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選び


聖書は次のように書いています。

「すなわち、彼らはこのことを認めようとしない。古い昔に天が存在し、地は神の言(ことば)によって、水が元になり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言(みことば)により水でおおわれて滅んでしまった。

しかし、今の天と地は、同じ御言によって保存され、不信仰な人々が裁かれ、滅ぶべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである」(ペテロの第二の手紙3 ・ 5~7)。

五節に、「古い昔に天が存在した」とあります。古い昔の本質は天でした。そこにはもろもろの天があったのです。古い昔には、天の他には何もなかったのです。だから、古い昔に天があったと言っても、古い昔そのものが天であったと言っても、同じことです。天の他には何もないのです。だから、古い昔という時間帯がすでに天そのものであるということになるのです。

ところで、なぜ地ができたのかと言いますと、天使長ルシファーの反逆によって、現象世界ができたのです。神の言が元になり、水が元になって、地が成り立ったと言っているのです。

地という言葉はその言葉のニュアンスが示すように、明確にある現象体を意味する言葉になるのです。それは水が原料でした。また、水によって成り立ったのです。これは固形体ではないということを証明しているのです。

地という言い方は、いかにも固形体のようですが、水というのは固形体でなくて、流動体であることを示しているのです。固形体にもなりますし、ガス体にもなる状態が液体です。地はそれによって成り立っていると言っているのです。そうしますと、万物と私たちが考えているものの本性は、質料から言えば水なのです。

その時の世界は御言により、水でおおわれ滅んでしまったとあるのです。一度成立した世界は、完全に解体されてしまったのです。御言と水とによってできた地が、御言と水とによって滅んでしまった。これがノアの洪水です。

神がせっかく創造された万物が滅ぼされてしまった。人間が悪魔に惑わされたことによって、第一ラウンドは悪魔の勝利のような形になっているのです。

神が人を造ったことを悔いたのです(創世記6 ・ 6)。人を造ったことを悔いたということは、万物を造ったことを悔いたことになるのです。ここに深刻な宇宙の運命があるのです。

ノアの洪水の意味について、今の人間は何も知りません。現代文明には目的がかけらほどもありません。文明の目的、歴史の目的は何もないのです。目的がないということが、この世が実在していないという証明になるのです。この世が実在しているなら、はっきりとした目的があるはずです。目的が説明できなければならないはずです。この地上に有形的に存在しているもので、目的が分からないものは一つもありません。皆目的を説明することができるのです。

例えば、猿が山から出てきて人里の柿を食べている。何をしているのか。猿が生きているのです。生きるためには柿を食べなければならないのです。こっちの柿は甘い、あっちの柿は渋いということを知っているのです。だから、渋柿には寄りつかないのです。甘い木ばかりに行くのです。猿は生きるという目的があるから食べているのです。猿が猿であるということが、猿の存在目的です。猿はただ生きていればいいのです。

人間はただ生きているという訳にはいきません。人間の精神構造は、自ら目的を発見しなければ、ピリオドが打てないのです。猿の精神構造は柿を食べていれば、ピリオドが打てるのです。人間の精神構造は柿を食べてもピリオドが打てないのです。

人間以外の存在はすべて目的が説明できるのです。そこでもう一度言いますと、現存する森羅万象で目的なしに存在しているものは一つもありません。ところが、森羅万象を全部集めると目的がなくなるのです。これはどういうことでしょうか。

森羅万象で目的なしに存在しているものは一つもありません。一本の草でも、一本の木でも、草が草であること、木が木であることが目的です。松の木が松の木であることが、目的を示しているのです。森羅万象はすべて目的を持っています。目的なしに存在するものは一つもありません。

ところが、目的があるはずの万物を全部集約すると、目的がなくなってしまうのです。つまり、天地が造られたことに目的がないのです。なぜかと言いますと、天地全体を総称するのが人間の理性です。魂です。魂が目的を発見していないから、宇宙が目的を持つことができないのです。これは全部人間の責任になるのです。

「万物が虚無に服することを好まない」とはこのことを言うのです(ローマ人への手紙8・18~25)。万物は泣いているのです。万物は虚無に服しているからです。人間自身の存在が虚無であるために、万物が虚無に服しているのです。人間はその責任を全部負わされるのです。

神は海の魚、空の鳥、家畜、地に這うものを治めさせるために、人間を造ったのです。ところが、人間はそれを治めることができない。

人間は全地のためにいるのです。全地は人間のためにあるのです。その証拠に、人間は全地を自分のものにしているのです。全地どころか、地の下にある石油や天然ガス、鉱物まで掘り起こして自由に使っているのです。

神は全地を人間に与えました。人間に治めさせるために、全地を造ったのです。その目的を人間が果たしさえすれば、人間自身は全地に対して、責任を果たしたことになるのです。万物の長としての責任を果たしたことになるのです。

