友人関係とに、自分の過去は存在しないと言ってもだめです。これは対人関係の問題です。対人関係は対人関係です。自分の魂としての感覚で言えば、自分の過去には係わりがないのです。どこまでも古き人を脱ぎ捨てたという事を証すべきです。

こういう事が現前に対する正確な認識として、考えられなければならないのです。自分をリビングソールとして認識するとはどういう事か。自分が肉体人間として生きているのではなくて、リビングソールとして生きているということです。リビングソールとして生きているという意識内容として、こういう過去の問題が具体的に取り上げられなければならないのです。これは罪が許されるためには、どうしても必要な意識です。

自分が自分の過去を引きずっていて、これを自分が確認しているなら、これは過去における罪を確認していることになるのです。その人が自分の罪を確認しているなら、神がいくら許そうと思っても許されないのです。自分が勝手に自分を咎めているからです。

「肉に従って人を知ることをしない」とパウロが言っているのです。肉において人を知ることをしない。また、自分自身を知ることをしないのです。肉に従って自分を知っていますと、何年たっても自分の失敗がついてくるのです。そこで、罪の許しは成立しないのです。

神が許しても、自分が許されたという状態で生きていないから、神の許しは無効になるのです。十字架が無効になるのです。愚かなことですが、そういう事になるのです。皆様はそういう事を、はっきり精算することが必要です。

人間は肉の思いで人間存在を見ているのです。そうすると、一メートル数十センチ、数十キロの人間がいると実感されるのです。しかし、その実感は肉の人間の実感であって、本当の意味での現前を理解した実感ではないのです。

現前という言葉は、ミクロ的に考える現前と、マクロ的に考える現前と、両方あるのです。ミクロ的に考えると、この瞬間、瞬間は非常に厳しい瞬間です。全く極微の世界です。原子物理のような見方になるのです。小さなバイキンの世界のようなものです。マクロ的というのは宇宙的です。大きい世界です。ミクロ的な現前は割合に分かりやすいのです。例えば、今、今という瞬間しか時間はないのです。今という間に今はないということになるのです。

ミクロ的に考えると、非常に神経質になる。この考え方も必要です。過去を引きずらないという感覚で言えば、意図的に今しかないと思ったらいいのです。

イエスは今という神経質な言い方ではなくて、今日という言い方をしています。「一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイによる福音書6・24)。これがイエスのミクロ的な考えです。今日しかないのです。今日しかないという考えが信仰の原点です。

同時にマクロ的な見方が必要です。マクロ的に考える現前とは何かです。マクロ的に考えますと、現前というのは、天地創造から新天新地が到来するまでの間です。これがマクロ的な現前です。

天地創造から天地壊滅までの、有形の現象世界が存在している全体の時間を現前というのです。「私はアルパであり、オメガである」(ヨハネの黙示録22・13)というのは、これを意味するのです。

アルパなりオメガなりは、私は現前であるという意味です。そこで、マクロ的な現前を取り上げて考えますと、天地が創造された瞬間と、天地が壊滅する瞬間は同時になるのです。

天地が造られたという瞬間と、天地が焼かれるという瞬間とは、同時に存在しているのです。マクロ的な現前で言えばそうなるのです。これを考えると、私たちの七十年、八十年の人生はありもしないものです。ただ過去を引きずる瞬間から、抜け出せるか抜け出せないかを試験するために、神が人生を与えているのです。

人間歴史の六千年は、吹けば飛ぶようなものです。地球が造られてから、今日までの時間を譬えてみます。例えば、東京から大阪間の新幹線のレールの長さを天地創造から今日までの時間とします。動植物ができてから今日までの長さは、新幹線の一列車になります。人間が造られてから今日までの長さは、マッチ一本の長さに相当します。六千年の人間歴史が、たったマッチ一本の長さですから、八十年、九十年の人生の長さはどの位になるかと言いますと、全く目に見えない位の極微の短さです。こんな短い人生で、過去だ未来だと言っていることが、寝言みたいなことになるのです。

天地創造から、天地が消滅するまでの間を現前として見ますと、私たちが過去と考えている事がらと、未来と考えている事がらとは、同時的に存在しているのです。だから、アルパなりオメガなりとなるのです。初めが終わりであり、終わりが初めとなる。これが現前です。