現世で神の子としての責任を果たした者は、神に朽ちない嗣業(しぎょう)を与えられるのです。大体、今目に見える万物は実体ではありません。これは仮体、または虚体です。権現です。仮の姿が現われているのです。

造化というのは仮の現象です。ここで人間が自分自身の本体、責任に目覚めることができれば、人間自身が完成すると同時に、万物が完成するのです。万物に目的を与えることができるのです。万物に所を得させることができるのです。

神はエデンの園でアダムに何をさせたかと言いますと、万物に名を与えさせたのです(同2・19、20)。これが人間がすべき最高の職務です。万物に名を与えて、万物を虚無に服させないことが、人間がなすべき当然の仕事です。ところが、それをしていないのです。

現世における万物の一つひとつは、目的をしっかり果たしているのです。ところが、人間だけは目的を果たしていない。虫は目的を果たしている。その虫を殺している人間は目的を果たしていないのです。

牛は目的を果たしている。その牛を食べている人間は目的を果たしていない。牛は責任を果たしているのです。責任を果たしている牛が食べられて、食べている人間が責任を果たしていない。それで道理が通るのでしょうか。

人間は恐るべき責任を負わされるのです。今まで食べたもの、今まで飲んだものに対して、全部責任を取らされるのです。しかし、人間が自ら責任を放棄する態度を取ったので、人間のために造った万物を呪わなければならないことになったのです。そこで、神は人間を滅ぼすことにした。人間と共に、万物も滅ぼしたのです。神はそうせざるを得なかったのです。

万物は人間のために造られた。人間は万物のために造られたのです。ところが、人間に暴挙が満ちた。姦淫の霊に満たされて、神にバイオレンスを実行し始めたので、これはもうしょうがないと神は言ったのです。「私の霊は長く人と争わない。こんなものと喧嘩をしてもしかたがない。彼は肉に過ぎないからである」。

神の御霊は霊です。ところが、人間は肉です。肉に対して霊が働いてもしょうがないのです。肉は肉だからです。そこで、滅する以外に手がなくなったのです。そして、人間と万物は全部滅ぼされてしまったのです。ペテロの第二の手紙にあるように、すべて水でおおわれて滅んでしまったのです。

ところが、滅びないものがただ一つあった。ノアの信仰です。この細き糸が万物をつないだのです。そしてついに、神の永遠の実が結んで、永遠の勝利を与えることになったのです。

とにかく、万物は人間の失敗によって、神は心ならずも、人間と万物を滅ぼしてしまわなければならなくなったのです。そうして、滅んでしまったのです。ノアの洪水は人間と万物を完全に滅ぼしたシンボルであって、ただ一時的な洪水現象とは違うのです。

それ以来、実は万物は存在していないのです。ところが、人間の肉の思いで見ますと、万物の存在は開闢以来変わらないと思えるのです。万物の佇まいは神が造った時と、ノアの洪水以後と何ら変わりはない。滅んでいないと思えるのです。

ここで七節を深く黙想して読まなければならないのです。今の天と地は同じ御言によって保存されているとあるのです。これがおかしいのです。御言によって、水でおおわれて滅んだはずなのに、その同じ御言によって、今の天地が保存されている。これはどういうことなのか。

確かに、天地は御言によって水でおおわれて滅んだのですが、ノアという人間がいて、彼の信仰の内に神の言が働いたのです。ノアの信仰によって神の言が残ったのです。ノアが神の言を信じたので、言が働いた。この言によって万物が保存されたのです。

神の言が皆様の中で命となって働くのです。信仰によって言が働くのです。信じることは言から出ます。また、信じることによって言が信仰と共に働くのです。つまり、ノアの信仰が神の言を働かせたのです。そうして、この言によって、何と天地が保たれたのです。

天地が保たれたとあるのです。つまり、現在の天地は存在しているのではない。保存しているのです。存在と保存とは違うのです。

今の天地は存在しているのではない。保存されているのです。何のためか。不信仰の人々が裁かれて、火で滅ぼされる時まで、このまま保たれているのです。

今の天地を保存と見るか、存在と見るか。これを存在と見る人は全部滅ぼされるのです。今の世界はすでに滅んでしまっているから、それが存在すると見ている人は、滅ぶ世界と同じ運命にある者と認定されるのです。

そこで、ヨハネが言うように、「信じる者は救われる。信じない者は既に滅ぼされている」となるのです。また、イエスが、「世を信じる者は世と共に滅ぼされる」と言っているのはこれです。この世を実在するように思っている人は、この世と共に滅んでいくのです。この世がただ保存されているのだと信じる人、そして、神の国が既に来ているのだ、新約時代は既に神の国であって、これが既に実現していることに着眼する人は、神の国の人として神から取り扱われることになるのです。これが艱難時代においては、厳然としてその人の運命になるのです。

現世を信じている人は艱難時代において、神が現世を悩ましたもう時に、現世と一緒に悩まねばならない事になるのです。その人には生活難があります。死があります。悩み艱難があります。苦しみがあるのです。

ところが、現世を信じない人、現世が実在していると信じない人、ただ保存されているのだということに気がついた人は、現世における一切の悩みから解放されるのです。一切の悩みに縁のない者になるのです。

現在生きていてキリストを信じる者は、この地上ですべての悩みから解放されるのです。ただ、肉体を持って重荷を負うていることについての苦しみとか悲しみはあります。これはこの世の苦しみではなくて、その人自身が現世における現象世界を神から味わしめるために与えられているキリストの苦しみです。キリストがかつて、この地上で肉体を持って苦しんだことと同じ苦しみを与えられているのです。

パウロは次のように述べています。

「それは、キリストの苦難が私たちに満ちあふれるように、私たちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである」(コリント人への第二の手紙1 ・ 5)。

私たちが肉体において生きていることは、なかなかの苦しみです。苦しんだり、悲しんだりすることはありますが、これは肉体を持っているという意味での苦しみであって、地獄の苦しみではないのです。これはイエスがかつてこの地上にいた時に、イエス自身が経験した苦しみです。これはキリストの苦しみです。これは私たちの生活にありますが、それをキリストの苦しみとして受け止めることができる人は、皆救われるのです。

自分の苦しみとして受け取っている人は滅ぼされます。この所が厳粛です。だから、私は皆様の霊(人生)を神に渡しなさいと言うのです。霊の神に渡してしまえば、皆様の苦しみはなくなってしまうのです。渡してしまえば、キリストの苦しみになるのです。そして、皆様方にキリストによる神の慰めが、どっと流れ込んでくるのです。そして、生きていながら見ている世界はすべて保たれているのだ、これはただ幻影の世界である、虹の世界であることが、よく分かるのです。

現存の世界はただ保存されている世界であって、実在している世界ではないということ、不信仰の者が焼き殺されるその日まで保たれているということが分かるのです。

皆様がもし現世に生きている間に神の国を予約するなら、皆様方の座席番号が確保されるのです。皆様方の席は確保されるのです。これが命の文に名が印されるということです。皆様が神の命を信じるなら、神の言を信じるなら、現世がただ陳列されているだけであって、実存していないということが分かるのです。

現世はただ陳列されているだけです。見えているだけであって、実在しているのではないのです。実在している世界はノアの洪水の時になくなってしまったのです。このことが信じられる人は、今その目で神の国を見ているのです。これは現象であって実在ではないと感じられる人は、神の国を見ているのです。神の国を見ているから、その人は神の国に予約席があることになるのです。

かつてイエスは、このことを良く知っていた。知っていて生きていたのです。これが変貌山に現われたのです(マルコによる福音書9 ・ 2~8)。イエスの信仰の内容が現われたのです。

イエスは肉体を持っていながら、この地上に生きていなかった。私も誠に不肖ですけれど、天に生きているという実感があります。だから、現世に対して興味が持てないのです。現世はただの幻影に過ぎないのですから、赤目をつり上げて、本気になって付き合う対象とは違うのです。現世は保存されているだけだと考えなければならないのです。ただ保存されているだけです。実在していないのです。

神の言と神の御霊によって見ている人は保存されていると見えるのです。その人はもう死にません。死なないのです。とこしえに保つ神の言によって新に生まれた人なのです。神の言が真実だと信じた人は、神の言によって新に生まれた人なのです。その人は死にません。

現世にあるものを本当だと思ってはいけないのです。いかにも本当のように見えますけれど、嘘です。虚体です。天が地に映っているのです。もろもろの天が地に映っているのです。これが映像です。人間は映像の世界を見せられているのです。

イエスはこのことをもちろん実感していたのです。イエスが幻影の世界に生きていた実感はどのようなものであったのか。

ヨハネは次のように述べています。

「神を見た者はまだ一人もいない。ただ父のふところにいる一人子なる神だけが、神を現わしたのである」(ヨハネによる福音書1・18)。

「そして、言は肉体となり、私たちのうちに宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の一人子としての栄光であって、恵みと誠に満ちていた」(同1・14)。

十四節を土台にしてみれば、十八節は自然に分かるようになっているのです。十四節に、私たちはその栄光を見たとあります。それは父の一人子としての栄光であって、恵みと誠に満ちていたとあります。父の一人子としての栄光という言葉には、曰く言い難い感慨があるのです。この言葉のニュアンスを見つけた人は、本当の信仰が分かります。