今、私たちが考えているミクロ的な現前が、そのままマクロ的な現前に当てはまることになるのです。今、この瞬間に、天地が造られたのであるし、また、この瞬間に天地が消えてしまうのです。天地が創造されなければ、今、地球が回っているはずがないのです。今の現前の中に、天地創造の一切が含まれていると同時に、やがて火に焼かれるという未来的なことも含まれているのです。

造られなければ現在の現象世界はないし、現象世界がなければ火で焼かれることもないのです。現象世界があることは、造られたことと、火で焼かれることが、同時的に存在しているのです。

こういうマクロ的な考え方と、ミクロ的な考え方をミックスして考えますと、私たちが拘らなければならない人生は、一つもないのです。どこにもないということが分かるのです。喜怒哀楽とか利害得失は、どこにも存在していないのです。ただ現前だけが存在しているのです。

マクロ的にしろ、ミクロ的にしろ、ただ現前と称しているものだけが存在しているのです。神の御名だけが存在しているのです。現象的なもの、肉体的なものは、一切存在していないのです。

これは乱暴な見方ではありません。神を信じるというのは、マクロ的な宇宙観とミクロ的な宇宙観を、同時に成立させる感覚を持っているのです。これが神を信じることです。自分を信じないで、神を信じるというセンスを、自分の人生観の中心にしますと、天地創造から天地壊滅までの状態が、瞬間的に把握できるのです。

「御子はすべてのいや先に生まれたお方であって、御子によって万物が造られた。また、御子のために万物が造られた。御子によって万物が保たれている」とパウロはまるで見てきたように書いているのです(コロサイ人への手紙1・16、17)。

パウロはなぜ見てきたように書いているのか。パウロ自身の中に、理性と良心というすばらしい機能が働いていたのです。理性とは何か。天理の理、命理の理、道理の理です。この理が人間の理性として、人間の中に植えられているのです。

このロゴスが自分の中に植えられているという事実に基づいて天地を見ますと、天地が造られた時と壊滅する時とは同時的に存在していることが分かるのです。現象世界はないのです。

人間の意識はすばらしいものであって、物理とか心理とかという理はありますが、天理とか命理が細分化された状態で、瞬間、瞬間働いているのが物理であり心理です。

物理とか心理という言い方は、ミクロ的な現前です。天理とか命理という言い方は、マクロ的な現前です。人間にはマクロ的なロゴスとミクロ的なロゴスが同時的に存在していて、理性によって両方を見分けることができるのです。

私たちの中に宿っている理性はすばらしいものです。これがロゴスです。ロゴスが肉体となって生きているのです。この状態において、イエスが受肉降臨されたように、私たちの魂も受肉して地上に現われているのです。イエスと同じことです。

受肉して地上に現われて何を学んでいるのか。ミクロ的な現前とマクロ的な現前を学んでいるのです。この両方が調和しなければ、人間生活は成り立たないのです。

このように、私たちはいつでも、マクロとミクロの両方を生活で経験しているのです。私たちが生活している状態を、客観的に見て下さい。確かにこれは神の御子です。生ける神の御子です。マクロ宇宙とミクロ宇宙を、同時に掴まえているのです。こういう事を無意識で使いこなしているのです。

このように、私たちの生活はすばらしいものです。肉体を持ってこの地上に生きている人間は、全部人の子です。固有名詞の人間に何の関係もないのです。

ただ生きているという現前があるだけです。これをどのように見るかで、勝負が決定するのです。

本当の人生を見るにはどうするのか。本当の幸せを味わうにはどうするのか。私たちが現世に生きている生存内容の実質を、はっきり掴まえればいいのです。これが信仰です。

私たちはイエスと同じです。魂を持っている人間は、全部イエスです。イエスですから、イエスを信じない方がおかしいのです。私たちはホモという動物ではありません。ホモでなければイエスに決まっています。生きているという事がらが生きているのですから、ホモに何の関係もないのです。

私たちはミクロ的現前とマクロ的現前を生きこなしているのであって、自分が生きている、また、生かされているこの状態を子細に点検していけば、自分自身が生ける神の子であることが分かるのです。

イエスこそ自分の命です。イエスこそ自分の光です。イエスこそ自分の知恵です。自分の義であり、自分の清きであることが分かるのです。

固有名詞の自分はどこを探してもいません。マクロ的現前で考えますと、固有名詞の自分はいたとしても問題にならないのです。固有名詞の自分はマクロ的に考えれば、小さすぎていませんし、ミクロ的に考えれば、大きすぎていないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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