父の一人子の栄光とは何か。これが分かりますと、十八節が分かるのです。神の一人子だけが神を現わしたとあるのです。ここで次の箇所に注目して頂きたいのです。

「すべての人を照らす誠の光があって、世に来た。彼は世にいた。世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」(同1 ・ 9、10)。

宇宙は興味津々たる神の国です。イエスは誠の光となって世に来たのです。私たちは全く神のあわれみによって、かろうじて誠の光を見ることを許されているのです。

どのように見ているのかと言いますと、言が肉体となって私たちの内に宿った。そして、私たちはその栄光を見た。誠にその栄光は父の一人子としての栄光であって、恵みと誠とに満ちていたとあるのです。

父の一人子としての栄光という言葉の中に、驚くべき秘密があるのです。父の一人子そのままの栄光とは何かと言いますと、生まれる前の栄光です。これがイエス・キリストの信仰です。これが信じられる人は、父の元に帰れるのです。父の一人子の栄光が分かったら、父の元に帰れるのです。これがどういうことかと言いますと、皆様が今見える目、聞く耳、触れる手を持っていること、五官が与えられていることです。これは一体何かということです。

目で見てきれいだと思う。この花はかわいい花だ、美しい花だと思う。なぜ見て美しいと思うのか。犬を見たら犬だと分かる。なぜ分かるのでしょうか。人間はなぜ万物の霊長だと言えるのか。五官はそのまま神にかたどられているからです。かたどられているとはどういうことかと言いますと、神の形、神の実質、神の働き、神の機能がそのまま人に植えられているということです。これが五官です。

皆様は知らず知らずに、神の機能を用いているのです。神の機能を用いて、花がきれいだと思う。花がきれいだという感覚は、皆様がこの世に出る前に持っていた経験です。父と共にいた時の経験です。それが今働いている。これが五官です。

目で見ていること、耳で聞いていること、手で触っていること、目でよく見て手で触っていることが、初めからある命の言であることを、ヨハネは知っていた(ヨハネの第一の手紙1・1)。

ヨハネはどうして知っていたのか。ヨハネの中に働いている五官が、この地上に送られる前に、父と共にいた時の感覚であることに気がついたからです。どうして気がついたのか。イエスを見て気がついたのです。神にあふれている恵みと誠をどんどん受け取っているイエスを見たのです。イエスは父と共に生きている。この世にいるはずがない人がいる。生まれてくる前の人がヨハネの前にいる。これがイエスです。ヨハネはイエスを見たのです。

その時、イエスを見てはっと思った。何を思ったのか。生まれてくる前の自分が分かったのです。生まれてくる前の自分がイエスです。生まれてくる前の自分がイエスとして現われているのです。ヨハネはこれが分かったのです。

私たちもヨハネと同じことで、生まれてくる前の感覚で見ているのです。これが信仰です。信仰とは、皆様がこの世に生まれてくる前の感覚です。これがなければ、山を山として見ることができないのです。花を花として見ることができないのです。

なぜ花を見てきれいだと思うのか。それはこの世に遣わされる前に、真、善、美が何であるかを知っていたからです。私たちは恵みと誠を知っていたのです。真は誠である。善と美は恵みであることを知っていた。現世において、それを思い出すか、思い出さないかによって、永遠の運命が決定するのです。

父の元にいたことを思い出して、私は父から来たという事に気がついた人は、父の元に帰れるのです。そこで、名前が天に印されるのです。

イエスが、「父よ、世が造られる前に、私がみそばで持っていた栄光で、今、みまえに私を輝かせて下さい」(ヨハネによる福音書17・5)と祈っていますが、私たちもこの祈りをすることができるのです。これが御名を崇める信仰の特長です。御名を崇める信仰は、これが許されるのです。

皆様の魂は父と共にいたのです。パウロは次のように書いています。

「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地が造られる前から、キリストにあって、私たちを選び、私たちにイエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」(エペソ人への手紙1・4、5)。

皆様の魂は父と共にいたのです。天地が造られる前から、キリストの内に選ばれていたのです。そこで、世の基を置く前の光景が分かるのです。世の基を置く前に、キリストの内に置かれていた。ですから、天地創造の秘密が分かるのです。

天地創造の時に、皆様はキリストと共に、創造の光景を見ていたのです。その時、皆様は救われるべき運命に決定されていたのです。神の選びの処置は驚くべきものです。この選びの処置が、この末の時代に私たちの中で光り出してきたのです。このことを原理にして考えますと、どんな秘密でも解けてくるのです。

なぜかと言いますと、一人子の栄光ですから、一人子の栄光が分かってくると、彼に満ち満ちているものから受けて、恵みに恵みが加えられる。誠に誠が加えられるのです。これさえ分かれば、一人子に満ちているものが自分のものになるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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